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2023年11月15日 (水)

重国籍黙認への変遷 その②

その③

 

  しかしながら、上記のような重国籍問題に関与する三点から重国籍は認めるべきではないとして取り上げられている主張は、机上の空論であるのです。例えば、一部の重国籍反対者は、納税に関しては日本国民であるにも拘わらず税金を納めないのはけしからん、となっているのです。しかし、納税義務はその居住地・国に居る人の義務であり、ましてや、海外に居住している人は滞在国で納税しているのであり、当然のことながら日本に税金を送金することはありえないのです。その典型例として説明できるのは、例えば、埼玉県民が東京の職場で働いている例はかなりの数になりますが、そのような人は都民税は払いません。つまり、埼玉県民はその居住地が埼玉県であるので一般的な納税は東京都に払うのではなく、埼玉県に払うのです。このような基本的な概念が海外居住の日本人の場合にも当てはめられるのは当然のことなのですが、そのような理解は重国籍維持反対論者には存在しないのです。
  
  次の兵役義務は一部の例外を除いては国籍を有する国に滞在している場合にその国の兵役に従事することは当然の義務になるのは常識です。しかし、現時点では日本の兵役は義務制ではないので、日本での兵役義務は海外居住者にも該当しないのです。しかし、例えば、、本来の日本人が、ある理由から韓国籍をとっていて、韓国に居住していれば当然のことながら韓国での兵役義務を果たさなければなりません。従って、日本人の兵役義務問題は現時点では重国籍反対の根拠にはならないのです。現在、おおきな問題となっているハマスとイスラエルの紛争に、日本人の母親をもつイスラエル兵が関与していることが報じられていますが、果たして日本の戸籍にこのイスラエル兵が登録されているかどうかは分かりません。

 

  最後の外交保護とは何を意味するのでしょうか。理論的には海外で日本人が何らかの問題に遭遇して何らかの援助が必要な場合には、もし重国籍者であるとその人が持っている他国籍の国との関係もあって必ずしも直ちに援助を差し伸べることは出来ないとされているのです。しかし、この議論はまさに噴飯ものであり、日本政府の基本は海外に出かけた個人はその保護対象にはならないのです。

 

   その典型例は日本の旅券の一頁に書かれてある宣言文を見れば明らかなのです。そこには「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助をあたえられるよう、関係の諸官に要請する」と記入されているのです。ここで問題なのは「関係の諸官」の解釈です。英文にはall those whom it may concernとあり、きわめて曖昧な表現なのですが、この旅券の文面は日本が旅券制度を導入した明治時代から全く変更することなくすべての旅券に印刷されていたのです。その名残りがいまだに残っているのです。でも、どうしてこのような文面がわざわざ日本の旅券に現在でも記載されているのでしょうか。

 

   なお、1918年に発行された旅券にも同じような文面が既に記載されているのです。その頃の旅券と言うのは紙一枚だけのもので、「日本帝国海外旅券」となっていて、そこに書かれてある文章は「・・・ニ赴ク前記ノ者ヲシテ遠路故障ナク自由ニ通行セシメ且必要ノ場合ニハ保護援助与ヲ与エラレンコトヲ文武官憲ニ請求ス」となっているのです。そもそもこのような文面は海外の諸国政府・官憲に対しての依頼なのです。つまり、もしこの旅券所有者が海外で何らかの支障、困難などがあったときには、この本人を助けてあげてくださいよ、との意図があるのです。つまり、日本人が海外で困ったときには外国政府にお願いしますよ、との意図があるのです。従って、そのような場合は海外にある日本大使館、領事館は基本的には、まったく関与せず、関係がないのです。通常の場合にはこの旅券の文章の意味を考えなくとも全く問題はないのです。ですから、日本の旅券を使って、海外旅行している日本人の殆どすべの人達はこのような文章が旅券の最初の頁に記載されてあることにはまったく関心が無いのです。

 

   しかし、万が一何らかの事件、政変などが海外滞在中に発生した時にどのような援助が受けられるのでしょうか。そのような場合、まず日本政府、日本大使館は極端な例外を除いては殆ど何もしてくれません。このことは外務省旅券課の正式の返事でも「所持人が渡航しようとする外国当局に対し,安全に旅行できるよう通行の自由と適法な援助を公式に要請する公文書という側面も伝統的に持ち合わせています。」と正式に言明されているのです。勿論、旅券の本来の目的は、旅行許可が基本であり、現在の国際社会の中にあっては、日本の旅券であれば、ほとんどの国に入国できるのです。ただ、問題は、「・・・適法な援助」との記載なのです。

 

 

 

   この概念はどのように解釈できるのでしょうか。でも、殆どの日本人はこのような記述の影響、概念を理解しておらずに海外旅行をしているのですし、また考慮したことはないのが普通なのです。でも、こんな虫の良いことを平気で未だに日本の旅券に堂々と記載していることに日本政府はなんらの問題もないと考えているのです。つまり、現実には、このような依頼は当然なものとして解釈されているのです。たとえば、以下のような外務省の返答にも明確にされているのです。

 

「外務省は、海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること、海外における邦人の身分関係事項に関すること、及び旅券の発給並びに海外渡航及び海外移住に関すること等の事務をつかさどることとなっており、旅券、就中、旅券に記載のある渡航先当局に対する当該要請文は、外務省がこうした事務をつかさどるにあたっても重要なものであり、これらが矛盾することはないと考えております。 御理解のほどよろしくお願い申し上げます。

 

外務省領事局旅券課

 

ダウンロード申請書担当 」

 

 

  ともかく、海外で個人が何らかのトラブルに遭遇して、現地の領事館に助けを求めてもほとんどの場合、領事館は何もしてくれないのです。例えば、いささか古いことになりますが、1985年の旧ユーゴスラビア崩壊にさいして、現地の男性と結婚していた日本人女性も数多くいることが報道されていました。当時の在留日本人・リピチ都子さん救出に関する記事が日本の新聞に報道されていましたが、その記事を読んで考えさせられたことは、領事館の海外在留邦人への保護に対する対応でした。当時の新聞記事によりますと、リピチ郁子さんの救出に関してフリ-ジャーナリストの水口康成さんの努力により彼女は日本に帰国することができたのですが、肝心の救出に閲して現地領事館の対応が極めて消極的であったとのことです。そして、それに関連した説明に子供をも含めたリピチ都子さんの国籍が不明、本人の帰国意思が不明だからなどの理由から、領事館は何らの援助の手を差し伸べてくれなかったのです。

 

   そのほかにも、1985年にニューヨーク近郊のアパートで日本人青年が銃犯罪の被害者となり射殺された時、この第一報を日本の両親宅に国際電話で総領事館から知らせがありましたが、その電話はコレクトコールであったとのことです。また、この両親がアメリカで訴訟をおこし、アメリカの検察当局に裁判開始を訴えるために渡米し、日本総領事館員に同行を依頼したところ、本省からの指示がないとの理由で断られたとのことでした。

 

   また2001年に、全世界を震駭させた九月のニューヨークでのテロ事件で犠牲になった二十数人の日本人については日本の政府はまったく言及しておらず、当時の小泉首相は国家首脳として人道的な対応をとっていませんでした。
 
   いずれにしても海外在留邦人の救出とかのような最悪の事態が発生した場合の日本政府の基本方針は、旅券に書かれてある背景を尊重し、まず第一に該当国政府に在留邦人の救助の依頼することにあり、日本政府独自の対策は基本的にはないとのことです。例外としては、なんらかの政変、軍事衝突などの重大な事件のよう場合には、各国政府が、自国民の救出に救援機を派遣していますが、日本政府にとってはそのような対策は最後の最後の段階での対応になるのです。

 

   海外在住米国人はどこの国にもかなりの数の人達がいるので、万が一、そのような事態が起こった場合、米国政府は世界のいかなる地点にも自国の救援機を派遣します。それに日本政府は便乗しようという のが基本姿勢なのです。たしかに、アフリカのような遠隔地に滞在している数人の日本人の国外脱出にわざわざ日本から救援機を飛ばすよりも、米国政府に依頼したほうが簡単です。しかし、これほど虫のいい話はありません。事実、米国政府はもし余裕があれば日本人も救出しましょうと声明しています。これは当然なことなのです。つまり、個人単位の在外日本人に危険が及んでも日本人を保護する法的義務はないとのことなのです。

 

  そのほかにも、北アフリカのアラブ諸国で発生したオレンジ革命に際し、その当時に該当する国に何らかの形で滞在していた日本人はどのように扱われたのでしょうか。当時のカイロのデモ騒ぎで空港が閉鎖されたりして、エジプトに居る外国の観光客は空港で大混乱でした。日本の観光客も約千人近くがカイロ国際空港に足止めされていたとか。このことに関し日本の外相が駐日エジプト大使を外務省に呼び、エジプト航空に対し増便をお願いするとの要請をしたとのことです。中国や韓国など他の国が自国から救援機をカイロに飛ばしていたような状況下で、これほど無頓着、無責任な要請はナンセンスそのものなのです。そのような要請が当時のカイロの状況を理解すれば、そのような他国の援助の可能性が全くないことへの認識がなかったのでしょうか。

 

   このように、日本の旅券には上記に説明したように海外政府の諸機関に対して邦人の援助要請が謳われていますので、日本政府はよほどのことがない限りこの旅券に記載されてある文面を尊重して海外邦人救援機を飛ばすようなことは考慮しないのです。確かに、該当する日本人の数は少ないので、わざわざ日本から救難機を飛ばすような発想は日本政府には無かったのかもしれません。つまり、日本政府としてはあくまでも他人頼みなのです。これが単なる旅行者の場合にはきわめて危険な状態に直面することもあるのですが、この日本旅券を持っている限りその本人の安全に関しては全くの他人任せであることをあらためて認識すべきなのです。しかし、殆どの場合このような事態を十分に理解して、海外旅行する日本人は居ないと思うのです。つまり、そのような事態が起こるかもしれないということは、いま原発などに関連して使われている流行りの表現「想定外」なのです。

 

   ちなみに、欧州諸国の旅券には日本の旅券に書かれてあるような文面の記載があるのはまず皆無です。もっとも、外務省旅券課の見解ではこれと同じような文章はアメリカや英国の旅券にも書いてありますので、それにならっているのです、との全くの能天気的な解釈、説明なのです。なにも他国の真似をしなくともよいと思うし、現在の国際環境から考えると、このような古色蒼然とした文章は前世期の遺物と考えるべきではないでしょうか。

 

  それにしても、更に奇異なのは「公用旅券」、つまり政府の役人が国の業務として外国に出かけるときには普通の旅券ではなく、「公用旅券」が交付されるのですが、そこにも普通旅券と全く同じ文章が書かれているのです。お役人が海外に出張した時も、海外で何らかの問題に遭遇しても政府としては何もしませんよ、と言うことを間接に説明しているのではないでしょうか。まったく常識では考えられないことなのですが・・・・・。
  
  繰り返しになりますが、この文章は日本が旅券の発行をし始めた明治の時代から全く変わっていないのです。それはそうでしょう、日本が旅券を発行し始め、極めて限定された日本人が海外に出たときに頼りになるのはその国の助けなのです。ですから、日本人が困ったときにはどうぞ助けてあげてくださいとの嘆願状なのです。それが今でも連綿として続いているのです。最近でも時折、新聞に報道されているように個人の場合には日本政府はなんらの援助をしてくれず、また国内にいる一部の人はそれは「自己責任で、勝手にそのような危険な地区に行くこと自体が悪いのだ」となるのです。そのよい例はシリアで反乱グル-プに長らく拘束されていた安田純平さんに対する自己責任のバッシングでした。

 

 

 

その④
  では旅券の意義を別な視点から考えてみました。問題なのは、旅券を所持していて海外に長く滞在しているときに、その有効期限が切れた時の対処なのです。もし、その有効期限が切れた時に、基本的にはその更新申請を現地の領事館、大使館でするのが普通なのです。ところが、"最近では"その更新の時点で、もし申請者が何らかの理由で滞在国の国籍をも取得している場合には、海外公館はその旅券の更新を拒絶しており、殆どの場合、その申請の時点で該当する旅券に穴をあけられ、旅券の意義が消されてしまうのが現実なのです。

 

   ちなみに、以前はそのような判断にはかなりの柔軟性があり、海外公館員の判断に任されていたのです。むしろ、柔軟性という解釈ではなく、旅券法には旅券の更新手続きの場合に、当人に対して外国籍を取得しているかどうかを検討すべきとの"規定項目"はないので、その判断は極めてあいまいになっていたのです。ですから、従前は、海外公館に旅券の更新に来た時に、公館の担当者の裁量に任され、たとえ、外国籍を所有していることが判っていても、問題なく旅券の更新をしていた場合もあったのです。でも、そのような柔軟な解釈をしていても、その公館の係員は職務怠慢で注意を受けたことは全くなかったのです。

 

   つまり、旅券そのものは厳密な意味では身分証明書ではなく、たんなる海外旅行許可書なのです。ですから、基本的には、旅券の更新に際し、国籍問題を提起すること自体が例外、いや、もしかしたら、法律違反、になるのかもしれませんが、このような解釈をする人は一人もいないのです。。

 

   もっとも、例外と言うことではなく、繰り返しになりますが、旅券法にはそのような行為をすること、つまり外国籍所持の云々、はなんらの記載が無いのです。もっとも、昭和の初期の時代には海外に何らかの目的で海外に居住するような人は極めて稀であったので、海外公館での旅券更新申請がなされても、殆どの場合、外国籍有無の質問はなされずに、問題なく旅券の更新がなされていたのです。
  
  ところが、最近になって、日本で国籍関連問題の訴訟が提起されてからは、意識的に、海外での旅券更新者に対して、外国籍所有の有無について、質問をするように通達、理解され、最悪だったのは、そのような過程でのある時期には国籍法の条文には記載のない、外国籍を所持している場合に「"自動的に"日本の国籍を喪失する」、との解釈、通達がなされ、世界各国にあるすべての日本公館での旅券関連の説明書にはこの「自動的に」という表現が無意識的に添加されていたのです。つまり、ある意味では 国籍法の法文には「自動的に」という表現がないのに、外務省が独自の判断で、条文"改正"をしたとも考えられのです。

 

  さらに問題なのは、国籍法に従って、外国籍を取得した時点で、理論的には自動的に日本の国籍を失うのであれば、その時点で、もう日本人ではなくなってといることになるのですが、書類上の手続きの関係で、そのような日本の国籍を"自動的に"失っている人に対して「国籍喪失届」を出しなさいとすることは出来ないのではないでしょうか。つまり、外国籍を取得した時点で日本の国籍を失う、といことはそ時点ではもう日本人ではなくなり、外国人になっているのです。しかし、そのような"外国人"に日本の法律での事項、つまり国籍喪失届、を提出させることは理屈から言えば出来ないはずなのです。

 

 

  つまり、2018年に国籍問題が日本での裁判で現実化されて以来、旅券法にはまったく規定されていない当人の外国籍の有無を事務的に問い合わせるようになってきたのです。即ち、この国籍問題が裁判になった当時の外務省の対応は、法務省の見解を全く無視して、国籍法11条の解釈、説明に、意識的に「"自動的に"国籍を失う」ということが海外公館の説明文に、記述されていたのです。ところが、最近では、不思議なことにこのような表現、「自動的に」は海外公館の国籍法の解説に記載がなくなっていること、つまり、海外公館での解説、説明文からは、一斉に消えてなくなっているのです。もっとも、国籍法の解説書(例えば、逐条注解・国籍法)内での解釈、解説には「自動的に日本国籍を喪失することを規定する」との記載があるのです。

 

  しかし、現在でも、すべての在外日本人が、旅券の更新に際し、外国籍を持っていることが明らかになった時には、直ちに旅券の更新が拒否され、最悪の場合には、瞬時に該当旅券に穴があけられ旅券の効果が無くなり、国籍喪失届を出すように要請されているのです。その結果として、日本の国籍を失うとされているのです。

 

  でも、繰り返しになりますが、理論的には旅券そのものは法的な身分証明書ではなく、たんなる外国旅行、外国滞在の許可証に過ぎないのですが、現在の国籍法という法律の概念に基づくと、日本人が外国籍を所持していると、「自動的に」日本の国籍を失うと、判断されていたのです。しかし、繰り返しになりますが、旅券そのものは正式な身分証明書ではないのです。旅券そのものはたんなる海外旅行を可能にする目的だけの書類であるのです。

 

  何処の国でも、居住者、住民は必ず身分証明書、つまり写真付きの証明書、を所持しているのです。ですから、自国に居住している人のすべてが公的な写真付きの身分証明書を所持しなければならず、かりに日本人が旅券を所持していても、基本的には、それぞれの滞在国では、それは身分証明書にはならないのです。つまり、旅券をすべての国民が所持していることはありえないからなのです。ですから、例えば、日本に生活していて、海外に行ったことがない人は旅券などは当然のことながら持っていないのです。

 

   さらに問題なのは、国籍法に記述されている「自己の志望によって外国の国籍を取得した時には」との限定されている表現の解釈なのです。しかし、常識的な解釈、理解、判断として、では「自らの志望でない」場合はどうなのか、との疑問、反問、検討は誰もまったく言及されていないことなのです。この表現に関連して、では、「自己の志望以外の場合には」どうなのかとのことも検討すべきなのですが、不思議なことに現実はまったく考慮されていないのです。

 

   一般的な日本文の解釈で、「自己の志望」、という表現に対して、「自己の志望ではない」の場合も介在することは常識なのです。これと似たような表現を例にとって、検討してみました。例えば、自己の志望で、「全財産を投資した」場合、もしその投資が失敗し、全財産を失っても、それは自己責任、になるのですが、その反対に、自己の志望ではない場合も考えられるのです。

 

   つまり、この「志望」という表現は極めて意味の強いものであり、「自己の志望」で外国籍を取得するのが目的であることを意味しているのです。例えば、大学受験でどの大学に行こうかということは自らの「志望」であって、明らかな「目的」「原因」「意図」であり、目的そのものなのです。ところが、海外生活で、該当国の国籍を取得することは現地での生活、活動のために必然的に必要性が生じての「結果」なのです。ですから、外国籍を取得することは、海外で生活の必要上滞在国の国籍をも取得せざるを得ないという結果なのです。

 

   物事の判断には必ず「原因」があって、初めて「結果」が得られるのです。しかし、国籍法の条文にはなぜ外国籍を取得しなければならないのか、と言う原因が全く考慮されておらず、その原因の結果としての「自己の志望」に進展するのです。ですから、そのような必要性のない在外日本人は「自己の志望」で外国籍をわざわざ取得して、日本人であることを放棄する人は全く存在しないのです。

 

 

   それと似たような日常的な例文として、「雨が降っている時は、外出しないでくださいよ」という表現の解釈なのです。この表現そのものの間接的な意味は、「雨が降っていないときは、外出できるのですよ」、ということであり、そのような解釈、理解は常識なのです。つまり、「自己の志望」という表現は極めて限定的で、例外的な表現であり、柔軟的に解釈できるのです。

 

   ですから、国籍の場合も「自己の志望ではない」場合はどうなのかとの反問することができるのです。その典型例としては、前述のように、アメリカなどで研究継続のためにはアメリカの国籍がない人には研究費などが提供されず、結果的には研究維持、続行が不可能になることなのです。したがって、このような場合に米国籍を取得した場合には「国籍法」規定の「自己の志望」には該当しないと、解釈、理解できるのですが、このような理解、解釈は誰もしていないのです。

 

 

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