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2022年12月13日 (火)

人の名前がすぐに出てこない原因

人の名前がすぐに出てこない原因

高齢化に伴って起こる一つの現象に「ものわすれ」があります。
多くの識者はこの「物忘れ現象」は認知症のはじまりだと説明しています。
しかし、このような「ものわすれ」現象を経験している人すべが認知症になるのかと言うとそうではありません。

この物忘れ現象は結果であって、原因でないことは誰でもわかりますが、ではその原因は何かとなるといろいろな要因が関与してきますので、その対策、理解は複雑なのですが、いろいろな本にこのことについての説明がまことしやかになされていますが、どれが自分にとっての正解なのかとの判断は難しく、また一般化できるものではないのです。

その理解のひとつとして何歳くらいからこの「物忘れ」現象がおるのかはそれぞれの人の性格、健康状態、家系、食事習慣、生活習慣など、ともかく極めて複雑な要因が絡んでくるのです。ところが「人の名前が出てこなくなった時に読む本」のような類の本がいろいろと出版されていますが、その内容はいずれも概念的なものであり、脳の機能の解説から始まって、食事内容、運動などいろいろな要因の関与が記述されています。勿論、それらの個々の要因も直接的、間接的に「ものわすれ」現象に関与するかもしれません。しかし、問題はそれらの本の読者それぞれの、家庭環境、食生活、職業、年齢などなどはまさに千差万別で必ずしもそれらの本に記述されている注意事項を実践すれば「ものわすれ」現象がなくなるかどうかは分からないのです。

さらに注意しなくてはならないのは「ものわすれ」現象、イコル「認知症」ではないのです。
「ものわすれ」現象が何歳ぐらいから出るのかはこれまた実に千差万別で、90才くらいから起こる場合もあり、その反対に60再前後から始まる場合もあります。

この「物忘れ現象」が日常的になることは、いろいろな関心がかなり減少し、日常生活が極めて単純になることもおおきな原因の一つなのです。例えば、高齢者になって、人との会話が極言すると新しい刺激が脳細胞に入らなくなるので、結果的には「認知症」にまで発展するかもしれませんが、その過程の中では同じ返事ばかりがでてくるのも、日常生活の中では極めて単純な会話しかなく、新しい会話はぜんぜん経験しなくなった結果でもあるのです。

このような「ものわすれ」現象の経験時点での脳機能の詳細は不明なのですが、その一方、認知症となると完全な疾患状態であり、その時点での脳生理現象の解明などが進められていて、そのような認知症の人の脳生理、脳機能はどうなっていますなどとの論文がいろいろと発表されていますが、それらの成果はいずれも認知症との疾患と診断されていることになるのですが、その時点ではもう「ものわすれ」現象は全く意味がなさなくなっているのです。ですから、「ものわすれ」現象と認知症は完全に別物であり、物忘れ現象の人すべてがいずれかは認知症になるとは限らないのです。

では「ものわすれ現象」の段階での原因は何かを考えてみました。「ものわすれ」の具体的、典型的な現象はよく言われるように「人の名前が思い出せない」だと思うのです。でもこのような人の名前は、いったい誰のことを対象にしているのでしょうか。そのほとんどは数日前にあった人の名前とか、昔に逢ったことがある人の名前などが該当するかもしれません。この場合の「人の名前」ですが、その人とは今までに何回くらい逢っていたかとか、接触があったりして、その人の名前は何回となく使われていたかどうかがキイポイントなのです。例えば、二三回くらいしか逢ったことしかなく、しかもその時期はもう何か月前だと仮定すると、その人の名前が即座に出てこないかもしれません。勿論、この場合には年齢も関係してくることにもなりますが…。

でも、そのような状態になって、いゃ、最近はものわすれが顕著になりましてね、となるのですが、そのような人にもう何十年前に亡くなっている母親の名前はなんですかと聞くと、不思議なことにその人の母親の名前はすぐに口に出てくるのが普通なのです。ではどうしてなのでしょうか。その人の母親はもう何十年前に亡くなっているのでそれ以降母親の名前を口に出すことがなかったのかもしれないのですが、その人の母親の名前はすぐに出来るのです。その原因は母親が生存していた時には母親の名前を日に何回となく記憶する機会があり、母親の名前は脳細胞に何回となく刻まれていたはずなのです。つまり、単なる年とともに経験し始める「ひとの名前が思い出せない」現象の原因は脳細胞にいかに頻繁に刺激としてその名前が残されていたか、その回数に左右されるのです。

しかし、このような説明を脳生理学的に証明することは殆ど不可能かもしれません。つまり、ある年齢に至ってから起こりえる「人の名前がおもいだせない」現象の大きな原因の一つは脳細胞にその名前が頻繁に刺激として残っていたかに左右されるのです。でも、このような現象を脳生理学的に解明することは困難かもしれません。

人の脳には何億と言う細胞が存在し、人の名前がそのどこかに一度刻まれるとその細胞に残っているはずなのですが、そのようなことを証明することはまず不可能かもしれません。しかし、例外的にそのような可能性を実証できことがあるのです。それはforensic hypnotismと言って法医学分野でも稀な領域が存在するのです。このことを説明すると、ある殺人事件で、犯人が自動車で逃げてしまったのですが、たまたま一人の女性がその逃亡の様子を目撃し、車の後ろ姿を目撃していたのです。しかし、その後に警察の聴取に際して、警官からその車の番号を覚えていますかと聞かれても、車での逃亡は一瞬の出来事であり、その車の番号までは覚えていません、と答えざるを得なかったのです。しかし、たとえ一瞬にしてもそのナンバ-プ-レは見ていたことは事実なのですか、すぐには記憶からその番号を口にすることは出来なかったのです。これは当然で、通常の場合にそのような一瞬の出来事を口に再現することは通常の場合には不可能に近いのです。ここで、警察はforensic hypnotism、つまり法医学的催眠術、の専門家を呼んで対応させたところ、その人の脳細胞内に刻まれていた車の番号を引き出すことが出来たのです。このようなことは例外の例外かもしれませんが、一回でも、一瞬でも、脳細胞に刻まれた情報は必ずどこかの細胞に残されていることになるのですが、通常の状態ではそのような一瞬の脳細胞へのインプットを引き出すことは不可能に近いのです。

  このことから言えることはたった一回くらいしか聞いていなかった人の名前はすぐには口に出てこないのが普通なのです。このことはなにを意味しているかと言いますと、もし、人の名前が何回となく頻繁に脳細胞に刻まれていれば、その回数に比例してすぐにでてくることがわかります。ですから、子供のころから母親の名前を何回となく聞いていればそれだけの量が脳のどこかの細胞に残っているはずなのです。もっとも、このような可能性を脳生理学的に証明することはいまだ不可能かもしれません。

  つまり、年齢とともに人の名前がすぐに思い出せなくなる大きな原因はその名前の脳への「インプットの回数」と「時間的経過」に左右されるのです。ですから、例えば、高齢になって、初めて会った人のなまえが数週間後にはなかなか口には出てこなくなるのは普通なのですが、そのようなときには、その人の名前を数日間何回と繰り返し口に出すことでその人の名前が脳細胞に何回となく刻まれることになり、それ以降は比較的簡単にその人の名前は口に出てくるものなのです。
  
このことから言えることは単なる年齢に影響されるかもしれない「人の名前がすぐに口に出てこない」現象はその名前の脳へのインプットの回数、つまり、「頻度」と、「時間的経過の」二要因によって左右されるのです。この二つの要因が高齢者になると一般的に減少してくるのです。勿論、この二つの要因のどちらかが欠けてしまえば、また「人の名前がすぐにはでてこない」状態に戻ってしまうのです。

  ここで注意すべきは「人の名前がすぐにでてこなくなる」現象と「認知症」との直接な関連性はないことです。勿論、歳とともに脳機能が衰えて、将来的には認知症になるかもしれませんが、その予防には食事・運動・習慣・呼吸などの影響もあるかもしれませんが、常に関心を以ていろいろな事実、事項などを脳に記憶させる習慣を身に着けることが重要なのです。出来れば、それらのいろいろな事象などを頻繁に口に出して表現することなのです。したがって、高齢者になって人との付き合いも減少し、人との会話も減少するような状態になってしまうと「人の名前が出てこない」現象から、さらに進展して、最終的には認知症になってしまうのです。

もっとも、脳機能の衰え、と簡単に表現しましたが、それはどのような意味があるのでしょうか。現在の医学で、年齢とともに脳細胞数が減少するなどとの論文は全く見当たりません。それは当然で、現時点で人の脳細胞数を厳密に表示する事は不可能だからです。

このような状態の典型例は高齢者施設に入所してしまうと人との会話が極端に減少してしまうのが普通なのですし、そのような施設ではそれぞれ各人の昔のことを話題にして会話を進める施設の人は殆ど皆無なのです。認知症は、発症すると治療法はないといわれていますが、現在の認知症対策の欠点はその人の脳細胞内に残っている過去の情報を引き出す努力を誰もしていないので、症状が進展してしまうのです。認知症になった人の脳内のいろいろな物質の減少や、異常物質の脳内沈着などが脳科学的に証明されていますが、これらの異常は「結果」であって「原因」ではないと私は考えるのです。

このように、なぜなのか、という原因論からまず「人の名前がなぜすぐに口にでてこないのか」という現象を理解すべきなのです。

2022年8月 2日 (火)

心臓と重力との相互関係

心臓と重力との相互関係については一般的な情報で色々なところに簡単に記載されています。
しかし、その関連性について実際に経験していることからかなり深く考察すると意外な発見もあるのです。もっとも、このような発見と言うのはある意味では信頼性が薄い、つまりそのことについての疫学調査とか臨床的な考察がないからです。
つまり、以下に記載されていることはある意味では私の推論であるのですが、いろいろな観点から考察するとそのような関連性、相互関係は十分に可能なのです。

 

心臓と重力の関係 「年を取り腰が曲がるのは心臓が原因」

 年齢を重ねるにつれて多くの人の頭は前下がりになり、次いで上半身がだんだん前下がりになり、極端な場合には腰から上が45度近くも前下がりになる人を見かけます。特に、戦前での農村ではそのような姿勢の老婦人は目新しいことではなかったのです。

このように年齢とともに頭から上半身が前下がりになることはよく知られており、その原因は脊髄の疾患とか老化現象と説明されています。この点に関してよく言われていることの一つに日本の農業従事者のように常に前屈みの姿勢で長年作業していた場合には身体がそれに順応し自然と上体が前下がりになると説明されています。

前述のように極端な場合には上半身が45度近くも上半身が前倒れになっている人を昔はよく見かけたものです。しかもそのような状態の人でも前屈みになっている上半身は意外と一直線で屈曲していないのです。昔は農村ではそのような格好の老人が結構居たものです。ですから、このような場合、脊髄障害などは考えられないのです。つまり、私の解釈では、そのような姿勢になる原因は心臓機能の補足につながるのです。でも、このような説明を信じる人はおそらくいないでしょう。でもこのような説明には説得力があり、誰も疑義をはさまないと思うのです。いかがでしょうか。しかし、物事にはすべて「原因と結果」があり、そのような姿勢は結果であって、姿勢だけが原因ではないのです。

ところが、進化論に関して最近ある説明を聞いて、いゃ、もしかしたらそのような上体の変化は「結果」であって、脊髄状態とか習性が「原因」ではないのではないかと考えたのです。

その前に、人間の進化を振り返って考えてみましょう。進化論では人はサルから進化したものと考えられています。そこで考えたのですが、サルや他の哺乳動物では生まれた子供はすぐに四足で歩けることです。つまり、四肢を有する動物では新生児でもすぐに四足で立ち上がったり、這い這いすることができるのです。馬や象などはその典型例です。サルでも生まれて間もなくの新生児では母親に抱きついて四肢、いゃ、サルの場合は手足、が完全に使えるのです。ところが人間の新生児はそのようなことは不可能で、抱かれたり、あるいはベットに横になることしか出来ないのです。なぜなのでしょうか。もっとも、誰もそのような非常識な考えは持たないでしょう。つまり、人の場合にはそれが当たり前であり、常識なのです。

では人間が歩く場合と、他の哺乳動物が四肢で歩く場合とでの大きな違いはなんでしょうか。それは人が歩くときには頭部を含めて上半身も地面から垂直に上に向かっていますが、四肢で歩く動物の身体部分は地面と平行になっています。この違いはある臓器に大きな影響を与えるのです。その臓器とは心臓なのです。人が四肢歩行から進化して下肢歩行、つまり直立することになった結果、心臓は地球の引力に逆らって身体全体にくまなく血液を循環するというものすごい働きをしなければならなくなったのです。その結果、他の四肢で移動する哺乳動物と比較すると人間の心臓は膨大な労力をこなさなければならないのです。したがって、人間の心臓は他の哺乳動物の心臓と比較すると極端に負荷が大きいのです。

て゛も、人類の進化論に人間はなせ゛二本足で歩くようになったのかとの説明はみあたりません。もっとも、最近のチンパンジーでの観察研究によると、食べ物をより多くつかむことが手をその目的にした結果であるとされています。

人間の老化現象の判断には基本的には年齢がありますが、年齢だけではそれぞれの人の老化度は図れません。目とか血管などの老化度はある程度は客観的に判断できますが、心臓そのものの老化度はどのような判断できるのでしょうか。心臓検査には、心電図とか脈拍数などがありますが、心臓そのものの機能を測定する方法は無いのではないでしょうか。いわゆる、人間の臓器の老化度はいろいろな検査値から推定することは出来るのですが、心臓そのものの老化度を測定する方法はあるのでしょうか。

いずれにしても、年齢とともに心臓機能も老化することは当然で、その機能が衰えれば身体全体にその影響を及ぼします。したがって、身体全体への影響を少なくするためには心臓の機能を低下させないことになります。しかし、その本来の機能が老化現象で老化すればそれを何らかの形で補わなければなりません。その手段として心臓の場合にはその負担を軽くするためには理想的には心臓への重力の影響を出来るだけ小さくすることになり、そのためには上半身を前向きに倒すことにより心臓への重力の影響が軽くなるのです。上半身を15度前後に前倒しにすると、引力の影響が20%前後も低下するとも言われています。

その結果、身体全体への血液補給がスムースになるのです。したがって、心機能の低下如何によっては頭から下の上半身が少しずつ前倒しになると理解できるのではないでしょうか。全身の血液は地球の重力の関係で全体の七割が下肢に集中していると言われています。

このような考えは血圧測定の場合に実感できるのです。血圧測定に際してその測定の位置によって血圧値が変動しますが、それは引力の影響を受けるためです。血液の比重は水とほぼ同じ1.0で、高いところより低いところの方が圧力が高くなる傾向があります。これは、水道の水圧と同じで、マンションの下の階よりも上の階の方が低くなるように、下腕を上げると血液が流れにくくなるため、血圧が下がります。「血圧値」に置き換えて換算すると、心臓より10センチメートル高い位置で測ると正しく測定した値より約8水銀柱ミリメートル低くなり、心臓より10センチメートル低い位置にすると約8水銀柱ミリメートル高く出るといわれています。

このように理解するとれ、人間の場合には新生児がやがて這い這いするようになるのも心臓への引力の負担への準備段階であると理解でるかもしれません。さらに、年齢を重ねるに従って、腰が曲がることは心臓の要求にこたえていることになり、そのような人は長生きするのです。もしかしたら、そのような関連性に関しての疫学調査を実施したら案外興味深い結果が得られるかもしれません。例えば゛、養護施設な施設などで暮らして高齢者で、特別な疾患がなく、ほとんと゛寝たきりの人の心臓は負担が少ないので、そのような人は意外と長生きしているのて゛はないて゛しょうか。もし、そのような観点からの疫学調査がされれは゛面白い結果が得られるかもしれません。

そのほかにも、姿勢と心臓の老化度との関連性を研究してみれば意外な結果がでるかもしれません。もっとも、これは私の珍説で、笑われるかもしれませんが・・・・。

そのほかにも椅子に座って両足を前に出して高くした姿勢にすると気持ちが良いのはそれだけ心臓への負担が軽くなるので、気持ちが良くなると考えることができます。また、長くベットなどに寝ているときにベットの頭の部分を少し上げて上半身を15度くらい上げた位置にすると気持ちが良いのも、心臓への血流があまり負担なくスムスになると理解することもできます。つまり、心臓そのものの位置以外にも血流があまり抵抗なくよくなる状態は間接的に心臓への負担が軽くなり、これも重力が関与しているものと理解できます。

つまり、長く椅子に座っていて、同じ姿勢を長時間続けていると重力の影響で血液の循環が悪くなり、脚のむくみが出ることがあります。このような場合も脚のふくらはぎを意識的にピクピクと動かすことを数回繰り返すことによって、血流を促進し、むくみの状態が改善されるのです。この運動は私は毎日しています。つまり、座っているようなときには、意識的に脚のふくらはぎの部分をつねにピクピクと運動させることが心臓の負担を軽くすることになるのです。ある意味ではそのようなピクピク運動を常時していると心臓への負担が常に少なくなり、心臓の負担の軽減にもつながり、長期的に見れば長生きの生活に貢献することになるのです。でも、このようなことを意識的に患者に説明、進言する医師は 一人もいません。いわゆる、脚のふくらはぎは第二の心臓とも言われているのはこのような効果があるからなのです。その他にも、いろいろな健康維持、留保が毎日のように新聞広告されていますが、不思議とこの「ピクピク運動」を書いている人は一人も居ないようです。

或いは、椅子に座っていて片足を他の膝の上に乗せるしぐさも意外と無意識的に心臓の負担を軽くしているのかもしれません。このような姿勢は多くの人が無意識的にしているのですが、誰もどうしてそのような姿勢をするのかという原因を考えていないのです。これと似たような解釈は「安楽椅子」の場合にも適用されることになります。この安楽椅子と言うのは背もたれが45度前後に後ろに傾斜するので、そのような安楽椅子に身体を任せれば上半身が45度前後に横たわることになり、重力の心臓への影響はかなり弱られることになるのです。

少なくともこのような考えを未だ誰も持っていないのは従来の常識が大きな邪魔をしているものとは考えられないでしょうか。

追記(2014 Jan.4)
 このように心臓の働きが重力により影響されると理解すると、マラソンなどで選手がゴ-ルに着いたとたんに大地に仰向けに大の字をかくのも心臓が要求しているものと考えることができます。つまり、そのような状態に体を置くと心臓の血流機能が引力に殆ど影響を受けないことのように理解すると心臓と重力との関係はいろいろな場面で理解することができるのです。ホントカナ ????

いゃ、本当なのです。簡単な証拠は、疲れたときに横になると身体がらくになり疲労が回復することは誰もが経験していることですが、これは身体を横にすることにより心臓の労力が極端に楽になるので、血流が促進して疲労回復につながるからです。
つまり、躯体が地表面と平行になり、躯体の血流が楽になるからです。立位から寝位になることにより心臓の働きが地球の引力にあまり影響を受けなくなるからです。

追記(2015 May)
最近の若い人たちがスマトフォンなどに熱中している姿を横から眺めていると頭が15度くらい前に倒れているのです。これはそのような姿勢が楽なのかも知れません。しかし、このような姿勢が絶え間なく続くと何も使っていない普通のときでも頭が自然に前に傾いてしまうかも知れません。もうそうなると高齢者の前かがみ姿勢の予備軍かもしれません。

追記(2016 Sept)
最近の研究報告によると、長年にわたり、「ヒトの知性が進化したのは脳が大きくなったからである」という理論が支持されてきたが、新たな研究報告では、知能の進歩には脳の血流の多さのほうが密接に関連していることが示唆されたとのことです。
Roger S. Seymour, et al. open sci. 2016 Aug 31. [Epub ahead of print]

この論文ではなぜ脳の血流の増大が知能と関与しているのかとの推測はしていますが、ではなぜ血流の増大が起こったのかとの説明はなされていません。

ここで、考えられるのはこのブログで述べている私の珍説が大きく関与してくるのです。つまり、ヒトの進化の過程で、立脚、二本足での歩行という進化にともない、私の珍説の心臓機能の強化が当然の成り行きとなり、その結果として血流が多くなったと推測することが可能になるからです。つまり、この私の珍説を拡大解釈をすると「ヒトの知性が進化したのは二本足での歩行にともなう心機能の強化がもたらさり、それに伴い血流の強化が起こり、その結果として諸臓器の一つである心臓の機能も向上し、その結果として脳への血流が増加して知性の進化に大きな影響をもたらした」と解釈するのが妥当だ考えられるのです。

したがって、私の珍説が進化論的原因説に貢献しているのかもしれません。(!!??) (o(*^▽^*)o)

追記 (2021 May)
最近、このような観点に似た研究成果が発表されていました。それはキリンと血圧との関係なのです。
首が長いキリンは、血圧がほかの哺乳類の2倍ほど高いとなるようである。高い位置にある頭まで血を送る必要があるためだが、にもかかわらず、高血圧症を防ぐ遺伝子によって心臓や血管の病気になりにくいことを、中国・西北工業大などのチームが発見した。この遺伝子をマウスに入れたところ、血圧が上がりにくく、骨密度も高くなったという。長い首を保つために独特の遺伝子を獲得したとみられる。

追記 (2022 July)

最近、出版された本に「背骨の医学」(山口正貴)があり、その広告には「すべての疾患は背骨曲がりから」とありました。でも、背骨曲がりは「結果」であって、「原因」ではないのです。心臓老化、心臓補強、などの目的から背骨がまがり、その結果として、ゆがめられた背骨が老化するのではないでしょうか。つまり、私の珍説では、背骨が曲がる原因は「心臓の老化」であり、それを補強するために自然に前かがみとなり、その結果として背骨の機能が劣化するのではないでしょうか。このように考えると、人間が健康で長生き長生きできるためのひとつの手段は心臓の機能を十分に補足できるような日常生活をすることか゛重要になるのて゛す。ホントかな ??

 

 

追記(2022 July)
このように心臓の働きに関連して、ふと考えたのはなぜ「心臓がん」がないのかと考えて検索してみたところ、その理由の中に以下のような記載がありました。

「最も体温が高い状態が心臓であり、その温度は約40℃あり、この心臓の熱に負けて、腫瘍細胞は消滅してしまうと考えられます。」

このような説明で考えたのですが、心臓内の温度がかなり高いということはそのような高温の血液を出来るだけ迅速に体全体に送れるような「ピクピク運動」を連続して随時に行っていればかなり高温の血液が体内に循環し、もしかしたらガン細胞は少なくなるのではないかと言うことなのです。でも、そのような単純な運動がガン予防になるとの考察は医学的ではないので、誰も考察、研究対象にはしないので、そのような観点からの疫学調査は誰もしないのです。

追記(2021 Aug)

オリンピックを見ていて考えたのですが、陸上競技の100メトル競争では9秒台と極めて短い時間での勝負なのですが、その時の心臓の役割を考えたのです。もし、スタト前にこの「ピクピク運動」をしてたらもっと有利になるのではないかということです。

 

追記(2022 July)

高齢者になるといろいろな障害が出てくるのはごく自然なのですが、そのような現象の一つに「食後の心臓部位の軽度の重力感、痛み、が感じられることがあるのです。これはPostprandial anginaともいわれているのですが、食後の満腹感を感じるようなときには高齢者の場合、食後の一時間前後になると血圧も低下し、胸のあたりが軽い痛みのようなことを経験し、ときとして眠気も現れるのです。しかし、そのような場合にベットに横になっていると不思議とそのような不快感が感じられないのです。それはベットに横になることは重力の影響が心臓にたいして軽度になるからです。

2018年2月28日 (水)

あなたは「立ちション」派、それとも「座りション」派 ??

本来、男性のカラダは立って排尿すようにできているのです。つまり、「立ちション」派が生理的にも当然なのです。(o^-^o)

 

ところが最近は、「座りション」がかなり増えています。その原因は最近のズボンの形にあるのです。男性の最近のズボンはジ-ンズ・スタイルのものが多くなり、ズボンの股上が極めて短くなっており、したがって、ズボンの前開きのチャックがかなり短くなっているからなのです。ですから、従来の姿勢でズボンの前チャックを開けて放尿することが困難になってしまっているのです。ともかく最近のズボンは股上が15 - 12 cmくらいであり、ジンズ並みの短さなのです。そのようなズボンではチャックも当然短いので、タチションは不可能に近いのです。

すこし脱線しますが、そのような股上が極端に短いズボンが普通になっていますので、すこしお腹が出ている中年男性の場合には、大きくなった腹部の下にズボンのバンドが来るので、横から見るとズボンが極端に下になっていて、極めて格好が悪い

のですが、最近はそのような中年男性が至る所で見られます。

 

なお、最近の統計では「座りション」は四割近いとのことです。

 

基本的には立ちションで、尿を前へと飛ばすために、腹筋と骨盤底筋に力を入れて排尿しなければいけないところを、「座りション」だと体内で尿道が圧力で圧迫されてしまうのです。そのため、すべて出きらずに長い尿道の途中に、尿が残ってしまう可能性があるのです。

 

そのような結果として、「座りション」派の男性の場合にはさらに、排尿障害や前立腺肥大、前立炎症を起こす可能性があるとのことです。最悪のケースだと、この炎症から膀胱がんや精巣がんになる危険性も指摘されているのです。

 

このように考えると、男性の放尿の基本は「立ちション」なのです。そもそも男性が立ちションで便器の下に滴下させない努力をすれば問題はなくなるのですが、それにはまず家庭内での男性全員に対する教育が必要なのです。つまり、毎回の立ちションをした後に、まず下を見て、尿滴があれば紙で拭く、そして便器の上部もついでに紙で一回り拭く、くらいの習慣を持つようにさせるのが一番かもしれません。でもそのようなことをする男性はほとんどいないと思うのです。

 

立ちションで問題なのは便器の手前に垂れ落ちる尿滴以外でもあり、それは便器の周り、そして床に便のシブキが飛び散ることなのです。そのため目には見えない尿のシブキが毎回至る所に付着するので、毎回、トイレの紙で綺麗に便器の内側をトイレの紙でふき取ることが必要なのです。

 

この尿のシブキは多くの場合、なかなか目につかないことがあるのです。しかも、便器の構造によっては便器内の水たまりに小便を直射するとそれこそ目には見えないような微細なシブキが上部に飛び散るのです。

 

場合によっては、排尿のやり方によっては一メトルくらいの高さにまで飛び散るのです。ですから、普通の家庭内で男性が三人とか四人もいるとその家のトイレは毎回猛烈な尿シブキが舞い上がるのです。これがトイレを掃除する主婦の大きな悩みなのです。従って、そのような状況下では当然のことながら「立ちション禁止」となるのです。

 

もっとも、立ちションでの尿のしぶきを防ぐ簡単な方法があるのです。それは立ちションする前に、台所用の液状洗剤を数滴落としてから、立ちションをするのです。そうすると上からおちてくるの尿によって小さな泡がたち、その泡によって尿のシブキが飛び散ることがかなり防げるのです。ですから、立ちションをする人の家庭の便器のそばに小さい瓶に液剤をいれたものを置いておけば、小便をする時にはその数滴を垂らしてから放尿すると尿のシブキが飛び散ることがかなり防げるのです。

 

いずれにしても、家庭内での男性の立ちション問題は世界共通のようです。<

 

でもこんなことを気にするのは私だけかもしれませんね。ともかく、このような注意を立ちションする男性に求めるのは無理かもしれませんね。だって、普通の男性に立ちションするときにはこのようにしてくださいなんて言っても、無理だからです。ましてや、家庭内で男性が複数いる場合にはまずそのような要望は絶望的に不可能です。

 

..

 

 

2018年1月22日 (月)

早食い文化からの卒業

咀嚼能率向上には早食いを止めること

高齢者の“かむ力“向上に関した記事が新聞にありましたが、確かに高齢者になると歯が欠けたり、かむ力が弱まったりします。そのためにもかむ力を維持する努力は自分の歯を維持するのと同様に良いことなのです。

しかし、もっとも重要なのは咀嚼能率と咀嚼回数には相関関係があることなのです。毎日の食事に際し、毎回の咀嚼回数を増やせば増やすほど咀嚼能力も自然に向上するのです。いくら“かむ力“向上のための訓練をして咀嚼能力を向上させても、咀嚼回数が少なければ少ないほど“かむ力“は向上せず、むしろ低下しがちであり、また健康的ではないのです。

残念ながら日本人の多くは早食い習慣が常習化しており、その結果として長期的に見れば咀嚼能力は自然と低下してしまうのです。私は毎回30回の咀嚼を実行していますが、当然のことながら咀嚼能率もかなり大きいままになっています。さらにそのような咀嚼により食事の味を満喫できることなのです。ただ、毎回の咀嚼回数30回を実行していて困るのは友人と一緒にレストランでの会食の場合、出された食事を食べ終わるのがいつも私は最後の最後になってしまうことなのです。

2017年9月 6日 (水)

日本人の早食い、 早食い文化

早食いはどうやら日本人の特性かもしれません。

なにしろ日本の政治家、大臣などはその典型例のようです。たとえば、池田勇人首相はカレ-ライス、福田首相はそば、大平首相は讃岐うどん、その他の首相も早く食べられようなものを昼食に摂っているとのことです。

でも早食いは一般的に日本人の多く、ことに男性では普通のようです。
なにしろ、会社など手の昼食をとる社員が外に出てレストランにはいって昼食を摂ってもあっというまに食堂から出てくるのです。ともかくそばなどを食べる場合には二十分以内に食堂から出てくるのです。

このような習慣になじんだ日本人男性は海外でもね似たような慣習で、まさに早食い民族そのものなのです。

健康的には毎回の咀嚼回数は30回くらいにすべきなのですが、普通の日本人にはとても無理なのです。

咀嚼回数は食事を楽しむという観点からも大切なのですが、多くの人はとても毎回に30回の咀嚼は無理なのです。

いずれにしても、一般的には、特に外食の場合には、まさに早食い天国の光景が見られるのです。その典型的な例は、デパトなどの食堂街では多くのレストランの入り口に椅子が並んでいて、中に入れるのを楽しそうに待っている光景はまさに純日本的なものなのです。つまり、そのような外食の場合にはほとんどの人がさっさと食べてレストランを後にするので、ちょっと待てばそのレストランに入れるのです。このような光景は特に昼食時のレストラン街に行けば語句当たり前の光景で誰も何とも思っていないと思うのですが、早食い文化の日本人には誰も不思議な光景とは思わないのです。これが欧州などのレストランではとても理解できない光景なのです。

2016年11月 7日 (月)

口臭を無くすには

口臭を無くすには

口臭の原因には三つあって、一つは口腔内の細菌叢の影響、そして二番目は消化器官内の影響、そして、三番目は呼気。

三番目の呼気の典型例は女性のメンスの時の口臭。この場合の口臭は人によっては全く感じないこともあり、第三者の鼻覚の敏感度に左右される。男性の場合には呼気による口臭はあまり多くはないが、もしそのような口臭がある場合には、多くの場合は消化器官の影響、つまり胃腸の具合が悪い場合には時として特異的な口臭を発することが多い。勿論、この消化器系統に由来する口臭は男女ともに起こり得るものである。

最初の口腔内の細菌叢は通常の歯磨きでは効果がなく、歯列の奥の部分の歯が全くない歯肉の部分には細菌叢のたまり場て、その清掃が普通の歯磨のやりかたでは軽視、無視されていることが多い。多くの口臭の原因はこの二番目の歯肉の部分に起因することが多い。この部分の掃除は歯ブラシを歯列の奥の奥まで入れてゴシゴシすることが必要となるが、殆どの人はそこまで気を付けて歯ブラシを使っている人は少ないようである。

したがって、自分の口臭がどの種類であるのかを知る必要がある。口臭を取り除くとして市販されている口腔薬とか内服薬などは一時的には口臭が消えるかもしれないが、抜本的な対策にはならない。


2016年11月 6日 (日)

日本の薬局の実態

日本の薬局の実態

 

ある大衆薬を入手するために渋谷と新宿の繁華街での経験を以下のようにまとめてみました。

 

1) 薬局の物理的存在感がゼロ 
     ⇒ どこに薬局があるのかわかりにくい
⇒ なぜ薬局の全国共通の看板がないのか
            ⇒ その反対にドラッグストアはどこでも目につきやすい 
    新宿では薬局を見つけることは出来なかったが、渋谷では道玄坂の入り口に近い処に薬局があるがその存在感は外から眺めた時には極めてゼロに近い。

 

2) ドラッグストアの備蓄状況は最低、
    ドラッグストアでの大衆薬はカウンタ-の後ろにある棚にあるものしかない
        したがって、ある新しい大衆薬、サブレメントは殆どの場合「うちには置いていません」で終わり。
 
3) 薬局の非処方薬の備蓄状態 
    備蓄状況はドラッグストアよりはやや多いが、在庫のない場合、取り寄せに二日もかかる。

 

4) 薬剤師の存在が軽視、とくにドラッグストアでの「ただいま薬剤師不在」の札がカウンタ-に置かれてある時間が長い。

 

 

これらの状況はある意味では百貨店とショッピングセンターとの関係に相似ているのではないだろうか。
本質的に百貨店とショッピングセンターは異なっているが、消費者(買物客)から見れば、両者の差違が分からないほど共通点が多く、どちらでも同じ商品を陳列・販売しており、しかも家族単位で出かけるマイカー利用者にとっては、都市型の百貨店よりも、郊外型のショッピングセンターの方が利便性が高いことは明らかである。つまり、一昔前と違って、百貨店でなければ販売していない商品が少なくなっている上、顧客が希望する商品の品揃えがなく、しかも高価であるから、客離れが進むのは当然であるとされている。このような状況を薬局とドラッグストアとを比較してみるとかなりの相違点がある。

 

つまり、医薬品の更なる分類による販売経路の細分化により、ドラッグストア、並びにインタネット販売方式が拡大され、すべての医薬品を常に備蓄していて、顧客の要望にすぐに対応できるという薬局本来の理念が完全に消滅しているのが日本の薬局の現実なのです。

 

追記(2019 June)

最近のサイトに「処方箋がなくても立ち寄れる薬局」なる表題での解説がありましたが、このような内容のものが話題になるということは一体どのような意味があるのでしょうか・つまり、極言すると、処方箋を持っていくところは調剤薬局であって、旧来の概念のすべての業務を行う「薬局」はだんだんと淘汰されていることを間接に意味しているのです。まことに残念なことです。

 

 

 

2016年1月11日 (月)

「なぜ」の発想はあなたを若くする

「なぜ」の発想はあなたを若くする

  いろいろな日常生活の中で、常に「なぜなのか」という考えを持つことはたんなる好奇心だけではなく、その検索とか調査をすることによりいろいろと新しい発見があるのです。その結果、常に物を考えるという習慣が身に付き、間接的にはボケの予防にもなり、最終的には体のためにも良いのです。

   そのような「なぜ、なぜ」の発想の典型例はニュ-トンがリンゴの実が木から落ちるのを見て「なぜなのか」、と考えた結果、引力を発見したといわれています。

  ともかく新聞や雑誌などを読んでいても常に「なぜなのか」と疑問を持つことはいろいろな意味で勉強にもなり、また頭の体操にもなるのです。

  私もこのブログの中で「私の架空発明」と題して好きなことを書いていますが、いまのところあまり反応は多くはありません。

いずれにしても、なぜなのかとの疑問をインタネットで検索すると以外と面白い発見もあります。

2015年11月28日 (土)

自分は老けないかどうかの目安は ??

自分は老けないかどうかの目安は ??
 
日常生活の中での習慣、傾向、などは歳とともに少しづつ変化するので、なかなかそのような微妙の変化を認識するのは難しいのですが、どのような変化に気が付くべきかを知っていると意外とそのような微妙な変化を認識できることがあります。

例えば、歳をととるとよく言われていることの一つに度忘れをすることがあります。この度忘れすことは意外と大切なことで、自分自身が最近は物忘れが多くなりましてね、などと自覚できている間は痴呆にはならないということです。つまり、自分が度忘れをしていること自体を認識できなくなったら、赤信号なのです。
似たような現象に「笑い」があります。この笑いは喜怒哀楽の一つですが、よく言われているように「笑いは健康の元」なのです。この笑いがなくなったらまさに赤信号なのです。

そのほかにも、汗かきの人は笑いと同様に老けにくいといわれています。といってもジムなど手汗をかくのとは異なって、ちょっとした作業、歩行でも汗をかくということなのです。
そのほかにも涙もろくなるということは老化現象の一つとされていますが、これも喜怒哀楽の一つでありこのような涙もろさの人は老けにくいとされています。別な表現を借りれば五感が十分に発揮できている人は老けにくいといわれています。

しかし、その逆に、では老け難くするにはそのような五感をフルに活用すれば良いのかとなると、それは意外と難しいのです。例えば、涙もろさはどのようにしたらできるのでしょうか。それは習得不可能な生理現象なのです。

そのほかにもいくら笑いは健康の元、老けないための手段と言われても、普段から笑うことのない人にそのような笑いの導入はほぼ無理なのです。もっとも、「笑いのヨガ」というものがありますので、そのような道場にいくことはできるかもしれませんが、普段からほとんど笑いのない人にはそのような不自然な笑いを習得することは困難なのです。いや、むしろそのような人は人工的な笑いを拒否、回避するのです。

世の中にはいろいろな健康法が提唱されていますが、実際にできることとできないこととがあるのです。毎日の新聞広告にはこれでもか、これでもか、といった感じでの宣伝がなされていますが、人の性格はなかなか簡単には変えられないのです。ことに自分から何かをしなければならないような健康法には無理があるのです。いままで何年も、何十年もしていなかったことをこれからはああしましょう、こうしましょうと言ってもなかなか実行できないのが凡人の悩みなのです。

2015年3月31日 (火)

健康情報に関する笑い話

健康情報に関する笑い話

新聞などにはいろいろな健康関連の情報とそれらに関連した新刊書が毎日のように溢れています。でもそれらの情報は単一因子としての情報であり、その背景にあるいろいろと異なった要因による解析は殆どなされていないのです。人間の健康はそれほど簡単なものではなく、いろいろな複雑な要因が重なり合って健康であったり、病気になったりするのです。したがって、「私は・・・・を毎日食べているので90才まで長生き出来ているのです。だから....」の類の宣伝はその人以外には当てはまらないことが多いのです。
したがって、問題は巷に溢れるいろいろな健康情報をどのように理解するのかということが重要なのです。

例えば次のような架空情報を読んでみて単純に考えたときにどうなるのか。笑い話的に引用してみました。

「太っている人は痩せている人よりも五年は長生きする」
「ランニングをする人はしない人に比べて寿命が三年延長する」(*)
「毎日りんごを食べている人は五年寿命が延長する」
「タバコを吸っている人は吸わない人に比べて十年寿命が短くなる」
「規則正しい生活をしていない人は正しく生活している人よりも五年は寿命が短い」
「砂糖をやめれば10歳若返る」

これらの情報を短絡的にそれぞれ理解して、笑い話的にまとめて解釈すると以下のようになります。

「おれはいま五十歳で、体重が五十キロとかないので、すくなくとも太っている人より五年は長生き出るのか。そして毎日ジョギングしているのでさらに三年は長生きできることになるね。」「そして毎日リンゴを食べているのでさらに五年、つまり合計すると5+3+5で、合計十三年長生きすることが出来るわけだ。」
「それならいままで喫煙をやめていたが、毎日タバコを吸ってても差し引き13-10で、まだまだ三年は長生きすることが出来ることになる。」
「しかし、おれは規則正しい生活をしていないので寿命は五年短くなるか、そうすると残り三年からこの五年を引くとマイナス2で、もう俺はすでに二年前に死んでいることになるのか」

(*)ランニングをする人はしない人に比べ寿命が3年長い可能性があることが、「Journal of the American College of Cardiology」8月5日号に掲載されている

そのほかの例
新刊書に「サラダ油をやめれば脳がボケずに血管も詰まらない!」という医学博士が書いた本があるのを見て、「そうだとすると俺はボケもしないし、血管も詰まらないという事か、だって俺はサラダ油なんて今まで使ったことがないんだよ」

このほかにもいろいろな誤解、八回の例があるのです。私が、いままでにみた似たような笑い話的な真面目な解説が、ある民間医学関係の本のなかに以下のような記述がありました。
  副作用の発生頻度には0.01%、 0.1%のような数字が挙げられています。この発生頻度は概念的にはある副作用が起こる割合は一万人に一人、千人に一人の割合で発生する可能性が有ることを意味しているのですが、この本の中での0.1%の解説では「この副作用は千回使っていた後に初めて起こる副作用(つまり0.1%)なので。使用回数が千回以内でしたら問題の副作用は起こりません」と説明されているのです。

どうです、皆さん笑えましたか。もし大笑いできたらあなたの理解度はかなり高いのです。