カテゴリー「教育」の記事

2015年6月20日 (土)

海外留学の成果

海外留学と言ってもその内容には千差万別があり、大きく分けて次のように区別することができるのではないだろうか。

 

 

1) 日本の大学を卒業してから実務に就き、その間に海外の大学、研究所などに短期間、数ヶ月から二三年、滞在する。 

 

 ⇒ このような場合には本人の経歴には、「終了」「修学」「留学」等が付けられているのが普通である。もっとも、なかには聴講生として登録しただけで「某大学終了」としている人もいる。とくに政治家とか大学講師などにはこの手の学歴記載者が散見される。

 

2) 日本の大学を卒業してから何らかの機会を利用して、海外の大学に留学し、その大学の卒業証書を手にする。  

 

 ⇒ このような例は極めて少なく、海外の大学に正規に入学し、その大学過程を勉強し、卒業証書を手にするので、まさしく「卒業」になる。なお、意外となされていないのは日本の大学と同じ学部を卒業する場合には国よってもその規則は異なるが、多くの大学では日本での履修科目をかなり認定してくれ、従って、たとえば目的とする同じ学部の大学三年に編入してもらえるので、その大学を一年か二年で正式に卒業できる。もっとも、他の関連学部への編入入学では学部内容によっても異なるが、認定される終了科目数は当然ながら少なくなる。

 

3) 日本の高校を卒業してから海外の大学に正式入学し、正式の過程を終了し、その大学の卒業証書を手にする。  

 

 ⇒ この種の留学は意外と少なく、高卒で海外の大学に留学するのはやや難しいかもしれない。

 

 

実は最近、ある雑誌に以下のような記事が載ったのですが、これは別に驚くべきことではなく、むしろその逆にそのような研修生の存在に驚くこと自体が私にとっては「驚き」なのです。

 

「徳田氏も驚いた! ハンガリー医学部卒研修医の実力」 http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_--_256018_--_215525_--_36

 

つまりこの記事を書いた徳田氏は自分の見解を堂々と発言できるような日本の大学卒の研修生、しかも女性、は殆ど存在しない環境に慣れているからであって、それが当たり前と理解しているので、たまたまそのような海外の大学卒の医師研修生に驚いているのでしょう。もつとも、彼女たちが英語で発言できることも大いに影響を与えているのかもしれません。それと、徳田氏が驚いた心理的背景には彼女らがハンガリ-というあまりなじみの無い大学を卒業していたこともあるのかもしれません。これがアメリカの大学を卒業してきた医師研修生ならおそらく驚かなかったかも知れません。 ちなみにハンガリーは外国の学生導入目的で授業はすべてが英語でなされている。つまり、海外留学でもいろいろと探すと意外な穴場があるものです。

 

しかし、むしろこのような成果のある海外大学卒業生の病院内での環境次第では「あの若造が・・・」「新参の研修生が・・・」と疎まれる可能性があることを私は懸念するのです。なにしろ自分の意見などを正々堂々と述べることは未だに場合によっては問題を起こす可能性のほうが日本では高いのです。日本の病院、特に大学病院なぞは意外と封建的であり、階級社会であり、したがって教授とか院長の見解にたいして異見、意見ではなく、を言え無いようような環境であることが未だに多いからです。

 

 

このような環境に関連して思い出せるのは超音波診断装置を世界ではじめて開発した和賀井敏夫氏のその開発の端緒となったエピソドがあります。(かなりな前のNHK番組「プロジェクトX 「創意は無限なり、超音波診断機エコ-」より)

 

彼が研修医として順天堂医科大学の外科に入局して経験したことが大きな出発点になっているのです。それは当時脳腫瘍で亡くなった子供をはじめて経験し、その後似た様な症状の子供の臨床経過を綿密に記録し、そこから得た結論はこの子供も重篤の脳腫瘍だから直ちに手術すべきであることを教授に申し出たところ一笑に付されたことなのです。つまり、大学出たばかりのなんらの経験の無い研修生が何を言っているのか、と言うことだったのですが、その後に手術して開頭したところ、手遅れ状態の脳腫瘍だったのです。しかし、その教授はこの研修生に対して「それは単なるまぐれあたり」だと軽くあしらわれ、これが契機となっていかにしたら脳の状態を外から知ることができないかと決心したとのことです。その結果としていろいろな人たちの協力を得て、最終的に現在使われているエコ-診断機の開発に成功しているのです。

 

 

このエビソドは海外留学とは関係が無いのですが、前記の若い医師研修生のような自分の意見を堂々と発言することに対して、もしかしたら未だにそのような新参研修生に対する医局内での風当たりが強くなるのではないかとの余計な心配を考えたからです。

 

 

いずれにしても海外留学することの成果はやはり何らかのプラスがあり、日本では経験できないような成果が必ずあるのです。とくに前記の留学の範疇の三番目に該当する海外留学は大きな成果があるのです。

 

 

海外留学というと日本人の多くは英語圏の大学しか考えないのですが、前記のように英語圏以外の国よっては海外留学生の受け入れに好意的な場合もあり、大使館などを通じていろいろな情報を得ることができるのです。なお、語学はあまり重要な問題ではなく、仮にその国の言葉での授業でも、入学前に二カ月か三カ月の語学研修で、大学での講義にはなんとかついていけるものなのです。従って、ドイツ語、フラン語、スペイン語圏、スエ-デン語などとその可能性は極めて広がるのです。

 

私は前記の留学範疇の二番目でイタリアのロ-マ大学に同じ学部入学(薬学部)で、日本での履修科目の多くが認定され、結果的には一年半で同大学を正規に卒業することが出来たのです。この場合も、入学前に三カ月の語学研修で授業についていけました。この範疇の留学は同じ学部なので授業科目の内容は日本とイタリアとでは大差が無く、 三か月間の薬局研修も楽しいものでした。

 

もっとも、海外留学が割に問題なく出来るのは日本人の場合には女性が有利なのです。なぜかと言いますと日本人男性はその多くが「ムッリ右門」、つまりほとんど話さないので、その点、女性はおしゃべりが一般的に好きなので黙っていられないのです。ということは語学の習得度も極めて高いのです。このことに関して、私はいつも冗談半分に「女性は口の体操が大好きなのだから・・・」と表現しています。

 

最近は文部科学省が「留学へトビタテ」と支援制度をたちあげましたが、その対象は当初は一年いないの留学が対象とか。その後は2-3年の両額、さらに高校生もその対象に入れるとか。そして将来は年間に1500人を目標にすることになっているそうです。https://tobitate.jasso.go.jp/

追記(2019 July)

最近の新聞記事に「千葉大 全員留学義務づけへ」の記事がありましたが、なんと二週間以上となっていました。これって、留学の範疇に入るのでしょうかね。この記事には「在学中に最低一度、二週間から二か月間」とありました。

でも、こんな短期間の留学なんて果たして意味があるのでしょうか。数週間、海外の大学で何をするのでしょうか。恐らく聴講生としてしか相手は受け入れてくれませんよ。それで、帰国してた千葉大を卒業すると「海外の大学終了」のような経歴になるのかもしれません。

2014年8月10日 (日)

孔子学院はなぜ大学内に設置されているのか (+*)

孔子学院はなぜ大学内に設置されているのか

最近は世界各国で「孔子学院」が設立されています。この学院は名前とはすこし異なって中国語教育、普及にその目的があり、孔子の教えを広めることとはまったく関係が無いのです。私は初めてこの学院の存在を知ったときには、孔子の教えでも教えるのかなと思ったのですが、それは単なる希望的観測に終わってしまいました。まぁ、常識的には共産党と孔子の教えとは相容れないものだからです。

しかもこの学院は、中国政府からの大量の資金と支援を受けて、世界中で中国語の授業を行っているのです。しかし、アメリカの文化センター、ドイツのゲーテ・インスティトゥートや英国のブリティッシュ・カウンシルと違い、すべての孔子学院は各国の大学内に直接設置されているのです。例えば、日本でもかなりの私立大学内にしかこの孔子学院は設置されていません。

ところがこの孔子学院はいろいろな物議をかもし出しはじめているのです。
 6月14日付ワシントン・ポスト紙社説は、中国による、中国の文化の教育・宣伝機関「孔子学院」の大学内への進出により、米国の大学が中国に管理されつつあることに警告を発しています。すなわち、米中間の教育交流は記録的な数に昇っているのですが、こうしたプログラムには価値もあるが、リスクもある。孔子学院がその例であると。

また、英国の識者も「えば、孔子学院は中国政府とのつながりが強すぎるために、学術の独立を阻害するとして非難の対象となっている。」と批判しています。

問題は中国共産党政府が他の国と異なってなぜ大学内にそのような自国語普及機関を設立しているのかを考えればその意図するところは明瞭なのです。日本国内でもすでにそのような学院と設置大学との間でのトラブルが報じられています。

そのうちに日本の私立大学の多くは中国人のための大学になるかも知れません。いゃ、もしかしたら早稲田大学が早稲田孔子大学になるかもしれません。なぜならば経営が苦しくなれば中国人留学生を大量に呼び寄せればよいからです。そして朝日新聞のように中国寄りの政策を掲げればよいからです。(o^-^o)

それに反して、日本政府はこのような孔子学院のような日本語普及の目的で日本語学院を世界に広めるような発想は毛頭無いようです。この原因は、日本は島国であることなのです。日本の政治家には国際的な発想がほとんど無いのです。もしてや、日本語を海外に推し進めようなんていう考えはもてないのです。それに比較してこ中国の漢族は万里の長城を造ったような人たちなので、やることは遠大で長期視野があるのです。とても島国根性の日本人には太刀打ちできません。

もっとも、このような危惧に反対する人に対しての簡単な反論は「では、日本語普及の目的で朝日学院のようなものを中国内の大学内に設置申請をしてみてはどうですか」と問いただしてみれば明瞭なのです。中国政府はそんなことはまったく受け付けませんよ。

つまり、大学内に中国共産党勢力・影響を強めるために設置しているので、将来的に中国に反対してるような識者とか政治家が学内で講演することは今後は困難になるのです。そのような傾向はすでにいろいろな面で表面化しているのです。それにしても大学関係者はまったくの脳天気です。

例えば、南アフリカで恒例のノベル平和賞受賞者全員を招待した会合にダライラマが今年は中国の反対で招待されないとの報道があり、他のノベル平和賞受賞から非難が出ているとのことです。この場合はみなアフリカが中国からのいろいろな援助を受けており、中国の心情を害したくないので、中国の抗議を引き入れた結果なのです。つまり、これと似たような圧力が孔子学院を誘致している日本の大学にも掛かるのです。

追加(2014 Oct)
南アフリカで13日から開催予定の「ノーベル平和賞受賞者世界サミット」が中止に追い込まれたことがわかった。

また、最近の報道に以下のようなものがありました。
ハンロン・グループとハーバード大によると、同校は、ハンロン・グループの創始者であり、陳兄弟の父親である陳曽煕(チェン・ツンシー)氏を記念し、「公衆衛生学部」を「ハーバード・陳曽煕公衆衛生学院(Harvard T.H.Chan School of PublicHealth)」に名称変更することとした。同校は、「学部名の変更は以前、ジョン・F・ケネディ元大統領にちなみ『ケネディ政治学部』に改めたことはあるが、寄付金を受け取ったことによる変更は今回が初めてのケースだ」
いずれの世界でも金には弱いようです。

追加(2014 Okt)
最近の新聞報道を見れば孔子学院の意図は明瞭。日本の大学はどうするのでしょうか。

2014.10.10 11:00
【世界を読む】産経新聞より
「中国政府の宣伝機関」孔子学院にノーを突きつけた米名門大学の当然すぎる決断…注目される日本の大学の対応


追記(2018 Feb)
最近の報道によると、米連邦捜査局(FBI)が、中国政府が国外での中国語と中国文化の普及拠点としている「孔子学院」の一部に対し、捜査に乗り出していることが明らかになった。
でも、よく考えてみればこのようなことは当然で、中国の体制から自由文に考えられることなのでが、大学当局者は財政面での貢献が得られるので、喜んでその解説を自分の大学内に引き受けているのです。確かに、表面的には中国文化の普及で、とのことでなにも拒否する理由は見られないので、簡単に引き受けているのです。

2013年8月29日 (木)

ついにここまで来た日本人の英語コンプレックス

ついにここまで来た日本人の英語コンプレックス

「授業は英語で行うことを基本とする」という新学習指導要領が、今年度から高校で実施とのことで現場での当惑が報じられています。もしかしたらそのうち大学での英語教育も同じようになるのかもしれません。でも、どうして日本人はこうも英語に対してコンプレックスを感じているのでしょうか。そこには語学学習の基本を全く理解していないからです。たしかに、従来の語学教育の目的は、読めること、次いで書けることに専念していましたので、話すことも大事であることはわかります。

しかし、語学というよりは外国語を勉強することは狭義的には何の目的でするのかとの認識が必要です。一般的には外国語を勉強することの根底にあるのはその言葉で相手とコミュニケシーョンが出来ることなのです。なお、私はここであえて外国語と表現し、語学とは書かないのは知識、教養としての言葉としての語学と、日常会話的に使える実用的な言葉としての外国語とを区別しているからです。ところが日本では語学の勉強イコール外国語の勉強と捉え、その結果、英語の授業は英語となるのです。

言葉の基本は最初に話せること、ついで読めること、そして最後に書けることが基本原理なのです。このことは幼児の話し方をみればあきらかなのです。幼児は最初に話すことからはじまり、ついで読むことを覚え、書くことは一番最後なのです。こんな簡単な基本が全く無視されているのが日本の外国語教育への認識なのです。中には「アメリカの子供はどのように英語を話すようになるか」のような本が真面目に書かれ、またそれを買う人がいるのです。

ともかく日本人の場合にはその逆で読めることから書けることに終わっていたのです。つまり最初の出発点である話せることは完全に無視されていたのです。語学の勉強ならそれでもよかったのですが、外国語の勉強となると今までのような考えでは誰も話せないからです。

でも、いったい何のために外国語を勉強するのかという基本的を考えてみる必要があります。ほとんどの人はこの問いに対して外国人とのコミュニケーションをスムースにするためとの答えが返ってくると思うのです。でも考えてみてください。島国日本で英語で話すような機会が一般の人たちにどれほどあるかということです。おそらく識者は、日本人が海外で活躍するには英語は大事だから若い時から英語、とくに会話能力を身につけることが大切であるとの模範解答が返ってきます。そのほかに韓国人や中国人のほうがはるかに英語が話せますよ、だから日本人も英会話を一生懸命勉強すべきなのです、との発想から今回の学習指導になったものと考えられます。でも、ちょっと待ってください、日本語の会話、対話がスムースにできない日本人、とくに男性がいくら勉強しても英語で話すことは困難なのです。いゃ、無理なのです。

日本語の会話、対話があまり出来ない典型的な日本の男性はいくら勉強しても結果は同じで、相手と英語で話すことは極めて困難なのです。それとも日本語での会話が下手な人でも英語になるとペラペラ話せるとでも考えているのでしょうか。それ以外にも韓国人、中国人は日本人に比べて男性も含めてうるさいほど話すのです。つまり、自国語でペラペラ話せる人は外国でも話そうとする努力をするのです。

同じ日本人でも、男性と女性を比較してみてください。男性は心の会話はできても言葉での会話は極めて苦手なのです。一般的に女性同士ではよく話す、いやしゃべるのです。漢字で女が三つ一緒になると「姦しい」となるのもうなずけます。外国語の同時通訳者に女性が圧倒的に多いのはそれなりの理由があるのです。それに反して典型的な日本人男性は思っていたことも言葉に表すのが実に下手なのです。家庭内での夫婦の会話をとっても旦那はあまりしゃべりません。心で思っていても言葉で表すことは極めて苦手なのです。そのような男性がいくら英会話を勉強してもとても英語で話せるわけがないのです。

外国語学習、とくに会話能力というのは表現力、必要度の二大要因が大切なのです。島国日本で育って海外に出たこともない人、とくに男性がいくら英会話を勉強しても使い物にならないのです。その逆に会社などで、ある日突然に上司に外国人が来たり、海外出向を命じられると否が応でもその国の言葉、会話力をマスターしなくてはなりません。つまり、必要度は学習能力推進源となるのです。もっとも、それでも「むっつり屋」専門の日本人男性は最低限の発言しかしない、いや出来ないのです。

ではこのような環境をどうすれば改善できるのか。それにはともかく学校教育の中で日本語での会話、対話能力を向上させる機会を作ることです。昔は中学、高校などに弁論部がありましたが、今はどうなのでしょうか。会社でも会議などでの社員の発言能力、もちろん日本語で、を引き上げるような環境作りをすることです。日本の会社内でも会議などで全く発言しない人は軽視されてしまうのです。あるいは、そのような席でぺらぺら自分の意見を披露すると、あいつは口が軽い、と軽蔑されるかもしれないのです。

2013年6月22日 (土)

国語教科書に載った私の投書 「省略語万々歳」

今年2013年の四月からの高等学校の教科書「国語総合」(明治書院、国総318)の中の教材に私の投書文が採用されています。その本文は以下のものです。
なお、この文章は引き続き明治書院の「新高等学校国語総合」、「新精選国語総合現代文編」にも引用されています。
これらの引用個所では私の文章にたいする議論が求められています。その「課題」についてこの文章を読んで疑問に思うこと、さらに筆者の見解に反対する立場から意見を述べてみよう、と討論の話題として取り上げられています。


「最近、省略語が頻繁に新聞紙上に使われるようになっています。就職活動が就活に、婚姻活動が婚活に、など挙げたらきりがないくらいです。このような省略形が広まると本来の表現が忘れられてしまう可能性もあります。さらに日本語を正しく使うという観点からはあまり好ましい現象ではないと思います。それでなくとも若い人たちの日本語の乱れは凄まじいものがあります。もしこのような勢いで省略語が際限なく使われると、禁煙活動が禁活に、文化活動が文活に、文筆活動も文活に、宣伝活動が宣活に、新聞宣伝が新宣に、など際限なく使われてしまう可能性が極めて大きいと思います。新聞はニュースを正しく伝える使命があり、さらに新聞には正しい日本語を維持する社会的貢献が間接的に求められるのではないでしょうか。同じ新聞に格調高い文章があるいっぽう、その反対に社会記事には若者表現が記事の中に散見することにたいして極めて違和感を感じます。昭和一桁生まれの者には面白いかもしれません。しかし、これらの省略形の表現は日本語の乱れとしか受け取れません。少なくとも記者が書かれる新聞記事の中では使われないほうがよいでしょう。」

ともかく、省略語を遊び半分にいろいろと作ることはできます。

例えば、
  トイレットぺイパ-   は トイバ
  総理大臣        は 総大
  ショッピングセンター  は ショッセン

どうですか、皆さんもいろいろ作ってみてください。

2013年4月18日 (木)

あなたは英会話の勉強は諦めたほうがよいかも (***)

あなたは英会話の勉強は諦めたほうがよいかも

 

「授業は英語で行うことを基本とする」という新学習指導要領が、今年度から高校で実施とのことで現場での当惑が報じられています。もしかしたらそのうち小学校、あるいは大学での英語教育も同じようになるのかもしれません。そして最終的には大学の授業はすべて英語にとなるかもしれません。現に一部の大学ではすべての授業を英語でしているとか。

 

でも、どうして日本人はこうも英語に対してコンプレックスを感じているのでしょうか。そこには語学学習、いゃ、正確には外国語習得、の基本を全く理解していないからです。ここであえて語学学習としない理由は、語学としての外国語勉強は文法から始まって、英文学、翻訳技術、会話技術など極めて幅が広いものとの理解から、単に外国語を自由に日常生活のなかで使いこなせるという意味とを区別して外国語学習としています。

 

たしかに、従来の学校での語学教育の目的は、読めること、次いでもし可能であれば書けることに専念していましたので、話すことは忘却の彼方に追いやられていました。往時は日本人が英語で話す機会、あるいは英語で聞かれるような機会は皆無に近かったので、誰も英会話を真剣に習うことは少なかったわけです。戦後間もなくの「カムカム英会話」の流行もいつの間にか消えてしまい何らの成果ももたらさなかったのは実際に英語を話す機会がなかったからです。当時は日本に進駐していたアメリカ人との接触で日常的な会話、例えばHow are you ?くらいのことは言えたかもしれませんが、それ以上には日本人の英会話能力は向上しませんでした。

 

このHow are you ? 会話に関連し逸話があります。日本の森元首相が初めてのアメリカ訪問に際してクリントン大統領との会談に際し、少なくとも初めの挨拶ぐらいは英語でということで、How are you ? とクリントンに言えば、彼はI am fine, and you ?と答えるので、その時にはMe too. と言ってください。それ以降は私たちが通訳しますからと側近に言われ、アメリカに出かけたのですが、いざクリントン大統領に会った時に、Who are you ?と間違って言ってしまい、その時にクリントン大統領が真面目に I am Clinton.と返事したので、森元首相は出発前に教えられたとおりMe too.と答えたとか。こうなるとまるで漫才みたいです。似たような英語に関する笑い話的実話はたくさんあるのです。

 

ある商社の社長が商談で米国に行ったときに、その社長は英語ができないので日本語でスピーチし、部下が訳し、最後の締めくくりくらいは英語で、と思ったのか、その社長がわざわざ英語で「One please」と言って終えたそうですが、その意味がわからなかった部下が後で社長に聞くと、得意げに「きみ、分からんのか。ひとつ、よろしく、だよ」と言ったそうです。まさに森元首相と同じような逸話です。いずれの場合も笑い話の傑作かもしれません。。

 

しかし、今日のような国際社会では海外に出れば少なくとも英語が話せることの必要性が高まっているのはよくわかります。しかし、問題はそのような英語を話さなければならない機会が日本人全体の中で一体どのくらい居るのでしょうか。日本のように島国ではそのような環境は極めて限定されているのです。まさか海外旅行での英会話の必要性のために高校での英語による英語教育が導入されたわけではないのです。そこには理想的な姿、つまり海外に出かけて国際的な活動をするためには最低限英語が話せなければならないとの高尚な理念があるからです。確かにこのような理論はまさに正解なのですが、そこに隠されている重大な欠陥には全く触れていないのが問題なのです。確かに英語で外国人と自由に意見の項が出来ることが大事であることはわかります。

 

しかし、語学というよりは外国語を勉強することは狭義的には何の目的でするのかとの認識が必要です。一般的には外国語を勉強することの根底にあるのはその言葉で相手と話したり、交信したりなど、お互いにコミュニケ-ションが出来ることなのです。

 

なお、繰り返しになりますが、私はここであえて外国語と表現し、語学とは書かないのは知識、教養としての言葉としての語学と、日常会話的に使える実用的な言葉としての外国語とを意識的に区別しているからです。本来ならそのような区分けは無意味なのですが、日本という島国に住んでいる日本人にはあえてそのような微妙な相違を意識したのです。ところが、日本では語学の勉強イコール外国語の勉強と捉え、その結果、英語の授業は英語となるのです。

 

言葉の基本は最初に話せること、ついで読めること、そして最後に書けることが基本原理なので、子供の成長を見ればそのことは明白なのです。幼児が最初に覚えるのは話すことなのです。ですから母国語という表現は文字通り母親から言葉を学ぶからです。この話すということに関して「アメリカの子供はどのようにして英語を話すようになるか」のようなタイトルの本が出版されていましたが、このような本を書くこと自体がナンセンスなのですが、日本では誰もがそのような本に飛びつくのです。

 

従前は日本人の場合にはその逆で読めることから書けることに終わっていたのです。つまり最初の出発点である話せることは完全に無視されていたのです。語学の勉強ならそれでもよかったのですが、外国語の勉強となると今までのような考えでは誰も話せないからです。これに似たような状況は、昔は学校で漢文を習ったので、漢字を使って中国人と筆談することはある程度は可能なのです。もっとも、現在の学校教育には漢文の授業は全くなく、また現在の中国語はかなり省略形が大きくて昔の漢文での筆談はやや困難ですが、それでも、時として理解してもらえるのです。

 

でも、いったい何のために外国語を勉強するのかという基本を考えてみる必要があります。ほとんどの人はこの問いに対して外国人とのコミュニケーションをスムースにするためとの答えが返ってくると思うのです。でも考えてみてください。島国日本で英語で話すような機会が一般の人たちにどれほどあるかということです。おそらく識者は、日本人が海外で活躍するには英語は大事だから若い時から英語、とくに会話能力を身につけることも大切であるとの模範解答が返ってきます。

 

そのほかにも韓国人や中国人のほうがはるかに英語が話せますよ、だから日本人も英会話を一生懸命勉強すべきなのです、との発想から今回の学習指導になったものと考えられます。

 

でも、ちょっと待ってください、日本語の会話、対話が日常的にスムースにできない日本人、とくに男性がいくら勉強しても英語で話すことは困難なのです。日本語の会話、対話があまり出来ない「むっつり屋」の典型的な日本の男性はいくら英会話を勉強しても結果は同じで、相手と英語で話すことは極めて困難、いや無理なのです。それとも日本語での会話が下手で、ほとんど話さないような人でも英語になるとペラペラ話せるとでも考えているのでしょうか。それと対照的なのは、最近の日本で、ケイタイからスマトフォンに進化し、その結果として、しゃべらなくなっているのに気がつきます。まさに、「無言便秘症」に全員がかかっているようです。ですから、数年前とくらべると日本に行くと社会がとたんにしゃべらなくなってきわめて静かになっているのに気がつきます。そこに見られるのはひたすら無言でケイタイ、スマトフォンに向かって短略会話文章を打ち込む日本人、特に若者の増加に気が付くことです。そのような「簡略無言会話」に慣れた「黙々民族」がいくら英語を勉強しても「論理有言会話」を旨とする英語で話をすることは今後ますます不可能になっていくのです。

 

それ以外にも韓国人、中国人は日本人に比べて男性も含めてうるさいほど話すのです。つまり、彼らの自国語でペラペラと普段から話せる人は外国でも話そうとする努力をするのです。このような国民特性を無視して、ただ結果的に韓国人や中国人と比較しても意味がないのです。

 

同じ日本人でも、男性と女性を比較してみてください。日本の男性は心の会話はできても言葉での会話は極めて苦手なのです。一般的に女性同士ではよく話す、いやしゃべるのです。漢字で女が三つ一緒になると「姦しい」となるのもうなずけます。外国語の同時通訳者に女性が圧倒的に多いのはそれなりの理由があるのです。

 

それに反して典型的な日本人男性は思っていたことも言葉に表すのが実に下手なのです。家庭内での夫婦の会話をとっても旦那はあまりしゃべりません。かって言われていたことに、男性の家庭内での会話は「メシ、新聞、風呂」で問題がないと言われていたのです。心で思っていても言葉で表すことは極めて苦手なのです。そのような男性がいくら英会話を勉強してもとても英語で話せるわけがないのです。

 

外国語学習、とくに会話能力というのは表現力、必要度の二大要因が大切なのです。島国日本で育って海外に出たこともない人、とくに男性がいくら英会話を勉強しても使い物にならないのです。その逆に会社などで、ある日突然に上司に外国人が来たり、海外出向を命じられると否が応でもその国の言葉、会話力をマスターしなくてはなりません。つまり、そのような必要度は学習能力推進源となるのです。もっとも、それでも「むっつり屋」専門の日本人男性は最低限の発言しかしない、いや出来ないのです。海外での国際学会などでも日本人男性参加者はまず進んで発言することは皆無なのです。

 

ではこのような環境をどうすれば改善できるのか。それにはともかく学校教育の中で日本語での会話、対話能力を向上させる機会を作ることです。昔は中学、高校などに弁論部がありましたが、今はどうなのでしょうか。一つの対策として、中学校から議論・討論の教科を導入することから始めるのが先決です。

 

会社でも会議などでの社員の発言能力、もちろん日本語会話、対話を引き上げるような環境作りをすることです。日本の会社内でも会議などで全く発言しない人は軽視されてしまうのです。

 

私は高校での英語教育が英語でなされることは反対ではないのですが、現実を眺めればあまり意義がないと考えるのです。たとえ、高校での英語教育の結果、英語で何とか自分の意見を述べることが可能になっても、いったん日本人社会の中に入って日本の社内環境に溶け込むと、日本語で自分意見をペラぺラ発言したら周りから嫌われてしまうことがいまだ残念ながら存在するのです。会社内での会議でも参加者が自由に、気楽に自分の意見を述べることができる環境になっていることが大事なのです。

 

したがって、今回の英語による英語教育を成功させるためには、同時に日本語の対話能力の向上をする時間を高校に設けること、そして最終的には日本の社会全体、少なくとも企業内でも自由に発言、対話が出来るような環境作りが必要なのです。この二点がうまく作動しないと今回の高校での英語を使っての英語教育の最終目的達成は不可能になるのです。

 

ともかく、あなたが男性で、家庭内会話がほとんどゼロである場合には、英会話の勉強をあきらめたほうが良いかもしれません。それでも、英語で外国人と話してみたいとの願望があるのであれば、まず家庭内での会話練習(もちろん日本語で)からしてはどうでしょうか。もし、あなたが奥さんに「愛しているよ」と言えるようになったらあなたの英会話能力は100%向上するでしょう。(o^-^o) もしあなたがいまだ両親のもとで生活しているのなら、毎日、お母さんに「今日の夕飯はとても美味しかったよ」くらいの賛辞がすらすらといえるようになることが大切です。

 

市場にはいろいろな英会話上達の本やシステムの宣伝広告が載っています。確かにそのような教材で英会話が上達することもあります。ところが、新聞広告などの宣伝に、「この方法で英語がかなり聞き取れるようになった」との使用者のコメントが列記されています。しかし、英会話がかなり楽に聞き取れるようになったからといって、では話すのも全く問題ないかというとそうではないのです。つまり、相手の言うことを聞き取れるからといって、すなわち自分もペラペラと話せるようになるわけではないのです。しかも、繰り返しになりますが、たとえ相手の言っていることがかなり理解できても、それイコ-ル自分からも同じように相手に話しかけることが出来るとはならないのです。勿論そのような広告に書かれてあることが嘘だとは言いませんが、全般的には眉唾物と考えることです。特に男性にとってはそのような宣伝文は通じないのです。もしあなたが男性でどうしても英会話力を身に着けたいと思うのなら、まず日本語で毎日最低十分間連続して一人で話すことを練習してください。これが出来なければ落第ですよ。

 

毎日のように新聞広告に英会話の教材の宣伝が載っていて、「ただ聞くだけ、耳から覚える英会話」「えっ、気が付いたら自分の口から英語が出てきた」などの広告がありますが、確かに一部の人にはそのような成果が現れることはありますが、すべての人がそのようになるわけではないのです。「聞き取れる」ことと「話すこと」とは必ずしも同じではないのです。そのような宣伝に登場するのは多くの場合、女性であるのも肯けるのです。実はこのことは極めて重要なのです。女性は男性と比較したら話すのが好きなのです。しかし、この種の広告が毎日のように新聞に見られるのですが、そこに登場する人のほとんどが女性であることに男性は気が付かないのです。。

 

とくに問題なのは、仮にそのような宣伝のように、相手の言っていることがかなり理解できるようになっても日常生活の場の中で誰と英語で話す機会がありますか ??。いったい、誰と英語で話すことが出来るのですか。そんな必要性はどのくらいの頻度であるのでしょうか。まさか夢の中で話すことがあるのでしょうか。

 

これは私の経験から皆さんに確実にお伝えすることが出来るのです。ですから、どうしても英会話能力を向上したいと願うのならば、学習と同時に自分の片言の英語でも会話出来る相手を探すことも必要なのです。ところが、これが一番難しいのです。

 

つまり、英会話を勉強する目的が明瞭でないとなかなか進歩はしません。いくら英語での会話が理解できるようになっても、実際にそれを使う機会が殆ど無いような島国日本では英会話の上達を期待することは無理があるのです。例えて言うならば、いくら料理の学校に行って料理の作り方を学んできても、食べてくれる人がいなければ料理をつくる意味が無いのと似たような状態なのです。

 

追加(2014 Aug)
いつも新聞広告に現れる英会話の本の新聞広告の著者はほとんどが女性なのです。しかもその広告の中に必ずといってよいくらい簡単な英文が記載されていますが、そのような表現はまず日常会話には必要ないのですが、例えば、I am over the moonが書かれてありますが、このような表現は知らなくとも全く問題が無いのですが、あたかもそのような表現を知らない人にもこの本ではすぐに言えるようになる錯覚を起こさせるのです。この表現の意味は「天にも昇る気持ちです」だそうです。現実にこのような表現を日常生活の中で使う可能性がどれほどあるのでしょうか。まったく笑っちゃいます。こんな表現は自分の奥さんにも言えませんよ。

 

追加(2015 April)
ともかく毎日のように新聞広告にでかでかと英語をいかに簡単に話すことが出来るとの宣伝が載っています。でも考えたら、もし本当にそのような広告に載っている講座、方法などで誰もが簡単に英語の会話がすらすら話せるようになるのなら、ひとつの方法ですべての人が簡単に英語を話せるようになる筈なのですが、現実にはその逆であるので、このようないろいろな宣伝が毎日のように載っているのです。しかも、それぞれが異なった業者のものなのです。いったい、日本にはいくつくらいのそのような簡単英会話方法があるのでしょうか。まさか皆さんそれらのいろいろな方法を試しているのではないでしょうね。毎日のように英会話に関する本の宣伝が載っていますが、いっちたい今までに何百冊の英会話関連の本が出版されているのでしょうか。もし本当に誰でも簡単に英会話を習得することできる方法が一つでもあればそれで済むのですが、現実はそんなに簡単ではなく、多くの人がそのような本を毎回購入して試してみても現実には英会話がペラペラになることはほとんど皆無なのです。

 

たとえば、「あなたは逆さ上がり」を英語でいえますか、との宣伝文がありますが、そんな表現は全く知らなくとも問題は無いのですが、あたかもそのような表現を英語で言えないのはあなたの英語力が弱いので、この本をぜひお読みくださいとの趣旨なのです。しかし、普通の人の多くはなるほどそうかな、と考えてそのような本とか講座に飛びつくのです。

 

そのほかにも「四字熟語を英語で言えますか」との本が30万部突破と、宣伝されていて、その例として「宇宙遊泳」とか「物見遊山」を英語で言えますか。このような本自体が出版され、おおくのひとが買っているようですか、このような表現なんか知らなくとも日常の英語会話には必要はないのです。しかし、こんな簡単なことが英語コンプレックスの人には新鮮味を感じるのかもしれませんね。なお、本の宣伝で読者が惑わされるのはその発行部数のことです。新聞広告には「突破」とか「増刷」とかが書いてありますが、「完売」とは書かれていないのです。

 

本の流通は出版社から各書店に一定数が送られますが、ある一定の期間が過ぎると売れなかったものは出版社に戻されるのが普通なのです。そのような環境では実際に売れた数は読者は知らないのです。新聞広告などに現れる書籍の販売経路は書店ですが、まずは書店に並べられ、売れ残りは返本の憂き目にあいます。広告で謳われる部数はあくまで印刷部数(流通部数)で、実売部数とは異なります。極端な例では、30万部増刷して、20万部返本・断裁となる場合もあるかもしれません。

 

ともかく毎日のように新聞広告に英会話上達のの秘伝のようか公告が載っています。このことは女性用の化粧品と似たようなもので、本来化粧品を必要としないきれいな人がモデルに現れて、この化粧品を使えばこんなにきれいになりますよ、との宣伝と似たようなものなのです。英会話の宣伝もそれに似たようなもので、そこに登場する「成功者」の声は99%が女性なのです。たとえば゜「夫にスゴイと言われた」のような広告文が大きく載っているのです。それはそうでしょう、一般的には女性は話し好きが性格なのです。

 

ともかく、英語を話すときに、まず日本語を考えてそれを頭の中で英語にどのように翻訳できるかを考えている段階では英会話は進歩しなせん。従って、どうしても英会話を習得したいと考えるのなら、
1) ともかく日本語を考えずに英会話のようなテキストの発音を毎日何回となく、聞くことです。
2) そのような場合には日本語を忘れる努力をすることです。
3) 片言の英語でも話せるような機会を探すことです。これは日本では意外と難しいかもしれませんが、そのような努力なしでは英会話は進歩しません。

 

2013年3月18日 (月)

小学校のズル休みは罰金の対象。スイスの例

小学校のズル休みは罰金の対象。スイスの例

小学校の生徒が学期中に両親の都合で学校に行かないことがあります。例えば学期が始まる直前とか、学期が終わる直前に一日か二日ほど早めに休暇に子供を連れて行くことが起こりえます。とくに旅行の日程によってはどうしても学期開始前後に休みをとりたい場合も考えられます。

欧州などではバカンスが一斉に始まる期日が明確なので、ホテルなどの予約の都合上必ずしも学期の始まり、終わりにあわせて旅行に出発することができないこともあります。そのようなとき、日本の小学校ではそれらの小学生の休みをどのように扱うのでしょうか。ただ単に前もって学校に届けていれば問題ないのではないでしょうか。

ところが、最近知ったのですが、スイスの小学校ではそのような両親の都合による病休以外の休暇は一年を通じて二日だけが許されていて、それ以上の臨時休暇をとることはできないのです。もし、三日ないしそれ以上の許容範囲外の休暇をとると罰金が科せられ、しかもその罰金は両親の収入に応じた額になるのです。それでも最低の罰金が二万円相当になるのです。

考えてみれば義務教育期間中にその義務を両親の都合により放棄することになるので罰金が科せられると理解することはできますが、それにしても厳しいです。もし、このような制度を日本に導入したら直ちにPTAから抗議が出るかもしれません。

2012年1月31日 (火)

右利きのための社内書類

右利きのための社内書類

世の中には右利きの人と左利きの人がいますが、ほとんどの人が右利きであるためにほとんどの製品、道具などはすべて右利きの人が考え、作られています。例外として左利きの人のためのものも作られていますが、極めて例外です。例えば冷蔵庫には左開きのものを注文することはできます。

私がいつも思うのは社内などの書類、それも頁数が多いものはコピーの都合もあって片面コピーがほとんどで、場合によってはそれを綴じたり、ファイルにすることもありますが、そのようなときには例外なしに用紙の左側に穴をあけそこを綴じて、いわゆる左綴じ書類になります。そうなると印刷されてある部分は当然のことながら開き頁の右側になり、左側はなにも印刷されていない空白の部分になります。このような冊子がごく当たり前で、どうしてそうなっているのかと考える人は誰もいません。

確かに、このような綴じ方の書類はただ読むだけの場合には右利きの人には極めて当たり前で、また読むのにも楽です。もっとも、このような場合には左利きの人もあまり不便を感じないはずです。

しかし、これが講義とか会議の書類、あるいはセミナーテキストとなると話は全く別になるのです。つまり、従来の左綴じの場合、なにかメモや感想、考えなどを書きとめようと思ったとき、すこし余白が必要となる場合にはどうしても開き頁の左側の空白の部分に書き入れることになります。ところが、右利きの人が開き頁の余白がある左側の頁に書き込みをすることは極めて不便なのです。でもこのことは誰も不便とは感じないのはこれまた不思議なことです。この場合、左利きの人は左手で左側の空白の部分に容易に書き入れることが出来るのです。ともかく実際に試してみてください。

そこで私はセミナーなどのテキストを作るときには印刷部分を左に持ってきて、右側は空白にしたものを作っています。そうすることにより、セミナー参加者の99%はメモなどをセミナーの最中に記入するときに右側の空白の頁に極めて楽に書けるのです。こんな簡単な操作を今まで誰も気が付かないということは、そのような綴じ書類、テキストを作る人は実際にそれらを使う人の立場になってものを作っていないからです。

もっとも、そのような右利きの人のための綴じ書類、テキストを作ると逆に左利きの人にとっては不便になりますので、配布数にもよりますが、左利きの人のために数部は従来通りの綴じ方のものを準備することです。

でもどうしてこのような簡単な発想を誰も持たないのでしょうか、不思議でなりません。みなさんも、一度身の回りのいろいろものをこのような観点から注意して観察してみてください。つまり、「どうしてこうなっているのだろうか」と絶えず考えることです。

2011年9月10日 (土)

くすり教育学会の設立

くすり教育学会の設立

最近の新聞報道によると原発汚染の福島で放射能についての学生の関心が高まり、日本環境教育学会の協力で、放射能についての勉強が学校に導入されるようになっているとのことです。もっとも、そのほかにも日本エネルギ-環境教育学会と紛らわしい名前の学会もありますがその目的は多少異なるようです。

それと似たような発想で、日本くすり教育学会を設立してはどうでしょうか。最近では小学校、中学校での「くすり教育」がすこしずつ導入されつつありますが、なかなか十分な進展が見られません。小さい時から薬の本質、薬害などの教育を受けていれば薬に対する考え方も違ってくるかも知れません。2008年3月に改訂された中学校の学習指導要領では、「医薬品の正しい使い方教育」が盛り込まれ、やっと2012年度から保健体育の中での授業で行われるとのことです。

医薬品治療に際し、患者指向の医療とか患者の医療への参加とか患者による副作用の報告などが話題になるような状況はまさに学生の時からのくすり教育の重要性を認めることになります。

一般社会では、薬を理解して正しく使うことが求められてきてはいるが、義務教育の中で「医薬品の正しい使い方」の授業が実施されるのは今回が初めての試みとなる。このように最近では患者と医薬品との関連性に関してのいろいろな動きが見られますが、一般レベルでの薬に関する知識はいまだかなり低いことです。自分が服用している薬のことに全く、関心、理解が無く、それぞれの薬がどのような目的で処方されているのかは全く知ろうともしない人も多いのです。場合によっては錠剤が極めて小さいので、効き目も弱いと考える人もいるくらいです。このような一般的な傾向を知ったら、とても患者から直接に薬の副作用報告を期待すること自体に無理があります。

一般社会では、薬を理解して正しく使うことが求められてはいるものの、義務教育の中で「医薬品の正しい使い方」の授業が実施されるのはこれが初めての試みとなります。現在でも一部の地区では小学校でもくすり教育が自発的に行われています。たとえば大阪府薬剤師会では、07年度から大阪市内の小学6年生を対象に、学校薬剤師が「おくすり講座」を実施している。小学校での医薬品に関する指導は学習指導要領に盛り込まれていないものの、教育委員会や校長会の了承を取り付けて開かれている。また、高校の学習指導要領には既に「薬の適正使用」が盛り込まれているため、講座は小・中・高と継続したくすり教育を目的としている。この講座は、初年度は14校のみの開催だったが、現在では大阪市内297校のうち230校にまで増加している。

したがって、現在の任意で、しかも関心がある場合に限られた学校での薬教育が近い将来すべての学校で義務的に推進されるようになれば、くすり教育学会の設立も必要になるのではないか。

このような学校でのくすり教育は行政の立場からではなく、実際の医療の現場、また各家庭の実情をも加味した教育にするためにも「日本くすり教育学会」のような三者的な立場からの意見も吸い上げるようなことも大切になります。