私の人生歴、簡略版
私の人生歴、簡略版
私は1955年(昭和30年)明治薬科大学卒業後、厚生省に入省。温泉の源泉水質分析に従事してきました。人と違うことをすることが好きだった性格であり、まだ留学する人がほとんどない時代に、海外に出たいと考え、イタリアの政府給付留学生試験を受けました。当時、イタリアへの留学生のほとんどは、音楽・美術建築関係者ばかりで、自然科学・医学関係者を招致したいイタリアは、英語での受験を認めていました。そこで、私は、カナダ人の宣教師に英語の集中レッスンを受け、試験に見事合格。
1956年、晴れてイタリア政府給付留学生としてイタリアにやってきました。この留学は、同時に厚生省からの派遣の形にもなっていました。ペルージアでの2ヶ月間の語学研修を経て、ローマの国立高等衛生研究所に入所。1年後には留学資格を延長し、その時点で厚生省を退職します。
その後、ローマ大学薬学部に編入、入学し、薬学部を卒業して、薬学博士を取得しました。日本の大学を卒業していたので、多くの単位を認められて、一年半の学習で、卒業することが出来ました。当時は、現在のような複雑な学位形式はなかったのです。
その頃、続けてイタリアに残って仕事をしたいと考えていたので、友人のイタリア人神父さんに相談したところ、ローマ近郊にある小規模の製薬会社を紹介してくれ、すぐに研究室での仕事を始めます。1960年台に入ると、日本から農協・農業団体がイタリアに観光に来るようになり、ガイド・通訳などもしていた時期があります。
その間にイタリア人女性と知り合い結婚します。
1967年になり、イタリアの新聞に英文広告を見つけます。それがスイス・バーゼルに本社を置くガイギー社で、応募したところ、すぐに採用となり、夫婦でバーゼルにやってきます。同社で、海外からの報告の文献調査や副作用関係の調査を担当する部署で働きました。1970年のチバガイギー合併を経てノヴァルティスになるまで働き続け、1996年65歳で定年退職しました。退職後は、しばらく日本の製薬関係者を対象に年3〜4回講演会を続けました。
バーゼルに来て、私夫婦には子供が生まれましたが、イタリア人の家内は希望の職に就けなかったことや子供の教育の問題、母親の世話などの諸事情が重なりイタリアに戻りました。その結果として、単身赴任のような形になり、千キロ近い道のりを毎回、週末にイタリアに戻るというハードな暮らしをしばらく続けていましたが、3年ほど日本ガイギー(宝塚)に派遣され日本で暮らすことになり夫婦生活が疎遠になり、最終的には離婚することになりました、
そのご、ドイツ人と再婚し、先年、その家内が亡くなり、現在は一人で暮らしています。時々、近在の日本人とレストランに行ったり、食事を持ち寄っての交流をしてり、また時々、昼食に友人を誘ったりしています。。
私がバーゼルに来た頃は、まだ在住日本人は少なかったものの、年々増え続け、1977年にバーゼル日本人会が設立され、初代会長に就任し、1985年まで続けました。ひらがなのタイプライターを日本から取り寄せて会報を作るなど、苦労も多かったのです。その後、2000年から2006年にも再び会長をし、バーゼル在住日本人の親睦・交流に貢献しました。
長年イタリアとスイスに住む中で、私はヨーロッパと日本の違い、海外に住む日本人の問題を真剣に考えるようになり、ブログで情報発信をしてきました。そして、今回、海外在住日本人の重国籍問題に焦点を当てた論考をまとめた本を文芸社から出版することなりました。
つまり、「戦後、海外には膨大な数の日本人が居住、活動していますが、その結果として、外国籍を取得せざるを得なくなった人もかなりの数になります。しかし、そのような場合、現在の国籍法により、自動的に日本の国籍を失い、日本人ではなくなってしまいます。その典型例は、アメリカでノ-ベル賞を受賞した数多くの元日本人研究者です。
もし、日本が《重国籍》を容認していれば、それらの人たちは日本人として世界の誇りにもなるのです。したがって、日本にいる日本人に対して、海外在住日本人の《重国籍》問題を理解してほしいということで、文芸社から出版に至る大きな引き金となりました」