カテゴリー「ニュース」の記事

2013年3月28日 (木)

「華のパリ」は「中国人のパリ」

「華のパリ」は「中国人のパリ」


久しぶりにパリを観光してきました。スイスからパリまでフランスの新幹線と言われるTGVに乗っていったのですが、私がいつも感じるのはこのTGVは日本の新幹線、ドイツのICEに比べて車体の幅がすこし狭く、また窓の高さも低いのです。したがって車内も新幹線に比べたら薄暗く、狭い感じです。ちなみにそれぞれの車体幅を比較しますと新幹線3.35m, TGV 2.90m, ICE 2.95mとなっています。


パリの駅では頻繁に手荷物などの盗難に気を付けるようにと車内放送があるのには驚きました。というのも、TGVに乗っても車体によっては座席の上の棚が狭く小型トランクを載せることが出来ないのです。したがって、それぞれの車両の入り口のところにトランク置き場があるのですが、そのような状態だと運が悪いとトランクを持ち逃げされることもあり得るのです。


しかし、町の中での東洋人の観光客は一昔前とは完全に入れ替わっていました。60年代には日本の農協の団体がパリをはしめ欧州に大挙してやってきたものですが、今は中国の観光客の団体で溢れていました。もっとも、今の人たちには農協団体の海外旅行なんてなんのことかわからないかもしれません。当時は農家の全盛時代でおかねもちの農家のひとたちが大挙して海外旅行をしたものです。農協さんの海外旅行にかんしての笑い話にロ-マのコロセオを始めて見て「へぇ、ロ-マにはまだ戦争被害の跡が残っているのですね」と感嘆したとか。


 


どこもかしこも東洋人と言えば中国人がほとんど。日本人はむしろ個人単位の観光客とも言えます。全く変われば変わったものです。ともかくデパートには中国人の団体客が通訳の人に従って動いていました。またどの売り場にも東洋系の女性が居るのにも驚きました。おそらく彼女らは中国語を話すことができるのかもしれません。ともかく他の国では見られない光景でした。それだけ中国人の団体はよいお客さんなのかもしれません。それにしてもそれぞれのデパートの顧客対応は大したものです。


 

2013年1月19日 (土)

TBSみのもんたの朝ズバの女性群

TBSみのもんたの朝ズバの女性群

朝のTBSテレビ番組の「みのもんた朝ズバ」は手軽にその日の情報を解説付きで知ることが出来るのでよく見ているのですが、あの画面を見ていていつも気になるのは数人の解説・評論家(?)の後ろにいつも数人の女性が立ちっぱなしでいることです。彼女らは何らの発言もなく、時折うなずくだけなのです。でもなぜ彼女たちは毎朝あのように後ろに立ちんぼしているのか不思議でなりません。いったいなんの目的があるのでしょうか。ただうなずくだけでまったくの飾り物。女性軽視では ???とさえ思えるのです。もっとも、彼女らにしてみればテレビに映るだけで満足しているのかも知れません。せめて彼女らにもときどき意見を聴いてみてはどうでしょうか。

つまり、彼女らには何らの発言権もなくただ立ちんぼしているだけだとすると不適切に女性を利用していることにはならないのでしょうか。果たして彼女らの存在が不適切かどうかは立場が異なると違うのかも知れません。でも、私に言わせれば女性蔑視になるのではないでしょうか。

もし飾りものならば着物でも着てもらい毎日着物を変えてもらえば番組を見ている男性にとっては目の保養になるのですが・・・・。(*^-^)

このことについてTBSに問い合わせたのですが、何らの返事も来ませんでした。

追記 (2013 Feb)
たまたま今日になってこの番組をみたら例の女性群の姿が消えていました。おそらく私の問い合わせに反応したのもしれません。でもいざこれらの女性群がいなくなるとなんかもの寂しくも感じ、また彼女らに悪いことでもしたような気持にもなりました。つまり、彼女たちは職を失ったからです。せめて、彼女らにも椅子に座ってもらっていて時折彼女らの意見も聞ける環境でもつくってあげていればよかったのではないかとも考えましだが・・・・。

2012年11月 8日 (木)

過去のものとなっている日本の存在

過去のものとなっている日本の存在

オバマ大統領が再選されたニュースは世界のテレビが放映していたのですが、欧州のテレビでもそれぞれ独自の番組で放映していました。そこにはアメリカ以外の国での反応も簡単に映像に映りました。たとえば、ドイツのテレビでは英国、フランスなどの反応も同時に簡単に紹介されていました。さらに、そこには中国のテレビ放映も必ず入っていました。しかし、日本はまったく無視されていました。つまり、欧州では海外主要国の話題には日本はもうまったく載らないのです。つまり、日本は欧州の人たちにとっては過去の存在になっているといっても過言ではないのです。

ある人がロンドンの空港でたまたま両替のレート表をみていたらいつの間にか日本円が消えていたと驚いていましたが、特別に驚くことではないのです。欧州の日常生活ではもう日本はほとんど話題にならないのです。日本に代わって中国なのです。たとえば、旅行者用の自動翻訳機には前はいろいろな言語の中に日本語がかならず入っていましたが、最近発売されているものには日本語が消滅し、中国語がそれに入れ替わっています。そのほかにも主要なホテルには中国語のテレビ放送はあるが、日本のテレビはまったくありません。ホテルに中国人の団体が来れば場合によってはホテルの入り口に中国の旗がひらめくこともあります。ともかくそのような細かいことにまで注意したら日本は完全に消えてなくなっているのです。

まぁ、このような事情は日本に住んでいる人にはまったくわからないことです。考えてみれば日本は島国であり、海外との関係が極めて薄く、また海外の出来事に関心も殆どないのではないでしょうか。たしかに国境が地続きの欧州では国外の出来事は敏感に反映されるのですが、現在の欧州では海外関連ではアメリカか中国しか眼中にないものと考えても過言ではないのです。考えてみれば、日本では国外という表現よりも海外という表現がぴったりです。日本語では「海外ニュース」とは表現しますが、「国外ニュース」とは誰も書きません。ある意味では日本はまさに天国だと思います。

2012年11月 6日 (火)

マスコミの影響

マスコミの影響

「20121105.jpg」をダウンロード

この写真の説明でASEMの会議で野田首相が温首相に無視された、と報道されていました。
この写真を見た一瞬、まさにそうだ、温首相はけしからん、とほとんどの読者は理解したのではないでしょうか。わたしも、そのように理解し、全く温首相は子供っぽい態度だと思ったのです。

ところが良く考えてみると、どっちもどっちだったのではないのでしょうか。つまり、お互いに無視し合っているのにすぎないのかも知れません。これが、野田首相が握手をしようと手を差し出しても温首相に無視されたのなら、この写真の説明通り、野田首相は全く無視された、となるのですが真相はどうなのでしょうか。

これを中国側からみれば野田首相は温首相を全く無視したと解釈されても仕方が無いのかもしれません。

それにしてもたった一枚の写真でもみかたを変えれば全く逆の解釈も成り立つのです。いゃ、マスコミの影響は絶大です。

2011年6月15日 (水)

2011年の漢字、流行語

2011年の漢字、流行語

毎年暮れになるとその年に起こった社会情勢を代表的な漢字で表わすことが慣例行事となっていますが今年2011年の漢字はどのようなものが選ばれるでしょうか。その選択の困難は漢字一字で代表するからです。もしかしたら東日本大震災に関連した「忍」かも知れません。


でも流行語のように数語であると明らかに「想定外」になるのではないでしょうか。福島原発が関与した典型的な表現であり、これほど頻繁にマスメディアに使われた表現は無いのではないでしょうか。

追記 (2011/07/20)
この「想定外」は女子WFootballで優勝した「なでしこジャパン」も該当するのではないでしょうか。これで、「想定外」の明暗の二つの部分が出そろったことになります。

(2011/12/10)
残念ながら、今年の漢字は「絆」に決まりました。もっとも、「想定外」はその候補には入っていました。

2011年4月14日 (木)

二次元(時系列検証)メディア出現の意義 (再掲)

二次元(時系列検証)メディア出現の意義 (再掲)

新聞記事を二次元的(過去と現在)に捉えて、過去と現在との組み合わせで政治家や行政などの価値判断の材料の手段としての比較分析を目的としたメディアを提唱したい。二次元報道は何も前言の揚げ足をとるといった週刊誌的な発想ではなく、あくまでもどのような環境、状況下でそのような発言時の結果が達成出来なかったのか、どの程度の進展度が得られたのかなどの反省材料にもなる筈である。このような視点からもっと国民が政治に関心を示せば日本の政治はより良いものになると思う。

新聞は毎日読んで、読んだらそのまま捨てるというのが一般常識です。しかし、時には以前の新聞がなんらかの機会に目に触れることがあります。例えば、包み紙に使われていた古い新聞とか、物置の隅から出てきた新聞などを改めて読むことがありますが、そのような時に「あれ、あの人はあの時こんな事を言っていたのか」、「このような発言、批評は今からみると正にその通りになっているではないか」などいろいろな新しい発見があるものです。「ああ、そういえばこんな事もあったんだな」、「あのときあの人はこんなことを表明していたが、どうして今はそのような事が忘れられてしまったのだろうか」、などなど実にいろいろな思いが巡らされるものなのです。

しかし、一般的にはそのような機会はめったにありません。なにしろ新聞は一回読んだら捨てられる運命にあるからです。勿論、理論的には図書館に出向けば前の(場合によってはかなり昔の)新聞を閲覧することは出来ます。しかし、特別な調べ物があるような場合以外には普通はそのような機会は与えられません。

現在のマスメディアの代表である商業新聞の記事はそれぞれの時点での報道であり、しかもある一面から観た報道であるのですが、意外と読者の多くはその一時性(或いは一過性)、一面性という要素を忘れて何らの抵抗もなくそれらの記事の全てを正面から鵜呑みして信じてしまうという魔性が新聞にはあります。しかも、通常の新聞報道の最大の弱点はある時点での報道に関連した過去の記事にまでも同時に言及することは全くありません。この場合の過去の記事への言及とは書かれてある内容の誤りなどの訂正ではなく、その内容の時間的変動を意味します。つまり、報道された内容が数日後、数週間後、数カ月後になってその報道と異なる内容の場合、余程のことが無いかぎり新聞紙上にて過去の比較・参照記事としては現れないのです。特に、政治関連、経済関連の関係者の発言などはその典型的な例ではないでしょうか。

いつもの例で、何か事件が起きた当初の関係者の最初の発言、コメントは「いや、絶対そんなことはありません」、「全く存じておりません」などと公言されていても、その後の事態の進展に伴い、そのような過去の発言が全くの嘘であることは我々新聞の読者がしばしば経験することです。しかし、それが数カ月ないしそれ以上も経ってからの報道では以前の発言内容を詳細に記憶している読者は少なくなっています。もし、そのような時に当時の発言内容などが並行して参照記事になっていればその当事者に対する印象、記事から受ける印象は全く別な物になる筈です。

最近の狂牛病に関してのEUと日本の農水省とのやりとりが比較・参照記事として詳細に新聞報道されていますが、あのような例は極めて例外ではないでしょうか。その意味では狂牛病に関しての比較記事は国民一般へのメッセ-ジとしてはかなりインパクトが強いものになっている筈です。このように考えますと、政治家、行政担当者などの過去の発言、行動などを過去のものと常時比較しながら日常の記事と並行して読むことが出来るならば国民の政治への関心も一層強くなるのではないでしょうか。いずれにしてもこのような比較参照記事が並行して要約されるようになれば極めて有益なものとなると考えられます。しかし、現時点ではそのようなことを既存の商業紙に期待するのは不可能です。

現在の新聞報道はそれぞれの時点での状態、状況を表現しているに過ぎないのです。つまり、点情報なのです。ましてや、その内容が政治の将来性、経済予測などに関連している場合には、極端な表現を借りるならば、責任が伴わない全くの言い放し、報道のし放しなのです。つまり新聞記事が語る記載内容は一次元の世界での出来事と解釈するべきなのです。それぞれの分野の専門家と称する人達がいろいろな分野、特に政治・経済分野で自分の知識、経験から将来を新聞紙上で予測したり、コメントしたりしているのは日常茶飯事です。しかし、これらの予測やコメントはその時点での見解であり、果してそのような発言が将来とどのような関連があるのは全く無関心、無関係なのです。

時折、週刊誌などで政治家の過去の出来事を洗いざらい持ち出してあたかもそのような過去の出来事と現在の立場とが関連あるような記事が面白、可笑しく書かれることはありますが、問題は他人のあら捜し的な記事では困るのです。いろいろな分野の人達の過去と現在との発言内容を比較してそれぞれの行政当局、専門家(殊に政治家)などの資質を問うような記事が欲しいのですが、現状ではあまりそのような並行比較参照記事は多くは見かけません。専門家というのはその時点での専門家であり、時間の経過がその専門家の資質を変える可能性(良い面でも、悪い面でも)があることはほとんどの場合不問に付されているのが普通なのです。新聞の一般読者はとても数カ月、数年前に同じ専門家が同じ問題に対してどのような発言、行為をしていたのかを記憶していることは極めて難しいのです。

例えば、薬害に関して当時の厚生省の担当官が発言した内容がその後の経過とともにどの様に変遷してしまったのかを知ることは一般読者にとっては至難の技なのです。これが裁判沙汰にでもでもなればそのようなことが表面に出てきて新聞にも詳細に報道されますが、一般的には裁判とか事件にならない限りいろいろな人達の過去の言動、行為などを改めて知る術はないのです。その他の例では選挙運動中の発言と当選後の言質との乖離を指摘することは普通の読者には極めて困難なのです。今日のようにいろいろな情報が満ち溢れている社会ではそれぞれの責任ある人達の発言、批判、評論などを自分の頭の中に常に記憶しておくことは不可能なのです。それに引き換え、コンピュタ-の世界ではそのような過去の資料からの情報の引き出しは極めて簡単です。確かに、今日のような激動の社会、世界では一年前の考えはすでに陳腐なものになってしまうかもしれません。しかし、責任有る地位にある人たちはそれぞれの発言、発表にはある程度の責任というものが伴わなくてはなりません。まして、これが政治家となると尚更です。

その他の例では、最近のイスラエルとパレスチナの問題が挙げられます。両国の現時点での関係は極めて残念ながら時代を逆戻りするような悲劇の連続です。でも、一二年前にはもうすこしでというところまで両者の関係は旨く進展していたのです。当時の新聞を現時点で読み返してみますと実にその頃の情勢がありありと蘇ってくるのです。そのような理解があればどうして僅か一二年の間に今のような暗黒の世界に逆戻りするようになってしまったのかという反省の余裕も出てくるものです。

さらにその他の例として、良く年頭の所感とか抱負などが恒例のようにそれぞれの関係者から述べられますが、一年後に果してそれらの抱負などがどのくらい叶えられたのかなどの反省記事はめったに見られませんし、一般のマスコミもあまりそのようなことには関心が無いようです。年頭の所感とか抱負などはある意味では全く責任のない都合の良い一時点での発言に過ぎない場合が多いのです。

そこで、筆者が提唱したいのは、新聞記事を二次元的に(つまり、過去と現在とにわたって)捉えて、過去と現在との組み合わせで政治家や行政などの価値判断の材料の手段としての比較分析を目的としたメディアを出現させることです。もし、このようなメディアがあったら社会にどれほど貢献するかわかりません。つまり、ある専門家(政治家、経済学者、大学教授など)や行政当局などの発言の過去との繋がりを即座に並行・比較参照記事として読者に提供することです。

このことは何も週刊誌的なゴシップ記事的なものを求めるのではなく、時間の流れの中でそれぞれの専門家と称される人達が責任をもって絶えず発言、批判、コメントをするという枠作りに貢献することなのです。つまり、現時点での発言、発表に対してあなたはかってはこのように言っていましたが、どうして現在ではそのように変化したのか、などとの見解を間接的に求めることにより、発言への責任感とともに将来へのより有意義な飛躍にも繋がるのではないでしょうか。せびこのような比較記事を主体にしたメディア(紙の媒体でも電子媒体でも可)を出現させたいものです。

例えば、過去10年の日本社会について、このような解析をしてみれば、いかに同じようなことを、何回も繰り返して来たか、明確になるのではないでしょうか。この二次元報道は何も前言の揚げ足をとるといった週刊誌的な発想ではなく、あくまでもどのような環境、状況下でそのような発言時の結果が達成出来なかったのか、どの程度の進展度が得られたのかなどの反省材料にもなり、さらに、未来のより良い対策の構築に寄与する筈です。このような視点からもっと国民が政治に関心を示せば日本の政治はより良いものになると思うのです。そのような意味でもこのような二次元マスメディアの出現が望まれます。なお、技術背景を考えるとインターネットメディアでは、紙のメディアに較べて、このようなメディアがより作りやすいに違いありません。

(2002/1/5 原稿作成 インターネット・マガジンWorld Readerに発表済、『日本・世界の再生』・もう一つの視点 WR1070、2002/1/22)


2011年3月 7日 (月)

政治資金規正法の誤用、悪用。  法律解釈の意味

政治資金規正法の誤用、悪用

前原誠司外相が政治資金規正法で禁じられている外国人からの政治献金を受け取っていた問題の責任を取って辞任する結果になってしまった。しかし、この献金をした人は昔からの知人である在日韓国人で料理店を開いている女性とか。しかもその献金額は誠にささやかな金額であり、本当に善意で献金していたと考えられる。したがって、岡田克也幹事長が5日のテレビ番組で、4年間で20万円とされる献金について「金額も限られている」と指摘し、「事務的なミスでいちいち大臣を辞めなければいけないのか」などと前原氏を擁護する発言をしていたことも理解できるはずである。

一応。規則上は外国人からの献金は禁止されているが、一介の在日外国人をこの法律の外国人に該当させるのは明らかに外相外しの目的以外には考えられない。確かに、規則は規則であり、尊重すべきではあるが今回の献金問題は従来の献金疑惑と比較するとその金額のケタがあまりにも違いすぎ、しかもその献金意図が極めて単純であることが大きな特徴である。まさか、この料理店のおばさんが日本転覆を目的として献金していたなどと考える人は誰もいないはずである。

このような単純ミスで一国の外相が辞任させられようでは多くの国会議員も何らかの形で規則違反している筈である。たとえば交通違反でも規則は規則であり、議員たるものが交通違反とはけしからんとなるべきかもしれない。もし、政治資金規正法制定時の意図を本当に正しく理解するならば今回の献金問題は外相辞任には該当しないと考えるべきである。もし今回の献金が違法の前例として判断、解釈されれば今後辞めさせたい大臣、議員に日本国籍を失った海外日本人とか、在日二世で名前に日本名を使っているような人か少額の献金をすればいとも簡単に該当大臣、議員を辞任に追い込むことが可能になることを付け加えたい。

一般的な概念として、法律の適用に際して法律本来の意図を十分に理解することが必要で、いたずらに条文だけを判断して云々することはちょうど重箱の隅をほじくるようなもので、ことの本質を理解していないことになる。その典型的な例は個人情報保護法の解釈、適応を挙げることができる。街角で一人のひとが友人を訪ねてその家を探していたときに、たまたま郵便配達人がいたので、その友人の家の番号を言って何処にあるのでしょうかと聞いたところ、個人情報保護法ではそのような行為は禁止されていますので、教えられませんと返答したとか。これなどはまさに空いた口が塞がらない典型例ではないだろうか。

つまり、これと同じようなことが今回の政治資金規正法にも当てはまる。その献金の目的がなんであるかを詮索するのが本質であり、形式だけを捉えて、昔からの知人からの献金もたまたま国籍が違うだけで法律違反として大問題化するのはまさに重箱の隅をほじくるような行為である。もしこの考えが正当とするならば今までの献金者全員の国籍確認作業をすれば現在の議員、大臣の一部の人たちは法律違反していることが明らかになる可能性が極めておおきいことも忘れてはならない。したがって、ある意味では今回の外相外しは自分たちの首をみずから絞める行為に発展する可能性もある。