「バ-ゼル日本人会のはじまり」
「バ-ゼル日本人会のはじまり」
世界各地には日本人が滞在、居住し、現在では年によっては日本人街を形成しているところもあります。例えば、欧州ではドイツのジュッセルドルフには日本人が多く住んでいて、毎年の夏になると日本の花火大会が開催されるくらいです。
スイスにも現在では日本人が恐らく千人単位の日本人が生活していると思われます。そのような環境下では自然と日本人同士の集まりがあり、それが発展して日本人会が結成されるのは当然の成り行きなのです。
スイスの都会で日本によく知られているのはチュ-リッヒ、ジュネ-ブ、ルツェルン、などの観光都市ですか、バ-ゼルはあまり知られていないかもしれません。もっとも、バ-ゼルは製薬関係者にとっては知られているかもしれません。
日本人会が形成されると、当然のことながら会報が作られるのです。バ-ゼル日本人会の会報は1977年に発行され、年に数回発行されています。
六十年代、七十年代前半にはバ-ゼルの日本人はそれほど多くはなく、スイス人と結婚された女性と、何らかの経緯でバーゼルに居住していた男性とほぼ半々くらいではなかったかと思います。私の記憶に残っている範囲内では男性としては伊藤慧さん、三洋電機のヨーロッパ事務所長の杉本さん、三共製薬欧州連絡所長の庄田さん、バーゼル大学病院の麻酔の先生の宮本さん、などでしたが、当時はいまだ日本人会としての集まりはなく、伊藤さん、アーベルさん、ショイバーさんなど当時すでに小さな子供さんが居られた家族同士の集まりなどがあり、たとえば伊藤さんが音頭を取ってのSissach郊外のSissacher Fluhへのハイキングなどがありました。当日は帰りに雨に降られ、子供たちと一緒に上から徒歩で駅までビショビショになってたどり着いたことを覚えています。
もっとも、それ以前にはスイス人と結婚されていたStraeuliさんの奥さんがバ-ゼルに住んでいた最初の日本人ではないでしょうか。旦那さんのシュトロイリ-さんは1950,1960年代に時折日本からいろいろな分野で研修するためにバ-ゼルに短期に滞在していた日本人のお世話をしていまして、当時の地元の警察からそれらの日本人で何か問題があった時の世話を頼まれていたのです。このシュトロイリ-さんは戦争中は日本に滞在されていて、東京にあったアメリカ大使館の管理者をされていたのです。戦後、バ-ゼルに戻られて当時のガイギ-社に勤められていました。なお、その後に大使館の関係者からシュトロイリ-さんの日本人に対する貢献という観点から日本政府に叙勲の推薦の話がありましたが、それが実現する前にお亡くなりになってしまいました。
そのような関係で、やはり皆さんにいろいろなお知らせをするにはどうしても会報のようなものを作る必要があると痛感しまして、私が1976年の暮れに東京の神保町のタイプライター屋で「ひらがな・英文キィー付ポータブルタイプライター」を見つけ、当時の金額で二万七千円で購入してバーゼルに持ち帰り、そのタイプライターで最初のひらがな書きの日本人会会報を作り始めたのが1977年の初めでした。つまり、いまからおよそ四十年前になります。このようなタイプライターは当時でも稀で、ましてや現在では貴重な骨董品になるかもしれません。
当初は一枚刷りの会報で、そのコピ-を三共の事務所でさせてもらったことを覚えています。その後三年か四年ほどは確かこのひらがな書きの会報が続いたはずです。と言いますのは残念ながら会長の交代などに伴う資料の保管の不備から当時のひらがな書きの会報が消失しまっているからです。
その後になって、日本で最初にワープロが売り出されたときにはすぐさま日本で最新のワープロを購入して以来、このひらがな・キ-ボ-ド・タイプライターの役割は終わりになりました。
たまたま最近ソーランドさんからこのひらがな書きの会計報告書(1980)のコピーを頂いたので、それをみますと、当時の日本人会員数がなんと現在以上の100人前後であったのです。そこには会報31号が1979年8月に発行されていたのが明記されています。そしてその年の暮れに会報32号が発行されているのが分かります。ということは、1977年, 1978年, 1979年の三年間で32回も会報、(もっともひらがな書きの一頁ですが)、が発行されていたことになります。