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2024年2月の記事

2024年2月15日 (木)

法治社会の閉塞性

今回のミス日本選抜に関連して、日本の国籍を選択していた外国人女性がミス日本に選ばれたことに対するバッシングで最終的には彼女はミス日本から下りて、そのタイトルを放棄したことなのです。 その大きな理由は外国人がミス日本になるのはおかしいという理屈なのです。 つまり、彼女はいちおう日本の国籍を持っていても、所詮は外国人であるので、日本を代表するミス日本には該当しないという判断なのです。つまり、日本の国籍を持っていても、それはたんなる紙の上の判断であり、実質的には外国人であることには変わらない、という概念が根底にあるのです。つまり、たんなる紙の上の国籍ではだめだという概念が根底にあるのです。 しかも、最悪なのは、このことにかんして誰も異議を呈さず、国民全員が暗黙の了解をしていることなのです。ですから、ミス日本協会やマスコミもまったく異議を呈していないのです。 このような解釈、判断が正しいのならば、海外で活躍している日本人が職業上の必要性から、外国籍を取得せざるを得ないときには、現在の国籍法という法律の解釈から、即座に日本の国籍を失うことになっているのですが、このような法律の理解は日本にのみ居住している日本人にはまったく関係がないので、理解できないのです。 このことに関連して、ミス日本の取り扱いから海外邦人の場合を演繹すると、単なる書類上の問題であり、日本人には変わりがないので、そのような人は当然日本人でしょう、となるのですが、現実には紙の上での判断がされて、そのような日本人はもう日本人ではないとの法律判断なのです。 もし、ミス日本へのバッシングが当たり前ならば、海外で活躍していて、ある理由から日本の国籍が消されても、日本人そのものには変わりがないのです。つまり、本来の日本人、が単なる書類の影響で日本人ではなくなるという国籍法の法律はまったく無意味になるのです。つまり、本来の日本人は日本人には変わりがないのです。たとえ、国籍が変わっても、日本人であること自体を変えることは不可能なのです。 でも、このような本来の日本人の問題に関連しては、行政や裁判所などは一貫して、国籍が失われている日本人はもう日本人扱いにはならないとなっているのです。つまり国籍そのものの存在意義という観点から判断すると、ミス日本の場合と、海外在留邦人の場合とでは社会概念が根本的に異なるのです。 たしかに、ミス日本の場合と海外在留邦人の場合とでは次元が異なり、判断対象が異なりますが、国籍有無という観点からの判断、理解は雲泥の差があるのです。 つまり、法治社会での取り扱いにはその解釈に変化があり、ミス日本の場合にはきわめて法治社会の閉塞性が完全に発揮されているのです。

2024年2月12日 (月)

原因と結果の基本概念

原因と結果の基本概念 なにかことが起こるときに考えるべきは、なぜそのようなことが起こったのかという「原因」をも確認することが必要なのです。 しかし、現実は、結果が重要であり、原因はほとんどの場合無視、ないし軽視されているのです。 そのような例は毎日のように新聞報道されていることであり、なにか事件が起きても、なぜそのような結果になったのかという原因追及はほとんどないのです。例えば、現在、大きな問題として毎日のように報道されている、ウクライナ問題、あるいはイスラエル・ガザ紛争など。 そのほかの典型例として挙げられるのは、なにか事件が起きた時に、その事件の詳細は報道されるのですが、なぜそのような事件がおこったのかという原因への追究は軽視、あるいは無視されているのです。 このような観点から、日常生活の中の出来事を考えてみると、いかにその原因の追究ということが、軽視、ないし無視されているのが殆どですが、多くの人はそのことに気が付かないのです。 その典型例として、私がいつも疑問に考える一つに、医療行為なのです。 ある人が胃の具合が悪く、病院に行ったときに、その診断が胃がん、となることは珍しいことではないのですが、そのような場合に、担当医師が、なぜこの患者がそのような症状になったのかという患者背景を聞き取ることはほぼゼロであり、医師がすることはその治療、最悪の場合には手術だけなのです。

2024年2月 6日 (火)

喜怒哀楽の人間性

喜怒哀楽の人間性 はじめに    日本語には時として外国語には訳すことが困難がある場合があるのです。例えば、日常的によく使われている「おもてなし」とか、「心遣い」などがあります。そのほかにも、端的な表現として表現として挙げられるは「喜怒哀楽」という表現なのです・ この喜怒哀楽という表現はある意味では日本語独特なのかもしれません。ともかくこの表現を外国語に訳すのには無理があり、たった四語で人間の感情をすべて表すことは外国語表現にはないのです。     その一 まず、最初の「喜」は文字通り、喜びであり、人前でも問題なく表すことが出来るのです。ある意味ではこの「喜」は人生の中でもっとも頻繫に使われる表現になるかもしれません。その表現の一つには笑い、があるのです。状況によっては、この喜びは他人にも引き起こす可能性がぁり、みんなと一緒に笑うことはよくあることなのです。つまり、この「喜」には伝染性があると解釈することも可能なのです。 つまり、逆の見方をすると、笑うということは喜びの外的表現とも考えられるのです。そして、当人が笑えば、その周りの人も微笑したり、場合によっては相手にも一緒に笑うこともあるのです。これは明らかに笑いの持つ独特な効果であり、感染力が一番強いのです。ですから、落語という芸能は人をいかに笑わすかということが目的てあり、これもまた日本独特の芸能かも知れません。 この笑いというものを医学的に適用した学問があるのです。それはGerontologyというもので、それを実行して、子供病院などを巡回訪問する人もいるのです。なお、この英語表現のGeronという単語なのですが、私の解釈ではこの発音、つまり「ゲロン」は日本語のゲラゲラ笑うとの共通性があるのではないでしょうか。確かに、日本語の「ゲラゲラ」はどこからきているのでしょうか。 私の性格の一つに、すぐに笑う傾向があり、私が学生の頃のあだ名は「ゲラオさん」だったのです。ですから、いまでも、電話などで相手と話しているときに、自然に軽い笑いが頻発されてしまうのです。 その二 二番目の怒 つぎの「怒」への心情はやや難しいです。つまり、「怒る」という心境をどのように理解するかということです。通常概念としては、怒りは他人に向けるものとの解釈があります。しかし、喜怒哀楽とい概念をネガティブにとらえて、他人に対して怒りを発揮することは誰でも出来るのですね。  喜怒哀楽という人間性のある表現の本質から考えたら、他人に向かって怒りを発揮することは該当しないのです。つまり、喜怒哀楽という人間性そのものを基本にしているという理解をすると、この怒りは本人自身に対しての感情であり、怒りたいのは自分自身の不注意などに対して、自らを責めることを意味しているものと考えるべきなのです。 その三 次の哀ですが、同じ状況下でも、自然に感動して、涙ぐむ人とまったく感動しない人との差はあることなのです。もっとも、「喜怒哀楽」の表現表示は最初の喜怒は人前でも現わすことができますが、哀は出来るだけ人前では表さないことが日本人的であるのかもしれません。でも、新聞やテレビなどで悲しい出来事を読んだり聞いたりするときに、涙が自然に出てくることがあります。しかし、この哀という表現の表しかたには個人差が極めて強く、全然感動しない人もいるのです。この哀という表現を現実にある形でできるようにしたのは、例の東北震災のときにあるひとが亡き人との会話をすることができるようにと開設した」天への電話ボックスかもしれません。 なお、このことに関し、私が最近に投書して書いたのは以下のような文章です。 長年連れ添った妻が一週間の昏睡状態から、静かにこの世を去りました。 その結果として時として、悲しくなることもありますが、不思議なことに、テレビや新聞などでの悲しい状況を観たり、読んだりすると自然に涙が止まらないことになることに気が付いたのです。ある意味では私の涙腺が大きく緩んでいるのかもしれませんが、こればかりは制御することが不可能なのです。このことに関連して、私が思うのは、ある意味では人の涙には感染力があるのかもしれないということです。もっとも、人の感受性には大きな差があることは分かりますが、問題はある条件下では見たり、聞いたりするだけで感受性が高まり、自然に涙が出てくることは、稀かもしれません。また、このような感受性には個人差や年齢差が関与するのかもしれません。従って、同じ状況下でも、自然に感動して、涙ぐむ人とまったく感動しない人との差はあることなのです。もっとも、「喜怒哀楽」の表現表示は最初の喜怒楽は人前でも現わすことができますが、哀は出来るだけ人前では表さないことが日本人的であるのかもしれません。不思議なことに、テレビや新聞などでの悲しい状況を観たり、読んだりすると自然に涙が止まらないことになることに気が付いたのです。ある意味では私の涙腺が大きく緩んでいるのかもしれませんが、こればかりは制御することが不可能なのです。このことに関連して、私が思うのは、ある意味では人の涙には感染力があるのかもしれないということです。もっとも、人の感受性には大きな差があることは分かりますが、問題はある条件下では見たり、聞いたりするだけで感受性が高まり、自然に涙が出てくることは、稀かもしれません。また、このような感受性には個人差や年齢差が関与するのかもしれません。 なお、高齢者になると涙もろくなる、といわれていますが、この現象に関して、以下のような説明があります。 年をとると涙もろくなる、涙っぽくなると言われています。「涙腺が緩む」とよく言いますが、年をとると涙を分泌しやすい状況になっているのでしょうか?  実はこれは間違いです。むしろ高齢になると涙などの分泌物は出にくくなります。皮膚もカサカサになっていくように、涙自体も少なくなります。ドライアイも高齢者の方に多いのです。つまり、年をとって涙もろくなったと感じるのは、涙の量が増えているわけではなく、別の理由があるのです。  その1つが、涙の通り道の問題です。涙は、目に出た後に鼻を通って口へと流れていきます。泣いているとその涙が鼻にも来るので鼻水が出ますし、さらに口へと流れつくとしょっぱい味がします。  涙が目から鼻の方に進んでいく通り道を、鼻涙管と言います。この鼻涙管は年齢を重ねるにつれて狭くなってきます。すると、涙が出た後に鼻へと流れにくくなり、目にたまってあふれてきます。「涙が増えた」と感じたとき、それは涙の流れが悪くなっているのです。 その四 さいごの「楽」は文字通り楽しみであり、結果的には幸福への心境になるのです。つまり人生の最終目的は楽であり、楽天そのものを意味しているのです。しかも、この楽は他人にも感染できるというおおきな意味があるのです。

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