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2022年2月の記事

2022年2月26日 (土)

日本人が日本人で無くなる時 その②

『国籍と外見性』

  ところが、国籍と言うものは目に見えない非現実性概念の典型例であり、国籍が変わっても、その本質、人間性、殊にその外観は当然のことながら変わらないのです。つまり、日本人がたとえ外国籍を取得してもそれは紙の上の変化のみであり、日本人としての外観は変わり得ないのです。

  最近の新聞報道によると日本に帰化して、日本で生活しているフィリッピン女性が警官の職務質問に対して、無意識的に自分はフィリッピン人ですと答えたため旅券不携帯の疑いで一時的にせよ身柄を拘束され、最終的には持っていた健康保険証や入管への問い合わせで、日本国籍を取得していたことが判明、釈放、謝罪されたとのことです。因みに、先進国の中でそれぞれの国民全員が写真付きの身分証明書を常に携帯すべきとの法律がない国は日本だけなのです。もし、日本国民全員が写真付きの身分証明書を所持し、常に携帯すべきとの法律があればこのようなことは起こらないのです。でも、このような議論は現時点でもその実施の可能性はほぼゼロに等しいのです。

  この件で考えなければならないことは、日本国内で、外見が日本人らしくない場合には警官の職務質問を受けやすいことです。ましてや、アフリカの人ならば日本人以上に日本の警官の職務質問を受ける可能性は極めて高くなるのではないでしょうか。これを一概に人種差別と批判するのは簡単ですが、このような現象は世界共通であり、私も日本人の顔をしているので、海外で生活していると疑惑の目で見られることがあります。これはどこの国でも起こりうることなので、致し方はないと思います。たとえば、私が住んでいるスイスで、かりに私がスイスの国籍を取得していたとしても誰も私のことをスイス人とは見てくれません。

  ここで考えられるのは、笑われるかもしれませんが、国籍は必ずしもその人の外観とは関係があるとはならないことなのです。では国籍の持つ意味は何だろうかと考えることが必要になる場合があるのです。繰り返しになりますが、基本的には、日本で生まれ、日本で育って日本に居住している場合には誰も国籍そのものの存在を考えたことはなく、ましてや国籍法と言う法律が存在することを認識する機会は全くゼロなのです。極言すれば日本人としての意識を必要としないのです。

  しかし、いったん海外に出かければ、まず旅券を手にしなければならず、そこで初めて日本人としての無意識的な認識が生まれるのです。つまり、そのような機会になって、生まれて初めて日本人としての認識、つまり日本人としての人間性が無意識的に認識されるのです。

  ではいったい、人間性とはどのような意味があるのだろうか。このように理解すると前述にて引用した日本に帰化したフィリッピン人の場合には人間性としては当然の行為が第三者によって誤解され、現実に所有している日本の国籍とは全く無関係に対処されていることと理解することが出来るのです。つまり、この場合にはこの日本に帰化して日本の国籍を所持している元・フィリッピン人の人間性がたんなる外観によって無視されてしまっているものと演繹することが可能になるのですが、誰もそのような心理的な変化には気が付かないだけなのです。つまり、国籍と言うのは本来の人間性という基本が、場合によっての環境が異なると極めて無視されてしまうことがあるのです。

  このように理解するとその逆に海外に出かけた日本人は無意識的に日本人と言う人間性を絶えず意識しているのが普通なのです。このことは海外に初めて出かけるときに、自分は日本人であるのだと無意識的に自覚させられる人間の心理的状態をもたらすことになるのです。つまり、ここで理解したいのは国籍そのものが単なる外観だけで人間性を左右することにはならないのです。勿論、今後の国際化の影響で、前述のような日本で生活している国際カップルの子供が日本で生まれて日本の戸籍に記録されて当然のことながら日本人にはなっているのですが、人間性の観点から、母親、或いは父親の外国籍をも維持させたいという極めて基本的な人間的、社会的要望にもなりつつあることも忘れることはできません。

『国籍の人間性』

  では海外に居住している元日本人が日本人でなくなる具体例を考えてみたい。

  2017年にノ-ベル賞を受賞したイシグロさんは両親がともに日本人で、生まれたのは長崎市。5歳のときに父親の仕事の関係で英国に渡り、1982年に英国の国籍を取得したという。このほかにも、ノーベル賞を受賞した元日本人は周知のとおり、数人にも上るのです。

  そのようなもう一つの典型例としては例のLEDを発明してノーベル賞を得た中村さんは、ノーベル賞を受けた時は米国籍を職業上の理由から所得せざるを得ない状態であったので、結果的には国籍法11条に基づいて日本の国籍維持が認められなかったのです。しかし、当のご本人は自分は日本人であると談話でも明言しているのです。それは当然のことで、たまたま職業上の理由から外国の国籍を取得したにすぎず、日本人であることには全く変化がないし、当然のことながら日本人と捉えていることには誰も反対することは出来ないはずです。しかし、現実には現在の国籍法11条の規定により、中村さんは米国人になっているので、法律的には日本の国籍は維持できないのです。つまり、中村さんは日系アメリカ人と言うことになるのですが、日本人は誰もそのような解釈、理解はしていないのです。最悪なのは日本の一部の政治家が中村さんのノベル受賞の知らせの時のコメントに「日本人として誇らしい」と談話していることなのです。

  ヨーロッパやアメリカの大都市には、その国に生まれていない外国人の片親を持つ子どもや、小さな頃にその国に移住してきた子どもが大勢いるのです。彼らの多くは10代前後になると、アイデンティティーの問題に直面するのが普通なのです。5歳で日本から英国に移り住み、その後、作家としての地位を確立するまで一度も日本を訪れることがなかったイシグロさんもその例に漏れなかったのではないかと考えられています。つまり、1983年に彼が27才の時に英国籍を取得しているとのことですが、そのときに果たして戸籍法に規定されている国籍喪失届は出していないとも推測できるのです。つまり、繰り返すように、国籍法11条そのものには罰則がなく、その関連法律としての戸籍法、旅券法などによる違反行為としての罰則があるだけなのです。

  そのほかにも、テニスの大坂ナオミさんが挙げられます。 全米優勝後に大坂ナオミさんを「日本人らしい」と持ち上げる声に対する違和感はあるのかもしれません。「大坂さんの容姿や話し方」と、あなたが考える『日本人』の姿がどれくらい一致しているのかと考えたことがあるのでしょうか。容姿や話し方は関係ないという人が、日本にどれくらいいるのかは疑問です。特に混血児においては、「勝てば官軍、負ければ賊軍」がいまだ現代日本のスポーツ界でまかり通っていると指摘する人もいるのです。つまり、「勝てば日本人、負ければハーフ」であるということのようです。大坂ナオミ選手が全米オープンで優勝した途端、多くの日本人が彼女が完全に日本人だと認めた、いゃ、認めたいのが普通の日本人の心理なのです。

  また、最近の報道では英国育ちの日本人歌手リナ・サワヤマさん(29)が、英国籍でないことを理由に英国の著名な音楽賞の受賞資格を得られないとツイッターで問題提起していました。海外の主要メディアによると、英国人歌手エルトン・ジョンさんも彼女を評価する実力派としての訴えを相次いで報道しており、芸術の評価対象を国籍だけで区別することの是非を巡り、議論を呼んでいるとのことです。サワヤマさんは新潟県生まれで、家族と一緒に移った英国で25年ほど暮らし、永住権も取得しているのですが、英国籍は取得していないのです。やはり彼女も日本人と言う人間性は失いたくはないのかもしれません。 

  ちなみに数年前に日本人男性とフィリッピン女性の間に生まれた子供に日本国籍が与えられた最高裁の判断に、両親が結婚していなくとも日本国籍を与えるべきとの判決がなされましたが、この判決で「血統」重視が挙げられていました。つまり、日本の国籍概念は血統主義で、アメリカのような出生地主義ではないことが大きな判断の一つになっていました。ちなみに、日本は父または母が日本国籍を持つ場合、生まれた場所が国内外にかかわらず、その子に日本国籍を与える「父母両系血統主義」を採用されています。かつては父親が日本人の場合に限る「父系優先血統主義」でしたが、1984年の国籍法改正で85年から母親が日本人でも認められるようになった。 

  この最高裁の判断を演繹すると、本来の日本人がたとえ外国国籍を取得しても血統的には日本人であることには変わりがないので、現在の国籍法11条に基づいて日本の国籍をいとも簡単に剝奪された日本人は「外国籍の日本人」になってしまうのです。でも、もし血統主義が国籍に決定的な影響を与えているならば「外国籍の日本人」は違憲になるのかもしれません。つまり、血統主義と言うことは国籍そのものも人間性を根本に念頭に置いていることになるのです。このことを別な視点から解釈すると、日本では国籍を認めるときの判断には血統という概念が介在し、外国籍を何らかの理由で取得した場合には、血統という概念は完全に無視、拒絶されていることにもなるのです。

  なお、「外国籍の日本人」という概念は、現実にかなりの数になるのです。このことは海外で、外国籍を何らかの理由で取得して、そのまま海外で生活を続けている人達が日本の旅券の更新をしなければ、当然のことながら、国籍法、戸籍法、旅券法などの関与は皆無になるのですが、日本の戸籍はそのままに残っている例はかなりの数になるのですが、現実にはそのような「戸籍上のみの日本人の“潜在日本人“」の実態は誰も知らないのです。

『二重国籍維持の意義』

  自分の国籍を捨てる、いゃ、実際は捨てざるを得ない、ということが如何に重大な問題であるかの意味が現在の日本の為政者や一部のマスコミにはよく理解出来ていないのではないでしょうか。為政者の心構えの第一条はいかに相手の立場になって物事を判断すべきかと考えることなのです。自分の国籍を保持しつつその滞在国での政治・政策・発展などに多少なりとも貢献(干渉ではないのです)したいという心理を理解するには相手の立場になって物事を判断出来るという能力が必要なのです。

  そこには帰化とは根本的に異なる心理的メカニズムが介在するのです。海外居住日本人にとって日本の国籍は母国とほぼ同義語なのです。その典型的な例は戦前、戦直後の南米移民の日本への郷愁、母国としての日本への慕情などを考えれば十分理解出来るはずです。母国という概念を実際に身を以って体験する機会のない島国日本の為政者に対して日本人を自分から放棄せざるを得ないことがどのような意味を持っているのかを理解させることは不可能に近いのではないでしょうか。

  ここで理解すべきことはこのような国籍法11条というものは明治の時代から連綿として継続、維持されていることなのです。つまり、この国籍法11条の条文は明治の時代の名残りであり、その当時の概念では南米などに出かける移民は自ら日本を捨てて海外に移住するものとの概念が根底にあり、いわば日本を捨てて海外に生活の場を移す、と言う概念であり、その根底には「棄民」概念が根底にあったのです。このような歴史的背景を演繹すると、現時点でこの条文が適用されて日本国籍を喪失している人達は間接的に「棄民」扱いにされているとも解釈するも可能なのではないでしょうか。このような背景を熟知していると、ノ-ベル賞を受賞した一部の人たちは棄民扱いにされていることになるのですが、そのような理解、解釈は誰もしていないのです。

『国籍が関与すると問題点』

  この論説の基本的な主旨は本来の日本人が海外で居住し、活動している時にその滞在国での国籍を取らざる事情が起こり、その国の国籍を取得した時に、現在の国籍法で日本の国籍を瞬時に失うと規定している11条を改正することに焦点が当てられており、その結果として、現在の条文を改正することにより、従来の日本人本人が希望すれば、外国籍をも同時に維持できること、とすることにあるのです。つまり、日本人の血統は単なる書類時用の変化だけでは無くならないことなのです。もっとも、それ以上に、現在の国籍法11条の完全な撤廃と言うことも問題解決の一つの可能性としても考えられます。

  しかし、ここで問題になるのは二重国籍の概念なのです。繰り返しになりますが、このような論説での最低目標は本来の日本人が何らかの理由で外国籍を取得しても、「本人が希望すれば」本来の日本国籍をも維持することが出来るということであって、外国人が日本の国籍を取得しても元の外国籍をも維持できるということとは根本的に異なるのです。この点が深く理解されないと、一般的な二重国籍反対議論として外国人の重国籍者は日本の「国益」に反するから反対との短絡的な発想なのです。このような反対概念では、もし外国人が日本に来て日本の国籍を取得してもそのまま外国籍を維持できるとの全く正反対の概念、理解が根底にあるのです。つまり、重国籍維持反対者が抱いている概念の対象は本来の日本人ではなく、外国から日本に来て便宜上日本に「帰化」、日本の国籍取得者、を念頭に置いているのです。更に、重国籍反対論の中で言及されていることの一つに、兵役と税金が挙げられることがあります。しかし、このような項目は当然乍ら滞在外国籍の法律に従うことは当たり前なのです。そのことを理解する例として、例えば、埼玉県民が東京で働いて東京の企業などから収入を得ている場合に、税金は東京都に払うのでなく、居住地である埼玉県に納入するのが常識ではないでしょうか。

  いずれにしても、その逆に本来の日本人が、何らかの理由で外国籍を取得しても日本人として海外で活躍することが可能になれば、むしろその逆であり、間接的、或いは直接的にも「日本の国益にも貢献」できるのです。その典型例としては元日本人のノ-ベル賞受賞者が挙げられます。その他にも海外で色々な分野で活躍している日本人は膨大な数にもなるのです。そのような人たちはある意味では日本の国益に直接、間接的に貢献している場合もあることを忘れてはならないのです。因みに、現在のような国際社会で海外にて居住して活動している日本人は、永住者をも含めると150万人以上と言われています。

  なお、最近では多くの国が重国籍を容認しているのです。またそのような傾向が認識されつつあるのです。例えば、今回の中国での冬季オリンピックに関連して、北京のシンクタンク「中国・グロ―バル化センタ―」の黄文政・研究員は、「1980年以来、中国の国籍法は一度も改正されていない」として「いくつかの規定は時代遅れになっている」と指摘していました。さらに、「外国籍を取得した中国人が自動的に中国籍を失うという条項は、国家の結束力を奪う」と主張し、二重国籍を認める法改正を提案しているとのことです。

  このような国際的にも"元日本人"としての活躍が、脚光を浴びている時代には、たとえ、現在の国籍法11条で日本の国籍が失われているにも係わらず、政治家をはじめマスメディアはそのような"元日本人"をほぼ完全に日本人扱いして報道していることがかなりあるのです。その典型例は前述のような元日本人のノ―ベル賞受賞者でもあるのです。更に、そのような理解、解釈が最大限に、しかも公式に発揮されていた典型例として、政治家やマスコミの国籍法11条を完全に無視していた例は、当時のペル-のフジモリ大統領が政変で日本に亡命した2000年の時には日本の国籍法11条を完全に無視して、フジモリ元大統領の戸籍が日本に残っていたので、急遽、日本の旅券を発行し完全に日本人扱いしていたことなのです。

  もっとも、フジモリ氏の場合には11条適用は無視されて、16条を適用していたのです。ちなみに、この16条は「国籍選択の宣言、つまり日本の国籍を維持します、とした日本国民は外国の国籍の離脱に努めなければならない」となっているのです。ここで認識すべきことはこの16条が昭和59年の国籍法改定によるものなのです。なぜこのような条文が昭和59年、つまり1984に改定、追記されたものであるのか、その背景の詳細は不明であるのですが、前述のイシグロさんが1982年に英国籍を取得していたことに関連性があるのかもしれません。

  フジモリ氏の場合には二重国籍維持が存在していたので、1985年の国籍法改正の16条を適用して、「二年以内に国籍の選択をしていない時には自動的に日本の国籍を選択したものとみなされる」、が適用されているのです。当時の日本政府はフジモリ氏が日本人夫婦の元に生まれ、出生時に日本国籍を留保していることを理由に彼が現在も日本国籍を保有していることを認めており、フジモリ氏の二重国籍を事実上容認していたのです。1984年以前から日本国籍と外国籍の双方を保持している者は1985年1月1日の改正国籍法施行の日に外国籍を取得したものと見なされるので、成人の場合2年以内(1986年12月31日まで)に国籍の選択をしなければ自動的に日本国籍の選択の宣言をしたと「みなされ」ていたのです。このように国籍法11条と16条の運用にはいろいろな問題が生じているのです。

『要約』

 ➀ 日本の国籍は血統主義であり、アメリカのような出生主義ではない。

 ② 現在の日本では、基本的には国籍は一つであり、本人の意思で外国籍を取得した場合には、日本の国籍を失うことになる。

 ③ 出生とか滞在国の規則などの影響で、重国籍になっている場合には、基本的には外国籍の放棄に努めなくてはならないとなっているので、現実には重国籍者が存在するのです。         

『結語』

  現在の国籍法11条の「日本国民は「自己の志望」によりその外国の国籍を取得した時には、日本の国籍を失う。」との決定的な表現規定を「・・・日本の国籍を原則として失う」、或いは」、16条にあるように「・・・日本の国籍離脱に努めなければならない」のような柔軟な条文に改正することですべてが解決できるのです。

このような重大な論議の根底にあるのは、

 ➀一部の国では結婚した場合に自動的にその国の国籍が与えられていたことがあり、それに該当した人たちは現在でも日本の国籍と外国籍を所有できている。 (以前にスイス人と結婚した日本人女性は結婚することによりスイスの国籍が自動的に与えられ、現在でも重国籍者になっている) (現実に日本人の重国籍者が認容、存在するという事実)

 ②日本の国籍という概念は「最高裁の判断」にも示されているように血統主義という人間性の反映に基づいている。

この二点に要約できるので、国籍法11条は歴史的にも「棄民」概念が根底にあり、極めて概念的な条文であり、普遍性が皆無であることを理解すべきなのです。  

  しかし、それ以上に、この国籍法11条に関して現在、法廷でこの条文が憲法違反であるとの審議(国籍はく奪条項違憲訴訟)がなされていますが、この訴訟の基本は「日本人は何時までも日本人であることを維持することが出来る」との精神を反映していることにもなるのです。むしろ、憲法違反と言う大乗的な法律的な観点に立てば、国籍法11条の撤廃が望まれるのです。

  なお、繰り返し、強調すべきことは海外などで活躍している典型的な日本人の場合には仮に何らかの理由で外国籍を取得した場合でも、「本人が望めば」日本国籍をそのまま継続して維持することが出来るようにすることであるのです。

  しかし、場合によっては外国籍を取得して、日本の国籍を維持する考えがない人の場合には国籍法改定の影響は全く及ばないのです(つまり完全な帰化)。この点が、日本国内に未だに健在している概念的な重国籍反対論者は正しく理解されておらず、なぜ場合によっては重国籍が必要になるのかという人間性への理解が全く欠如しているのではないでしょうか。

日本人が日本人ではなくなる時 (その➀)

日本人が日本人ではなくなる時 (その➀)

   

『はじめに』

  毎年、夏になるとお盆という行事があり、地方から大都会に働いている人たちが、この時期にそれそれぞれの故郷に帰ることが当然のごとく毎年行われています。そこには自分が生まれ育った故郷という概念が厳存するからです。このような故郷という感覚、概念を維持することは至極当然のことであり、まさにそこには人間性の基本が現存するのです。しかし、地元で生活し、そこから外に出て生活の拠点を移動するという生活体験がない人たちにとっては「故郷への願望」を経験することは皆無であり、故郷という概念を身をもって経験する機会は全く無いのです。例えば、東京で生まれ、東京で育ち、東京に居を構え、東京の学校で勉強し、東京で働いている典型的な「東京人」には故郷という概念を経験する機会は皆無になるのです。

  このような人間性の本質である「故郷」という概念は政治家でも選挙のような機会には地元、つまり故郷に戻って選挙するのは当然のことなのです。

  もっとも、その逆に、そのような故郷という概念を経験したことが無い人には、第三者が故郷に里帰りするという現象は頭では理解していても、殆ど関心がないのです。

  しかし、いったん日本からから海外に出て生活、活動している人にとってはこの故郷という概念は、「日本への郷愁」、あるいは「日本人としての人間性の自覚」であり、そのような心理現象は当然のことながら自然に湧き出てくるものなのです。もちろん、海外での生活の中でもいろいろな時点で、自分は日本人であるという概念は無意識的に常に現れるのです。そのような典型例として常に挙げられることの一つに食生活があるのです。日本で育った時の習慣の一つである食べ物、つまり日本食への願望は絶対に消えて無くならないのです。

  しかし、場合によってはそのような概念、人間性の基本というものが或る日、突然否定されるようになった場合の人間としての心理がどのようになるかを第三者が理解することはかなり難しいし、場合によっては無理、或いは不可能かもしれません。

『法律の概念』

  日常生活に関与する法律は膨大な数になり、そのような法律の基本は 「法規を破る者は法による懲罰が科せられるが、懲罰、罰則には完了があり、完了の後では平常に戻れる可能性がある」と言うことなのです。つまり、法律違反(原因)には必ず、判決(対処)という行為が介在するのですが、その行為には必ず罰則(結果)が伴い、それが終了すれば元の生活に戻れるという結末があるのです。例えば、盗みをして罰せられても、その罰による刑を終えれば元の日常生活に戻れるという「結末」があることなのです。

  つまり、法律違反の場合には基本的には懲罰、罰則があるべきで、その対処後には元の状態に復帰することが出来るというのが法律の基本概念なのですが、そのようにはならない例外的な法律があるのです。そのような典型的な法律例のひとつとして挙げられるものに国籍法11条があるのです。

  それは国籍法11条に示されている条文(日本国民は自己の志望によって外国の国籍を取得した時は日本の国籍を失う)なのです。もっとも海外で生活の拠点を構えて、ある事情から外国籍を取得しても国籍喪失届を出さなければ通常では問題がないのです。つまり、そのまま日本国籍を維持してもこの条文そのものには罰則がないからなのです。したがって、当然のことながら戸籍には全く影響がないのです。

  しかし、現実には海外で外国籍を何らかの理由で取得した場合には、それ以降、ある時点で自分が所持している日本の旅券が失効した時が問題なのです。そのような場合には滞在国にある日本の大使館、領事館で旅券の更新をしなければならないのですが、その時に必ず滞在国での居住許可書の提示が求められるのですが、その時点で滞在国の国籍を既に所持していれば、当然ながら居住許可書は所持していないので、結果的にはその国の国籍を取得していることが明らかになるのです。

  その結果として、海外での日本の旅券の更新は大使館から拒否され、従って、最終的には日本の国籍を失うことになるのが現時点での国籍法の概念なのです。勿論、ここで重要なのは大使館での日本の旅券再発行の拒否はたんなる行政上の手続き拒否であり、法的罰則ではないのです。なお、この条文の解釈に関連して、海外での旅券更新・発行に直接関与している大使館の対応環境が極めて意図的な場合もある(あった)のです。

  それは国籍法11条では「・・失う」との単純な法文表現なのですが、多くの大使館がそこに「自動的に」という表現を意図的に付加して「・・自動的に失う」と広報していたことがあったのです。このような意図的な付加事項は数年前に一部の海外居住者が国籍法11条の問題を取り上げて裁判に持ち込まれた頃になって、意識的にこの条文を適用するために、海外の大使館に対し、この条文の説明に「自動的に」日本の国籍を失いますとの追加情報を通知して、世界各国の大使館、領事館の国籍法の解説項目にはこの「自動的」という表現が一斉に使われていたと推測できるのです。もっとも、この語句は、二年ほど前になって、また、一斉に削除されてしまっているのです。このことは現在進行中の国籍法関連裁判への配慮が間接的にあったことを示していると推測できるのです。

  更に問題なのは、海外で活躍している日本人の殆どが国籍法の存在、そしてその影響と言うものについて全く知らされておらず、ましてやそのような法律の存在することへの認識はないのが普通なので、自分が所持している日本の旅券の更新を大使館で申請した時に、初めて国籍法なる法律が現存、認識する場合が殆どなのです。場合によっては、まさに青天の霹靂なる結果にもなるのです。

  理論的には、現在の旅券に国籍法の該当部分(例えば11条)を転記すべきかもしれません。因みに、現在の旅券の最初の頁に書かれてある文章は、海外で何らかの問題で日本人が援助を必要とするような状態の時の対応は、基本的には外国政府にお願いしますという文章が明文化されているのです。このような文章は旅券が初めて制定された明治時代の名残りであるのです。つまり、明治の時代に旅券が発行され始めた当時の日本には海外旅行などで何らかの困難が生じた日本人に対して、日本政府がそのような場合に対処、援助することは出来なかったので、当然のことながら、外国政府にお願いせざるを得なかったのです。

  このように、不思議なことに法律上の罰則と言うものは国籍法11条には存在せず、その罰則の類似行為が日本の国籍を失う、つまり日本人ではなくなるというのが現実なのです。つまり、この場合は法律違反と言うよりは、日本の国籍を失うという全く異なる対応が、意義なく行政的にだけ実施されているのが国籍法、特にその11条、と言う法律なのです。もっとも、この条文そのものには罰則は規定されておらず、従ってこの条文に在る国籍の喪失は罰ではなく、「不利益」であり、しかも他の国籍を取得したことと表裏一体をなす「反射的不利益」であるから、権利侵害には当たらないと解されるのですが、法律の規則の基本概念には「不利益」の存在という概念的なものではないと考えられるのです。もっとも、このように理解すると、国籍11条の法律は罰ではないので、当然のことながら罰則自体の記述はないものと理解できるのかもしれません。

  なお、平成20年の改正法では,「日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子について,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したとして,日本人男性と子の間に実際には親子関係がないのに,親子関係があると偽って認知届をし(偽装認知),虚偽の国籍取得の届出書を提出した者(本人が15歳未満のときは父母などの法定代理人)に対する制裁として,1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する刑罰が設けられたことは(国籍法第20条)、国籍法関与の罰則としての例外かもしれません。

  いずれにしても、国籍法11条には、罰則がないので、その完了と言うことはありえず、元の国籍、すなわち日本の国籍に戻れない、従って日本の国籍を維持できないとう法文が現存するのですが、「完了後の状態」、つまり日本の国籍を再取得できるという対処後の項目がないという極めて稀な法律になるのです。すなわち、本来の日本人が国籍法の「自らの意思で対象となる外国籍を取得した場合」、その間接的結末は日本の国籍を失うことになるのですが、その結果としての「結末」は存在しないのです。つまり、国籍を失うという事態が完了しても、元には戻れないのです。もっとも、「国籍を失う」という語句が法的罰則に該当するのではなく、上述のような「不利益」の概念とすると、議論の余地があるかもしれません。

『国籍法と言う法律の意義』

  前述のように、法治国家には必ず法律が存在するのですが、一般的には、その国にのみ生活している人には全く関係がなく、更にその存在を認識するような機会が全くないという極めて例外的な法律があり、その典型例が国籍法という法律なのです。つまり、国籍法という法律は日本人が日本人であることを意義付けている法律であるのですが、日本で生まれ、日本で生活し、海外での生活拠点を持ったことのないごく普通の日本人(勿論その中には政治家も入るのですが)には全く関係がない法律という極めて例外的な法律なのです。ですから、海外旅行を全く経験したことがない人とか、そのような海外旅行をする目的がない人には旅券の存在はまったく不要なのです。

  もっとも、近年の国際社会では日本国内でもこの国籍法11条が関与している被害者は現存するようになっているのです。それは日本で日本人と結婚して、日本で生活をしている国際カップルの子供が外国人の母親(あるいは父親)の国籍、つまり外国籍、を申請、取得するような場合には将来的には国籍法の関与が現存し、日本国籍を維持できなくなるという例も存在することがあるのです。つまり、生まれた子供にも自分と同じ国籍を与えたいという心理、つまりに人間性としては当然なのですが、現実にはそれは不可能になる場合があるのです。

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