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2021年6月の記事

2021年6月14日 (月)

法文の解釈の問題点

「同性婚裁判判決と重国籍裁判判決について思うこと」

3/17日に札幌地裁での同性婚に関する判決があり、「同性婚認めぬのは違憲」とありました。この判決の骨子の中で述べられている、「同性愛者が結婚による法的効果の一部ですら受けられないのは合理性的根拠を欠き、法の下での平等を決めた憲法14条に違反」、「同性愛者と異性愛者は法的利益を等しく享有しうる」との判断の二点は極めて企画的、合理的な解釈ではないだろうか。つまり、憲法での条文にある「婚姻は両性の合意」の解釈では「両性」とは男女を想起させる表現を用いているものとの固定的、古典的な一般的な判断がされているが、異性間との婚姻との差に関しては「根拠を欠く差別」と判断されていることである。この判決に関連して、憲法学者による「憲法にある両性の合意という言葉は、結婚は家長の同意が必要だった戦前の家制度を想定するものであり、同性カップルへの法的保護を否定するものではない」との説明は時代感覚をまさに正しく反映しているものではないだろうか。

この判決、「同性婚を認めないのは違憲」との判断が札幌の地裁で判断されていることに関連して、1/21日に東京地裁での「重国籍は認めらず、憲法違反ではない」との判決を想い出さざるを得ないのです。東京地裁での判決には「憲法11条の「自己の志望によって外国の国籍を取得した時は日本の国籍を失う」の条文は国籍を維持する権利までは保証しているのではなく、重国籍を持つことは外交上の保護や納税を巡る混乱を防ぐために重国籍を認めない、と判決文の中に明記 されていたのです。

しかし、この重国籍を認めないという事項設定の背景は明治時代の「棄民」政策、つまり海外に出かけるのは自由だが、国を捨てて海外に移住する国民には日本政府はなんらの保護を行使しないという棄民思想が根底にあったのです。その概念は今日まで連綿として維持されており、その典型例としては日本の旅券の最初の頁にもそのことが明記されているのです。

つまり、海外で日本の国民が事故とか、なんらかの問題が生じた時などに遭遇した時は基本的には外国の政府にその援助を依頼しているので、判決に謳われている「外交上の保護」は空文そのものなのです。最悪なのは「納税を巡る混乱」の記述なのです。納税は国籍とは全く関係なく居住国での義務であることは常識なのです。このような識者としては全く考えられない事項を判決文の中に堂々と正規していることは通常の裁判官の判断とはとても考えられないのです。もし、そのようなことが問題になるのら埼玉県民が東京で働いて収入を得ている場合には所得税は埼玉県ではなく東京都に払うべきです、いったら一笑に付されます。

さらに問題なのは憲法記載の「自己の志望での外国籍の取得」の解釈は海外での外国籍取得の現実的背景を全く無視しているのです。つまり、強調すべきことは、海外での外国籍取得の行為は「自己の志望」ではなく、海外での活動上、「止むをえずの取得」なのです。その典型例は海外で活躍している数多くの(元)日本人ノ―ベル賞受賞者があります。ちなみに、外国籍取得のみを念頭に海外に居住、移住する人は一人もいないのです。

更にこの両者の裁判で認識すべきことは、同性婚と同じように重国籍をも認めていないのは世界の主要国のなかで日本だけであるのです。つまり、換言すると、同性婚や重国籍に関する否定概念は時代変化への順応性が欠如していることにもなるのです。結果的には、札幌地裁と東京地裁との間には憲法条文の解釈にも大きな違いがあり、札幌地裁での判決は極めて柔軟性があり、時代の変化をも反映させているのですが、東京地裁の判決には古色蒼然とした古典的解釈に従っているものと解釈できるのではないだろうか。

更に、この両者の判決で極点な判断、概念の違いは、同性婚判決では憲法記述の「両性」の解釈には直接触れず、結婚と言う人間的な側面行為から「同性婚を認めるべき」との判断なのですが、重国籍容認判決では憲法記載の「自己の希望」という表現をかたくなに解釈、理解しての判断であることなのです。

また、この二つの異なった対照的な判決で考えられるのは、地裁の裁判官も人間である以上、ものの考え方にそれぞれの特性、人間性が大きく関与されるのは当然のことであり、ちょうど、昔の人間と現代の若者との間にはそれぞれの判断や行動には大きな差があるのは当然のことであり、更に、どの地域、時代に育ったのかと言う観点からの判断にもある程度の差があるのは自然のことなのです。このような観点に立って、同性婚に関する判決と重国籍容認に関する判決との間にも、そのような裁判官の人間性が関与していることは否定できないのではないだろうか。つまり、東京と札幌との地域的環境も裁判に際しての格差が感じられるのです。なお、同性婚裁判は札幌以外でも東京をはじめとして四地裁でも現在進行中とのことですが、果たして札幌地裁のような合理的、人間的な判決がされるのだろうか。札幌の裁判では原告本人への尋問があったが、東京地裁での裁判にはその予定がない、と報道されていますが、その結果はどうなるのでしょうか。

ただひとつだけ同性婚と重国籍との問題についての違いは、前者は主として日本国内の日本人での問題であり、後者は海外在住の日本人の問題になっているので、裁判官をはじめ、政治家や国民の判断、反応にはかなりの格差があるのかもしれません。例えば、重国籍容認に関しては日本国内ではかなりの拒否感が強いのですが、そのような嫌悪感を持つ人たちの根底に在るのは、重国籍を認めたら中国人が大挙して日本に移住、帰化して日本の国籍を取得したら大変なことになるとの極論、つまり帰化という概念が介在するのです。つまり、本来の日本人の国籍維持という理念とは全くかけ離れた帰化の結果としての重国籍の可能性とを一緒にしているのです。しかしながらそのような端的な理解をしている人たちには中国人により日本の土地や家屋などが中国人にどんどん買われている現実には全く関心がないのです。

本来の日本人は日本人としての血統を持っていることが重要で、日本の国籍は血統主義を基盤にしているので、単なる外国籍取得という書類上の規定で、日本人としての血統を消すことは不可能なのです。

いずれにしても、裁判と言う公正な判断が求められている状況のなかで、いろいろな要因に影響されて、それぞれの条文解釈判断基準が異なること自体が問題ではないでしょうか。

2021年6月 4日 (金)

スイス菌か、それともスゥス菌か ??

最近の新聞に「胃炎の原因、スイス菌の可能性も」との記事があり感染研の研究者の論文が報告されていました。

 

この記事を見て、スイス菌とは面白いが、どうしてスイス、つまり国名のスイスが使われているのかと不思議に思っていろいろと調べたところ、興味のある発見をしたのです。

 

この新聞記事の解説にはHelicobacter suis、とありその説明にブタ由来の細菌との訳がついていたのですが、どうして、ブタ、つまり豚、とスイスとの関係があるのかと不思議に思ったのです。

 

 

ところが、色々な細菌名にはその由来の動物名がラテン語で付けられているとのことなのですが、そのラテン名にsuisが使われていることは知りませんでした。例えば、Streptococcus suisのように。

 

そのご調べましたところブタのラテン名はsusなのですが、ラテン語の名詞変化は通常のヨロッパ語とは異なり、名詞の格変化は六格があり、主格、呼格、対格、属格、与格、奪格と複雑であり、更に現在のヨロッパ語の格変化は常に語尾だけなのですが、ラテン語の場合に語尾の変化以外に、語中の変化もあることには気が付きませんでした。

 

   つまり、sus,  sus, suem, suis, sui, sueとの変化になっているのです。つまり、suem suisなどは通常の現在の外国語には見られない変化があり、その格変化が単語の中の母音単語の挿入なのです。ですから、ブタのラテン語の属格はsuisになり、それをロマ字読みにするとスイスになってしまうのです。ですから国名のスイスとは全く関係がないのですが、このようなラテン語の変化を知らない人にとっては、国名のスイスはどうして豚と関係があるのかと考えてしまうのではないでしょうか。実は私はこの新聞記事を見て、えっ、どうしてスイスの国と豚が関係あるのかと早合点してしまったのです。勿論、国名のスイスはswissでありスペルは異なりますが、ロマ字読みの発音になると、両者ともスイスになるのです。

 

因みに、Schwyz(シュヴィーツ)」は、古代ドイツ語で「酪農場」を意味する語が訛ったものだとされる、との説明があるのですが、そうなると酪農場ではどのような動物が飼われていたのかが関心になります。もしかするとラテン語の豚の意味のsusと関連性があるかもしれません。


因みに、豚は、人間が野生の猪を家畜化した猪の子孫で、 この家畜化は、アジア、ヨーロッパなど世界各地で人類が定住とともに農耕を始めた頃、時を同じくして始まったと考えられているのて゜す。 ヨルダンの農耕遺跡からは紀元前6000年頃の、スイスの遺跡からは前5000年頃の豚の骨が発見され、家畜化初期の豚と考えられているとのことです。このような経過を考察すると、もしかしたら、スイスという国の名前は豚のラテン語、susから派生したものとも考えられるのではないでしょうか。しかし、こんなことをスイス人に言ったら気分を悪くすることは必須ですので、スイス人には言わない方がよいでしょう。

 

このように理解すると、基本的にはスイス菌は豚の名前の主格がsusなので、スゥス菌とすべきかもしれませんが、ラテン語の知識は殆どの人には無いので、学名に記載の発音をカタカナ表記にするのは致し方がないのかもしれません。

もっとも、ラテン語の文法的解釈から判断すれば属格のsuisを 使うのが正しいことになります。

 

 

 

 

 

2021年6月 2日 (水)

裁判関与の裁判官の人間性

同性婚裁判判決と重国籍裁判判決について思うこと」

3/17日に札幌地裁での同性婚に関する判決があり、「同性婚認めぬのは違憲」とありました。この判決の骨子の中で述べられている、「同性愛者が結婚による法的効果の一部ですら受けられないのは合理性的根拠を欠き、法の下での平等を決めた憲法14条に違反」、「同性愛者と異性愛者は法的利益を等しく享有しうる」との判断の二点は極めて企画的、合理的な解釈ではないだろうか。つまり、憲法での条文にある「婚姻は両性の合意」の解釈では「両性」とは男女を想起させる表現を用いているものとの固定的、古典的な一般的な判断がされているが、異性間との婚姻との差に関しては「根拠を欠く差別」と判断されていることである。この判決に関連して、憲法学者による「憲法にある両性の合意という言葉は、結婚は家長の同意が必要だった戦前の家制度を想定するものであり、同性カップルへの法的保護を否定するものではない」との説明は時代感覚をまさに正しく反映しているものではないだろうか。

この判決、「同性婚を認めないのは違憲」との判断が札幌の地裁で判断されていることに関連して、1/21日に東京地裁での「重国籍は認めらず、憲法違反ではない」との判決を想い出さざるを得ないのです。東京地裁での判決には「憲法11条の"自己の志望"によって外国の国籍を取得した時は日本の国籍を失う」の条文は国籍を維持する権利までは保証しているのではなく、重国籍を持つことは"外交上の保護"や"納税を巡る混乱"を防ぐために重国籍を認めない、と判決文の中に明記 されていたのです。

しかし、この重国籍を認めないという事項設定の背景は明治時代の「棄民」政策、つまり海外に出かけるのは自由だが、国を捨てて海外に居住、移住する国民には日本政府はなんらの保護を行使しないという棄民思想が根底にあったのです。その概念は今日まで連綿として維持されており、その典型例としては日本の旅券の最初の頁にもそのことが明記されているのです。つまり、海外で日本の国民が事故とか、なんらかの問題が生じた時などに遭遇した時は基本的には外国の政府にその援助を依頼しているのが現実であり、判決に謳われている「外交上の保護」は空文そのものなのです。最悪なのは「納税を巡る混乱」の記述なのです。納税は国籍とは全く関係なく居住国での義務であることは常識なのです。このような常識的な理解が裁判官に無いということはまさに驚きそのものであり、最悪なのは判決文の中に堂々と記載してことななのです。もしこのようなことがまじめに考えられるのなら、埼玉県民が東京で働いて収入を得ている倍にはその埼玉県民は東京で所得税を払わなければなら医のですが、そのようなことを公言したら笑われるだけなのです。

さらに問題なのは憲法記載の「自己の志望での外国籍の取得」の解釈は海外での外国籍取得の現実的背景を全く無視、あるいは無理解そのものなのです。つまり、強調すべきことは、海外での外国籍取得の行為は「自己の志望」ではなく、海外での活動上、「止むをえずの取得」なのです。その典型例は海外で活躍している数多くの(元)日本人ノ―ベル賞受賞者があります。ちなみに、外国籍取得のみを念頭に海外に居住、移住する人は一人もいないのです。

更にこの両者の裁判判決で認識すべきことは、同性婚と同じように重国籍をも認めていないのは世界の主要国のなかで日本だけであるのです。つまり、換言すると、同性婚や重国籍に関する否定概念は時代変化への順応性が欠如していることにもなるのです。結果的には、札幌地裁と東京地裁との間には憲法条文の解釈にも大きな違いがあり、札幌地裁での判決は極めて柔軟性があり、時代の変化をも反映させているのですが、東京地裁の判決には古色蒼然とした古典的解釈に従っているものと解釈できるのではないだろうか。

更に、この両者の判決で極点な判断、概念の違いは、同性婚判決では憲法記述の「両性」の解釈には直接触れず、結婚と言う人間的な側面行為から「同性婚を認めるべき」との判断なのですが、重国籍容認判決では憲法記載の「自己の希望」という表現をかたくなに解釈、理解しての判断であることなのです。

また、この二つの異なった対照的な判決で考えられるのは、地裁の裁判官も人間である以上、ものの考え方にそれぞれの特性、人間性が大きく関与されるのは当然のことであり、ちょうど、昔の人間と現代の若者との間にはそれぞれの判断や行動には大きな差があるのは当然のことであり、更に、どの地域、時代に育ったのかと言う観点からの判断にもある程度の差があるのは自然のことなのです。

このような観点に立って、同性婚に関する判決と重国籍容認に関する判決との間にも、そのような裁判官の人間性が関与していることは否定できないのではないだろうか。つまり、東京と札幌との地域的環境も裁判に際しての格差が感じられるのです。なお、同性婚裁判は札幌以外でも東京をはじめとして四地裁でも現在進行中とのことですが、果たして札幌地裁のような合理的、人間的な判決がされるのだろうか。札幌の裁判では原告本人への尋問があったが、東京地裁での裁判にはその予定がない、と報道されていますが、その結果はどうなるのでしょうか。

ただひとつだけ同性婚と重国籍との問題についての違いは、前者は主として日本国内の日本人での問題であり、後者は海外在住の日本人の問題になっているので、裁判官をはじめ、政治家や国民の判断、反応にはかなりの格差があるのかもしれません。例えば、重国籍容認に関しては日本国内ではかなりの拒否感が強いのですが、そのような嫌悪感を持つ人たちの根底に在るのは、重国籍を認めたら中国人が大挙して日本に移住、帰化して日本の国籍を取得したら大変なことになるとの極論、つまり帰化という概念が介在するのです。つまり、本来の日本人の国籍維持という理念とは全くかけ離れた帰化の結果としての重国籍の可能性とを一緒にしているのです。しかしながらそのような端的な理解をしている人たちには中国人により日本の土地や家屋などが中国人にどんどん買われている現実には全く関心がないのです。

本来の日本人は日本人としての血統を持っていることが重要で、日本の国籍は血統主義を基盤にしているので、単なる外国籍取得という書類上の規定で、日本人としての血統を消すことは不可能なのです。

いずれにしても、裁判と言う公正な判断が求められている状況のなかで、いろいろな要因に影響されて、それぞれの条文解釈判断基準が異なること自体が問題ではないでしょうか。

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