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2023年4月19日 (水)

言葉の類似性から考える;伝聞文化交流論

言葉の類似性から考える"伝聞文化交流論"
  「Tohuwabofuの表現からの論議」


はじめに
日本語表現と外国語表現との類似性調査
言葉の発生
古代ユダヤ文化との関連性
現在に残る古代イスラエル表現
日ユ同祖論の虚構
伝聞文化交流論の観点からは一方通行ではなく、交流が自然。また伝聞文化では元となる既存の習慣、行事などと比べるとその影響によるものは比較的簡単になるのが普通。


はじめに
一部の識者がヘブライ語 と日本語との類似性から、もしかしたら日本人とヘブライ人、つまり現在のユダヤ人、とは同じ民族かもしれないとの推測をしています。つまり、「 日ユ同祖論」 なのです。

 

この表現に関して、日本のヘブライ関係研究者がイスラエルの学者によるこの表現の解説を紹介していますが、日本語との共通性を検討したイスラエルのイスラエル大学の教授が日本語とヘブライ語との共通性を紹介していることは知らないようです。また、その逆に日本語とヘブライ語との共通性について検討したイスラエルの学長はまさかこの表現が日本語の「東風は暴風」であるとの理解は出来なかったのです。

  泰剛平、守屋影夫編 「無からの想像の教理とトフ―ワ-ボフ」京都大学学術出版会

 

このヘブライ語と日本語との共通性についての解説を読んでいなければ、イスラエルの学者がTofuwabofuという表現をいろいろな観点から推測、解説しているので納得することは可能なのです
しかし、そのような現象、つまり二つのことなる民族の言葉の中からそれらの発音、意味の類似性を探して、その結果としてそのような二つの民族は元を正せば同じであるかもしれないとの推論なのです。しかし、そのような推論はまったく意味がないのです。

 

人類の発祥からそれぞれの言葉の発生が始まり、各地に広がった結果、現在のようにいろいろな言語が世界中に存在するのですが、言葉の発生の過程で、同じような表現、意味が各地に残っていることは歴史的にも不思議ではないのです。

 

>日本語表現と外国語表現との類似性として挙げられている典型例
たまたま、イスラエルの学者が古代ヘブライ語と日本語との類似性を発表して以来、日本での古代ヘブライ文化の探索がなされ、もしかしたら両民族は同じであるかもしれないとの推論、考察がなされているのです。
そもそもこのような関連性に関してはヘブライ大学の前学長のシロニ-学長が以下のような類似点を挙げてから、現在ののような日本とヘブライとのいろいろな共通点が大きな関心となって、この共通性に関しては実におおくの例が挙げられ、最終的にはDNA解析にまで発展しているのです。

 

>しかし、そのような考察をもし他の言語、例えばトルコ語、蒙古語などでの調査を詳細にすれば似たような結果にもなるのです。この点に関連して、多くの識者が二つの異なった言語の中での類似性を発表しているのです。ですから、日本語 とペルシャ語との類似性、日本語とイタリア語との類似性、などで検索すると意外と面白い類似性が見られるのです。しかし、そのような結果から該当両民族の同祖論にはならないのです。例えば、イタリア語の中にも日本語の意味とほぼ同じような表現はいとも簡単に見つかるのです。例えば、以下のような例があります。
  tablino この意味は「古代ロマの食堂」を意味しているのですが、現在は殆ど使われていません。でも、古代ロマの時代の表現となると、日本語の「食べる」という表現と極めてその発生過程が人類の言葉の発生と関係があることが推測されます。

 

また、misturaという単語があります。 この意味は「水薬の調合」を意味するのですが、日本語の「水」と発音が似ているのです。
また、mammoloという単語、 これは「赤ん坊」を意味するのですが、日本語の「ママ」とその発生過程が似ていることを端的に示しているのではないでしょうか。

 

ハンガリー語と日本語の同一言語
ヨーロッパ方面の中では、「ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語、トルコ語」は、日本語の遠い親戚の言語にあたるので、かなり、日本語の文法に近いです。
このグループを「ウラル・アルタイ語族」といって、要するに、大陸の中央にあった言葉が、東へ移動したのが「日本語」で、西へ移動したのが、「ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語、トルコ語」などなので、元を辿ると、同じような言葉になるそうです。

 

言葉の発生」
そもそも人類の進化に伴って最初に行われる行動の一つは言葉なのです。
母親を「ママ」とか「マー」のような音で表すのは、小さい赤ちゃんが発生しやすい音が「MA」だから、というわけで、世界中で「MA音」が母親関連の語になっているのは(偶然ではなく)自然な成り行きであったと思っています。(日本語だと「まんま(食べ物)」がそれにあたるかもしれません)

似たような関連性に、イスラム圏で、女性を意味する表現にある「omima」は「年寄りの女・老女」の意味であり、「女・成人女性」なら「womima」になるのですが、英語のwomanとの類似性は明白です。 旧仮名遣ひでは、似たような発音の「わ」行の「をみな」「をんな」があります。

 

「民族の移動性」
そこで考えられるのは当時の民族の移動性などから推測すると、遠く離れた国のもろもろのことは何となく伝わってくるのは当然なのです。近世紀になって、マルコポルが当時のシナまで来て日本のことを聞いて、東方に黄金の国があることを伝え聞いていたのも伝聞そのものなのです。
もっとも、マルコポㇽか書いたとされる「東方見聞録」は実際に彼が書いたものではなく、第三者が彼の話を聞きながら、纏めたものなので、必ずしも、全てが彼が見てきたものを正しく話していたかは不明ですし、それが本になったので、必ずしも彼の話がすべてを見聞したことを正しく話していたとは限りませんし、或いは彼の見たもの、聞いたものだけがすべてこの見聞録に載っているとは限らないのです。従って、ある本に「マルコポウロはシナに行ったのか」というのがあるくらいです。その本の中に、その典型例として、もし本当にシナに行ったのなら、当時すでに存在していた万里の長城(紀元前221-206年に建造された)とか纏足など、極めて例外的な事実にはこの本の中には全く触れていないことが、この本に指摘されているのです。とくに、当時のシナの女性の纏足などは西洋の人間にとってはまさに異常の異常そのものなので、本当にそのような纏足を見ていたとすると忘れることは出来ないと考えられるのです。

 



「現在に残る古代イスラエル表現」
このような言葉とか伝説などに関して、なぜ伝聞文化と言うことに注目した理由は、現在のドイツ語にTofuwabofuという表現が現存し、ドイツ語圏では現在でも普通に使われていることを知ったからなのです。

なお、この表現はTohuwabofuとも書かれていますが、ヘブライ語での記載は tohû wa vohuとなっています。また、この表現をモ-ゼはWüste  und Ödeと訳していることです。


旧約聖書は、今から約3500年前ほどに書かれたものとされています。最初の記述者はモーセでした。神はモーセに、神がなされたいろいろなできごとを書物に書き記すように命じられたとされいました。また、モーセなどによって記された書物をイスラエルの民は集めて、一字一句間違いの無いように書き写し、保存したとされています。そして、イエス・キリストの降誕より約400年前に旧約聖書は完成したとされています。つまり、この時期、 イエス・キリストの降誕より約400年前に既にTohuwabofuという表現が使われていたと解釈することが可能とも考えられるのです。もっとも、旧約聖書の成立がある時期に100%完成したものなのか、または、現在のような旧約聖書になる過程で、時折、訂正、追記されたのかは確かではありません。なぜこのような経過に触れるかといいますと、このTohu wa bofuという表現がもし日本語だとすると主語(Tohu)、動詞(wa)、述語(bofu)となり、あまりにも正しい日本語表現と解釈できるので、やや疑問が生じることなのです。もっとも、そのような疑念を解明するとなると、日本語表現の歴史を詳細に調べないとその可否への正解はないことになるので、本稿では断念しました。、


このような観点から私が考えたのは伝聞文化交流という分野があることなのです。

つまり、現在のドイツ語にTohuwabofuという表現があり、その意味が「混沌とした状態」を表しているのですが、この表現のについては日ユ同祖論者は誰も取り上げていないのです。
つまり、この表現、Tohuwabofu、は日本人にとっては日本語そのものの表現であることは容易に理解できるのですが、なぜそのような表現が古代ヘブライ人にまで伝わったのかと考えることが重要なのです。今までにいろいろな人が古代ヘブライ語と日本語との共通性をいろいろな角度から検討し、もしかしたら日本人と古代ヘブライ人とは同じであるとの推測はまったく意味がないのです。つまり、このことに関連していろいろの解釈がされていますが、そこには極めて不自然性があるのです。つまり、なぜそのような日本語がヘブライ語の中に見られるのかと言うことなのですが、言葉の進展、つまり言葉と言うものは人間の交流と言う社会現象からもたらされたものであるのです。


このTohuwabofuという表現は古代ヘブライ語の時代に既に知られているので、現在の見識か判断して、日本人は古代ヘブライ人と同じなのかと言う議論にもなるのですが、それは大きな間違いなのです。人間の移動に伴い、それぞれの習慣、表現、新しい事実などが時代、並び歴史とともに他国に伝わるのは当然なのです。その典型例として近代になってのマルコポロがシナにまで足を延ばして、シナ大陸からかなり東の方角に金の島があるということを見聞して日本が黄金の島、ジパング、であることが伝えられたと似たような現象が、Tohuwabofuの表現にもあるのです。

この表現は古代ヘブライ語ととして旧約聖書にもすでに記載されていて、天地創造の前段階として「地」が出来る以前の状態は「混沌としていた」状態を表すためにこの表現が使われているのです。ところが、日本のヘブライ学者はドイツ語の知識がなく、またイスラエルのヘブライ学者には日本語の知識が全くないので、この表現がまさか日本語表現の伝聞によるものとは考えられていないと理解できるのです。


私が初めてこの表現を耳にしたときは、これって日本語ではないか、そして「豆腐は防腐」と解釈したのですが、いろいろ検索するとこの表現は上述のように、すでに旧約聖書に記載されていること、そしてイスラエルの学者がヘブライ語と日本語との表現の類似性を検討し、公表していることを考察して、私が考えたのはこの表現、Tofuwabofuは古代のヘブライ民族が東方に移動し、交易などに従事し、モンゴルやシナまで来てそこで初めて台風の恐ろしさを伝え聞いての結果が「東風は暴風」との伝聞と解釈できるのではないかと考えたのです。当時は、台風という表現はいまだ使われておらず、そのような恐ろしい自然現象の結果、混沌とした状態がもたらされたことを伝え聞いていたので、そのような混沌とした表現としてこの表現が現在のドイツ語の中に使われていると理解できるのではないでしょうか。


つまり、この表現は旧約聖書の「創世記1,1-2」に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(日本語訳)となっているのです。そして、「混沌とした状態」の意味にこの表現、Tohuwabofuが既に旧約聖書に記載があるのです。なお、このドイツ語表現をわたしははじめて知ったときTofuと書いたのですが、そのご詳細に調べるとtohuと書かれてあるのです。

この表現は、現在のドイツ語に普通に使われているのです。したがって、日本人として奇異に感じるのはドイツの幼稚園の名前にこの表現が使われているのはまさに驚きなのですが、その言葉の由来を知らない人には全く普通のドイツ語として使われているのです。恐らく、この表現が幼稚園に使われているのは幼稚園内での子供たちの騒ぎなどがまさに混沌としているとのこの表現は使われているのかもしれません。無神経な解釈からなんとなく、この表現が使われているのです。でも、もし現在のドイツ人がこの表現の由来、意味を知っていたらまさか幼稚園の名前には使われていないかもしれません。つまり、その言葉の由来を知らない人には全く普通のドイツ語として現在でも普通に使われているのです。その心底にはこの表現が古代聖書の中に使われているとい事実を考察して聖なる表現と捉えているのかもしれません。

「Tohuwabofu」の表現の発生の理由を考えてみました。
通常、日本上空には偏西風が吹いているため、風はおおむね西から東へと吹いています。 ところが、移動性低気圧や太平洋高気圧、大陸性高気圧の影響が強くなると方角が変わります。 とくに、移動性低気圧や台風などの強い渦が近づくと風も全く反対へ吹くことがあります。 東から西へ向かって吹き始めた場合、それはその場所が移動性低気圧の進行方向にあると考えられ、今後風雨が強くなることが予想されます。とりわけ、それが急走するようであれば、台風である事も考えられます。つまり、古代ヘブライ人の時代には台風と言う概念はまったくなく、日本にそのような現象があることはまさに驚きそのものだったのです。現在でも欧州一体での風の向きは通常は西から吹いてくるものなのです。つまり西風が普通なのです。ところが日本列島では風が東から吹くような状態になると暴風になることがあり、現在の知見では台風になるのです。つまり、当時の気象に関する常識では中国大陸から西にかけての地域では台風という現象はまったく知られておらず、そのような暴風が来るととんでもない被害をもたらすことを知った時の古代人の驚きなのです。ですから「東風は暴風」という表現がどのような被害をもたらすかということが間接に伝えられて、現在の様に「混沌とした状態」などの意味に転用されていると解釈することが出来るのです。

歴史的見地からの考察

旧約聖書によると、紀元前720年代、現在のイスラエルの辺りにあった「イスラエル王国」はアッシリア人の侵攻を受け、滅亡する。この際、この地に住んでいた10の支族の行方が分からなくなってしまった。これが「失われた10支族」なのて゛す。ブネイ・メナシェはこの10の支族のうち、「メナシェ(マナセ)族」の末裔だと信じられている。
 ブネイ・メナシェの歴史や地域の文化に詳しいハオキップさん(68)によると、この支族は数世紀かけてペルシャ(イラン)、アフガニスタンを経てチベット、中国と東に移動した。そこからビルマ(ミャンマー)に行き、インド北東部のマニプール州やミゾラム州にたどり着いたと伝えられている。
なお、このことに関連し、「失われた10支族」を調査するユダヤ人の間では、科学的な根拠はないが、日本人も「失われた10支族」の末裔だとする「日ユ同祖論」が信じられているのです。ブネイ・メナシェの人々もこの影響を受けて「日本人もユダヤ人の末裔」だと考えており、このような推測はあくまでも推測の領域であり、本論説での趣旨、つまり伝聞文化交流という見地から考察すると、殆ど意味がないものと考えられる。でも、考えてみてください。もしユダヤ民族の一部が日本に来たと、歩いて来ているのです。でもイスラエルとヤマトとの間にはいろいろ国の民族がいたのですがその人たちにはまったく影響がなかったことになります。もし本当にユダヤ人が日本に歩いてきたのだとすると、その間にモンゴル族や満洲民族への影響はなかったのでしょうか。もしかしたら、ユダヤ民族は空を飛んできたのかもしれません。


 たしかに、日ユ同祖論の中で言及されている日本と古代ヘブライ人との共通性として神社、山伏などとの古代ヘブライ人との共通性が取り上げられています。しかし、いろいろな構造物とか民族習慣などの類似性については、もしどちらかがオリジナルで、それを模倣、或いは類似性の作成に関しては、類似物とか模倣品などはそのオリジナルよりも優れていることは殆どなく、殆どの場合、簡素化されていたり、省略されていたりするのが普通なのです。そのような例として挙げられるのは、数年前に東京で「江戸と北京、18世紀の都市と暮らし」展が開かれ、その中に北京の「万寿盛典」(1717)と江戸日本橋の繁栄を伝える絵巻(1805)との類似性が専門家により指摘されていたが、両者の作品には極めて類似性があるのですが、しかし、日本の絵巻はいとも簡単に描かれているのです。おそらく日本の絵巻を書いた人は北京の万寿盛典をただ簡単に見ていて、それを模倣しただけなのです。


 このように解釈すると、日本と古代ヘブライ人との共通性として神社、山伏などとの古代ヘブライ人との共通性が挙げられていますが、両者を比較すると、日本のもののほうがきわめて精巧にできていると理解できるのです。このように解釈すると、日本の神社、山伏などの存在を伝え聞き、古代ヘブライ人が類似のものを作ったとも解釈できるのです。


 更に、日本人とイスラエル人とのDNAの共通性の可能性まで推論されているのです。しかし、このような推論は全く意味がなく、似たような身体構造の類似点を取り上げるなら、出産間もなくの幼児に見られ蒙古斑は現在でもギリシャ近辺にまで見られる現象なのです。だからと言って、「日ギ同祖論」などは考えられないのです。いずれにしても言葉の類似性とか、DNAの共通性などからそのような推測「 日ユ同祖論」は殆ど意味がないのです。

二ヶ国語の表現類似性の問題点
ヘブライ語と日本語の共通点として次のようなものが指摘されています。 ① ヘブライ語の形が、日本語のカタカナに似ているものがいくつもある。 ② 発音と意味が同じ単語がいくつもある。 ③ 日本の国家や民謡も、ヘブライ語で解釈できる。 ④ 相撲で使われている言葉と類似した言葉がヘブライ語にもある。 ⑤ 相撲や神社の鳥居といった日本の伝統文化と似た出来事、習慣がイスラエルにもあった 。
確かにこのような指摘だけを考察すると「日ユ同祖論」の現実性があるように見えます。

しかし、繰り返しになりますが、このような考察をもし他の言語、例えばペルシャ語、トルコ語、蒙古語などでの調査、
さらにそれそ゛れの国での習慣とか存在物なとの状況を比較、調査すれは゛似たような結果にもなるのです。


そこで考えられるのは当時の民族の移動性などから推測すると、遠く離れた国のことも何となく伝わってくるのは当然なのです。近世紀になって、マルコポ-ルが当時のシナまで来て日本のことを聞いて、東方 に黄金の国があることを伝え聞いていたのも伝聞そのものなのです。このような観点から「伝聞文化交流」、或いは「見聞文化交流」という概念分野があるのでないかと考えたのです。

その他にも前述のような観点、例えば日本の山伏とか神社の鳥居などの類似性もいろいろと伝えられてきて、日本の学者は古代の日本人がそれらの話を元に形成したとも考えているのが通説なのです。
でも、その逆に日本のそのような現象などを伝え聞いて、当時のヘブライにも作られたと考えることも出来るかもしれないが、そのような逆の発想、つまり、イスラエルからヤマトに伝えられたと言うことではなく、その逆にヤマトからイスラエルに、との解釈は誰も考えてはいないのです。
つまり、そのような類似性の観点を拡大すると、もしかしたら古代ヘブライ人のそのような事柄は日本のことを伝え聞いて特に古代ヘブライ人が作り上げたものとも推測することは可能なのです。しかし、そのような伝聞文化の存在が実際に在るとしたならば、そのような伝聞が古代イスラエルにまで到達する過程において、その間に存在する現在の蒙古とかペルシャ、などにも似たような形跡が残っている筈なのです。この点に関しては考古学者の知識、根拠が必要になるのですが、そのような点に関しての調査は誰も関心がないのです。

その大きな原因と考えられるのはイスラエルの学者がヘブライ語と日本語との共通点がある例を発表してから派生しているので、そのことから、一部の日本人識者が日本とイスラエルとの密接な関係があると推論しているのです。でも、繰り返すように、そのような二ヶ国語の類似来から、密接な関係、極論的には、同一性を推論しているのです。その典型例として挙げられている類似性には以下のような例が挙げられています。

日本語とヘブライ語の比較的類似例
アッパレ     栄誉を誇る
アラ・マー   どうした 理由・何?
アナタ     貴方
アリガトウ   私に(とって)・幸運です
スケベー      肉欲的に寝る
ダマレ      沈黙を守れ・私に(対して)
ハッケ・ヨイ   投げうて・よろしく

しかし、そのような考察をもし他の言語、例えばトルコ語、蒙古語などでの調査をすれば似たような結果にもなるのです。この点に関連して、多くの識者が二つの異なった言語の中での類似性を発表しているのです。ですから、日本語 とペルシャ語との類似性、日本語とイタリア語との類似性、などで検索すると意外と面白い類似性が見られるのです。しかし、そのような結果から該当両民族の同祖論にはならないのです。
そもそも人類の進化に伴って最初に行われる行動の一つは言葉なのです。


母親を「ママ」とか「マー」のような音で表すのは、小さい赤ちゃんが発生しやすい音が「MA」だから、というわけで、世界中で「MA音」が母親関連の語になっているのは(偶然ではなく)自然な成り行きであったと思っています。(日本語だと「まんま(食べ物)」がそれにあたるかもしれません)
似たような関連性に、イスラム圏で使われている「omima」は「年寄りの女・老女」の意味であり、「女・成人女性」なら「womima」になるのですが、英語のwomanとの類似性は明白です。
ここで、改めてひとつのものの考え方としての伝聞文化交流という概念を考えてみたのです。

つまり、人的な直接の交流、例えば、日本人とユダヤ人とは同民族かもしれないとの推論ではなく、伝聞としての情報がそれぞれの民族に伝えられていたと考えるほうが理論的ではないだろうか。いろいろな情報が各地に伝えられると言ことは民族の移動と共に考えられるのです。ヘブライ語と日本語との共通性の意味を歴史的な文化交流と言う観点、つまり近代になってマルコポルが中国まで来て、ジバングの存在を欧州に伝えたのと似たような環境がヘブライ語とと日本語との関連性についても言えるのかもしれません。もっとも、この場合は単なる伝説、情報ではなく、古代ユダヤ民族が東に移動し、日本にまで来ていたのかもしれない、となってしまうのて゛す。

マルコ・ポーロ(1254 - 1324年)は、ベネチア(ベニス)の商人として、欧州~中東~中央アジア~東アジア~東南および南アジアにおよぶ遥かな「シルクロード」旅程を遊歴しました。彼の諸域での実体験や伝聞の口述記『東方見聞録』が活写する「パクス・モンゴリカ」時代のヒト・モノ・情報を、あらためて考えます。
アジア諸国を旅したマルコ・ポーロでしたが、生涯日本に上陸した事実はありません。「東方見聞録」における日本に関する描写は、ポーロがシナの商人から見聞した内容を口述したものとして記録されています。つまり、この見聞録はマルコボル自身が書いたものではなく、ベニスに戻ってから彼が記憶していたことを彼の友人が聞きながら書き留めたものなのです。ですから、その時点ですでに記憶の正確性はかなり曲げられていた可能性もあります。
例えば、それではなぜシナは、日本に金が豊かにあると考えていたのでしょうか?一説によると、日本が遣隋使を派遣した際に唐(中国)との交易で大量の砂金で支払っていたことが理由だと言われています。さらに、交易が盛んだった時代に金箔一面で覆われた中尊寺金色堂を岩手県に建立した話がシナの商人に伝わり、日本は黄金を大量に産出できるのではないかという幻想が広がっていきました。その噂話は広州に滞在していたイスラム商人にも伝わり、のちにイスラムで黄金の国を指す「ワクワク伝説」として黄金伝説が派生しています。「ワクワク」の語源は日本の古名「倭国」に由来する説が有力です。この表現はペルシャ語で当時の日本がワクワクとなっていたのです。

こうしたシナやイスラム商人が持つ日本への幻想に加えて、がマルコポーロの「東方見聞録」の影響をも通じてヨーロッパ全土に広まり、「黄金の国ジパング」という呼び名が定着したと考えられています。このジパングという発音は二ホンの漢字読み的な発音と推測できるのです。つまり、マルコ・ポーロは日本のことについて当時のシナで伝え聞いただけなのです。このことは「伝聞文化」の典型例かもしれません。


同じようなことは当時のイスラム圏て゜日本のことが「倭国」がワクワクとなっていることも伝聞による結果なのです。もっとも、ジパングとワクワクの発音はまったく異なるのですが、当時のイスラム圏での「ワクワク」が倭国とするとマルコボル以前の日本は倭国とも言われていたことが推測できるのですが、そうすると日本という呼称は何時頃からなのでしょうか。『古事記』ではヤマトを「倭」とのみ示し、「日本」と書かれることが全くありません。一方、『日本書紀』では逆に、ヤマトを大部分が「日本」と記しています。非常に対照的で対称的です。
 思えば、卑弥呼についての記載で有名な『魏志』倭人伝など、シナの書物でヤマトを示すときには、「倭」ばかりが使われているようです。しかしながら、シナの歴史書でヤマトがどのように示されているかを見てみると、
1. 『後漢書』……倭
2. 『三国志』……倭
3. 『宋書』………倭
4. 『隋書』………倭
5. 『旧唐書』……倭・日本
6. 『新唐書』……日本
7. 『宋史』………日本
8. 『元史』………日本
9. 『明史』………日本
 と、(5)を境に「倭」と「日本」とが分かれます。(5)はシナの王朝「唐」の時代の歴史を記したものですから、つまり、唐代に「倭」が「日本」になった、ということです。おおむね西暦700年を過ぎたくらいの時代です。このように考察するとマルコ・ポーロ(1254 - 1324年)以前にも既に日本のことは当時のイスラム圏内では既に「倭国」として伝えられていたことになるのです。

700年前後の日本
 日本国内の資料では、いつから「倭」が「日本」になったのかがはっきりと記されたものがみあたりません。そのため、シナの資料から「日本」の使用開始時期を探らざるをえません。上にみたとおり、唐代に「倭」が「日本」へと変換したことは明らかです。
 神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書)では、『唐暦』の記載をもとに、702年の遣唐使から「日本」が使用されたと述べています。小林敏男『日本国号の歴史』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)でも、ほぼ同様の指摘がされています。
 この当時の唐は則天武后による統治の時代を迎えています(ついでに、王朝の名前も一時的に「周」になっています)。さらに神野志は、736年にできた『史記』の注釈書である『史記正義』の中に、「則天武后が倭を改めて日本とした」とする記述があることを指摘しています。実際には、ヤマトの側が倭から日本への国号変更を申し出て、それを則天武后が承認した、ということなのでしょう。
 そういったわけで、おおむね700年前後に「倭」が「日本」となったと考えられます。そうすると、712年にできた『古事記』があえて「日本」という呼称を用いなかったのには、なんらかの事情があったと考えられます。また、720年にできた『日本書紀』が書名に「日本」を使い、ヤマトを指す語として「倭」をほとんど使用しなかったのも、国号「日本」の成立からほどない時期であったのですから、やはりなにかしらの意図が背後にあったのではないか、と推測されます。
 「倭」から「日本」へと国号の変更が行われた時期のヤマトの様子をみてみると、694年には藤原京ができあがり、そのすぐあとの710年には平城京へと都がうつります。藤原京以前に条坊制の区画をもった都城が存在した可能性は低く、つまり「日本」の使用開始と唐風の都城の設営はほぼ同時に行われていたことになります。
 都市計画、歴史書の作成、それ以外にも法(律令制)整備など、この700年前後の時代は大きくヤマトが変動した時代でした。そういった国内の動きに連動して、対外的な処置、つまり国号の変更が行われたのでしょう。

勿論、現時点から民族の同一性と言うことに対し、言語の共通性のみから考察することも大切ですが、言葉と言うものの発展、拡散は人類の交流に伴って自然に移動、拡散するのも常識であり、それらの一部が現在の言語の中に残留するのは当然のことなのです。つまり、言語の共通性から民族の同一性を考察することは殆ど意味がないのです。

なぜ、このようなことを書いたのかと言うことは、上述のように、現在のドイツ語にTohuwabofuという表現が現実に使われており、その意味が「混沌とした状態」を表していることを知ったからです。
実はこの表現は古代ヘブライ語として旧約聖書にもすでに記載されているのです。ところが、日本のヘブライ学者はドイツ語の知識がなく、またイスラエルのヘブライ学者には日本語の知識が全くないので、この表現がまさか日本語表現の伝聞によるものとは考えられていないのです。

繰り返しますが、私が初めてこの表現を耳にしたときは、これって日本語ではないか、そして「豆腐は防腐」と解釈したのですが、いろいろ検索するとこの表現はすでに旧約聖書に記載されていること、そしてイスラエルの学者がヘブライ語と日本語との表現の類似性を検討し、公表していることを考察して、私が考えたのはこの表現、Tofuwabofuは古代のヘブライ民族が東方に移動し、交易などに従事、モンゴルやシナまで来て、そこで初めて台風の恐ろしさを伝え聞いての結果が「東風は暴風」との伝聞ではないかと考えたのです。当時は、台風という表現はいまだ使われておらず、そのような恐ろしい自然現象の結果、混沌とした状態がもたらされたことを伝え聞いていたと推測できるのです。


ところがこのドイツ語単語の辞書て゛の解説には元はヘブライ語との注が付いているのです。つまり、この単語は本来はヘブライ語なのだが、ドイツ語に転用されているとのことのようです。でも、なぜそのような古来のヘブライ語がドイツ語に転用されたのかはわかりません。でも、不思議なことにドイツ語―フランス語の辞書にはTohu-bohuの対訳が付いていて、仏和辞典にもこの単語Tohu-bohuは載っています。しかし、waが抜けているのです。おそらく、この表現が旧約聖書にも記載されていることから、自然に使われているのではないでしょうか。つまり「混沌とした状態」を織らわす適当な表現として何となく使用されていたのです。つまり、暴風とか台風のような自然現象が知られていないドイツであったので、まさかその表現の背景を認識する必要は無かったのです。ドイツのような国には地震による津波の発生などは想像もつかないので、その結果としての混沌として状態などは知ることが出来なかったのです。

ここで、日本とか地中海沿岸では津波そのもの存在、そして影響はかなり以前から知られていたのです。たとえば、紀元前2000年ころから1400年ころ、地中海のクレタ島などて栄えた「ミノア文明」は大噴火で発生した大津波が原因ともされ、その結果としてその文明が衰退したといわれています。更に重要な点は、旧約聖書に記載されている古来のユダヤ民族が、当時のエジプトでの奴隷生活から、新天地を神の教えに従って脱走し、現在のイスラエルに向った時に、脱出したユダヤ奴隷を追って来たエジプト人が海岸で、突然海が二つに分かれ、海水が引いて、二つに分かれたところをユダヤ民族が走り抜けたた後に、海水が再び戻ってきて、追って来たエジプト人が海水に呑まれたことが記載されているのですが、これは明らかに地震があった後の大きな津波現象と理解することができるのです。つまり、当時には既に津波現象が起こっていたのですが、それが津波現象との知識は当時は全く知られていなかっただけなのです。

千年ほど昔の平安~鎌倉時代に、房総半島沖でマグニチュード(M)8.5程度とみられる未知の巨大地震が起き、千葉県・九十九里浜地域が大津波に襲われた可能性を示す痕跡を確認したとの調査報告を、産業技術総合研究所などのチームが英科学誌ネイチャージオサイエンス(電子版)で発表しています。つまり、このような事実はもっと時代をさかのぼることが出来れば、日本列島が大陸から離れて形成した時代にも津波はあったことを暗示しているのではないだろうか。当時は津波という表現は存在せず、それこそ暴風の影響と捉えられていたかもしれないのです。ですから、Tofu wa bofuという表現は明らかに台風のあとの混沌とした状態を表していると理解することは全く問題がないのです。

ちなみに、沖合 いの漁船などでは気づかずに 港 や湾で異常に大きくなることから、 津 波(津は港の意味)とよばれるようになり、国際用語としても、日本語から転じた tsunami が用いられているのです。過去には台風などによる 高潮 (たかしお)も津波として扱われ、暴 風津波 、風津波(かぜつなみ)、気象津波などとよばれ、地震によるものを「 地震津波 」と言われています。従って、古代ヘブライ人が交易などを通じて東方からのいろいろと情報がもたらされ、その一つにボウフという表現ががあったものと解釈することには無理がないのです。

その他の例として、ノルウェー沖では、紀元前6100年にストレッガスライドと呼ばれる巨大海底地すべりが起き、内陸80 kmまで達する津波があったことが解明されています。例えば日本では、北海道大学の平川一臣ら、および政府の地震調査委員会によって行われた宮城県気仙沼市大谷海岸の調査によると、過去6000年間に紀元前4-3世紀頃、4-5世紀頃、869年の貞観地震、15世紀頃、2011年の東北地方太平洋沖地震の5回、三陸から房総にかけて約600年周期で海溝型地震と津波が起こったとされています。

このように人間が文字による記録を残すようになって以来、大きな被害を出した津波が多数記録されているのです。古代ギリシアの歴史家トゥキディデスは、著書『戦史』で、紀元前426年に起きた地震についての記録を残しています。その中でトゥキディデスは地震が津波を引き起こしていると推測しており、これは記録に残る限りでは最古の津波と地震の関係を述べた説だとされているのです。






 

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