日本の新聞を見ていますと海外関連情報、ニュウスは極めて限定されており、海外関連の記事となるとアメリカ、中近東などが関連する記事が時折報道されていますが、欧州関連の物は極めて少ないようです。
一方、欧州から見ると欧州のマスコミには当然のことながら世界各地の報道、ニュウスが見られるのですが、日本に関連したものは皆無と言っても過言ではないのです。つまり、欧州から見ると日本の存在感は近年はほぼゼロに近いのです。少なくとも中国に関連したものと比べると日本の存在感はゼロに近いのです。1970から 1990代にかけては日本に関連した記事とか報道は少しはありましたが、残念ながら現時点では日本のことはもう過去の存在になりつつあるのです。
ですから、観光客関連事情も中国人関連のものが殆どで日本人観光客はもう過去の存在になりつつあるのです。
以下はある人のサイトからの転記です。
日本人とポーランド人の心温まるお話
http://nozomu0411.jugem.jp/?eid=210
2015.11.03 Tuesday 随想 22:53 comments(0) trackbacks(0) - - by Macky
日本人とポーランド人の心温まる話
初めてポーランドに行ってきました。
街路樹の黄葉、石畳の街並み、街の広場から流れてくるショパンの音楽。
こんな素晴しい旅に、心温まるお話を伺いました。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。
ポーランドは、その年から夏休みに被災児を招いて激励をしてくれています。
ポーランドは、大震災の翌日から救援活動を始めてくれましたが、
歴史を紐解くと、そこには大正時代の日本人とポーランドの人たちとの深いつながりが見えてきます。
1795年、三つの超大国、ロシア、オーストリア、プロシア(後のドイツ)に三分割されて、ポーランドは地上から消えました。
ポーランドには愛国者が多く、何度も独立運動を興すのですが、その度に摘発されて、遠くの収容所に送られました。
ロシアは独立運動にかかわったポーランド人を、次々とシベリアに送り込み、多い時には10万人を超えていました。
1918年11月、第一次世界大戦が終わり、ドイツが戦争に負けました。
ロシアは革命が起きて戦争を継続できず、オーストリアも力を弱めていました。
まさにチャンス到来、ポーランドは100年以上を経てようやく独立宣言をしました。
シベリアに拘留されていた人たちも喜びました。
ところが祖国に帰る手段はシベリア鉄道しかありません。
革命後に新しくなったソ連は、ポーランドの流刑者が、シベリア鉄道を利用することを拒みました。
ポーランド政府は世界に訴えましたが、新しいソ連との関係もあって、いずれの国も、ポーランドを助けませんでした。
弾圧や飢餓で、シベリア難民が続出します。
そこで、せめて子供達だけでも何とか助けようと、ポーランドの若者が救済委員会を作り、
彼らをシベリアから、ウラジオストックに助け出したのです。
ところがそこも医療施設も不十分で子供たちに十分な手立てが取れません。
救済委員会のリーダー、アンナ・ビュルケビッチという女性は、赤十字社にも断られてウラジオストックに戻ってきました。
その時に彼女は、自分の祖母や両親から伝え聞いた話を思い出したのです。
船に頼み込んで敦賀に着き、東京に行って外務省に嘆願しました。
「我々は祖国から離れ離れになり、未だ何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供たちの命が奪われることは明らかです。子供を花のように愛する日本の人が子供達の命を救ってください。」
シベリアに拘留された人たちよりも、もっと遠くに流された人たちは、樺太の収容所にまで送られました。
そこで彼らは、アイヌの人達との交流を深め、日本という国を知ります。
そのとき日本は子供を大切にする国だという認識が、ポーランド人の間に広がっていったのだと思うのです。
ポーランド女性から嘆願を受け取った日本ですが、独立宣言をしたばかりのポーランドとの国交はなく、
仮に受け入れるとしても、決定するまでには長時間を要するはずです。
ところが日本は約2週間後でこれを受け入れるという閣議決定をしました。
日本赤十字社が現地に向かうことになりました。
現地には、ソ連軍がいましたが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、そこにもお願いをしたのです。
そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、
どんどんシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきました。
このようなことを2年間続けました。
そして、1820年(大正9年)~1922年(大正11年)の途中まで続けて、
東京には、2歳から16歳までの子供375人、大阪には1歳から15歳までの子供390人が運ばれました。
765人の子供達を日本に送り届けたのです。
やがて元気になった子供達をポーランドへ順次、送り返しました。
横浜港から最初の船が出港しようとするとき、子供たちは船に乗ろうとしなかったそうです。
看護婦さんやお医者さん、世話になった近所のおじさんやおばさんとの名残を惜しんで離れなかったそうです。
先に述べた、ポーランドの救済委員会の副リーダーは男性で、医学の心得があったそうです。
彼は日本の対応に感謝しましたが、お礼に返すもの何も無く、代わりに大量の感謝の手紙をポーランドから送ったのです。
その一通をご紹介します。
「日本は、わがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国です。
にもかかわらず、ポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくださいました。
われわれポーランド人は、その恩を忘れることはありません。
ポーランド国民もまた、高尚な国民です。
ここにポーランド国民は日本に対し、
もっとも深い尊敬、もっとも深い感恩、もっとも温かき友情、愛情をもっていることを、お伝えしたい。」
それから80年近い歳月を経て、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた時に、ポーランドは復興支援に協力したのです。
その年の夏に、最も痛手を受けた被災地の子供達を、ポーランドに招きました。
大正時代に、日本に助けられたポーランドの子供達、10人ほどが、今も健在です。
その方達が、日本の被災孤児たちを招いた時のお別れのパーテイーの際に、ポーランド各地から訪ねてきたそうです。
そのとき、子供達にバラの花を一輪ずつ渡して、通訳を通じて、
何故、自分たちが生きているのか、日本人の功績を語って子供達を激励したと言います。
2002年〈平成14年)7月、天皇皇后両陛下が、東ヨーロッパ諸国を歴訪されたとき、ポーランドも訪問されました。
このとき、おじいちゃん、おばあちゃんの三人が、どうしてもお会いしたいということで、両陛下との対面が実現しました。
このお年寄りも、大正の日本人に助けられた、当時の孤児の方達です。
80代のアントニナ・リーロさんは、美智子皇后の手をずっと握って離そうとされませんでした。
実は、日本で助けられた時、病院に大正天皇の后、当時の皇后がお見舞いに来られ、
小さかった彼女を抱いて励ましてくださったのを、かすかに覚えていたのです。
美智子皇后にお会いしたとき、美智子皇后を通じて、先代の皇后の面影を重ね合わせたのでしょう。
その感動と感謝の念に、自分はようやく80余年の年月を超えて、日本の皇室に感謝の言葉を伝えながら、
美智子皇后の手をずっと握りしめていたのです。
外交官は素人でもできる
今回の報道で、安倍昭恵夫人付だった経済産業省の職員が、イタリアの大使館に1等書記官として赴任することが明らかになったことが分かりました。
経済産業省の谷 査恵子氏は、2016年の初めまで、安倍昭恵夫人付の常駐職員を務めていたが、「森友学園」への国有地売却の問題をめぐり、当時理事長だった籠池容疑者と連絡を取っていたことなどを野党が追及してきた経過があり、照恵夫人からの強い要望で、当分の間、谷さんを外に出しておいた方が安倍さん夫妻にとっては都合がよいので、イタリアに観光・一等書記官に転出させたわけです。
それにしても外交とは全く関係のない照恵夫人のお手伝いさんが、外交問題には全く素人の事務官が外交官、それも一等書記官とは、まさに優遇以上のご褒美転勤なのです。
本来、大使館の書記官は大使館業務の実際業務の担当者なのですが、外交業務には全く素人の事務官、しかも外務省とは全く関係のない省からの派遣はまさに前代未聞の人事なのです。しかし、世耕さんは「彼女は語学ができ、まさに適材適所の人事です」と公言しているのです。まさに開いた口が塞がらないのです。
語学が出来れば外交官にしてもおかしくはないようです。もっとも、この谷さんは特別にイタリア語が出来るわけではなく、一般的な英語能力しかないのです。まあ、大使館でイタリア在留邦人の領事業務を担当すれば別に語学は必要はないのです。
それにしても、大使館の人事、ことに書記官の任命は外務省が行うべきなのですが、大使館への派遣は往々にして外務省職員以外の人がある意味での「論功任命」であり、いろいろな官庁からの出向者がいるのです。例えば、防衛庁から領事に任命されたりしているので、外交官の任命がすべて外務省で選考されているわけではないのです。
それにしても外務省は全く関係のない立場のようです。
いずれにしても今回の谷さんの一等書記官任命も腰掛任命であり、二年後にはまた日本に召喚されるのです。果たして二年後のその時に安倍さんの任命力が厳存するかどうかは分かりませんが、よいポストはほぼ保障されている筈です。
更に問題なのは特命全権大使に全くの素人が任命されることもあるのです。例えば、2019/08/30 - 政府は30日の閣議で、駐スイス大使に読売新聞グループ本社会長の白石興二郎氏を充てるなどの人事を決定しているのです。白石氏は日本新聞協会の会長も務めた。まぁ、悪く言えば新聞屋さんが日本の特命全権大使にもなれるのです。
政治家の本音 甘利大臣の公言
日本の議会答弁などを見ていると担当大臣などは自分の意見、見解というものはほとんどなく、官僚の作成した原稿の棒読みに始終しているのです。つまり、大臣というのは単なる飾り物で、極言すれば誰でもなれるのです。
それが日本の制度であり、首相などの友人とか関連者がその時の大臣に任命されるので、その人の見識とか知識力、経験などは二の次、三の次になるのです。
このようなことは誰でも知っていることであり、誰も疑義を持たないのです。
しかし、そのようなことが公然と宣言されるとなると、これは大きな問題なのですが、いったん大臣職を辞任したら、なんでも言えることであり、そのような本音を言っても、現職大臣ではないので、政府をはじめ、そのような人を大臣に任命した首相も全くそのような公言には関心を払わず、無視そのものなのです。
そのような典型例が、最近になって甘利大臣の辞任に関連した裁判で彼は
「何度も言うが、原子力安全委員会が安全基準を決める。彼らが決めた基準を経済産業省は事業者に伝えるだけ。安全委員会は地震や津波のプロが集まってる組織。そこが決めてるんだ」、「大臣なんて細かいことなんてわかるはずないし、そんな権限がないことくらい君もわかってるだろう。答弁書だって閣議前の2分間かそこらで説明を受けるだけだ」
と公言しているのです。仮にも彼は大臣に任命されていたのでが、その任命職に関連して、たとえ辞任後とはいえ、このような暴言を公言するとはまさに開いた口が塞がりません。
biz-journal.jp/2016/03/post_1… @biz_journal
最近の新聞の外務省人事異動欄に「沖縄担当大使」の任命がありました。どうして沖縄に大使級人事が必要なのでしょうか。他の国々対しては「・・・大使」となっていて「・・・担当大使」の表現はありません。したがって、通常の大使の資格ではないのかもしれません。
でもなぜこのような紛らわしい表現を沖縄にのみ使うのでしょうか。もしかしたら、沖縄は未だ米国の管理下にあるのでそれに相当する大使が必要なのでしょうか。でもこれほど沖縄県民を馬鹿にしたような人事が本土の政治家によって未だになされているとは知りませんでした。
これでは沖縄の人たちが本土に対して文句を言うのもよく分かるような気がします。いっそのこと、北海道にも「北海道担当大使」が必要になるのではないでしょうか。もっとも、北海道でのアイヌの民族問題はもう皆無になっているのでそのような担当大使は必要ないのかも知れません。
その後の情報では「大使」と名の付く役職は意外とあるようです。
◇国内で勤務する大使ポスト
★日朝国交正常化交渉大使
★国際貿易・経済担当大使
★関西担当大使
★沖縄担当大使
★人権問題に関する各種協議・調整担当大使
★第4回アフリカ開発会議担当大使
★査察担当大使(現在空席)
★イラク復興支援等調整担当大使
★国際テロ対策・北朝鮮核問題(廃棄、検証)担当大使
★アフガニスタン支援調整・NGO担当大使
★地球環境問題担当大使
★NGO担当大使
★科学技術協力担当大使
★アフリカ紛争難民問題担当大使
確かにいろいろな大使が存在するようです。でもこのなかにいろいろとある大使の中で日本の一地域を念頭に置いたものは
関西担当大使
沖縄担当大使
位だと思うのです。それと、外務省の人事異動の各国大使と同じ人事異動欄で沖縄担当大使があることに私はいささか違和感を感じたのです。特に「沖縄の祖国復帰を果たした県民の思い」の記事を読んだからです。沖縄の人から見ればそのような人事がまず必要なのかと言う次元から考えてみたのです。そこには本土の政治家には無意識的に沖縄は特別だ、との心理が働いているのではないでしょうか。
いずれにしても、私が沖縄県民だったら、なぜそのような意識的な「大使」、それも海外担当大使の退職後のたんなる名義上の閑職のようなものの任命が必要なのかと正したいくらいです。
ですから、この場合の大使という名称は普段何気なく使っている親善大使のような意味での大使とは根本的に異なるべきだと考えるのです。
追加(2016 July)
最近の報道ではスイス大使に最近になって任命された本田特命全権大使は欧州金融特命大使に任命されとのことです。もうこうなると大使という職種は外交とは関係なく、少しでも外国との関係がある職務には簡単に大使という名称が使われるのです。それならば、オリンピック担当大使とか海外視察特命大使など今後は大使という名称の乱発時代になりそうです。
追加 (2019 May)
最近のアイヌ先住民に関する法律が出来たことに関連た記事の中に「アイヌ担当大臣」が既に存在していることとのことでしたが、おそらく誰も知らないのではないでしょうか。
国会議員の海外視察は本当に必要か
国会議員の海外視察は毎年のように行われています。例えば昨年夏のの視察団は計100人近くの議員が延べ38か国を訪問し、視察にかかる費用は、欧州視察6泊8日(往復ビジネスクラス利用)で必要となる議員1人当たり170万円を上限で公費で負担するとされています。つまり二億円近くの税金が使われることになります。
このような海外視察で問題になるのはたんなる税金の無駄遣いという次元のものではなく、その目的、そして最終的にはその結果が重要なのですが、そのような結果の評価に関したことは殆ど聞いたことが有りません。このような国会議員による海外視察制度は日本独特なものであり、欧州の国会議員にはそのような特典は有りません。
日本では国会議員、県会議員、市議会員等の海外視察が頻繁に行われ、その賛否に関して裁判沙汰になったりしていますが、未だにその多くは無くなりません。基本的には海外視察の趣旨は、何か問題が提起され、その解決策の一つの方法として、では海外ではどのようになっているのかとの目的で、視察が行われるのですが、国会議員の海外視察に は初めに視察あり、そのために何らかの目的・理由を探しだして海外視察となるのです。従って、そのような視察の報告書は作成するためのものであり、体裁さえ整っていれば全く問題なく処理されておしまいなのです。つまり、目的は二の次、三の次なのです。
数年前にある市会議員が海外の都市での市電普及状態を参考にしてわが市に如何にして市電を普及させることが出来るかとの目的で海外視察を行い、欧州の都市を見学し、その現状に驚いて、かくまでも市電網が復活しているとは、と驚嘆の報告書を書いていました が、それは現実だけを見ての驚きであって、それらの都市の市電は新たに普及されたのではなく、昔からの市電網が引き続き維持され、管理されて現在の姿に移行していることには全く気が付かず、現実だけを見て判断してしまっていたのです。確かに。現在それらの都市で走っている近代的な市電をみれば驚嘆するかもしれません。
このような全体像を見ずに結果としての現実だけを見て報告書を書いているのですが、その結果はその市には全く反映されていないのです。いゃ、反映することは現実の道路状況を勘案すれば訪問都市のような充実した市電網を導入することはとても不可能だからです。
戦後間もなくの 時代ならいざ知らず、今日のような情報社会では国会議員がなにも知識なくして視察してもあまり意味はなく、机の上でも十分にいろいろな関連情報、データを収集できるのです。換言すれば、海外視察は戦後間もなくの時代の制度の名残りなのですが、やはり国会議
員にはかなりの魅力が有るのかもしれません。本当に、生きた情報、しかも生の情報が必要であるなら、まず最初ら海外大使館を利用すべきなのではないでしょうか。
「捕鯨へカレーな応援」の愚挙
「捕鯨へカレーな応援」との表題で、二階堂総務会長をはじめとした自民党の大物が食堂メニュに鯨肉を採用したことが新聞で報道されていましました。
でも考えたらこれほどの短絡的な発想での愚挙はまことに恥ずかしい限りです。これが世界に報道されれば、やはり日本は鯨を食べる目的で捕鯨をしているのであって、科学的な調査捕鯨などと騒いでいるが、やはり食肉として鯨を食べるために捕っているたけなのだと理解されてもいたし方が無いのです。
こんな簡単な道理がどうして日本の政治家には分からないのでしょうか。日本の捕鯨は調査捕鯨が目的であり、その結果として捕獲された鯨を処分するに際し、食用に回しているのだとの解釈が出来ないのはナゼなのでしょうか。
そもそも日本がいくら調査捕鯨だと騒いでも、せいぜい鯨の頭数くらいしか公表していないので、これでは世界が納得するわけが無いのです。もっと、科学的な調査の結果を世界的に発信すべきなのですが、少なくとも一般紙に報道される範囲内ではその科学的な成果はまったく公表されていません。
これではいくら声を高くして調査捕鯨だと騒いでも世界が納得するわけがないのです。
更に最悪なのは南極での捕鯨問題が国際司法裁判所に持ち込まれ、その判決では日本の南極での捕鯨は違法となって居たのですが、当時の日本はこの判決を完全に無視していたのです。このような事実については日本の政治家やメデイアは殆ど関心を払わす、無視していましたが、中国の南シナ海での問題で、フィリッピンが提訴したことに関してこの国際司法裁判所が中国の行為は国際法違反との判決を出しているのにも係わらず中国は完全に無視しているのと全く同じことを日本がしているのです。しかしねこの矛盾に関しては日本の政治家やマスコミは全く知らん顔をしているのです。
海外で日本の存在が過去のものになりつつある現状 (2)
最近、小型の掃除機を購入しました。それはフィリップ製のもので当地ではごく普通の商品なのです。その中には当然のことながら使用説明書が入っています。欧州で何かを購入するとその製品の使用目的によってもかなりの違いはありますが、その使用説明書はいろいろな言語で書かれてあるのが普通です。
今回購入した掃除機の使用説明書も例外ではなく、世界のおもだった国の言語で書かれてあり、東洋語としては中国語、韓国語がありましたが、日本語は欠落しているのです。このような現象は数年前までは絶対にありえず、日本語がかならずそれらの諸言語の中にあったのです。
なぜ、今回購入したフィリップ製の器具の説明書に日本語が消えているのかとの原因は分かりませんが、もしかしたらこの製品が日本の市場向けではないのかも知れません。それにしてもなにか淋しい気持ちがしました。
このように、最近での欧州では商品の説明書に往時は日本語の説明文も必ずといってよいほど入っていたのですが、いつの間にか消えてなくなってしまっていることに気がつきます。
口が裂けても言えないこと (日本人従軍慰安婦問題)
日本語の意味深長な表現の一つに「口が裂けても言えない」があります。、しかし、最近の議員の女性蔑視発言などは本来は口が裂けても言ってはならないことなのですが、やはりいつもそのような気持ちで居るとつい口が滑ってしまうことであり、とても「口が裂けても言えない」問題ではないわけです。
最悪なのは日本人は戦争中の慰安婦の存在には全く知らん顔をしているのです。本来、なぜ慰安婦<が広く募集されていたのかとの背景を知る必要があるのです。それは、戦争に駆り出された性欲の盛んな若年の兵士に対しては、紙袋に星印と「突撃一番」と印刷されていたコンドームを衛生兵が必ず配布し、慰安婦との性交の際には必ず性病予防薬「星秘膏」と併用することとしていた。性病に感染すると、行為よりも使用しなかったことが咎められる とさえ言われていたのです。でもなぜこのような慰安婦制度を戦地に動員したのかと言うと戦地で地元の女性に暴力で強姦することを避けるという目的があったのです。でも、戦争に際してこのような発想を持った軍隊などは殆ど無いのではないでしょうか。
このことに関連して、韓国が岡本コンドムの非買運動をしていることが報道されていましたが、このことはまさに上記のような背景があったことを十分に認識しているからです。なお、当時はコンドムという名ではなく、サックと言われていたと思います。いずれにしても戦後まもなく日本で発行されていたカストリ雑誌にはしばしば日本人慰安婦による実際の行為のありさまをあからさまに書かれてもいました。
なお、以下の解説はあまり知られていないのではないでしょうか、
日出づる処の名無し 2014/02/22(土) 07:32:41
公文書館で確認された報告書
http://japanandworld.net/archives/683
~引用ここから~
この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
(中略)
多くの女性が海外勤務に応募し、2~3百円の前渡金を受け取った。
(中略)
彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて 6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
(中略)
ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
(中略)
欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった
(中略)
慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否 は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。
(中略)
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
(中略)
これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。
つまり、この慰安婦なる表現は実際に経験、体験したことであっても絶対に公言してはならない、あるいは公言できない、というきわめて強い意味があるのです。このことはあることを経験していてもその事実を誰にも言えないという強力な意思表示の塊なのです。ですから、浮気したとか、何かを盗んだなどはこの表現の対象には出来ないはずなのです。
なぜこのようなことをここに書いたかといいますと、以下のような新聞記事を読んだからなのです。
最近の新聞に「731部隊の証言者、篠塚良雄さん」の惜別記事がありました。この篠塚さんは太平洋戦争中、細菌兵器開発のため捕虜への生体実験を繰り返した関東軍731部隊の少年兵として実際に捕虜への生体解剖に立ち会うようになった経験のある人でした。この記事の中で、「この部隊で生体実験に関与した医師や研究者たちは戦後、口をつぐんだ」、とありましたが現実問題としてそのような強烈な忌まわしい過去にたいして私はそのような実験に従事していましたとは口が裂けても公言は出来ないことは十分に理解できます。
似たような状況は太平洋戦争のときの従軍慰安婦の存在があります。この問題はお隣の韓国が世界に向けて国家宣伝していますが、朝鮮人の場合には、私はかって日本軍の従軍慰安婦でしたと、いとも簡単に告白できるから不思議です。もっとも、それらの人たちが本当に自らの意思でそのような過去を堂々と告白したのかどうかは不明ですが、いずれにしても何人かの韓国人が告白しているのです。このような場合には上記の表現はまったく当てはまらないのでしょうか。そこには朝鮮人女性と日本人女性との感情表現、倫理観に大きな違いがあるからです。
このことは、最近になって新たに韓国人慰安婦が韓国政府を提訴していることです。
朝鮮戦争が終わった’50年代から’80年代にかけて、在韓米軍基地周辺で米兵相手に売春をしていた元韓国人慰安婦122人が、今年六月に、韓国政府を相手に1人1千万ウォン(約100万円)の国家賠償を求める集団訴訟を起こしたことが報道されています。つまり、これら122人の韓国人女性が堂々と私は過去に慰安婦でありました、と公言していることです。
このような場合も日本人女性の場合には、私は過去に従軍慰安婦でしたとは口が裂けても言えないからです。ある資料によると当時の従軍慰安婦の半数近くは日本人女性であったとされています。しかし、このような事実は日本国内では完全にタブーであり、したがって、多くの一般日本人は認識していないのかもしれません。
ある新聞記事によると村山元首相が新聞記者から「あなたは日本人慰安婦についてどうお考えですか」と質問され、「絶句」したとか。この場合、村山元首相はそのような事実を知らなかったから「絶句」したのか、それともそのようなことは口が裂けても公言できないと考えていたから「絶句」したのかはまったく不明なのですが、おそらく推測するに、彼はこの日本人従軍慰安婦については「口が裂けても言ってはならないこと」と認識していたから「絶句」したのかもしれません。
追記(2014 Aug 5/6)
最近の朝日新聞に編集担当の杉浦信之氏の二日連続で「慰安婦問題を考える」が掲載されていました。ここでも日本人慰安婦のことには一言も触れていませんでした。このようなマスコミ報道だけしか読まない人には慰安婦の大半は日本人女性だったことなどはおそらく想像できないかもしれません。この記事を詳細に読むと「強制」にかんする記述に対しては「・・・性の相手をさせられた女性がいた事実を消すことはできない」との表現がありますが、この表現は実に巧妙な表現であり、「そのような女性が一部いた事実・・・」が正しいのですが、単に「・・・いた事実・・」を何気なく読むと読者は全員が強制されていたと理解してしまうからです。つまり、この記事では「応募」の事実はまったく触れていないからです。
それから、二日間にわたる長文の中で日本人慰安婦の存在に触れているのは最初の八月五日の記事に「・・・日本本土の日本人のほか・・・」とあるだけでそれ以外にはあたかもこの問題では日本人慰安婦はまったく問題ではないかのような論調なのです。
でもナゼ同じ国民である日本人女性に対して少なくとも陳謝するような表現を書けないものなのでしょうか。
追記(2020)
最近気が付いたのですが、この慰安婦を扱った映画「主戦場」がいろいろな話題を醸し出しているようです。私はこの映画を観ていないので何とも言えませんが、日本人の殆どは日本人慰安婦のことについて触れることはタブ-のようです。
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