カテゴリー「社会問題」の記事

2021年9月29日 (水)

養子縁組の後遺症

日本では里親制度と言うのはあまりなじみが無いのではないでしょうか。それだけにそのような環境を進んで運営されている広瀬タカ子さんの熱意には頭が下がります。
このような里親として幼い子供たちを育て上げて社会に送り出すことは大変なことなのですが、その解決方法の一つに養子という方法があるのです。でも、日本では養子として第三者の子供を引き受けて、育てるという概念はあまりないのではないでしょうか。

 

この養子という制度は欧州では比較的問題なく存在しているのですが、養子に出され、養父母の暖かい家庭に育てられ、独り立ちできるようになることは決して珍しいことではないのですが、そのような人たちの心理に、ある年齢に達すると実の母、父への想いが高まることがあるのです。そのような場合、養子に出されたときの状況などは殆ど知ることが困難な場合があり、また実の母親も父親などを探し出すことは意外に困難を伴うことが多いのです。

 

このようなことに関連して、現在ドイツのテレビ放送局がそのような状況にある人からの依頼を受けて実の母親、父親、場合によっては自身の姉弟を探すことに手をかして、実際に自身の過去を知ることが出来るように努力している番組があるのです。最終的には最終目的が達成され、涙の再会、抱擁のシ-ンで終わるのです。そのようなドキュメンタリを見ていても涙が自然に出てくるのです。

 

このような番組がドイツのテレビ局がなされていることはまさに意外なのですが、そのような番組構成にはかなりの費用が掛かるのです。特にドイツなどでは戦後の東西政権の統一後の社会、駐在アメリカ人兵士との間に生まれ、家族状況の破綻などから養子に出された人たちなどからの希望から、テレビ局の担当者が世界中に調査目的で出かけているのです。ともかく、そのような肉親捜しの要望がドイツには未だにかなり存在するのです。ともかく、この番組の担当者がそれぞれの要望者から過去のデタを入手して、世界各地に飛んでいき、探し出すという広大なプログラムなのです。ドイツから南米やアフリカ、時としては中國、日本にまで飛んで行き、現地の通訳者と一緒に探すのです。

 

このような番組がドイツの放送局によって支援されていること自体、まさに驚きなのですが、果たしてこのような番組は日本の放送局が出来るのでしょうか。もっとも、現在、Youtubeで見られるのはコロビ蔓延以前のものなのですが、現在は中止ないし延期されているようです。

 

なお、上述のドイツのテレビ番組はyoutubeで問題なく観られろのですが、たとえドイツ語が分からなくともかなり理解できると思うのです。
現在、Youtubeで見られる番組は以下の二つがあります。


Vermisst
Julia, bitte melde dich

2021年6月14日 (月)

法文の解釈の問題点

「同性婚裁判判決と重国籍裁判判決について思うこと」

3/17日に札幌地裁での同性婚に関する判決があり、「同性婚認めぬのは違憲」とありました。この判決の骨子の中で述べられている、「同性愛者が結婚による法的効果の一部ですら受けられないのは合理性的根拠を欠き、法の下での平等を決めた憲法14条に違反」、「同性愛者と異性愛者は法的利益を等しく享有しうる」との判断の二点は極めて企画的、合理的な解釈ではないだろうか。つまり、憲法での条文にある「婚姻は両性の合意」の解釈では「両性」とは男女を想起させる表現を用いているものとの固定的、古典的な一般的な判断がされているが、異性間との婚姻との差に関しては「根拠を欠く差別」と判断されていることである。この判決に関連して、憲法学者による「憲法にある両性の合意という言葉は、結婚は家長の同意が必要だった戦前の家制度を想定するものであり、同性カップルへの法的保護を否定するものではない」との説明は時代感覚をまさに正しく反映しているものではないだろうか。

この判決、「同性婚を認めないのは違憲」との判断が札幌の地裁で判断されていることに関連して、1/21日に東京地裁での「重国籍は認めらず、憲法違反ではない」との判決を想い出さざるを得ないのです。東京地裁での判決には「憲法11条の「自己の志望によって外国の国籍を取得した時は日本の国籍を失う」の条文は国籍を維持する権利までは保証しているのではなく、重国籍を持つことは外交上の保護や納税を巡る混乱を防ぐために重国籍を認めない、と判決文の中に明記 されていたのです。

しかし、この重国籍を認めないという事項設定の背景は明治時代の「棄民」政策、つまり海外に出かけるのは自由だが、国を捨てて海外に移住する国民には日本政府はなんらの保護を行使しないという棄民思想が根底にあったのです。その概念は今日まで連綿として維持されており、その典型例としては日本の旅券の最初の頁にもそのことが明記されているのです。

つまり、海外で日本の国民が事故とか、なんらかの問題が生じた時などに遭遇した時は基本的には外国の政府にその援助を依頼しているので、判決に謳われている「外交上の保護」は空文そのものなのです。最悪なのは「納税を巡る混乱」の記述なのです。納税は国籍とは全く関係なく居住国での義務であることは常識なのです。このような識者としては全く考えられない事項を判決文の中に堂々と正規していることは通常の裁判官の判断とはとても考えられないのです。もし、そのようなことが問題になるのら埼玉県民が東京で働いて収入を得ている場合には所得税は埼玉県ではなく東京都に払うべきです、いったら一笑に付されます。

さらに問題なのは憲法記載の「自己の志望での外国籍の取得」の解釈は海外での外国籍取得の現実的背景を全く無視しているのです。つまり、強調すべきことは、海外での外国籍取得の行為は「自己の志望」ではなく、海外での活動上、「止むをえずの取得」なのです。その典型例は海外で活躍している数多くの(元)日本人ノ―ベル賞受賞者があります。ちなみに、外国籍取得のみを念頭に海外に居住、移住する人は一人もいないのです。

更にこの両者の裁判で認識すべきことは、同性婚と同じように重国籍をも認めていないのは世界の主要国のなかで日本だけであるのです。つまり、換言すると、同性婚や重国籍に関する否定概念は時代変化への順応性が欠如していることにもなるのです。結果的には、札幌地裁と東京地裁との間には憲法条文の解釈にも大きな違いがあり、札幌地裁での判決は極めて柔軟性があり、時代の変化をも反映させているのですが、東京地裁の判決には古色蒼然とした古典的解釈に従っているものと解釈できるのではないだろうか。

更に、この両者の判決で極点な判断、概念の違いは、同性婚判決では憲法記述の「両性」の解釈には直接触れず、結婚と言う人間的な側面行為から「同性婚を認めるべき」との判断なのですが、重国籍容認判決では憲法記載の「自己の希望」という表現をかたくなに解釈、理解しての判断であることなのです。

また、この二つの異なった対照的な判決で考えられるのは、地裁の裁判官も人間である以上、ものの考え方にそれぞれの特性、人間性が大きく関与されるのは当然のことであり、ちょうど、昔の人間と現代の若者との間にはそれぞれの判断や行動には大きな差があるのは当然のことであり、更に、どの地域、時代に育ったのかと言う観点からの判断にもある程度の差があるのは自然のことなのです。このような観点に立って、同性婚に関する判決と重国籍容認に関する判決との間にも、そのような裁判官の人間性が関与していることは否定できないのではないだろうか。つまり、東京と札幌との地域的環境も裁判に際しての格差が感じられるのです。なお、同性婚裁判は札幌以外でも東京をはじめとして四地裁でも現在進行中とのことですが、果たして札幌地裁のような合理的、人間的な判決がされるのだろうか。札幌の裁判では原告本人への尋問があったが、東京地裁での裁判にはその予定がない、と報道されていますが、その結果はどうなるのでしょうか。

ただひとつだけ同性婚と重国籍との問題についての違いは、前者は主として日本国内の日本人での問題であり、後者は海外在住の日本人の問題になっているので、裁判官をはじめ、政治家や国民の判断、反応にはかなりの格差があるのかもしれません。例えば、重国籍容認に関しては日本国内ではかなりの拒否感が強いのですが、そのような嫌悪感を持つ人たちの根底に在るのは、重国籍を認めたら中国人が大挙して日本に移住、帰化して日本の国籍を取得したら大変なことになるとの極論、つまり帰化という概念が介在するのです。つまり、本来の日本人の国籍維持という理念とは全くかけ離れた帰化の結果としての重国籍の可能性とを一緒にしているのです。しかしながらそのような端的な理解をしている人たちには中国人により日本の土地や家屋などが中国人にどんどん買われている現実には全く関心がないのです。

本来の日本人は日本人としての血統を持っていることが重要で、日本の国籍は血統主義を基盤にしているので、単なる外国籍取得という書類上の規定で、日本人としての血統を消すことは不可能なのです。

いずれにしても、裁判と言う公正な判断が求められている状況のなかで、いろいろな要因に影響されて、それぞれの条文解釈判断基準が異なること自体が問題ではないでしょうか。

2021年3月25日 (木)

政治家が学ぶべき「侍の心構え」

侍の心構えと政治家倫理

最近の安倍元首相、菅首相などをはじめとする日本の政治家、官僚のいいかげんな発言,公言、最悪なのはコロビ・バンデミ真っ最中に国民にはレストラインなどへの食事を制限しているにも関わらず、自分たちは高級レストランでの会食を平気でしている有様が、新聞に報道されていますが、いったい日本の政治家、官僚は何を考えているのでしょうか。

そこで私が不と考えたのは昔から言い伝えられている「侍の心構え」の中に「武士に二言はない」、「武士は食わねど爪楊枝」の二つを思い出したのです。

古くから言われているこの侍の心構え、つまり「武士に二言はない」、そして二番目の「武士は食わねど爪楊枝」をぜひ日本の政治家や官僚に認識してほしいのです。

しかし、このような高尚な心構えは現在の日本の政治達には皆目見当たらないようです。答弁とか回答などで、何回も前言を訂正したり、ウソを何回となく言ったりして平気でいられることなのです。また、会議ての議論の代わりに公式にはコロナ対策としてのレストランなどの制限に反して、夜になると自分たちの行きつけの高級レストランでの豪華な会食をすることに専念することが平気でなされ、それが露見すると誤れば済むことなのです。つまり、古来から言われている武士の心構えは、現代風に書き直すと「武士は何言でもできる」「武士は高級レストランに行って初めて爪楊枝」となるのかもしれません。


しかし、このような古い例えを持ち出しても、今時、侍の世界なんてあり得ませんよ、との反論が政治家達から返ってくるかもしれません。もっとも、このような古典的な武士の心構え自身が多くの日本人は忘れているのかもしれません。まことに残念なことです。

2019年3月 9日 (土)

国籍法11条の理解と解釈

  
国籍法11条の理解と解釈
  法律の解釈には二通りあり、「理解」と「解釈」とがあり、両者の間には微妙な違いがあるのです。
  理解とは文字通り、そこに記述されてある事実をそのまま判断することであり、例えば「1+1 = 2」になるのですが、解釈となると必ずしもそうはならず、その典型的な例としては“法律的な“解釈なのです。法律の解釈は必ずしも「常識的」な理解とは限らず、かなり広範囲な対象をも含むことがあるからです。その典型として「自己の志望」という表現の解釈なのです。
  国籍法11条には「日本国民は自己の志望によって外国籍を取得したときには日本の国籍を失う」と記述されているのですが、この条文をそのまま理解する以外にも、状況とか環境などの介入によって文字通りだけの理解には終わらないことがあるのです。そのほかにも「・・・日本の国籍を失う」の解釈なのですか、その行為そのものの施行方法が全く記載されていないので、当然の結果として、つまり「自動的に」とも解釈されるのです。
➀ ある一時期には外務省とか海外公館の説明にはこの条文が「・・・・外国籍を取得した時は日本の国籍を“自動的に“失う」と意図的に「自動的」という表現を付加していたのですが、最近(ここ数年に)ではこの「自動的に」という語句が使われなくなっている傾向があります。これは当然のことであり、国籍の自動的喪失などはありえず、それなりの外国籍取得事実の確認、国籍喪失届の提出、最終的には該当者の戸籍の抹殺のような一連の行為がすべて完了して初めて日本の国籍が無くなるのです。
  しかしながら、最近の海外公館のホ-ムペイジにはこの条文の解釈、表現に微妙な違いがみられるのです。つまり、この条文の「・・・日本の国籍を失う」という語句がこの表現以外にも「日本の国籍を失います」「日本の国籍を失うこととされています」などと記述され、微妙な違いがあるのですが、なぜなのでしょうか。
  例えば、「・・・記録を失います」「・・・記録を失う」、そして「・・・記録を失うとされています」の三通りの解釈に関しては、それぞれに微妙な違いを考えてみました。
「失います」には事実を端的に表示し、その可能性をも含んでいて、記録を失う可能性もあるから気を付けてください、のような遠回し的な表現でもあり、次の「失う」は事実そのものを端的に表明しているのです。そして最後の「失うとされています」はその可能性をも暗黙的に意図しているのですが、失うことがない場合もありますよ、との意味にも捉えられるのです。
しかし、国籍法11条の場合には外国籍を取得した場合の「失います」は文字通り、結果としての事実を表現しているので、ある意味では「自動的に失う」と確定的になるのかもしれません。このような解釈すると一部の海外公館が「失うとされています」の表現は正しくないのですが・・・。
ちなみに海外の公館の表示の一部を以下に転載します。
ドイツ
外国に帰化した場合等、自分の意思で外国国籍を取得した場合、自動的に日本国籍を失います。
スイス
外国に帰化した場合等、自分の意思で外国国籍を取得した場合、自動的に日本国籍を失うとされています。
英国
自動的に日本国籍を失うとされています
カナダ
自己の志望により外国の国籍を取得したときには、日本国籍を失うこととなりますので、御注意下さい
オストラリア
日本国籍の喪失と国籍の選択
 日本人がオーストラリア国籍(市民権)を取得した場合の日本国籍の取り扱いと国籍の選択について説明を掲載致しますので、ご参考にして下さい。  特に、これからオーストラリア国籍(市民権)を取得しようとしている方は、日本の国籍を喪失することがありますので、慎重にご検討下さい。
しかし、このような表現の微妙な違いを正面から考えると、13条に「外国の国籍を有する日本国民は、法務大臣に届けることによって、日本の国籍を離脱することができる」の条文の解釈も、「・・・届けなければ、日本の国籍を離脱することは出来ない」、つまり、届けなくともいいですよ、との暗黙の可能性があるとも考えられるのではないでしょうか。すなわち、「届けなければ、日本の国籍を維持することが出来る」とも解釈されるかもしれないのです。そうなると、届が重要であることになり、11条の「自動的喪失」は間違いになるのではないだろうか。しかも、13条には「前項の規定に届をした者は、その届出の時に日本の国籍を失う」と明記されているので、11条の解釈には「失うことになります」が正しく、「自動的」は全くの間違いになるのです。
② 日本人女性が外国人と結婚した場合、往時には国によっては自動的にその外国人の国籍を授与されることがあったのですが、不思議なことにこの場合には国籍法11条は適用されておらず、対象外であるのです。しかし、結婚という事実は当然のことながら本人の意思であり、文字通り「自己の志望」に該当するのですが、不思議なことにこのような場合には国籍法11条は該当していないとされていたのです。なお、最近では多くの国では結婚による同時、かつ自動的にその国の国籍が与えられることは無くなりつつありますが、いまだにそのような制度がある国は少ないながらも存在するのです。例えば、アフガニスタン、イラン、エチオピア、などが自動的にそれらの国の国籍が与えられています。
なお、20才以前に外国籍を得ている場合には 22才になるまでに国籍選択届を、また 20才以降に外国籍を得た場合には2年以内に国籍選択届を出すことが求められています。理論的には国籍選択届を期限までに提出していないと法務大臣から選択の届を出すように求められ、また該当者との連絡が取れない場合にはその旨、官報に記載され、それから一か月以内に届が出されなければ日本の国籍が失われる、となっています。
しかし、この場合に問題となるのは海外で国際結婚をし、自動的に該当国の国籍を与えられていて、それ以降には日本の旅券を使わなければ、国籍選択届をだすことが必ずしも実施されていないことです。例えば、かなり以前(確か1992年まで)にはスイスでも日本人女性がスイス人と結婚した時には自動的にスイスの国籍が与えられていて、当時にはかなりの日本人女性が日本とスイスの国籍を持っていたのですが、それ以降に日本の旅券を使わなければ国籍喪失届の提出を求められなくなっているのです。もっとも、最近ではそのような日本人女性が日本の旅券の更新に領事館に行くと、更新が拒否されることと「なっている」のです。しかし、13条の国籍の喪失にかんする条文には法務大臣に国籍喪失の届を出さなければ日本の国籍を失われないと解釈できるので、海外で国際結婚をしていた人たちの間に未だに外国籍と日本の国籍を維持している人たちはかなりの数に上るのですが、そのような実態を調査しようとの発想は法務省、外務省にもないのです。理論的には今までに海外で旅券の更新をしていた人たちを対象にして旅券の有効期限が切れている人たちのデタを基に、現在そのような人たちが何処に居住しているかを調査すれば、二重国籍者の実態が明確になるのですが、そのような発想は誰も持っていないのです。もし、正式に、例えば法廷とか議会で、日本は現在の法律では二重国籍を認めていないのですが、現実にそのようなひ二重国者の存在についてなぜ積極的に調査をしないのでしょうか、と詰問した時の政府の返答はどの様になるのでしょうか。
③ 日本で外国人と結婚した日本人が日本で生活しているときに生まれた子供はどちらかの両親(特に父親)が日本人であれば、心理的に日本での出生届を出して日本人になるのが普通なのですが、そのような場合、外国籍を維持しているどちらかの両親(特に母親)が、心理的に自分の子供も自分と同じ国籍を持たせたいと考えるのは当然のことなのですが、そのような場合にその子供の外国籍取得を日本にある該当国の領事館に届を出したときに、この国籍法11条に該当するとして日本の国籍が失われしまう場合があるのです。その原因は日本にある該当外国領事館が日本の法務局に該当国の国籍を与えた旨の通知を自発的にしている場合があるからなのです。
従って、そのような通知を日本国内の法務担当事務所が受け取れば当然のことながら国籍法11条に該当する者として扱われ、日本の国籍が「自動的に」失われ、事情によってはその子供が日本に不法滞在している外国人として扱われ、一時的に拘束、隔離されてしまう実例があるのです。これに関連した家族が日本の国籍の復帰を求めた民事訴訟がありましたが、結果的には敗訴となっています。それは当然で、現在の国籍法11条が厳存する限り敗訴になるのは当然のことなのです。この場合には「自己の志望」が自動的にそのような子供にも"間接的に"認められていることになるのです。
これと似たようなことは海外でも起こり得ることであり、例えば海外在留の日本人が何らかの事情で該当国の国籍を取得した場合には、その該当国の担当者がその該当国にある日本領事館に通知をする場合もあるのです。
このように法律の解釈にはかなりの柔軟性が往々にしてあるのです。
つまり、法律の中の文章と言うものは時として意図的に曖昧性のある文章となっていることがあるのです。例えば、最近の新聞に外国人労働力の問題に関して彼らの永住権や国籍に関しての論説が載っていましたが、その中で国籍法が1899年に起草されたときの憲法学者の穂積陳重と言う人が帰化条件に「素行が善良」であること、と意図的に意味曖昧に書かれていたとのことなのです。もしこれを「一定の条件を具備して居りまする者は許可する」と書くと政府が自由に許可できなくなるので、「品行」のような「量り定めることが出来なくなる」要件を入れ、グレ-ゾ-ンを入れたのだとされいるとのことです。(第13回帝国議会衆議院「国籍法案審査特別委員会速記録」第一号 ) このような曖昧さを意図的に条文化することは特別に目新しいことではないようです。
つまり、現在の国籍法を詳細に検討するとそれぞれの条文の解釈にも極めて曖昧な記述、或いは解釈が可能な記述が散見されるのです。このことはもし、国籍法に関連しての訴訟が行われても、その国籍法の解釈はどの様にも解釈できるという可能性を示唆していることにもなるのです。その典型例は前述のように国籍法11条が適用されて日本の国籍が失われた国際結婚家族が日本の国籍復帰の訴訟を日本で起こしたのですが、敗訴している場合です。現在の11条の条文が存在する限り、「自己の志望」の解釈はどのようにもなるのです。つまり、該当者が子供の場合でも親がその行為を代行することは当たり前だからです。
このように、国籍法11条に記載されている「自己の志望」の解釈ですが、外国人と結婚するという行為は「自己の志望」によるものなのですが、その結果として当然のことながらその居住国の法律により場合によっては外国籍も自動的に取得されることがある(或いは、あった)のです。しかし、この場合の外国籍取得は国籍法の一般的な解釈では「自己の志望での外国籍取得」には該当しないとの認識が国内の法律の識者にはあり、その取扱いが異なるのです。この国籍法11条の概念が初めて国籍法として導入された1898年に当時にこの条文起草に関与してた憲法学者の同条起草概念が以下のように述べられています。「自己の意志を以て日本を離れて外国の国籍に入る者は強いてこれを日本人と為し置くも亳も日本に益なきのみならず国籍の積極的衝突を生ずる障害あり」とされていたのです。(民法修正案理由書附法令修正案国籍法案不動産登記法各理由書66-67頁,1989) つまり、当時の概念としては日本から出て行く国民をわざわざ日本人とみなす必要性はない、と解釈、理解されていたのです。 その当時は海外で外国人と結婚したり、自ら海外に出かけて外国籍を取得するなどの行為は当然の結果として日本人にはあらず、と解釈されていたのです。
このような議論は識者の法律解釈と法廷での解釈とではおそらく異なるのかしれません。いずれにしても、その解釈には柔軟性があり、もし外国人と結婚した時に自動的にその外国籍が与えられることは知りませんでした、と主張することは出来ないはずなのです。しかし、そのような外国の法律があることは知りませんでした、という解釈から現在の国籍法では外国人と結婚した場合の該当国の国籍取得の解釈は11条には該当しないとも解釈可能なのです。しかし、国籍法11条該当者が外国籍を取得すると自動的に日本の国籍法の規定に基づき、自動的に日本の国籍を失うという法律があるのを知りませんでした、とは主張できないのです。つまり、片や外国の国籍関連法律を知らなくて結婚した場合は自己の志望で外国籍を取得したことにはならないが、一方結婚以外の行為で外国籍を取得した場合には、日本の法律に従うと違反になるという事なのです。そうなると滞在国の法律に関しては「知らなかった」が容認され(結婚という行為による自動的国籍授与)、その反面、日本の法律の場合には「知らなかった」は通用しないということになるのですが、果たしてこのような理解の相違が法廷で認められるのでしょうか。
似たような条文解釈のあいまいさの例として同性婚が憲法違反にはならないと一部の憲法学者が解釈しているのです。結婚の定義、概念は何ですかと聞く人はおそらく誰もいないと思います、つまり男女がその対象であるとほとんどの日本人は考えている筈です。それが常識なのです。ところが、最近の同性婚の認容に関して、いろいろと議論されるようになり、世界的な傾向としてはこの同性婚は多くの先進国でも認容されつつあるのが現実です。しかし、日本の憲法では「両性の合意の下で」、とその24条には明記されているのです。ところが最近の同性婚の社会的認容に伴って、この「両性」の意味は必ずしも男女を意味しないと一部の識者が唱えはじめているのです。つまり、「両性」は二つの性と理解され男女の区別を必ずしも意味してるわけではないと解釈できるとのことです。その論理的根拠の背景には「憲法で想定されていないことは憲法で禁じられていることを意味するわけではない」とする説が有力であるとのことです。つまり、「両性」は男女でもあり、男男でもあり、又は女女でもあり得るとのことなのです。同性婚問題が表面化されていなかった時代にはこの両性は当然のことながら男女を意味しているものとの解釈は常識であったのですが、近年に表面化され始めた同性婚が社会的にも容認され始めると、この「両性」の解釈が拡大され始めたことになるのです。その他にも、「憲法で想定されていないことは憲法で禁じられていることを意味するわけではない」ため、憲法学者の間では、憲法は同性結婚を禁止していないとする説もあるのです。
このような解釈を国籍に関連した記述に演繹すると、たとえば「国籍」に関連して、「外国籍のない場合の日本国籍離脱は認めていない」とされているのですが「外国籍のある場合は日本の国籍離脱を認める」という規定がないので外国籍がある場合にはそのまま外国製を維持できるとも解釈できるかもしれません。しかし、そうなると11条に違反するので、このような演繹した解釈は成り立たないことになるのです。そうすると、11条の「自己の意志」で外国籍を取得した場合には日本の国籍を喪失する」という条文に相反するかもしれないのです。もっとも、「離脱」と「喪失」とではその意味するところはかなり異なり、「離脱」は原因であって、そこには自己意志が強く反映されているが、「喪失」は結果であり、その結果に関しては自己認識は全く関与していないことなのです。
このように、法律の条文の解釈に関してははかなりの柔軟性を介入することが出来る可能性があることなのです。

2019年3月 8日 (金)

多くのブログなどはなぜ匿名なのか


今日のようなIT社会ではいろいろなホムペイジやブログなどが簡単に作れます。

 

しかし、私が不思議に思うのはそれら、特にブログは殆どがそれらのブログの開設者や投書者は全てが匿名なのです。なぜなのでしょうか。

 

確かに匿名にすれば誰でもが自由にコメントや非難、を記事にして発信できるのですが、少なくとも開設者くらいは正々堂々と名乗るべきではないでしょうか。

最近の朝日新聞(2019/9/6)に「掲示板に実名、消ぬ恐怖」との表題で匿名書き込みに遭遇した中傷にあった人が裁判に訴えて、その発信者の名前を知り、最終的には賠償の訴えを行っている例が報じられていました。このように、匿名での非難、中傷記事を書いた人の大半は相手はそのまま泣き寝入りするものとの前提で書いていて、まさか裁判にまで持ち込まれるとは想像していないのです。しかし、このような傾向が今後もどんどん広がると、結果的には裁判沙汰にまで拡大する可能性が頻繁になることを認識すべきかもしれません。もし、そうなると訴えられた人は弁護士を必要とすることにもなり、また結果的に敗訴するとその裁判費用の負担も馬鹿にならないことを認識すべきかもしれません。

https://digital.asahi.com/articles/ASMBS5Q4TMBSUTFL00F.html?ref=mor_mail_topix1

いずれにしても、最近になってようやくそのような被害者が裁判に持ち込むことがすこしづつ報道されていますので、近い将来にはそのような傾向がもっと強くなるのではないでしょうか。

 

沖縄はやはり心理的植民地化かも !?

沖縄はやはり心理的植民地化かも !?

 

沖縄の基地問題で県民投票の結果も無視され、その結果は惨憺たるものなのですが、本土の人たちや政治家はこの問題にあまり関心がなく、心理的には致し方がないのではないかとの理解があるのです。ですから、県民投票後に東京で行われて抗議デモもいたって閑散とした300人程度の参加者しかいなかったとのこと。もしこれがフランスとかスペインなどであればデモ参加者が何千、いゃ、何万人にもなるのですが、残念ながらな本土の人たちの感覚では致し方がない、との低迷感があるのではないでしょうか。以前に安倍首相が某県に米軍基地設置の可能性を打診したところその県知事に一蹴され、簡単に引き下がったとか。しかし、沖縄はその逆で、県知事無視、県民投票無視となるのは何故なのでしょうか。

 

その心理的原因の一因は沖縄は植民地との暗黙の理解があるのです。沖縄は日本により併合されたのですが、日本人の殆どは併合も植民地化も全く同義語扱いだからです。この間違った概念は意外と多くの政治家、識者、学者などが共有しているのです。例えば、朝鮮と台湾は日本によって併合されていたのですが、現在でもほとんどの人は「併合され、植民地化された」という表現が連綿として使われているのです。ともかく、識者と考えられている大学教授の殆どが併合、イコル植民地化と解釈し、表現しているのです。

 

しかも本土の日本人の多くは沖縄の歴史、現状をほとんど知らないのです。確かに、現在の世界情勢の中では米軍基地としての沖縄の存在は日本にとって重要であることは誰もが認めることなのです。しかし、近代化された軍隊では米軍基地が沖縄にのみ存在しなくてはならない理由は無いのではないでしょうか。本土のどこかに移転しても戦略上のマイナスにはならないのではないでしょうか。以前に、成田空港建設が議論されたときに私は成田に米軍基地を移動させてはどうかと投書したことがあったのですが、無視されてしまいました。成田空港ほど利用者にとって不便な国際空港は無いのですが…。

 

更に不思議に思うのは、沖縄担当大使の存在なのです。なぜそのような大使が必要なのでしょうか。しかもその大使に任命された人自身が一年三ヶ月の大使任務期間中に経験したこととして、「沖縄戦、米軍統治など、沖縄の人たちが巨大不公正、不公平を負わされて来たと理解しました」と談話していることなのです。本当に心からそのように思っているとしたら、まさに驚きそのものなのです。

 

このように理解すると、沖縄は多くの政治家、マスコミ、学者などは日本によリ併合され、植民地化されたのだとの暗黙の了解があるのです。沖縄県と他県とは心理的に完全に区別しているのです。つまり、本土の人たちの大半には、沖縄は心理的には植民地扱いといっても過言ではないのです。

追記 (2021 July)

最近に出版された本に「沖縄の植民地的近代」があります。この本の著者は1976生まれの大学の准教授なのですが、このような若い、しかも本土の人には沖縄は植民地であるとの認識があっても不思議ではないのかもしれません。

 

 

2019年3月 6日 (水)

国籍法11条改正運動への誤解、曲解

国籍法11条改正運動への誤解、曲解


国籍法11条改正運動に関連して、いろいろな意見が交わされるのは良いことなのですが、一部の人たちにとってはその運動の趣旨を正しく理解せず、単なる想像、仮定で判断し、改正運動に反対していることなのです。

そもそもこの国籍法11条は明治の時代から連綿として同じ趣旨の文面になっていて、現在のような国際社会での国際的活動に関連している人達の交流が盛んになり、国外、或いは国内だけでの活動の意味が薄れてきていることなのです。つまり、今日のような国際社会では一つの国内だけでの社会は存在せず、各国との交流は当然の流れなのです。そのような環境下で、多くの日本人が海外に進出し、いろいろな分野で活動していることは当然のことなのです。

しかし、問題はそのような海外での活動に関連して、滞在国での法的な規制とか、家庭環境とか、職業上の規制とか、いろいろな原因があって、それぞれの滞在国の国籍を取得しなければならないことがあるのです。ところが、そのような環境下に置かれている在外日本人が滞在国の国籍を取得すると、自動的に日本の国籍を失うことが現在の国籍法11条に規定されているのです。そのもっとも典型的な例としては海外の大学とか研究所で活躍している人の場合にはその研究対象によっては滞在国の国籍が無いとその研究が継続できないことがあり、結果的にはその国の国籍を取得すると、自動的に日本の国籍を失うこととされているのです。
その典型例としては日本人ノ-ベル賞受賞者が海外で研究に従事し、場合によってはその滞在国での国籍を取得せざるを得ない場合があることなのです。

ここで考えなくてはならないのは国籍法11条と言う法律は日本に居住し、生活している限りにおいては全く関係が無いという極めて例外的な法律なのです。

基本的には日本でのみ生活している日本人にとっては一部の例外を除いては国籍法と言う国内法は一生涯関係のない法律なのです。例外としては日本で外国人と結婚して家庭を築いて日本で生活している場合には国籍法の影響を受けることはありますが、国籍法11条は全く関係がないのです。つまり、日本国内で生活している場合にはもともとの日本人は外国籍を取得できないからです。

一方、海外で活躍し、生活している日本人にとっては「祖国」という概念は何らかの形で常に存在しているのです。丁度、日本国内で、地方出身者が大都会に出て、生活しているような時に、常に「故郷」が頭の中に潜在している状況に相似ているのです。ですから、東京とか大阪などの大都会で生まれてその地に留まって生活している人たちには「故郷」とか「ふるさと」のような感覚は理解できないのです。

従って、海外で活躍、生活している日本人がある日突然に日本の国籍を消滅されるという事態は、日本人ではなくなる、つまり「ふるさと」である日本が故郷ではなくなるいう事と同義語なのです。このような心理的葛藤は国内にのみ居住、生活している日本人には全く理解できないのです。

従って、現在の国先法11条に記載されている「自己の意志で外国籍を取得した場合には日本の国籍を失う」とい条項を「自己の意志で外国籍を取得した場合には、日本の国籍を維持することもできる」のような柔軟な形に変えることを今回の改正運動の最終目的としているのです。ですから、もし本人が日本国籍の維持を望まなければ当然のことながら日本の国籍消失届を出せばよいのです。

ところがこのような背景を全く理解せず、短絡的に二重国籍を認めるとはけしからんとなるのです。
現在までにこの11条改正運動に頭から非難、抗議している人たちの見解を列記して、それぞれに解説をしてみました。

➀ 二重国籍を認めろということは虫が良すぎる
  今回の11条改正案はあくまでも二重国籍を維持できる可能性を求めているのであって、日本人全員が二重国籍を簡単に得ることが出来るということではないのです。当然のことながら日本に居住、生活している日本人には全く関係がないのです。

② 二重国籍者となったら税金は二つの国で払うのか
  税金は居住国での義務であり、国籍とは全く関係がないのです。

③ 兵役はどうなるのか
  兵役は税金と同様にその国に居住していなければ兵役に従事することはできないのです。ですから、日本人が兵役義務国の国籍を有し、その国に居住していれば当然のことながらその国の兵役に従事する義務があるのです。

④ 二重国籍を認めたら、帰化した中国人や韓国人が両方の国籍を持つことが出来るようになり、日本の国情が侵されるのではないか。
  今回の国籍法11条改正の趣旨は本来の日本人が外国籍を取得した場合を念頭に置いているので、本来は日本人ではない帰化した外国人の場合には該当しないようにすればよいのです。例えば、条文に「本来の日本人が・・・」と入れることにより帰化した外国人を対象外に出来るのです。もっとも、帰化の条件の中に帰化する場合には外国籍を放棄すること、とすれば問題が無くなるのです。
なお、この改正案に反対している人の多くは帰化した中国人、韓国人を念頭に置いているのですが、もし本当にそのような帰化外国人の危険性を危惧しているのなら、現在でも既に中国人が日本の建物や農地、森林、水源地などを自由に購入している事実をなぜ全く考えていないのでしょうか。 

⑤ 二重国籍者が政治に関与したら日本の国情が乱されのではないか。
  一般的に、二重国籍者が日本の政治に何らかの形で参与する可能性があり、それが望まれないとするならば、政治家とか官僚は二重国籍者は対象外との規制を創ればすむことなのです。

国籍法11条改正有志の会
鈴木伸二

2019年1月23日 (水)

マスメディアは新しい犯罪材料提供

新聞やテレビには時として全く新しい犯罪が報道されています。

そうすると、それ以降に似たような犯罪が散発するのです。つまり、いままで知らなかった犯罪とか攻撃方法などがまことしやかに、興味深々として報道されると、それ以降似たような犯罪が引き続きどこかで散発するのです。

例えば、最近に起こった空港でのドロン飛行で空港が閉鎖されるようになったことが初めて報道されると、その後になって各国の空港で似たような行為がみられ、その空港が一時的に封鎖されていることです。

そのほかにも、最近の日本の新聞に報道されている「あおり運転」があります。今のところこの種の犯罪は日本だけのようなのですが、もしかしたらいずれ近いうちに国際的に真似されるようになり、この日本語「Aori Unten」が国際後になるかもしれません。ちょうど、海外で「かみかぜ」とか「つなみ」が国際用語になったように。

海外でもでも、似たような状況で、自動車で群衆のなかに突っ込むことがいったん報じられると、似たような犯罪が一時的に続発しているのです。


2019年1月 6日 (日)

パーキンソンの法則を知っていますか

パーキンソンの法則を知っていますか。

1958年、英国の歴史学者・政治学者シリル・ノースコート・パーキンソンが「パーキンソンの法則:進歩の追求」の中でこの法則を解説しているのです。つまり、 役人の数は、仕事の量とは無関係に増え続けるというものなのです。

この原理はいろいろなところで見当たるのです。

例えば、その典型例としては、高速道路を最初はそれぞれ二車両線で作ったのですが、いつのまにか高速道路が渋滞してしまったので、それでは三車両線にすれば渋滞がなくなろうだろうとしたのですが、そうするといままで以上に車が高速に入り込み、再び渋滞が発生してしまったのです。つまり、車線を増やせば増やすほど自動車が高速に入り込んできて肝心の渋滞は一向に解消されなくなってしまうような状態がパーキンソンの法則に該当するのです。

似たようなことは、部屋にいろいろな本とか書類などが増えてきて場所がなくなりつつあるので、もその部屋をもう少し大きくすればかなりの余裕が出来て、快適になると考えるのが普通なのです。しかし、そのうちに大きくした部屋にもいろいろなものが集積し、結果的にはまた大きな部屋が欲しくなるような状態になるのが普通なのです。

そのような状態にこのパーキンソンの法則が当てはまるのです。

2018年12月13日 (木)

外国人労働者の募集について

今後の日本での労働力不足が真剣に議論の対象となりつつあり、やれ技術実習生だとか語学留学生だとか名目だけの雇用で将来性はほとんどなく、数年後には帰国せざるを得ないという極めて将来性のない募集なのです。

これでは多くの外国人は二の足を踏んでしまい、また仮に日本に来ても悪い経験で帰国し、将来的には日本が嫌日感情を間接的に国外に輸出しているものとも捉えられるのですが、このような概念、理解は政治家にはないようです。いずれにしても日本にいる日本人では給料の点で問題があるので、外国人なら低賃金でも雇えるという極めて自己中心的な雇用概念なのです。

一般的には、労働力不足を補う基本は必要としている団体、企業がそれぞれに募集するのが基本であり、その対象は従来のような日本国内の人だけではなく今後はすべての外国人も同じように扱うことで解消出るのだが、どうしてこのような発想がないのか。

さらに不思議なのは、日系五世とかブラジルの日系人を対象にするとか、どうして意識的に日系人を念頭に置いているのでしょうか。確かに、日本には日本人しかいなかった時代に育った人たちには外国人労働者と言う概念そのものが異常なのです。

欧州でも労働人口が減少しつつあるのは日本と似たような状況ですが、欧州では必要とあればそれこそ外国の新聞広告などで広範囲に人を募集していることもあるのです。そこには一般社員としての概念で募集しているので、数年後には帰国してくださいなどの制限はないのです。

つまり、日本の雇用体系は賃金体系を日本人と外国人とで完全に区別、いゃ、差別てしいるのです。これではどのようにしても正規の外国人労働者という概念は日本には定着しないのです。なお、現在の欧州への大量の避難民と外国人労働者募集とを混同してはならないのです。

もっとも、日本に外国人労働者が定着、居住しては困るという概念が感情的には未だに日本人の間に潜在するのではないでしょうか。


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