神社仏閣はもっと開放的に
年末年始には宗教的な催しが最高潮に達する時期とも考えられます。まず、クリスマスから始まり、大晦日の神社詣で、そして元旦三が日の間の神社、お寺への初詣など、どこに行っても参拝者で満ち溢れています。日本を知らないひとが初めて日本のクリスマス光景を見ればなんと日本には多くのキリスト教徒が居ることか、そして大晦日、元旦の神社、お寺に行けばこれまたものすごい人出で驚くばかりです。したがって、なんと日本人は信心深いのかとさらに驚嘆するかも知れません。
なにしろ、欧州の国、たとえばドイツとかスイスなどでのキリスト教徒は名目上どんどん減っているからです。その理由のひとつはこれらの国でのキリスト教徒は教会税を毎年支払わなければならず、この教会税が家計に余計な負担をかけるため教会から脱退しその結果信者の数も自然減につながってしまうのです。このような観点から見れば日本には宗教税がないのはこれまた驚きかも知れません。
その半面、日本では神道の神社、仏教の仏閣には自分が属している宗教とは全く関係なくお参りに行くことが社会通念として当然のことと受け止められ、日常茶飯事のごとく行われています。その典型的な例として日本人の結婚式が挙げられます。つまり結婚式にはキリスト教、神道、仏教、どれでも選べますし、誰も問題化しません。海外ではそうはいかず、同じキリスト教徒でも、カトリックの信者がプロテスタントの教会で結婚式を挙げるなどは想像もできず、まったく不可能なのです。したがって、日本人が結婚式にさいしどの宗教を選ぶかという自由さへの理解は外国人に全く不可解というほかありません。
ある意味では日本人ほど宗教に寛容な民族は存在しないかもしれません。いっぽう、その裏返しの面では、日本人ほど宗教のことについて無知な民族も居ないといっても過言ではありません。なぜなら、仮に神道を信奉する家族でも、実際に神道に関連した教典を読んだこともなく、また仮に仏教徒と言っても仏典を読んだことのない人がほとんどだからです。したがって多くの日本人は海外で地元の人に仏教とか神教の内容について質問されても全く答えられないのです。その根底には学校教育の中に宗教がないことにも起因しています。それにも係らず、観光で地方に行ってお寺やお宮があれば無意識にごく自然にそれらの神社仏閣の前で手を合わせ拝むことには何らの抵抗感もないのです。日本人の古来からの社会習慣と言ってしまえばそれまでですが、外国人にしてみればそのような日本人の宗教に関連した行動、習慣と宗教的な知識の欠如、無関心を知ったらとても理解は出来ないはずです。
なにしろ、日本から一端外に目を向ければ、今日この頃では宗教が原因での争いが世界中で頻発しているからです。日本人にとってみれば宗教が原因で争いが起こり、暴動、戦争にまで発展するという現象はまったく理解できないはずです。いずれにしても、そのような宗教に極めて寛大と受け止められる日本人はお寺や神社の前で手を合わせてお参りすることには何らの違和感を感じないはずです。
したがって、そのような環境下の日本では、改めて神社、お寺のような建物はなんのためにあるのかと考える機会は意外と少ないのです。そのような視点から改めて考えてみると、キリスト教とかイスラム教などではお祈りは必ずそれぞれの教会の中に入ってするのが当たり前ですが、日本では誰も神社やお寺の前、つまり神社仏閣の建物のそとで拝むことに何らの抵抗も感じないはずです。それらの建物に入ることも例外を除いては入ることは出来ない場合がほとんどです。ましてや、それらの建物の中に入って拝んだり、講話を聴く可能性はほとんどありません。
また、お坊さんや神主さんも定期的にそれらの建物の中で開放的に講話を実践し、信徒と一緒に礼拝するような発想、習慣は殆どゼロに近いのです。考えてみればこれほどおかしな現象はないのですが、日本国内に居住し、先祖代々長年にわたって受け継がれた習慣にたいしては誰も奇とは感じないのです。さらに矛盾とも思われる習慣は日本の家庭には仏教徒であれば仏壇があり、神教徒であれば神棚があります。場合によってはひとつの屋根の下に仏壇と神棚が共存する場合も珍しくはないのです。考えてみれば、このような現象は神社仏閣が閉鎖的であるため家庭内にその支所を作っているものと屁理屈的にも考えられますが、日本人はそのような視点からは家庭内の仏壇、神棚を解釈する人は誰もおりません。つまり、穿った解釈をすれば、神社、仏閣が閉鎖的であるため祖先の霊を家庭内に取り入れているものとも解釈できます。
このように考えてみると神社、お寺をもっと身近な存在にし、キリスト教徒が定期的に教会にお参りに行くように、神社、お寺側がもっと積極的に信者との接触を日常的にする考えを持ってほしいものです。宗教心がどの程度あるかないかでは日常生活におけるいろいろな出来事にも深く関与してくるはずなのです。よくいわれている「苦しい時の神頼み」がありますが、この表現自体が現在の社会では死語に近いのではないでしょうか。現在のような社会の不況、孤独死の続発、家庭内問題の頻発、自殺者の増加など、本当に心から助けを求めている大勢のひとたちが居るにも係らず、そのような人たちは最後の段階になっても決して宗教に救いを求めるような行動を起こしません。そこには宗教の影響が全く反映されていないからです。日本では宗教と冠婚葬祭という表現は私たちの日常生活に密接な関係にありますが、貧困救済という概念は宗教界には皆無のような気がします。
体制的には日本の宗教家は冠婚葬祭だけで満足しているのでしょうか。そのような意味でも、神主、僧侶の一般人に対する日常的接触をもっと深める機会を作ってはどうだろうか。その一つの方法として、神社仏閣を開放し、建物内での講話を継続的なものにする運動を始めては如何なものだろうか。宗教をより深く知り、宗教との係りを持つことは間接的に人間的な生き方を改めて知るよい機会でもあり、今日のような人間関係が荒れている社会では宗教心を持つことにより、多少なりとも社会に貢献できる心構えが深まるものではなかろうか。つまり、宗教は相手が来るのを待つといった受け身の姿勢ではなく、相手の心の中に飛び込んでいくといった積極的な発想への転換が必要と考えられる。
現在の日本での宗教法人は非課税の対象になっています。ある新聞でこの問題に関し、「宗教側の人が、宗教活動が非課税なのは不特定多数の利益になる公益性が認められている」と述べられていました、本当にそうなのでしょうか。そもそも宗教活動の目的は誰のためにあるのでしょうか。それは宗教側にあるのではなく、信者のためにあるはずです。
日本のように仏教、神教が国民の間では共存し、誰も自由にお寺参り、神社参拝が出来るような国ではたしかに不特定多数の利益になるのかもしれません。しかし、実際に信者がそのような公益性の高いという言われる神社仏閣にお参りしてもその中に入ってお祈りすることは通常の場合には不可能なのです。特別な目的で、特別にお布施のような形で金銭を納入して初めてその中に入れるわけで、それ以外の場合には建物の外からしか参拝できないのはある意味では不特定多数の人の利益を念頭に置いていると考えることは可能だと思います。
しかし、例えば、キリスト教では信者でなくとも誰でも教会の中に入って宗教的な環境に浸ることが出来るのです。これこそ不特定多数の利益に供しているとは考えられないのでしょうか。つまり、要点は日本の宗教側は宗教活動が神社仏閣の外で信者が勝手に拝むことを不特定多数の利益につながっているという独善的な考えがあるとしか思えないのです。
なお、このような問題に関連して、宗教法人の非課税があります。
追加(2016 Sept)
最近の報道によりますと、高さ五メトルの「平安の秘仏」が東京にて公開されるとのことです。滋賀県甲賀市に所在する天台宗の古刹、櫟野寺(らくやじ)には重要文化財に指定される平安時代の仏像が20体も伝わります。
その数は、優れた仏像が数多く残る滋賀県でも特筆されます。本展は、20体すべてを寺外、東京の国立博物館、で展示されるのは初めての機会です。、
このことを別な観点から考えてみました。
つまり、そのような仏像を寺内から取り出して遠く離れた東京の人たちにもその仏像を鑑賞、拝んでほしいという狙いがあるからなのです。
このことはある意味では前代未聞の出来事ではないでしょうか。なぜかと言いますと、そのような秘仏が収まっている寺院に信者や信仰心のある人たちが参拝するというのが従来の感覚なのです。ところが今回の試みは仏様が向こうからやってきたと捉えることが出来るからです。このような試みは単なる美術品の部外展示という従来の概念とは異なるのです。従来の概念では寺院仏閣は相手、つまり信者が来るのを待っているという、待ちの姿勢だったのです。
このことに関連して数年前にスイスで行われたベルディのオペラ「トラビヤ-タ」がチュウリッヒの駅構内で無料で演出されたことです。この時の観衆の一人が「オペラはいつも劇場に行ってお金を払って鑑賞するだけだったが、
今回はオペラが向こうからやってきた」とのコメントをしていることでした。まさに、このコメントのように今回の仏像の手東京展示は仏様が向こうからやってきたとも考えられるのです。