あなたは英会話の勉強は諦めたほうがよいかも
「授業は英語で行うことを基本とする」という新学習指導要領が、今年度から高校で実施とのことで現場での当惑が報じられています。もしかしたらそのうち小学校、あるいは大学での英語教育も同じようになるのかもしれません。そして最終的には大学の授業はすべて英語にとなるかもしれません。現に一部の大学ではすべての授業を英語でしているとか。
でも、どうして日本人はこうも英語に対してコンプレックスを感じているのでしょうか。そこには語学学習、いゃ、正確には外国語習得、の基本を全く理解していないからです。ここであえて語学学習としない理由は、語学としての外国語勉強は文法から始まって、英文学、翻訳技術、会話技術など極めて幅が広いものとの理解から、単に外国語を自由に日常生活のなかで使いこなせるという意味とを区別して外国語学習としています。
たしかに、従来の学校での語学教育の目的は、読めること、次いでもし可能であれば書けることに専念していましたので、話すことは忘却の彼方に追いやられていました。往時は日本人が英語で話す機会、あるいは英語で聞かれるような機会は皆無に近かったので、誰も英会話を真剣に習うことは少なかったわけです。戦後間もなくの「カムカム英会話」の流行もいつの間にか消えてしまい何らの成果ももたらさなかったのは実際に英語を話す機会がなかったからです。当時は日本に進駐していたアメリカ人との接触で日常的な会話、例えばHow are you ?くらいのことは言えたかもしれませんが、それ以上には日本人の英会話能力は向上しませんでした。
このHow are you ? 会話に関連し逸話があります。日本の森元首相が初めてのアメリカ訪問に際してクリントン大統領との会談に際し、少なくとも初めの挨拶ぐらいは英語でということで、How are you ? とクリントンに言えば、彼はI am fine, and you ?と答えるので、その時にはMe too. と言ってください。それ以降は私たちが通訳しますからと側近に言われ、アメリカに出かけたのですが、いざクリントン大統領に会った時に、Who are you ?と間違って言ってしまい、その時にクリントン大統領が真面目に I am Clinton.と返事したので、森元首相は出発前に教えられたとおりMe too.と答えたとか。こうなるとまるで漫才みたいです。似たような英語に関する笑い話的実話はたくさんあるのです。
ある商社の社長が商談で米国に行ったときに、その社長は英語ができないので日本語でスピーチし、部下が訳し、最後の締めくくりくらいは英語で、と思ったのか、その社長がわざわざ英語で「One please」と言って終えたそうですが、その意味がわからなかった部下が後で社長に聞くと、得意げに「きみ、分からんのか。ひとつ、よろしく、だよ」と言ったそうです。まさに森元首相と同じような逸話です。いずれの場合も笑い話の傑作かもしれません。。
しかし、今日のような国際社会では海外に出れば少なくとも英語が話せることの必要性が高まっているのはよくわかります。しかし、問題はそのような英語を話さなければならない機会が日本人全体の中で一体どのくらい居るのでしょうか。日本のように島国ではそのような環境は極めて限定されているのです。まさか海外旅行での英会話の必要性のために高校での英語による英語教育が導入されたわけではないのです。そこには理想的な姿、つまり海外に出かけて国際的な活動をするためには最低限英語が話せなければならないとの高尚な理念があるからです。確かにこのような理論はまさに正解なのですが、そこに隠されている重大な欠陥には全く触れていないのが問題なのです。確かに英語で外国人と自由に意見の項が出来ることが大事であることはわかります。
しかし、語学というよりは外国語を勉強することは狭義的には何の目的でするのかとの認識が必要です。一般的には外国語を勉強することの根底にあるのはその言葉で相手と話したり、交信したりなど、お互いにコミュニケ-ションが出来ることなのです。
なお、繰り返しになりますが、私はここであえて外国語と表現し、語学とは書かないのは知識、教養としての言葉としての語学と、日常会話的に使える実用的な言葉としての外国語とを意識的に区別しているからです。本来ならそのような区分けは無意味なのですが、日本という島国に住んでいる日本人にはあえてそのような微妙な相違を意識したのです。ところが、日本では語学の勉強イコール外国語の勉強と捉え、その結果、英語の授業は英語となるのです。
言葉の基本は最初に話せること、ついで読めること、そして最後に書けることが基本原理なので、子供の成長を見ればそのことは明白なのです。幼児が最初に覚えるのは話すことなのです。ですから母国語という表現は文字通り母親から言葉を学ぶからです。この話すということに関して「アメリカの子供はどのようにして英語を話すようになるか」のようなタイトルの本が出版されていましたが、このような本を書くこと自体がナンセンスなのですが、日本では誰もがそのような本に飛びつくのです。
従前は日本人の場合にはその逆で読めることから書けることに終わっていたのです。つまり最初の出発点である話せることは完全に無視されていたのです。語学の勉強ならそれでもよかったのですが、外国語の勉強となると今までのような考えでは誰も話せないからです。これに似たような状況は、昔は学校で漢文を習ったので、漢字を使って中国人と筆談することはある程度は可能なのです。もっとも、現在の学校教育には漢文の授業は全くなく、また現在の中国語はかなり省略形が大きくて昔の漢文での筆談はやや困難ですが、それでも、時として理解してもらえるのです。
でも、いったい何のために外国語を勉強するのかという基本を考えてみる必要があります。ほとんどの人はこの問いに対して外国人とのコミュニケーションをスムースにするためとの答えが返ってくると思うのです。でも考えてみてください。島国日本で英語で話すような機会が一般の人たちにどれほどあるかということです。おそらく識者は、日本人が海外で活躍するには英語は大事だから若い時から英語、とくに会話能力を身につけることも大切であるとの模範解答が返ってきます。
そのほかにも韓国人や中国人のほうがはるかに英語が話せますよ、だから日本人も英会話を一生懸命勉強すべきなのです、との発想から今回の学習指導になったものと考えられます。
でも、ちょっと待ってください、日本語の会話、対話が日常的にスムースにできない日本人、とくに男性がいくら勉強しても英語で話すことは困難なのです。日本語の会話、対話があまり出来ない「むっつり屋」の典型的な日本の男性はいくら英会話を勉強しても結果は同じで、相手と英語で話すことは極めて困難、いや無理なのです。それとも日本語での会話が下手で、ほとんど話さないような人でも英語になるとペラペラ話せるとでも考えているのでしょうか。それと対照的なのは、最近の日本で、ケイタイからスマトフォンに進化し、その結果として、しゃべらなくなっているのに気がつきます。まさに、「無言便秘症」に全員がかかっているようです。ですから、数年前とくらべると日本に行くと社会がとたんにしゃべらなくなってきわめて静かになっているのに気がつきます。そこに見られるのはひたすら無言でケイタイ、スマトフォンに向かって短略会話文章を打ち込む日本人、特に若者の増加に気が付くことです。そのような「簡略無言会話」に慣れた「黙々民族」がいくら英語を勉強しても「論理有言会話」を旨とする英語で話をすることは今後ますます不可能になっていくのです。
それ以外にも韓国人、中国人は日本人に比べて男性も含めてうるさいほど話すのです。つまり、彼らの自国語でペラペラと普段から話せる人は外国でも話そうとする努力をするのです。このような国民特性を無視して、ただ結果的に韓国人や中国人と比較しても意味がないのです。
同じ日本人でも、男性と女性を比較してみてください。日本の男性は心の会話はできても言葉での会話は極めて苦手なのです。一般的に女性同士ではよく話す、いやしゃべるのです。漢字で女が三つ一緒になると「姦しい」となるのもうなずけます。外国語の同時通訳者に女性が圧倒的に多いのはそれなりの理由があるのです。
それに反して典型的な日本人男性は思っていたことも言葉に表すのが実に下手なのです。家庭内での夫婦の会話をとっても旦那はあまりしゃべりません。かって言われていたことに、男性の家庭内での会話は「メシ、新聞、風呂」で問題がないと言われていたのです。心で思っていても言葉で表すことは極めて苦手なのです。そのような男性がいくら英会話を勉強してもとても英語で話せるわけがないのです。
外国語学習、とくに会話能力というのは表現力、必要度の二大要因が大切なのです。島国日本で育って海外に出たこともない人、とくに男性がいくら英会話を勉強しても使い物にならないのです。その逆に会社などで、ある日突然に上司に外国人が来たり、海外出向を命じられると否が応でもその国の言葉、会話力をマスターしなくてはなりません。つまり、そのような必要度は学習能力推進源となるのです。もっとも、それでも「むっつり屋」専門の日本人男性は最低限の発言しかしない、いや出来ないのです。海外での国際学会などでも日本人男性参加者はまず進んで発言することは皆無なのです。
ではこのような環境をどうすれば改善できるのか。それにはともかく学校教育の中で日本語での会話、対話能力を向上させる機会を作ることです。昔は中学、高校などに弁論部がありましたが、今はどうなのでしょうか。一つの対策として、中学校から議論・討論の教科を導入することから始めるのが先決です。
会社でも会議などでの社員の発言能力、もちろん日本語会話、対話を引き上げるような環境作りをすることです。日本の会社内でも会議などで全く発言しない人は軽視されてしまうのです。
私は高校での英語教育が英語でなされることは反対ではないのですが、現実を眺めればあまり意義がないと考えるのです。たとえ、高校での英語教育の結果、英語で何とか自分の意見を述べることが可能になっても、いったん日本人社会の中に入って日本の社内環境に溶け込むと、日本語で自分意見をペラぺラ発言したら周りから嫌われてしまうことがいまだ残念ながら存在するのです。会社内での会議でも参加者が自由に、気楽に自分の意見を述べることができる環境になっていることが大事なのです。
したがって、今回の英語による英語教育を成功させるためには、同時に日本語の対話能力の向上をする時間を高校に設けること、そして最終的には日本の社会全体、少なくとも企業内でも自由に発言、対話が出来るような環境作りが必要なのです。この二点がうまく作動しないと今回の高校での英語を使っての英語教育の最終目的達成は不可能になるのです。
ともかく、あなたが男性で、家庭内会話がほとんどゼロである場合には、英会話の勉強をあきらめたほうが良いかもしれません。それでも、英語で外国人と話してみたいとの願望があるのであれば、まず家庭内での会話練習(もちろん日本語で)からしてはどうでしょうか。もし、あなたが奥さんに「愛しているよ」と言えるようになったらあなたの英会話能力は100%向上するでしょう。(o^-^o) もしあなたがいまだ両親のもとで生活しているのなら、毎日、お母さんに「今日の夕飯はとても美味しかったよ」くらいの賛辞がすらすらといえるようになることが大切です。
市場にはいろいろな英会話上達の本やシステムの宣伝広告が載っています。確かにそのような教材で英会話が上達することもあります。ところが、新聞広告などの宣伝に、「この方法で英語がかなり聞き取れるようになった」との使用者のコメントが列記されています。しかし、英会話がかなり楽に聞き取れるようになったからといって、では話すのも全く問題ないかというとそうではないのです。つまり、相手の言うことを聞き取れるからといって、すなわち自分もペラペラと話せるようになるわけではないのです。しかも、繰り返しになりますが、たとえ相手の言っていることがかなり理解できても、それイコ-ル自分からも同じように相手に話しかけることが出来るとはならないのです。勿論そのような広告に書かれてあることが嘘だとは言いませんが、全般的には眉唾物と考えることです。特に男性にとってはそのような宣伝文は通じないのです。もしあなたが男性でどうしても英会話力を身に着けたいと思うのなら、まず日本語で毎日最低十分間連続して一人で話すことを練習してください。これが出来なければ落第ですよ。
毎日のように新聞広告に英会話の教材の宣伝が載っていて、「ただ聞くだけ、耳から覚える英会話」「えっ、気が付いたら自分の口から英語が出てきた」などの広告がありますが、確かに一部の人にはそのような成果が現れることはありますが、すべての人がそのようになるわけではないのです。「聞き取れる」ことと「話すこと」とは必ずしも同じではないのです。そのような宣伝に登場するのは多くの場合、女性であるのも肯けるのです。実はこのことは極めて重要なのです。女性は男性と比較したら話すのが好きなのです。しかし、この種の広告が毎日のように新聞に見られるのですが、そこに登場する人のほとんどが女性であることに男性は気が付かないのです。。
とくに問題なのは、仮にそのような宣伝のように、相手の言っていることがかなり理解できるようになっても日常生活の場の中で誰と英語で話す機会がありますか ??。いったい、誰と英語で話すことが出来るのですか。そんな必要性はどのくらいの頻度であるのでしょうか。まさか夢の中で話すことがあるのでしょうか。
これは私の経験から皆さんに確実にお伝えすることが出来るのです。ですから、どうしても英会話能力を向上したいと願うのならば、学習と同時に自分の片言の英語でも会話出来る相手を探すことも必要なのです。ところが、これが一番難しいのです。
つまり、英会話を勉強する目的が明瞭でないとなかなか進歩はしません。いくら英語での会話が理解できるようになっても、実際にそれを使う機会が殆ど無いような島国日本では英会話の上達を期待することは無理があるのです。例えて言うならば、いくら料理の学校に行って料理の作り方を学んできても、食べてくれる人がいなければ料理をつくる意味が無いのと似たような状態なのです。
追加(2014 Aug)
いつも新聞広告に現れる英会話の本の新聞広告の著者はほとんどが女性なのです。しかもその広告の中に必ずといってよいくらい簡単な英文が記載されていますが、そのような表現はまず日常会話には必要ないのですが、例えば、I am over the moonが書かれてありますが、このような表現は知らなくとも全く問題が無いのですが、あたかもそのような表現を知らない人にもこの本ではすぐに言えるようになる錯覚を起こさせるのです。この表現の意味は「天にも昇る気持ちです」だそうです。現実にこのような表現を日常生活の中で使う可能性がどれほどあるのでしょうか。まったく笑っちゃいます。こんな表現は自分の奥さんにも言えませんよ。
追加(2015 April)
ともかく毎日のように新聞広告にでかでかと英語をいかに簡単に話すことが出来るとの宣伝が載っています。でも考えたら、もし本当にそのような広告に載っている講座、方法などで誰もが簡単に英語の会話がすらすら話せるようになるのなら、ひとつの方法ですべての人が簡単に英語を話せるようになる筈なのですが、現実にはその逆であるので、このようないろいろな宣伝が毎日のように載っているのです。しかも、それぞれが異なった業者のものなのです。いったい、日本にはいくつくらいのそのような簡単英会話方法があるのでしょうか。まさか皆さんそれらのいろいろな方法を試しているのではないでしょうね。毎日のように英会話に関する本の宣伝が載っていますが、いっちたい今までに何百冊の英会話関連の本が出版されているのでしょうか。もし本当に誰でも簡単に英会話を習得することできる方法が一つでもあればそれで済むのですが、現実はそんなに簡単ではなく、多くの人がそのような本を毎回購入して試してみても現実には英会話がペラペラになることはほとんど皆無なのです。
たとえば、「あなたは逆さ上がり」を英語でいえますか、との宣伝文がありますが、そんな表現は全く知らなくとも問題は無いのですが、あたかもそのような表現を英語で言えないのはあなたの英語力が弱いので、この本をぜひお読みくださいとの趣旨なのです。しかし、普通の人の多くはなるほどそうかな、と考えてそのような本とか講座に飛びつくのです。
そのほかにも「四字熟語を英語で言えますか」との本が30万部突破と、宣伝されていて、その例として「宇宙遊泳」とか「物見遊山」を英語で言えますか。このような本自体が出版され、おおくのひとが買っているようですか、このような表現なんか知らなくとも日常の英語会話には必要はないのです。しかし、こんな簡単なことが英語コンプレックスの人には新鮮味を感じるのかもしれませんね。なお、本の宣伝で読者が惑わされるのはその発行部数のことです。新聞広告には「突破」とか「増刷」とかが書いてありますが、「完売」とは書かれていないのです。
本の流通は出版社から各書店に一定数が送られますが、ある一定の期間が過ぎると売れなかったものは出版社に戻されるのが普通なのです。そのような環境では実際に売れた数は読者は知らないのです。新聞広告などに現れる書籍の販売経路は書店ですが、まずは書店に並べられ、売れ残りは返本の憂き目にあいます。広告で謳われる部数はあくまで印刷部数(流通部数)で、実売部数とは異なります。極端な例では、30万部増刷して、20万部返本・断裁となる場合もあるかもしれません。
ともかく毎日のように新聞広告に英会話上達のの秘伝のようか公告が載っています。このことは女性用の化粧品と似たようなもので、本来化粧品を必要としないきれいな人がモデルに現れて、この化粧品を使えばこんなにきれいになりますよ、との宣伝と似たようなものなのです。英会話の宣伝もそれに似たようなもので、そこに登場する「成功者」の声は99%が女性なのです。たとえば゜「夫にスゴイと言われた」のような広告文が大きく載っているのです。それはそうでしょう、一般的には女性は話し好きが性格なのです。
ともかく、英語を話すときに、まず日本語を考えてそれを頭の中で英語にどのように翻訳できるかを考えている段階では英会話は進歩しなせん。従って、どうしても英会話を習得したいと考えるのなら、
1) ともかく日本語を考えずに英会話のようなテキストの発音を毎日何回となく、聞くことです。
2) そのような場合には日本語を忘れる努力をすることです。
3) 片言の英語でも話せるような機会を探すことです。これは日本では意外と難しいかもしれませんが、そのような努力なしでは英会話は進歩しません。