日本人が日本人でなくなるとき =国籍法11条改正に向けて-
日本人が日本人でなくなるとき
=国籍法11条改正に向けて-
鈴木伸二 国籍法11条改正有志の会代表
はじめに
毎年、夏になるとお盆という行事があり、地方から大都会に働いている人たちが、この時期にそれそれぞれの故郷に帰ることが当然のごとく毎年行われています。そこには自分が生まれ育った故郷という概念が厳存するからです。このような故郷という感覚、概念を維持することは至極当然のことであり、まさにそこには人間性の基本でもあるのです。しかし、地元で生活し、そこから外に出て生活の拠点を移動することがない人たちにとっては「故郷への願望」を経験することは皆無であり、故郷という概念を身をもって経験する機会は全く無いのです。例えば、東京で生まれ、東京で育ち、東京の学校で勉強し、東京で働いている典型的な「東京人」には故郷という概念を経験する機会は皆無になるのです。このような人間性の本質である「故郷」という概念は政治家でも選挙のような機会には地元、つまり故郷に戻って選挙するのは当然のことなのです。
もっとも、その逆に、そのような故郷という概念を経験したことが無い人には、第三者が故郷に里帰りするという現象は頭では理解していても、殆ど関心がないのです。
しかし、いったん日本からから海外に出て生活、活動している人にとってはこの故郷という概念は、「日本への郷愁」あるいは「日本人としての人間性の自覚」は当然のことながら自然に湧き出てくるものなのです。しかし、場合によってはそのような概念、人間性の基本というものがある日、突然否定されるようになった場合の人間としての心理がどのようになるかを第三者が理解することはかなり難しいし、場合によっては無理、或いは不可能かもしれません。
法律の概念
日常生活に関与する法律は膨大な数になり、そのような法律の基本は 「法規を破る者は法による懲罰が科させられるが、懲罰、罰則には完了があり、完了の後平常に戻れる余地がある」と言うことなのです。つまり、法律違反(原因)には必ず、判決(対処)という行為が介在するのですが、その行為には必ず罰則(結果)が伴い、それが終了すれば元の生活に戻れるという結末があるのです。例えば、盗みをして罰せられても、その罰を終えれば元の日常生活に戻れるという「結末」があることなのです。
つまり、法律違反の場合には必ず懲罰、罰則があるべきで、その対処後には元の状態に復帰することが出来るというのが法律の基本なのですが、そのようにはならない例外的な法律があるのです。そのような典型的な法律例のひとつとして挙げられるものに国籍法があるのです。
それは国籍法11条に示されている条文なのです。すなわち海外で生活の拠点を構えて、ある事情から外国籍を取得しても国籍喪失届を出さなければ通常では問題がないのです。つまり、そのまま日本国籍を維持しても国籍法そのものには罰則がないからなのです。しかし、現実には海外で外国籍を何らかの理由で取得した場合には、それ以降、ある時点で自分が所持している日本の旅券が失効した時が問題なのです。そのような場合には滞在国にある日本の大使館、領事館で旅券の更新をしなければならないのですが、その時に必ず滞在国での居住許可書の提示が求められるのですが、その時点で滞在国の国籍を既に所持していれば、当然ながら居住許可書は所持していないので、結果的にはその国の国籍を取得していることが明らかになるのです。その結果として、海外での日本の旅券の更新は大使館から拒否され、従って日本の国籍を失うことになるのが現時点での国籍法の概念なのです。勿論、ここで重要なのは大使館での日本の旅券再発行の拒否はたんなる行政上の手続き拒否であり、法的罰則ではないのです。なお、この条文の解釈に関連して、海外での旅券更新・発行に直接関与している大使館の対応が極めて意図的な場合もある(あった)のです。それは国籍法では「・・失う」との単純な表現なのですが、多くの大使館がそこに「自動的に」という表現を意図的に付加して「・・自動的に失う」と広報していたことなのです。更に問題なのは、海外で活躍している日本人の殆どが国籍法の存在、そしてその影響と言うものについて全く知らされていないのです。多くの場合、自分が所持している日本の旅券の更新を大使館で申請した時に、初めて国籍法なる法律が現存、認識する場合が殆どなのです。場合によっては、まさに青天の霹靂なる結果にもなるのです。
このように、不思議なことに法律上の罰則と言うものは国籍法には存在せず、その罰則の類似行為が日本の国籍を失う、つまり日本人ではなくなるというのが現実なのです。つまり、法律違反でもそれによる罰則はなく、日本の国籍を失うという全く事件の異なる対応が、意義なく行政的にだけ実施されているのが国籍法、特にその11条、と言う法律なのです。
つまり、国籍法には、罰則がないので、その完了と言うことはありえず元の国籍、すなわち日本の国籍に戻れない、したがって日本の国籍を維持できないとう法文が現存するのですが、「完了後の状態」、つまり日本の国籍を再取得できるという対処後の項目がないという極めて稀な法律になるのです。すなわち、本来の日本人が国籍法の対象となる外国籍を取得した場合、その間接的結末は日本の国籍を失うことになるのですが、その結果としての「結末」は存在しないのです。つまり、国籍を失うという事態が完了しても、元には戻れないのです。もっとも、「国籍を失う」という作為が法的罰則に該当するかどうかは議論の余地があるかもしれませんが、厳密な意味での法的罰則とは捉えられないのです。
国籍法と言う法律の意義
法治国家には必ず法律が存在するのですが、一般的には、その国にのみ生活している人には全く関係のない極めて例外的な法律があり、その典型例が国籍法という法律なのです。つまり、国籍法という法律は日本人が日本人であることを意義付けている法律であるのですが、日本で生まれ、日本で生活し、海外での生活拠点を持ったことのないごく普通の日本人(勿論その中には政治家も入るのですが)には全く関係がない法律という極めて例外的な法律なのです。もっとも、近年の国際社会では日本国内でもこの国籍法11条が関与している被害者は現存するのです。それは日本で日本人と結婚して、日本で生活をしている国際カップルの子供が外国人の母親(あるいは父親)の国籍、つまり外国籍、を申請、取得するような場合にもこの国籍法11の関与が現存し、日本国籍を維持できなくなるという例が増加しつつあることも忘れてはなりません。つまり、生まれた子供にも自分と同じ国籍を与えたいという心理は人間として当然なのですが、現実にはそれは不可能なのです。
国籍と外見性
ところが、国籍と言うものは目に見えない非現実性の法律の典型例であり、国籍が変わっても、その本質、人間性、殊にその外観は変わらないのです。つまり、日本人がたとえ外国籍を取得してもそれは紙の上の変化であり、日本人としての外観は変わり得ないのです。
最近の新聞報道によると日本に帰化して、日本で生活しているフィリッピン女性が警官の職務質問に対して、無意識的に自分はフィリッピン人ですと答えたため旅券不携帯の疑いで一時的にせよ身柄を拘束され、最終的には持っていた健康保険証や入管への問い合わせで、日本国籍を取得していたことが判明、釈放、謝罪されたとのことです。因みに、先進国の中でそれぞれの国民が写真付きの身分証明書を常に持っていない国は日本だけなのです。
この件で考えなければならないことは、日本国内で、外見が日本人らしくない場合には警官の職務質問を受けやすいことです。ましてや、アフリカの人ならば日本人以上に日本の警官の職務質問を受ける可能性は極めて高くなるのです。これを一概に人種差別と批判するのは簡単ですが、このような現象は世界共通であり、私も日本人の顔をしているので、海外で生活していると疑惑の目で見られることがあります。これはどこの国でも起こりうることなので、致し方はないと思います。たとえ、私が住んでいるスイスで、かりにスイスの国籍を取得していたとしても誰も私のことをスイス人とは見てくれません。
ここで考えられるのは国籍は必ずしもその人の外観とは関係があるとはならないことなのです。では国籍の持つ意味は何だろうかと考えることが必要になる場合があるのです。繰り返しになりますが、基本的には、日本で生まれ、日本で育って日本に居住している場合には誰も国籍そのものの存在を考えたことはなく、ましてや国籍法と言う法律が存在することを認識する機会は全くゼロなのです。極言すれば日本人としての意識を必要としないのです。
しかし、いったん海外に出かければ、まず旅券を手にしなければならず、そこで初めて日本人としての無意識的な認識が生まれるのです。つまり、そのような機会になって、生まれて初めて日本人としての認識、つまり日本人としての人間性が無意識的に認識されるのです。
ではいったい、人間性とはどのような意味があるのだろうか。このように理解すると前述にて引用した日本に帰化したフィリッピン人の場合には人間性としては当然の行為が第三者によって引き起こされ、現実に所有している日本の国籍とは全く無関係に対処されていることと理解することが出来るのです。つまり、この場合にはこの日本に帰化して日本の国籍を所持している元・フィリッピン人の人間性がたんなる外観によって無視されてしまっているものと演繹することが可能になるのですが、誰もそのような心理的な変化には気が付かないだけなのです。つまり、国籍と言うのは人間性によって立場が異なると極めて無視されてしまうことがあるのです。
このように理解するとその逆に海外に出かけた日本人は無意識的に日本人と言う人間性を絶えず意識しているのが普通なのです。このことは海外に初めて出かけるときに、自分は日本人であるのだと無意識的に自覚させられる人間の心理的状態をもたらすことになるのです。つまり、ここで理解したいのは国籍そのものが単なる外観だけで人間性を左右することにはならないのです。勿論、今後の国際化の影響で、前述のような日本で生活している国際カップルの子供が日本で生まれて日本の戸籍に記録されて当然のことながら日本人にはなっているのですが、人間性の観点から、母親、或いは父親の外国籍をも維持させたいという極めて基本的な人間的、社会的要望にもなりつつあることも忘れることはできません。
国籍の人間性
では海外に居住している元日本人の日本人でなくなる具体例を考えてみたい。
ノ-ベル賞を受賞したイシグロさんは両親がともに日本人で、生まれたのは長崎市。5歳のときに父親の仕事の関係で英国に渡り、1982年に英国の国籍を取得したという。このほかにも、ノーベル賞を受賞した元日本人は周知のとおり、数人にも上るのです。
例えば、その典型例の一つとしては例のLEDを発明してノーベル賞を得た中村さんは、ノーベル賞を受けた時は米国籍を職業上の理由から取得せざるを得ない状態であってので、結果的には国籍法11条に基づいて日本の国籍が剥奪されていたのです。しかし、当のご本人は自分は日本人であると談話でも明言しているのです。それは当然で、たまたま職業上の理由から外国の国籍を取得にしたにすぎず、日本人であることには全く変化がないし、当然のことながら日本人と捉えていることには誰でも反対することは出来ないはずです。しかし、現実には現在の国籍法11条の規定により、中村さんは米国人になっているのです。つまり、中村さんは日系アメリカ人と言うことになるのですが、日本人は誰もそのような解釈、理解はしていないのです。
ヨーロッパやアメリカの大都市には、その国生まれではない外国人の片親を持つ子どもや、小さな頃にその国に移住してきた子どもが大勢いるのです。彼らの多くは10代前後になると、アイデンティティーの問題に直面するのが普通なのです。5歳で日本から英国に移り住み、その後作家としての地位を確立するまで一度も日本を訪れることがなかったイシグロさんもその例に漏れなかったのではないかと考えられています。つまり、1983年に彼が27才の時に英国籍を取得しているとのことですが、そのときに果たして戸籍法に規定されている国籍喪失届は出していないとも推測できるのです。つまり、繰り返すように、国籍法そのものには罰則がなく、その関連法律としての戸籍法、旅券法などによる違反行為としての罰則があるだけなのです。
そのほかにも、テニスの大坂ナオミさんが挙げられます。 全米優勝後に大坂ナオミさんを「日本人らしい」と持ち上げる声に対する違和感はあるのかもしれません。「大坂さんの容姿や話し方」と、あなたが考える『日本人』がどれくらい一致しているのかと考えたことがあるのでしょうか。容姿や話し方は関係ないという人が、日本にどれくらいいるのかは疑問です。特に混血児においては、「勝てば官軍、負ければ賊軍」がいまだ現代日本のスポーツ界でまかり通っていると指摘する人もいるのです。つまり、「勝てば日本人、負ければハーフ」であるということのようです。大坂ナオミ選手が全米オープンで優勝した途端、多くの日本人が彼女が完全に日本人だと認めた、いゃ、認めたいのが普通の日本人の心理なのです。
また、最近の報道では英国育ちの日本人歌手リナ・サワヤマさん(29)が、英国籍でないことを理由に英国の著名な音楽賞の受賞資格を得られないとツイッターで問題提起していました。海外の主要メディアによると、英国人歌手エルトン・ジョンさんも彼女を評価する実力派としての訴えを相次いで報道しており、芸術の評価対象を国籍だけで区別することの是非を巡り、議論を呼んでいるとのことです。サワヤマさんは新潟県生まれで、家族と一緒に移った英国で25年ほど暮らし、永住権も取得しているのですが、英国籍は取得していないのです。やはり彼女も日本人と言う人間性は失いたくはないのかもしれません。
ちなみに数年前に日本人男性とフィリッピン女性の間に生まれた子供に日本国籍が与えられた最高裁の判断に、両親が結婚していなくとも日本国籍を与えるべきとの判決がなされましたが、この判決で「血統」重視が挙げられていました。つまり、日本の国籍概念は血統主義で、アメリカのような出生地主義ではないことが大きな判断の一つになっていました。この最高裁の判断を演繹すると、本来の日本人がたとえ外国国籍を取得しても血統的には日本人であることには変わりがないので、現在の国籍法11条に基づいて日本の国籍をはく奪された日本人は「外国籍の日本人」になってしまうのです。でも、もし血統主義が国籍に決定的な影響を与えているならば「外国籍の日本人」は違憲になるのかもしれません。つまり、血統主義と言うことは国籍そのものも人間性を根本に念頭に置いていることになるのです。
二重国籍維持の意義
自分の国籍を捨てる、いゃ、実際は捨てざるを得ない、ということが如何に重大な問題であるかの意味が現在の日本の為政者にはよく理解出来ていないのではないでしょうか。為政者の心構えの第一条はいかに相手の立場になって物事を判断すべきかと考えることなのです。自分の国籍を保持しつつその滞在国での政治・政策に多少なりとも貢献(干渉ではないのです)したいという心理を理解するには相手の立場になって物事を判断出来るという能力が必要なのです。
そこには帰化とは根本的に異なる心理的メカニズムが介在するのです。海外居住日本人にとって日本の国籍は母国とほぼ同義語なのです。その典型的な例は戦前、戦直後の南米移民の日本への郷愁、母国としての日本への慕情などを考えれば十分理解出来るはずです。
母国という概念を実際に身を以って体験する機会のない島国日本の為政者に対して日本人を自分から放棄せざるを得ないことがどのような意味を持っているのかを理解させることは不可能に近いのではないでしょうか。
国籍法が関与すると問題点
この論説の基本的な主旨は本来の日本人が海外で居住し、活動している時にその滞在国での国籍を取らざる事情が起こり、その国の国籍を取得した時に、現在の国籍法では日本の国籍を瞬時に失うと規定している11条を改正することが目的であり、その結果として、現在の条文を改正することにより、従来の日本人本人が希望すれば、外国籍をも同時に維持できることすることにあるのです。もっとも、それ以上に、現在の国籍法11条の完全な撤廃と言うことも問題解決の一つの可能性としても考えられます。
しかし、ここで問題になるのは二重国籍の概念なのです。繰り返しになりますが、この改正運動での最低目標は本来の日本人が何らかの理由で外国籍を取得しても、本人が希望すれば本来の日本国籍をも維持することが出来るということであって、外国人が日本の国籍を取得しても元の外国籍をも維持できるということではないのです。この点が深く理解されないと、一般的な二重国籍反対議論として複国籍者は「国益」に反するから反対との短絡的な発想なのです。このような反対概念では、もし外国人が日本に来て日本の国籍を取得してもそのまま外国籍を維持できるとの全く正反対の概念、理解が根底にあるのです。つまり、重国籍者反対者が抱いている概念の対象は本来の日本人ではなく、外国から日本に来て便宜上日本に帰化、日本の国籍取得者、を念頭に置いているのです。
しかし、その逆に本来の日本人が、何らかの理由で外国籍を取得しても日本人として海外で活躍することが可能になれば、むしろその逆であり、間接的、或いは直接的にも「日本の国益にも貢献」できるのです。その典型例としては元日本人のノ-ベル賞受賞者が挙げられます。その他にも海外で色々な分野で活躍している日本人は膨大な数にもなるのです。そのような人たちはある意味では日本の国益に直接、間接的に貢献している場合もあることを忘れてはならないのです。因みに、現在のような国際社会で海外にて居住して活動している日本人は、永住者をも含めると150万人以上と言われています。
このような国際的にも"元日本人"としての活躍が、脚光を浴びている時代には、たとえ、現在の国籍法11条で日本の国籍が失われているにも係わらず、政治家をはじめマスメディアはそのような"元日本人"をほぼ完全に日本人扱いして報道していることがかなりあるのです。その典型例は前述のような元日本人のノ-ベル賞受賞者でもあるのです。更に、そのような理解、解釈が最大限に、しかも公式に発揮されていた典型例として、政治家やマスコミの国籍法を完全に無視していた例は、当時のペル-のフジモリ大統領が政変で日本に亡命した時には日本の国籍法を完全に無視して、フジモリ元大統領の戸籍が日本に残っていたので、急遽、日本の旅券を発行し完全に日本人扱いしていたことなのです。
結語
現在の国勢法11条の「日本国民は自己の志望によりその外国の国籍を取得した時には、日本の国籍を失う。」との決定的な表現規定を「・・・日本の国籍を原則として失う」のような柔軟な条文に改正することですべてが解決できるのです。このような改正要望は個人レベルからの要望になるのです。
しかし、それ以上に、この国籍法11条に関して現在、法廷でこの条文が憲法違反であるとの審議(国籍はく奪条項違憲訴訟)がなされていますが、このことは基本的には「日本人は何時までも日本人であることを維持することが出来る」との精神を反映していることにもなるのです。むしろ、憲法違反と言う大乗的な法律的な観点に立てば、国籍法11条の撤廃が望まれるのです。
なお、繰り返し、強調すべきことは海外などで活躍している典型的な日本人の場合には仮に何らかの理由で外国籍を取得した場合でも、本人が望めば日本国籍をそのまま継続して維持することが出ることであり、全ての場合に自動的に二重国籍を認めることとは根本的に異なるのです。場合によっては外国籍を取得して、日本の国籍を維持する考えがない人の場合には国籍法改定の影響は全く及ばないのです(つまり完全な帰化)。この点が、日本国内に未だに健在している概念的な重国籍反対論者は正しく理解されておらず、なぜ場合によっては重国籍が必要になるのかという人間性への理解が全く欠如しているのです。
この国籍という基本的な人間性の問題を「重国籍の必要性がなぜなのか」という「原因」を全く考慮せず、その「結果」としての重国籍だけを念頭に、日本国内の多くの人は重国籍問題を理解し、結果的には「重国籍は日本の為にはならない」となっているのです。
追記
この記事を日本の月刊誌、数誌、に送付したのですが、どこからも反応はありませんでした。
追記(2021 Jan)
いろいろな法律の条文の解釈は意外と柔軟性があるものなのです。
例えば国籍法や憲法に記載されている「自己の意志での外国籍の取得」の解釈なのです。現実には外国籍を取得する目的で海外に行く人はひとりもいないのです。日本人が海外で外国籍を取得するのは何らかの仕事、研究の関係で、「外国籍を取得せざるを得ない」ことを意味しているのですが、これは「自己の意志」ではないのです。
追記(2022 Jan)
最近、気が付いたのですが、国籍法11条は明治の時代から連綿として存在し、当時の移民を念頭に置いて書かれていたことなのです。つまり、当時の意味は日本を捨てて海外に移住するとの前提であたので、棄民政策でもあったのです。