カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2016年1月16日 (土)

「バ-ゼル日本人会のはじまり」

「バ-ゼル日本人会のはじまり」

世界各地には日本人が滞在、居住し、現在では年によっては日本人街を形成しているところもあります。例えば、欧州ではドイツのジュッセルドルフには日本人が多く住んでいて、毎年の夏になると日本の花火大会が開催されるくらいです。

スイスにも現在では日本人が恐らく千人単位の日本人が生活していると思われます。そのような環境下では自然と日本人同士の集まりがあり、それが発展して日本人会が結成されるのは当然の成り行きなのです。

スイスの都会で日本によく知られているのはチュ-リッヒ、ジュネ-ブ、ルツェルン、などの観光都市ですか、バ-ゼルはあまり知られていないかもしれません。もっとも、バ-ゼルは製薬関係者にとっては知られているかもしれません。

日本人会が形成されると、当然のことながら会報が作られるのです。バ-ゼル日本人会の会報は1977年に発行され、年に数回発行されています。

六十年代、七十年代前半にはバ-ゼルの日本人はそれほど多くはなく、スイス人と結婚された女性と、何らかの経緯でバーゼルに居住していた男性とほぼ半々くらいではなかったかと思います。私の記憶に残っている範囲内では男性としては伊藤慧さん、三洋電機のヨーロッパ事務所長の杉本さん、三共製薬欧州連絡所長の庄田さん、バーゼル大学病院の麻酔の先生の宮本さん、などでしたが、当時はいまだ日本人会としての集まりはなく、伊藤さん、アーベルさん、ショイバーさんなど当時すでに小さな子供さんが居られた家族同士の集まりなどがあり、たとえば伊藤さんが音頭を取ってのSissach郊外のSissacher Fluhへのハイキングなどがありました。当日は帰りに雨に降られ、子供たちと一緒に上から徒歩で駅までビショビショになってたどり着いたことを覚えています。

もっとも、それ以前にはスイス人と結婚されていたStraeuliさんの奥さんがバ-ゼルに住んでいた最初の日本人ではないでしょうか。旦那さんのシュトロイリ-さんは1950,1960年代に時折日本からいろいろな分野で研修するためにバ-ゼルに短期に滞在していた日本人のお世話をしていまして、当時の地元の警察からそれらの日本人で何か問題があった時の世話を頼まれていたのです。このシュトロイリ-さんは戦争中は日本に滞在されていて、東京にあったアメリカ大使館の管理者をされていたのです。戦後、バ-ゼルに戻られて当時のガイギ-社に勤められていました。なお、その後に大使館の関係者からシュトロイリ-さんの日本人に対する貢献という観点から日本政府に叙勲の推薦の話がありましたが、それが実現する前にお亡くなりになってしまいました。

そのような関係で、やはり皆さんにいろいろなお知らせをするにはどうしても会報のようなものを作る必要があると痛感しまして、私が1976年の暮れに東京の神保町のタイプライター屋で「ひらがな・英文キィー付ポータブルタイプライター」を見つけ、当時の金額で二万七千円で購入してバーゼルに持ち帰り、そのタイプライターで最初のひらがな書きの日本人会会報を作り始めたのが1977年の初めでした。つまり、いまからおよそ四十年前になります。このようなタイプライターは当時でも稀で、ましてや現在では貴重な骨董品になるかもしれません。

当初は一枚刷りの会報で、そのコピ-を三共の事務所でさせてもらったことを覚えています。その後三年か四年ほどは確かこのひらがな書きの会報が続いたはずです。と言いますのは残念ながら会長の交代などに伴う資料の保管の不備から当時のひらがな書きの会報が消失しまっているからです。

その後になって、日本で最初にワープロが売り出されたときにはすぐさま日本で最新のワープロを購入して以来、このひらがな・キ-ボ-ド・タイプライターの役割は終わりになりました。

たまたま最近ソーランドさんからこのひらがな書きの会計報告書(1980)のコピーを頂いたので、それをみますと、当時の日本人会員数がなんと現在以上の100人前後であったのです。そこには会報31号が1979年8月に発行されていたのが明記されています。そしてその年の暮れに会報32号が発行されているのが分かります。ということは、1977年, 1978年, 1979年の三年間で32回も会報、(もっともひらがな書きの一頁ですが)、が発行されていたことになります。


2015年9月29日 (火)

「馬子にも衣装」を死ぬまで続けられますか

「馬子にも衣装」を死ぬまで続けられますか

 

 

最近に出版された本に「何を着るかで人生は変わる」があります。この本を読んではいないのですが、このタイトルからまず考えたのは「馬子にも衣装」という諺です。

 

おそらくこの本を書いた女性は衣装如何によってはいろいろな意味で人生が変わる可能性があることを言っているのでしょう。

 

 

一般的に、男性の場合、会社勤めの間はちゃんとした洋服を着て出社するのが常識であり、上下のコンビの洋服自体が異端者扱いになります。ましてやズボンの代わりにジーンズを履いて会社に行くことは全く不可能なのです。そこにはやはり「馬子にも衣装」の概念が根底にあるのでしょう。女性の場合も似たような状況にあるのが日本なのです。

 

 

ところが、いったん退職すると、退職男性の殆どはジャンバーをきたりしていわゆる軽装になるのが普通です。ですから退職後に今までどおりの背広上下を着てネクタイを締める機会は急に激減してしまうのが普通です。

 

 

でも、ここでこの本のタイトルのように退職後に上下の背広やネクタイが隅に追いやれてしまう生活ではまさに「馬子にも衣装」の世界から脱落してしまうのです。現実問題として、そのような軽装に身を任せて意気揚々としていても心のどこかには寂しさが残るのではないでしょうか。つまり、軽装の変わりにちゃんとした背広を実につけるとそれなりに心がしきしまるはずです。その結果、姿勢もちゃんとなり、高齢者に見られる前屈み姿勢の予防にもなるのです。もっとも、腰が曲がって前屈み姿勢で杖を使うような状態なってしまうとその逆に上下の背広を着ていては滑稽な図になるかもしれません。

 

2015年2月23日 (月)

アニメ、寿司だけが日本文化の典型か

アニメ、寿司だけが日本文化の典型か

後藤さんの悲劇に関連した記事の中でヨルダンとの緊密な連携が報じられていましたが、そのヨルダンについて「アニメなど日本文化が浸透しており親日国」との記載がありました。

確かにアニメは日本が発祥地であることは分かるのですが、日本の文化を代表する文化と謳うのはとんなものでしょうか。このような日本文化の海外普及ということに関して、以前はカラオケとかスシが使われていました。でも日本の文化云々を対外的には発信する場合にはもっと他にあるはずなのです。海外の人に日本の文化を紹介するのにカラオケ、スシ、アニメ、マンガではいかにも低次元の発想であり、物寂しい気がするのです。

もっとも、意外と気がついていないことは、これらの日本文化は積極的に日本が海外に発信したものではなく、海外の人たちに好まれ、その結果、自然と海外て普及したのであって、日本は何もしていないのです。つまり、日本文化の普及という概念は積極的に自分の文化を海外に発信するという意義が有るのですが、海外から見ていると日本は自国の文化を積極的に発信しているとは思えないのです。

例えば、最近の日本に関する評判として「おもてなし」が挙げられますが、これも日本国内の考えが外に知られるようになったのであって、日本に来た外国人が日本人の「おもてなし」の心に触れて自分の国に持ち帰って広まっているのです。

今日のような円安環境では外国人の日本訪問はうなぎ上りに増加しているので、彼らが日本の本当の文化に触れることは非常に大事なのですが、このような場合も日本が積極的に日本の文化を海外に普及させる努力とは捉えることは出来ません。

日本が海外に日本文化センタ-のような施設を一部の国に置いていますが、このような施設を世界各国にくまなく開設して積極的に日本の文化発信をするような考えは国内にはあまりありません。つまり、現在の日本の行政の対外的な文化発信は極めて消極的、ないしは無関心なのです。

2015年2月10日 (火)

現地採用の持つ意味 私も現地採用でした

現地採用の持つ意味 私も現地採用でした

最近の朝日新聞に連載、特集記事として日本人の海外での現地採用者の活躍が紹介されています。

この現地採用という表現は、一般的には「企業等が支店・営業所・工場等の所在地にて社員の採用を行うこと」「現地採用社員は 本社採用に比べて処遇や昇進面で冷遇されている場合が多い」と理解されています。
一般的には日本の企業などが海外に進出したときに現地の人を採用する場合が多いのですが、時としてその中には現地に住んでいる日本人が採用されることがあり、その場合も現地採用となるのです。ですから、企業以外でも大使館などには必ず現地採用の日本人が働いています。そこには同じ日本人であっても厳然たる格差があり、日本の本社から派遣されてきた日本人とは明確な差別、賃金格差があり、同じ社員でも全く異なった雇用形態が存在するのです。

しかし、現在のような国際社会ではこのような表現、雇用形態はむしろ純日本的であり、そこには国際社会のなかでの国際企業という概念はいまだ存在せず、したがって、仕事も常に日本を向いてなされているのです。これが現在の日本企業の海外進出の現状なのです。そこにはやはり島国感覚がありありなのです。
真の国際企業となるにはそのような現地採用のような概念は通用しないのですが、日本の企業のほぼ全社が未だにそのような感覚で国際化を謳っているのです。

本来は日本人が日本から飛び出して現地の社会に溶け込んで、そこの企業で働く人たちがどんどん増えて欲しいのですが、今の若者にはそのような国際感覚はあまり無いようです。それでも、日本の企業に現地採用された人たちが、ある時期に独立して日本の企業とは関係が無い、現地企業に就職したり、或いは自分で企業を立ち上げたりするひとが存在するようになりつつあるのですが、それでも現時点ではそのような日本人の存在が珍しいので、冒頭に述べたような特集記事が書かれているのです。

今後はそのような意味での現地採用という表現はなるべく早く使われなくなって欲しいものです。つまり、海外で、日本の企業とは全く関係なく、独自に海外企業に就職するひとたちが増えて欲しいものです。もっとも、大使館のような純然たる日本の官庁の場合には例外かもそれません。そこには国際的な感覚は極めて薄く、日本の本省に顔を向けて仕事をするからです。

このように考えると、私の人生を振り返ると私は現地採用の連続なのかもしれません。なにしろ、仕事の関係でイタリアに来て(ここまでは日本からの出向)、そこで日本の仕事先を辞めて、現地イタリアの会社に就職口を見つけ、その後に新聞広告でみたスイスの会社に応募して採用されたわけですが、果たしてこれも現地採用なのでしょうか。

2015年2月 5日 (木)

中国に関するジョ-ク (4) 東京は中国の都市名か ?

中国にはいろいろな都市がありますが、勿論日本語式に読むのと中国語式に読むとでは発音は異なりますが、漢字だけをみると日本語なのか中国語なのかの判断、理解は困難な場合もあります。

学校で地理を勉強をしていた中国の小学生が中国にはいろいろな都市名があり、南京とか北京のような南北の漢字と京という漢字の組み合わせがあることに気がついたのです。

日本についての地理を勉強していて彼らが曰く、

 「中国には南京とか北京の名前の都市名あり、その他にも西京という都市名があるのになぜ東京という地名は中国になく、日本にあるのかな。」

 「それは簡単だよ、東京も中国だからさ」(o^-^o)

考えてみれば東京という都市名は確かに中国的な観点から理解すると当然のことながら中国の一部になってしまうかもしれません。

でも考えてみれば中国にはどうして東京という地名が無いのでしょうか。理屈からいえば南京、北京、西京があるので当然のことながら東京もあっても良いことになるのですが・・・・・・。

日本で江戸が日本の首都となり、京都から東に遷都したので「京都の東」という意味で東京と命名されたとの説明が一般的ですが、なぜ「京東」とは言わず「東京」にしたのでしょうか。もっとも、「東の京都」と理解すれば「東京」となってもおかしくはないのですが、その時には中国の地名との関連性については誰も気がつかなかったのでしょうか。

2015年1月30日 (金)

私がブログを書き続ける理由、「傍観者になるな」

私のブログは一般の人のものとは少し異なり、自分の専門分野のことから始まって日常生活の中からの思い着き、新聞記事に対する感想、批判等いろいろな分野でいろいろな観点からその時々に考えたことを綴っています。

一般には一つの話題についてブログを書くのが普通のようですので、私のブログには一定の読者は多くないようです。ですから私のブログは「異見万華鏡」のようなものかもしれません。

最近の新聞にアウシュビッツ解放七十周記念に関連して、この収容所での生き残りの人が「傍観者になるな」ということを強調され、そのような状態になることが一番恐ろしいことであるとのことが伝えられていました。つまり、この収容所で働いていたドイツ人みな平凡な人であったのだが、みんな思考を停止し、周囲に同調して悪魔の所業に加担したことを指摘しているのです。

確かに、一つの集団の中で一個人の影響などはほとんどないのかもしれませんが、それで沈黙を保っていることは結果的には「傍観者」になることなのです。

そのような観点から何かを発信するということの意義をこの人からも学べるのです。まあ、このような意義の認識、記述はある意味では大げさなことかもしれませんが、要は何を言っても、何を書いても、意味が無いからといって止めるのではなく絶えず継続することも必要なのです。

2015年1月10日 (土)

中国に関するジョーク (3)

中国に関するジョーク (3)

あまり歴史にあまり知識の無い二人の中国人の会話

「日本は中国の領土なんだよ」
「とうして?」
「だって日本には東京という名の都市があるだろう。あれは南京とか北京とかのように中国の都市の名前なんだよ。おまえ知らなかったのか」

でも考えてみれば全くありえない話ではないかもしれません。
周知のように東京という名前は京都の東という意味で江戸の名前が明治維新で東京という新しい首都名になったのですが、歴史的には中国にはかっては北京、南京、東京、西京、中京、上京などの都市名もあったのです。

2015年1月 2日 (金)

聴覚、視覚などの機能向上

聴覚、視覚などの機能向上

一般的には人間誰しも聴覚と視覚は同時に働いていてもそれぞれの機能への認識は殆ど無いのではないでしょうか。これが、聴覚障害者とか視覚障害者になるとそれぞれに存在している能力が最大限発揮されるのは当然のことなのです。

私たちは一般的には日常生活において見たり聞いたりすることは当然のことと考えているのではないでしょうか。ところが、意識的にこれらのどちらかの機能を閉じると意外な効果、発見があるのです。

例えば、音楽会では普通の場合、音楽を聴きながら無意識的にオケストラ・メンバーの動きなどを眼で追っているのです。このような場合には視覚と聴覚が同時に働いているので、両機能を通じて受けるコンサート全体の印象は極端に言うと半減されているのです。つまり、音楽会などで演奏を聴く場合、眼を閉じて聞くのと、眼を開けたまま聞くのとではそのインパクトが異なるのですが、そのような微妙な違いはなかなか認識できないかも知れません。

音楽会とか観劇などの場合に一度そのような経験をしてみるとそれから受ける印象はすこし異なることが分かるはずです。似たようなことはテレビなどを音なしで見ることによって、画面から物語を理解しようとする機能、能力が100パセント発揮されるのが分かるのです。つまり、そのような場合には視覚機能が最大限発揮されるのです。私は長距離空路での旅の機内テレビはヘッドホンなしで見るようにしています。それでもストリーは容易に理解できるのです。おそらくそこには理解しようとする機能が通常以上に発揮されるからかもしれません。

このような動作を日常生活の中で頻繁に繰り返すことによりそれぞれの機能、つまり視覚と聴力、が訓練され、いままで以上にそれぞれの能力が向上するのですが、殆どの人はそのような訓練の意義を知らないので、全く経験していないのではないでしょうか。

身体を鍛えるということは単に運動機能だけを念頭に置くのではなく、人間が本来持っている機能、つまり聴覚、視覚、触覚、味覚、感覚なども訓練次第ではかなり向上するのです。もちろん、これらの機能自体がはじめから鋭敏になっている人も居ますが、訓練することによりかなりそれらの機能も向上するのです。例えば、香水調合師とか調理師なども訓練によりそれぞれの能力が向上することが知られています。

そのほかにも嗅覚能力は人によってさまざまですが、意外とそれらの違いを経験する機会は少ないかもしれません。人ごみの中にいままで外でタバコを吸っていた人が入ってきたときもその人の体からタバコのにおいを即座に感じる人と感じない人とが居たりします。このほかにも、座禅とか瞑想の時間で、それらの行為が終わった後の部屋の空気が通常のものとは異なるとのことですが、もっとも、このような微妙な違いを経験するのはむずかしいかもしれません。

意外と知られていないのは触覚の機能なのです。ある研究では盲目の人が指で触るだけで描かれている絵の色を認識できことが明らかにされています。

これと似たようなことで、私は手で触れだけで洋服などのほこり、汚れをある程度認識することが出来るのです。そのほかにも私の嗅覚は他人より敏感で、プールなどでゴム製のキャップを被っている人からのゴムの臭いは二メートル先ぐらいから感じ取れるのです。そのほかではメンスのある女性の呼気から容易にその存在を感じ取れるのです。いゃ、本当なのです。

2014年10月 3日 (金)

中国の反日,嫌日に関するジョ-ク (1)

新聞記事だけを読んでいると中国は反日、嫌日の社会と理解しがちですが、中国は膨大な国だけにそれぞれの都市、地方によっても著しく社会構造、文化、慣習が異なるので一概には言えないのですが、新聞は良いことは報道せず、悪いことだけしか報道しないので、日本人の多くは反中、嫌中かもしれません。
よく言われているように「犬が人に噛み付いても記事にはならないが、その逆に人間が犬に噛み付いたら新聞種になります」

いずれにしても言えることは、お互いの交流が無ければ理解は無理なのです。ましてやその間に政治が介入するととんでもない結果になってしまいます。いずれにしてもわれわれ日本人はたゅうごく、中国人のことをあまりにも知らないのです。そのような意味で、Record Chinaというサイトを読んでください。そこには中国人が日本に関してのいろいろな感想、コメントを書いているのですが、それらを読むことによって逆に中国ではそうではないんだと、間接的に中国を理解することができるのです。

まあ、そのような環境下で日中の間にわだかまることも笑い話的に解釈すれば、多少は環境が良くなるかもしれないので、笑い話、ジョ-クを作ってみました。

上海とか北京のような大都会での大気汚染は気候にによっても異なり、すさまじいものがあるようです。日中でも太陽が見えなくなるような日があるとか。

「どうしてそのような都会で深刻な大気汚染があり、太陽が見えなくなるようにもなるのですか」

「それは簡単ですよ、中国人は日本が嫌いなので、日本の国旗は日の丸でしょ。だからわれわれの世界にも稀な先端技術を駆使して日の丸に代表される太陽を隠して見えなくするんですよ。」(o^-^o)

2013年6月21日 (金)

海外在留日本人困惑エピソード集(2) 鼻をかむときの爆音

海外在留日本人困惑エピソード集(2)

鼻をかむときの騒音、鼻紙とハンカチの区別

日本人では鼻紙とハンカチとの使用区別は極めて明快です。つまり、基本的には鼻紙は文字通り鼻をかむ、鼻水を拭う、などの目的のみしか使わず、一方のハンカチは濡れた手を拭くとき、あるいは汗を拭くときに使うことを意味しています。しかも鼻をかむときにはあまり音を立てづにかむのがエチケットになります。したがって、日本の都会の街頭でよく配られているティシュは文字通り鼻紙になりますし、あの薄いティシュペーパーでも十分に用を足すことが出来ます。

しかし、あのティシュは一枚一枚があまりにも薄いので、風邪をひいたときには数枚重ねて使わないととんでもないことになります。その点、日本でも購入できるTempo Menthol、ポケットティッシュは便利です。このティッシュはかなり厚手で、しかもその大きさは20x20cmであるので、数回使うことが出来ます。

ところが欧州では歴史的にも鼻をかむには紙を使わずにハンカチを使っていたので、現在でも未だに多くの人はハンカチで鼻をかむのです。とくに、このことは男性に多いのです。最近でこそTEMPOなどの鼻紙専用のものが汎用はされていますが、それでも未だにハンカチで鼻をかむ人は結構多いのです。しかも、鼻をかんだハンカチをそのまま手で丸めてポケットなどに入れ、必要なときにはまたそのハンカチをおもむろにポケットなどから取り出して再び鼻をかむのですが、その時にわざわざハンカチをおもむろに広げて。使うのです。この操作を何回もするので、見ているだけで気持ちが悪くなるのですが、彼らはそれが当たり前で汚いなどとは考えていません。このような使われかたをしたハンカチを無造作にポケットに入れるのですが、それを何回も繰り返していることになります。でもそのようなポケット内の汚さを想像したらゾッとします。

しかも、日本人にとって耐えられないのはその鼻のかみかたなのです。それはなんと音をわざわざ立てている感覚で「プー」と大騒音を立てるのです。そのような鼻のかみかたを会議などでしたら日本人はびっくりするかもしれませんし、大勢の人の顰蹙をかうことは火を見るより明らかです。こればかりはそのような光景を体験しない人には想像もつきません。ですから、そのような鼻のかみかたをする人が日本に来て、あの薄いティッシュを使って鼻をかんだらその顛末がどうなるか想像しただけておそろしくなります。しかも「汚いことに」、そのような鼻をかむ目的に使われたハンカチは洗濯機に他のものと一緒くたにして洗うのです。

このように理解すると、日本人のようなハンカチの使い方をしない欧州人の多くは日本の公衆トイレに入ったら濡れ手を振りながらトイレから出てこなくてはならないこともあります。とくに、日本のデパートとか駅の公衆トイレのすべてには濡れ手を乾かす手段、温風ジェット機、が未だ備え付けられていない場合もありますので、それを知らない欧州人が日本に初めて来たときに困惑する最初のケースになるのです。

すこし脱線しますが、鼻をかむ、という表現はどこから来たのでしょうか。ハナヲカムが ハナカミへと変音したのかもしれませんね。とするとハンカチも英語からの日本語では無く、ハナオカムに由来しているのかも。ハナオカム、チンハナカムチン、ハンカチとなったのかも(o^-^o)

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