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2019年11月の記事

2019年11月25日 (月)

国籍法施行時の矛盾点

国籍法施行時の矛盾点


(1)はじめに
 最近の新聞や週刊誌などでもテニス選手の大坂ナオミさんに関連した記事が見られるようになりましたが、それらの記事の大半は 、 彼女がアメリカと日本の両方の国籍を持っていて、 22 才になった時にどちらからの国籍を選択するか 、 ということが大きな注目を浴びているからなのです。以前にも似たようなスポ-ツ関係者の重国籍問題が話題になったことはありますが、今回の大坂ナオミさんのような世界的にも有名になったスポ-ツ選手だけにマスコミの取材のよき対象になっているのです。なお、大坂ナオミさんは最近の報道では日本国籍選択宣言をしたとのことですが、マスコミはその事実だけを報道し、いとも簡単に、彼女の重国籍が認められたと報道していることもあり、国籍法そのものには全く関心が払われていなかったのです。
 しかし、日本に生まれ日本に居住し、日本で働いている人にとっては、このような一時的な大坂ナオミさんの記事を読んでも、そんな問題があるのですね、くらいの印象しかないのではないでしょうか。ましてや、そこには国籍法という極めて重要な法律が大きく立ちはだかって関与していることには全く気が付かず、また関心も向けられない筈なのです。つまり、大坂ナオミさんが日本の選手として活躍していることが重要であり、もし彼女がアメリカの選手として活躍し、日本に住んでいなければ、通り一片の二ュース で終わっていることにもなるのです。

  丁度、ノ-ベル賞受賞者の発表の時にアメリカで活躍している複数の ( 国籍法上は元日本人 ) ノ-ベル賞受賞者の国籍が簡単に触れられていたのとでは、大きな違いがあるのです。もっとも、今回の大坂 ナオミさんの国籍問題についてマスコミの取り上げ方にも問題があり 、色々な芸能人やス-ポツ関係の人たちのコメントを読んでいると、早合点して彼女の重国籍が認められた、ということだけが殊更に強調されているものが多く、国籍法の条文を読んだことがない一般の人達の短絡的な誤解を招きかねません。しかも、このことに関して、いつものことながら法務省とか外務省の関係者のコメントは一切なく、マスコミ関係者による管轄官庁に対する取材も見たりません。つまり、ある意味では国籍法なんていう法律の存在自体が重要 ではないのです。

なお、大阪ナオミさんと似たような例は小泉クリステルさんがあります。この人はフランスと日本の国籍を有していたのですが、最終的に日本の国籍を選択しているので、現在は日本人として日本では話題の人になっています。しかし、彼女も日本の国籍選択届を出しているので法律的には問題がないのですが、従来持っていたフランス国籍はそのまま維持していることなのです。

(2)国籍法の意義
  では国籍法という法律は何の目的で作られているのでしょうか。国籍の概念は,封建制度が崩壊し近代国家が成立するにつれて構成されたもので,18世紀末から19世紀初めにかけてようやく確立したといわれています。日本でこのような国籍の概念が生まれたのは明治の開国とともにであり,1873年公布の太政官布告〈外国人民ト婚姻差許条規〉,1890年公布の民法人事編(第2章〈国民分限)を経て,同年公布の憲法18条に基づき1899年になって初めて国籍法が制定されるようになったのです。
この国籍法は、日本国民たる要件を定めるために制定された法律で、(旧)国籍法(明治 32 年法律第 66 号)は廃止されているのです。この法律により、日本人夫婦の間に生まれた子は、出生地が国内・国外いずれであっても、出生によって自動的に日本国籍を取得します。出生届により戸籍に記載されますが、戸籍の記載対象は日本人に限られています。国籍と戸籍がこのような関係であることを、日本人が日本に居住している限り、知らなくても良いことです。
いったん日本人が海外に居住し、いろいろな分野で活動する場合にはこの国籍法が重要な役割を示すことがあり、場合によっては日本人であることが拒絶されることもありうる重要な法律なのです。従って、日本で生活している日本人には、ある日突然、自分が日本人であることを拒絶されるようなことが起きるとは、全く想像がつかないでしょう。
例えば、日本人が初めて海外に生活の拠点を移すときには国籍法の規定が妨げになることはないので、後になって国籍法が重国籍を法律的に禁じているような事態は理解できないのが普通なのです。
日本でのみ生活している人自身には当然のことながらこの法律は全く関連性もなく、無意味な法律なのです。したがって、日本で生まれ、日本で生活し、日本人同士で結婚している限り、この国籍法と言う法律そのものへの関心はゼロであり、その存在を知らなくとも日常生活には全く問題がないのです。
 法治国家には極めて膨大な法律が存在するのですが、その中の一つの国籍法は日本人であることを‟間接的”に意義付けているのです。しかし、現実には子供が生まれて出生届を出せばその事実が戸籍に収載され、その結果として当然な事のこととして日本人になるのです。つまり、日本人であるかどうかは戸籍に載っているかどうかで決まるので、国籍法そのものは直接には日本で生活している日本人にはまったく関与しないのです。

(3)法律の周知度
 現在の国籍法11条には「自らの志望で外国籍を取得した場合には、“自動的に”日本の国籍を失う」と宣言されているのです(正確には、この自動的という表現は条文には無いのですが、海外の大使館は意図的にこのような表現を最近まで使っていたのです)。この国籍法11条の法文に対する関心がなく、また本人自身には国籍法が全く関与しない一部の日本人で、概念的な重国籍反対者は、海外に出かけて何らかの方法で外国籍を取得する者は当然のことながら国籍法の内容を知って居るべきとの反論があるのです。 ちょうど、日本人である場合にはもっとも重要な日本の憲法の存在を熟知し、その内容を当然のことながら日本人としては当然知って居るべきであると、議論するのと似たようなことなのです。国には膨大な法律が存在するのですが、殆どの人はそれらの法律を熟知して読んだりしていることは不可能なのです。多くの場合、何か問題が起こった時に初めて該当する法律の存在を知らされるのです。
 そのほかにも、日本人女性が海外で外国人と結婚した場合、国によってはそのような日本人に該当国の国籍が自動的に与えられる場合もあるのです(或いはあったのです)。このような場合でも外国人と結婚するような人は当然のことながらそのような滞在国の法律の存在を知っているべきともなりうるのですが、実際はほぼ全員がそのような事実を知っているわけではないのです。つまり、結婚前にそのような法律の存在を認識している女性は極めてゼロに近く、ましてや海外で結婚する前に外国人と結婚することにより日本では禁じられている重国籍者に自動的になる可能性についての認識は殆どの場合皆無なのです。
 これと似たような議論は、日本人が海外に旅行する場合、日本の旅券を入手しなければなりませんが、そのような場合に旅券法の存在を認識し、その内容を熟知すべきであるとの極論にも相通じるのです。
 さらに問題なのは国籍法そのものの周知・認知度が余りにも低く、首相や、大臣、官僚などでも、かなり以前までは全く誰もその存在すら気が付いてなかったのです。その典型例として挙げられるのは嘗てペル-の大統領であったフジモリ氏が政変で日本に亡命してきたときに、彼はペル-の国籍を持っていてぺル-の旅券で日本に亡命してきたのですが、その時の政府は彼の戸籍が未だに日本に厳存していたので、全く問題ないとして日本人として日本滞在が問題なく許可されたことがあったのです。現時点ではとても考えられないことが、フジモリ氏の場合には無造作に行われていたのです。しかも、最悪なのは当時の法務省、外務省、法学者など、誰もそのことに関して異議を挿まなかったのです。
(4)国籍問題と重国籍への解釈
 国籍に関する議論の中では必ず重国籍の問題が取り上げられ、日本は基本的には重国籍を認めていないとなっています。(もっとも、重国籍を認めないという法文はどこにも存在しないのです。) その結果、問題視されるのは、「納税、兵役義務、外交保護」の三点がおもに取り上げられているのが普通なのです。このほかにも、重国籍と言う概念的な問題で必ず取り上げられているのは、もし重国籍を認めたら中国人などが日本の国籍と中国の国籍を持つことが可能になり、大変なことになるとの概念論が介在するのです。
しかし、本来の日本人が外国籍を取得する場合と、外国人が帰化により日本国籍を取得する場合は、制度が根本的に違います。外国人が日本に帰化する場合の条件として法務大臣の許可が必要であり、その許可の範疇には「重国籍防止条件として、帰化する者は、国籍を有しないか、又は日本の国籍の取得により、それまでの国籍を喪失すること」とあるのです ( 国籍法第5条第5項 ) 。 それに対して、本来の日本人が外国籍を取得する場合は、国籍法第11条が適用され、法務大臣の許可を要せず、自動的に日本国籍を失うことになっているのです。
 いずれにしても、上記のような重国籍問題に関与する三点から重国籍は認めるべきではないとして取り上げられている主張は、机上の空論であるのです。例えば、納税に関しては日本国民であるにも拘わらず税金を納めないのはけしからん、となっているのです。しかし、納税義務はその居住地・国に居る人が対象であり、まして海外に居住している人は滞在国で納税しているのであり、当然のことながら日本に税金を送金することはありえないのです。例えば、埼玉県民が東京の職場で働いている例はかなりの数になりますが、そのような人は都民税は払いません。つまり、埼玉県民はその居住地が埼玉県であるので一般的な納税は東京都に払うのではなく、埼玉県に払うのです。このような基本的な概念が海外居住の日本人の場合にも当てはめられるのは当然のことなのです。
 次の兵役義務は一部の例外を除いては国籍を有する国に滞在している場合にその国の兵役に従事することは当然の義務になるのです。しかし、現時点では日本の兵役は義務制ではないので、日本での兵役義務は海外居住者にも該当しないのです。例えば、本来の日本人がある理由から韓国籍をとっていて、韓国に居住していれば当然のことながら韓国での兵役義務を果たさなければなりません。
 最後の外交保護とは何を意味するのでしょうか。理論的には海外で日本人が何らかの問題に遭遇して何らかの援助が必要な場合には、もし重国籍者であるとその人が持っている他国籍の国との関係もあって必ずしも直ちに援助を差し伸べることは出来ないとされているのです。しかし、この議論はまさに噴飯ものであり、日本政府は基本的には海外に出かけた人はその保護対象にはならないのです。その典型例は日本の旅券の一頁に書かれてある宣言文を見れば明らかなのです。そこには「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助をあたえられるよう、関係の諸官に要請する」と記入されているのです。ここで問題なのは「関係の諸官」の解釈です。英文にはall those whom it may concernとあり、きわめて曖昧な表現なのですが、この旅券の文面は日本が旅券を導入した明治時代から殆ど変更することなくすべての旅券に印刷されていたのです。その名残りがいまだに残っているのです。でも、どうしてこのような文面がわざわざ日本の旅券に現在でも記載されているのでしょうか。なお、1918年に発行された旅券にも同じような文面が既に記載されているのです。その頃の旅券と言うのは紙一枚だけのもので、「日本帝国海外旅券」となっていて、そこに書かれてある文章は「・・・ニ赴ク前記ノ者ヲシテ遠路故障ナク自由ニ通行セシメ且必要ノ場合ニハ保護援助与ヲ与エラレンコトヲ文武官憲ニ請求ス」となっているのです。そもそもこのような文面は海外の諸国政府・官憲に対しての依頼なのです。つまり、もしこの旅券所有者が海外で何らかの支障、困難があったときにはこの本人を助けてあげてくださいよ、との意図があるのです。つまり、日本人が海外で困ったときには外国政府にお願いしますよ、との意図があるのです。この場合は海外にある日本大使館、領事館は関係ないのです。通常の場合にはこの旅券の文章の意味を考えなくとも全く問題はないのですが、万が一何らかの事件、政変などが海外滞在中に発生した時にどのような援助が受けられるのでしょうか。このような場合まず日本政府、日本大使館は極端な例外を除いては殆ど何もしてくれません。このことは外務省旅券課の正式の返事でも「所持人が渡航しようとする外国当局に対し,安全に旅行できるよう通行の自由と適法な援助を公式に要請する公文書という側面も伝統的に持ち合わせています。」と正式に言明されているのです。でも、こんな虫の良いことを平気で未だに日本の旅券に堂々と記載していることに日本政府はなんらの問題もないと考えているのです。
 ともかく、海外で個人が何らかのトラブルに遭遇して、現地の領事館に助けを求めてもほとんどの場合、領事館は何もしてくれないのです。例えば、いささか古いことになりますが、1985年の旧ユーゴスラビア崩壊にさいして、現地の男性と結婚していた日本人女性も数多くいることが報道されていました。当時の在留日本人リピチ都子さん救出に関する記事が日本の新聞に報道されていましたが、その記事を読んで考えさせられたことは、領事館の海外在留邦人への保護に対する対応でした。当時の新聞記事によりますと、リピチ郁子さんの救出に関してフリ-ジャーナリストの水口康成さんの努力により彼女は日本に帰国することができたのですが、肝心の救出に閲して現地領事館の対応が極めて消極的であったとのことです。そして、それに関連した説明に子供をも含めたリピチ都子さんの国籍が不明、本人の帰国意思が不明だからなどの理由から領事館は何らの援助の手を差し伸べてくれなかったのです。そのほかにも、1985年にニューヨーク近郊のアパートで日本人青年が銃犯罪の被害者となり射殺された時、この第一報を日本の両親宅に国際電話で総領事館から知らせがありましたが、その電話はコレクトコールであったとのことです。また、この両親がアメリカで訴訟をおこし、アメリカの検察当局に裁判開始を訴えるために渡米し、日本総領事館員に同行を依頼したところ、本省からの指示がないとの理由で断られたとのことでした。また2001年の九月のニューヨークでのテロ事件で犠牲になった二十数人の日本人については日本の政府はまったく言及しておらず、小泉首相は国家首脳として人道的な対応をとっていませんでした。
 いずれにしても海外在留邦人の救出とかのような最悪の事態が発生した場合の日本政府の基本方針は、まず第一に米国政府に在留邦人の救助の依頼することにあり、日本政府独自の対策はないとのことです。海外在住米国人はどこの国にもかなりの数の人達がいるので、万が一の事態が起こった場合、米国政府は世界のいかなる地点にも自国の救援機を派遣します。それに日本政府は便乗しようというのが基本姿勢なのです。たしかに、アフリカのような遠隔地に滞在している数人の日本人の国外脱出にわざわざ日本から救援機を飛ばすよりも、米国政府に依頼したほうが簡単です。しかし、これほど虫のいい話はありません。事実、米国政府はもし余裕があれば日本人も救出しましょうと声明しています。これは当然なことなのです。つまり、個人単位の在外日本人に危険が及んでも日本人を保護する法的義務はないとのことなのです。そのほかにも、北アフリカのアラブ諸国で発生したオレンジ革命に際し、その当時に該当する国に何らかの形で滞在していた日本人はどのように扱われたのでしょうか。当時のカイロのデモ騒ぎで空港が閉鎖されたりしてエジプトに居る外国の観光客は空港で大混乱でした。日本の観光客も約千人近くがカイロ国際空港に足止めされていたとか。このことに関し日本の外相が駐日エジプト大使を外務省に呼び、エジプト航空に対し増便をお願いするとの要請をしたとのことです。中国や韓国など他の国が自国から救援機をカイロに飛ばしていたような状況下で、これほど無頓着、無責任な要請はナンセンスそのものなのです。そのような要請が当時のカイロの状況を理解すればそのような他国の援助の可能性が全くないことの認識がなかったのでしょうか。
 このように、日本の旅券には上記に説明したように海外政府の諸機関に対して邦人の援助要請が謳われていますので、日本政府はよほどのことがない限りこの旅券に記載されてある文面を尊重して海外邦人救援機を飛ばすようなことは考慮しないのです。確かに、該当する日本人の数は少ないので、わざわざ日本から救難機を飛ばすような発想は日本政府には無かったのかもしれません。つまり、日本政府としてはあくまでも他人頼みなのです。これが単なる旅行者の場合にはきわめて危険な状態に直面することもあるのですが、この日本旅券を持っている限りその本人の安全に関しては全くの他人任せであることをあらためて認識すべきです。しかし、殆どの場合このような事態を十分に理解して、海外旅行する人は居ないと思うのです。つまり、そのような事態が起こるかもしれないということはいま原発に関連して使われている流行りの表現「想定外」なのです。ちなみに、欧州諸国の旅券には日本の旅券に書かれてあるような文面の記載があるのはまず皆無です。もっとも、外務省旅券課の見解ではこれと同じような文章はアメリカや英国の旅券にも書いてありますので、それにならっているのです、との全くの能天気的な説明なのです。なにも他国の真似をしなくともよいと思うし、現在の国際環境から考えるとこのような古色蒼然とした文章は前世期の遺物と考えるべきではないでしょうか。
 それにしても、更に奇異なのは「公用旅券」、つまり政府の役人が国の業務として外国に出かけるときには普通の旅券ではなく、「公用旅券」が交付されるのですが、そこにも普通旅券と全く同じ文章が書かれているのです。お役人が海外に出張した時も、海外で何らかの問題に遭遇しても政府としては何もしませんよ、と言うことを間接に説明しているのではないでしょうか。まったく常識では考えられないことなのですが…。
 この文章は日本が旅券の発行をし始めた明治の時代から全く変わっていないのです。それはそうでしょう、日本が旅券を発行し始め、極めて限定された日本人が海外に出たときに頼りになるのはその国の助けなのです。ですから、日本人が困ったときにはどうぞ助けてあげてくださいとの嘆願状なのです。それが今でも連綿として続いているのです。最近でも時折新聞に報道されているように個人の場合には日本政府はなんらの援助をしてくれず、また国内にいる一部の人はそれは「自己責任で、勝手にそのような危険な地区に行くこと自体が悪いのだ」となるのです。そのよい例はシリアで反乱グル-プに長らく拘束されていた安田純平さんに対する自己責任のバッシングでした。

(5)海外活躍する日本人が関与する国籍問題
 戦前の日本人のハワイ移民とかブラジル移民などは明らかに「移民」であって海外に出稼ぎに行き、もう日本には戻ってこないという前提概念(つまり、棄民概念)が根底にあったのです。ですから、心理的には自ら日本から出て行った者、だから棄民の対象にさえなっていたのです。当時のブラジル移民の場合には移民先の土地での境遇は極めて悲惨なものであり、まさに棄民扱いされていても不思議ではなかったのです。ところが、最近ではノ-ベル賞受賞者、スポ-ツ選手の国際的な活躍などでやっとマスコミが国籍問題に気が付いて色々なコメントを報道していますが、大臣をはじめ、行政当局はなんらのコメントを出していないのです。最悪なのは首相までが日本の国籍を失っている(自己の目的で米国籍を取得し、国籍法上は日本人でなくなっている)ノ-ベル賞受賞者に対して「日本人として誠に喜ばしい限りである」とのコメントを無邪気に公言しているのですが、そのことに対して官僚、法律専門家、マスコミなどは一言も異議を挿んでいなかったのです。
 なお、国籍法11条の概念が初めて国籍法として導入された1898年当時にこの条文起草に関与していた憲法学者は同条起草概念について以下のように述べています。「自己の志望を以て日本を離れて外国の国籍に入る者は強いてこれを日本人と為し置くも亳も日本に益なきのみならず国籍の積極的衝突を生ずる障害あり」とされていたのです。つまり、当時の概念としては日本から出て行く国民をわざわざ日本人とみなす必要性はない、と解釈、理解されていたのです。このように国籍法、特に11条の基本概念は棄民という概念が根底にあるのです。ですから、最近のように海外で何らかの事情で問題となったような場合には、「自己責任」が登場し、そんなところに行くこと自体が悪く、日本にとっては全く益のない行為なので、当然のことながらそれは自己責任だとの議論が再生されるのです。
(6)現在の国籍法の問題点 
では実際に国籍法の施行にさいして、何が問題になっているかと考察するとき、一言で言えば「国籍法の内容を十分に理解していないで、安易に解釈し、間違った実務が実行されている」ということになるのです。
日本人の国籍が直接関与している法的実情に関しては以下のようなそれぞれ視点の異なった概念が混在するのです。
6.1) "強制"義務
6.2) "無意識"義務
6.3) "努力"義務
6.4) "無関心"義務
 つまり、国籍法そのもの条文にはすべての法的対処が「義務」と記載されているのですが、現実には色々な解釈、理解、施行があり、義務の概念が弱体化されているのです。最悪なのはこれらの異なった対応を法務省は公認していることなのです。その似たような典型例としてあげられるのは旅券の意義があります。旅券は無国の公文書でその所有権は国にあり、その名義人は旅券を所持し、法律の範囲内で使用が認められていて、交付時に支払うのは手数料であって、買取のための代金ではないのです。したがって、法律上は旅券をその後使わずに机の引き出しに収納したままにしていることは違反で、旅券は国に返納する義務があるとのことなのですが、現実にはそのような義務は無視されているのです。
6.1) "強制義務"
 では強制義務とは何を意味しているのだろうか。例えば、国籍法11条に記載されている「自己の志望」で外国籍を取得した場合には"自動的"に日本の国籍を失うと定義されているのですが、この国籍を失うことは日本に居住している場合には全く該当しないのです。それは当然で日本人が日本で11条該当行為による外国籍籍取得は基本的には不可能だからです。しかし、海外に居住し、活躍している場合にはこの「自動的」の意味が極めて重大な結果をもたらすことがあるのです。このことに関しては日本に居住して人たちには全く想像できないことなのです。海外で活躍している人たちは当然のことながらそれぞれの居住国での滞在許可が何らかの方法、つまり書類として交付されているのです。ですから、そのような書類(滞在許可書)を持っていないことは、短期滞在者か、違法長期滞在者になるのです。従って、そのような滞在許可書を持っていない日本人が今まで所持していた日本の旅券の更新を領事館で申請しても、かならず該当国の滞在許可書の提示が求められ、もし滞在許可書がなければ、無許可滞在者か、又はその国の外国籍を既に取得していることを意味するからです。(なお、このような海外公館での厳格な審査は最近になって、特に2000年代に入って、実際に適用されるようになっているのですが、それ以前までは大使館員の柔軟な対応で、滞在国の許可書の提示は不問にされていて、例えその時点で外国籍を取得していても日本の旅券の有効期限更新は問題なくなされていた場合もあったのです。) その結果として、もし居住国の滞在許可証を持っていなければ国籍法11条該当者として扱われ、日本の旅券の更新は不可能になり、旅券に穴があけられるのです。つまり、このような場合には国籍放棄は自動的、つまり強制的に「義務付けられている」のです。最悪なのはこのよう対応に際して、海外の領事館は国籍法の存在とかその説明などは全くせずに、自動的に、重国籍はダメなのです、との口頭でのやり取りで対処していたのです。
もっとも、国籍法ではそのような場合、日本人でなくなること(理論的には日本の旅券を失うこと)が強制義務になっているのですが、だからと言って日本での戸籍が自動的に消滅するわけではないのです。つまり、このような対象者が戸籍法に記載されている戸籍喪失届を出さない限り、戸籍法上は日本人、しかし、国籍法上は非日本人になるということになっているので、その時点では未だに戸籍が存在するという極めて混乱した法規制なのです。ある意味では正直者が損をすることを行政が意識的に行っていることなのです。さらに問題なのは、この国籍法11条対象者はその時点で日本の国籍を失うとされているので、もうその時点では日本人でなく、また重国籍者でもないので、海外にいる外国人、元日本人にたいして日本の法律を適用できないことも問題点、矛盾点にもなっているのです。例えば、ドイツにある領事館のホムペイジ(2019 Nov)には「11条該当者はその時点でもう重国籍者ではない」と明記されているのです。
なお、多くのこの11条該当者は自発的に戸籍喪失届を必ずしも出しているわけではないのです。ですから、戸籍法ではいまだ日本人であることの典型例が上述のフジモリ氏のような場合なのです。また、最近の新聞報道によると、かって中国大陸で活躍していた「李香蘭」、こと山口淑子さんの記事がありましたが、山口さんの運命を分けたのは「戸籍」の写しが手に入ったので日本軍に協力した中国人扱いとされて死刑になるところを、日本人として認められ、日本に無事に戻ることが出来たとのことです。
 このような現状を考慮すると、現在の日本の少子高齢化社会では、何十万人と言う膨大な数に上る海外居住日本人が、将来的には日本社会への大きなプラスにもなるのです。つまり、現在の海外邦人社会はある意味では将来的にかなり日本社会に貢献できる可能性が高いのですが、このような可能性は日本の施政者の頭の中には未だ存在しないようです。ましてや、そのような人たちの二世、三世となると膨大な数の日本人、日系人が海外に存在しつつあるのです。
もっとも、法律を文字通りそのまま杓子定規に解釈すれば理論的にはこれら海外公館の対応は違法にはならないのです。なお、その逆に海外公館が国籍法を無視ないし軽視して、在留邦人の旅券更新を外国籍所持とは関係なく、柔軟的に従来通りに受け付けつけていた時も、本省から職務怠慢で海外公館員が譴責された事実は一件もないのです。つまり、つい最近までは現在の国籍法11条は「恣意的」に行使されていたと解釈されても致し方がないのです。なお、世界人権宣言15条2項では、「何人もその国籍を恋意的に奪われない」と規定されているのです。それにしても、いまだに一部の海外領事館のホムペイジに国籍法11条該当者は「自動的に日本の国籍を失うますと記述していることなのです。

 理論的には国籍法に基づいて外国籍を所得している人に対しては外国籍所得の事実の確認をしてから「国籍喪失届」の提出が求められるべきなのです。日本の憲法12条でも外国籍がない場合の日本の国籍離脱(無国籍になること)を認めていないのです。つまり国籍離脱を宣言する場合には外国籍の証明がなければ外国籍選択届、あるいは国籍喪失届は出せないことになるのです。ちなみに、現在の国籍法の原則は重国籍を認めておらず、重国籍者の範疇を「自己の志望で取得した場合」と「自己の志望とは関係なく重国籍になった場合」の二種類に分けて、国籍喪失届、または国籍選択届を出すことが求められているのです。いずれの場合もこの届を出さないときには法務大臣による催告書が出されることになっているのですが、後述するように、いままで一度もだされていないという現実があるのです。その理由の一つに海外居住者には日本の国内法が適用しにくいし、また一人に催告した場合にはいままでに催告書が出されていない何十万人、何千万人とも言われる人達との差別が生じてしまうと行政当当局は説明しているのです。このように国籍法の実施に関する詳細な実情を知らない人は海外公館の言う通りに国籍喪失届を出してしまうことになるのです。
いずれにしても、11条該当者はその時点で日本の国籍をすでに失っているので、もう重国籍者ではありえず、理論的には国籍喪失届を出しなさいという催告の対象とはならないと解釈されても無理ではないのです。しかし、国籍がなくなっている、つまり日本人でなくなっているのにも拘わらず、いまだに戸籍に記載があるのは不都合なので、戸籍を訂正するための国籍喪失届(戸籍法103条)を出してください、というのが公式説明なのです。つまり、国籍法の概念では11条に該当した時点で日本の国籍がなくなっているので該当者は既に重国籍者所有者ではない、つまり「日本人ではない」と定義されているのです。このように、国籍法と戸籍法とは一対になっていて、現在のところ、日本に居住している日本人は日本人としての国籍と身分関係を公証する唯一の手段は戸籍のみなのです。つまり、国籍法と戸籍法は国籍に関しては同時、同一効力が施行されるとの解釈から、国籍法11条該当者は戸籍法103条と連携しているので、法文にはない「自動的」という表現が法務局によってしばしは使われているのです。なお、現在でも、ポルトガルにある領事館のホムペイジの中での説明にはいまだに(2019年)この自動的なる表現が使われています。しかしながら、最近の海外公館のホ-ムペイジにはこの条文の解釈に微妙な違いが散見されるのです。つまり、この条文の「・・・日本の国籍を失う」という語句が「日本の国籍を失います」「日本の国籍を失うこととされています」などとなっていて微妙な違いが介在するのですが、なぜなのでしょうか。「失う」という表現は絶対的、断定的、「失います」となると総体的ではあるが、必ずしも絶対的ではない。ましてや「失うこととされています」となると第三者的見解のようになり、まぁ、どうでもよいかもしれません、のような意味が言外にあるのです。
もっとも、繰り返しになりますが、このような該当者が戸籍法に従った国籍喪失届を出さないときには法務大臣名による催告書が出されることになっているのですが、現実にはこの法務大臣による催告書は今までに一度も出されたことがないという事実は意外と無視されているのです。
6.2「無意識義務」
 次の「無意識義務」とは何を意味するのだろうか。これの解釈ですが、外国人と結婚するという行為は「自己の志望」によるものなのですが、その結果として当然のことながらその結婚相手の国の法律により外国籍も自動的に授与されることがあった(なお、一部の国では未だそのことが厳存する)のですが、この場合の外国籍取得は国籍法の一般的な解釈では「自己の志望での外国籍取得」には該当しないとの認識が国内の法学者にはあり、その取扱いが異なるというのです。 つまり、片や外国の国籍関連法律を知らなくて結婚した場合は自己の志望で外国籍を取得(理論的には自動的授与)したことにはならないが、一方結婚以外の行為で外国籍を取得した場合には、日本の法律に従うと違反になるということなのです。そうなると滞在国の法律に関して「知らなかった」が容認され、その反面、日本の法律の場合には「知らなかった」は通用しないということになるのですが、果たしてこのような理解の相違が法律論的に認められるでしょうか。
6.3 )「努力義務」
この努力義務についてですが、かなりの誤解、曲解があるようなのです。この場合の努力義務とは大坂ナオミさんの場合のように外国人と日本人との間に生まれ、日本人として戸籍に収録され、日本の旅券が交付されている場合には国籍法に従って、22才になった時点でどちらかの国籍を選択することが国籍法により求められているのですが、この場合には仮に日本の国籍を選択しますという内容の「国籍選択届」を出した場合、外国籍を放棄する‟義務”があることになっていると解釈されているのです。しかし、繰り返すように国籍法そのものはなんらの罰則がないので、「国籍選択届」を出さなくともなんらの罰も受けないのです。しかし、だからと言って、大坂ナオミさんの場合には重国籍が認められたのだとコメントをする人もいますが、これは大きな間違いなのです。一部の学者はこのような場合の国籍選択は「努力義務」になっていると説明していますが、果たしてそうなのでしょうか。国籍法第14条での文面は「・・・選択しなければならない」とあるのです。日本語では曖昧に解釈が可能かもしれないが、この日本語を英語にするとmustになるので、努力義務とは言い難いのだが、なにしろ国籍法には罰則がないので、努力義務と解釈されているのが現実なのです。それにしても、努力義務という表現はまさに忖度精神そのもので はないでしょうか。
6.4) 「無関心義務」
 最後の「無関心義務」とは重国籍者となっている海外居住者でいまだに日本の戸籍に記載されていても、日本の旅券を全く使わず有効期限が切れた旅券がそのまま机の引き出しにも納められていれば、戸籍にまではなんらの影響が及ばないのです。このような例は特に南米移民の二世、(或いは場合によっては三世)に該当するのです。このような人たちは日系人として扱われているのですが、日系人とは、日本以外の国に移住し当該国の国籍または永住権を取得した日本人、およびその子孫のことと定義されているのです。しかし、これらの人たちの国籍、特に戸籍の存在の有無に関する事実は全く解明されていないのです。2017年時点で約400万人前後の日系人が存在すると推定されているのですが、正確な数字は誰も知らないのです。
 勿論、現在のように海外居住日本人がかなりの数になり、それらの家族の子供たちは殆ど例外なく日本に出生届を出して戸籍に載るのですが、それら子供たちが成人になり、海外生活が定着すると日本の旅券を使わなくることも当然考えられるので、従って、日本の旅券の有効期限が切れてもそのままになっていることは決して珍しくはないのです。例えば、ノ-ベル文学賞を受賞したイシグロさんもその可能性が高いのです。イシグロさんは両親がともに日本人で、生まれたのは長崎市なのです。(従って長崎市に出生届がだされており、当然のことながら戸籍に載っているのです)。5歳のときに父親の仕事の関係で英国に渡り、1982年に英国の国籍を取得しているのですが、英国に居住し、英国人として活躍しているので日本の旅券を使う必要がなく、従って、英国籍取得後は日本の旅券を使っていないので旅券の更新はなされておらず、国籍法が関与する余地がなく日本での戸籍はいまだに残っている筈なのです。
 しかし、このような現実が無視されていること自体が官僚の無責任性そのものなのです。理論的には全ての人の旅券の有効期限が切れている場合にはその該当者が日本に居住しているかどうかを調べればすぐに判明するのですが、そのような努力は法務省も外務省も全く関心がないのです。
 以上のような現実をもっと簡単な文章にすると、国籍法に記載されている国籍喪失、選択の実情は
a)あなたの場合は当然のことながら日本の国籍が無くなっいるのです (自己の志望での外国籍取得の場合) したがって、結果的には重国籍者ではなくなっていることになるのです。
b)あの人の場合には本当は日本の国籍が無くなるのですが、まぁ、そのままでいいでしょう (外国人と結婚し、その結果として該当国の国籍が自動的に授与されていた場合)
c)彼女の場合はそのまま日本の国籍を維持していても仕方がないでしょう (本当は22才になった時点で重国籍のどちらかを選択しなければならない場合)
d)その子の場合はその成人になってから日本の旅券を使わなくなっているので、例え旅券の有効期限が切れても、その更新には全く関心がないので、旅券そのものはどこかの引き出しに収められたままになっているのです。まぁ致し方ないでしょう。 (この場合には直接には国籍法は全く関与できない)
 つまり、以上のような四通りの自由解釈に基づく現状が一つの法律の中に混在しているのです。でも繰り返すように国籍法そのものにはなんらの罰則規定が存在しないので、外務省や法務省は全くの現状維持そのもので、黙認しているのです。
 このように国籍法の理解と解釈には色々な状況が混在しているのです。法律の解釈には二通りあり、「理解」と「解釈」とがあり、両者の間には微妙な違いがあるのです。理解とは文字通り、そこに記述されてある事実をそのまま実行することであり、例えば「1+1 = 2」になるのは常識ですが、解釈となると必ずしもそうはならず、その典型的な例としては法律的な柔軟な解釈がありえるのです。つまり、法文を文字通りにのみ解釈する以外にも、その範囲を微妙に拡大し、忖度して適用されることがあるからです。それにしても「努力義務」なる表現が現実に法律施行の中に介在することは問題にならないのでしょうか。
 
 なお、最近では多くの国では結婚による同時、かつ自動的にその国の国籍が与えられることは無くなりつつありますが、いまだにそのような制度がある国は存在するのです。例えば、アフガニスタン、イラン、エチオピア、などが自動的にそれらの国の国籍が与えられています。なお、20才以前に外国籍を得ている場合には 22才になるまでに国籍選択届を、また 20才以降に外国籍を得た場合には2年以内に国籍選択届を出すことが求められています。繰り返しになりますが、理論的には国籍選択届を期限までに提出していないと法務大臣から選択の届を出すように求められ、また該当者との連絡が取れない場合にはその旨、官報に記載され、それから一か月以内に届が出されなければ日本の国籍が失われる、となっているのですが、その実態は誰も正確には把握できていないのです。
 上述の様に外国人と結婚した日本人が日本で生活しているときに生まれた子供はどちらかの両親が日本人であれば、心理的に日本での出生届を出して日本人になるのが普通なのですが、そのような場合、生まれた子供が日本の国籍を維持していると、どちらかの両親が、心理的に自分の子供も自分と同じ国籍を持たせたいと考えるのは当然のことなのですが、そのような場合にその子供の外国籍取得を日本にある該当国の領事館に届を出したときに、この国籍法11条に該当するとして日本の国籍が失われていることなのです。ここで考えられるのは乳幼児とか子供がこの国籍法11条に規定の「自己の志望に」該当するかどうかなのですが、常識的に考えれば、子供が自己の志望で国籍を変更するなどとは考えられないのですが・・・。
(7)今後あるべき姿
 以上のように国籍法が実際に適用されている場合、極めて曖昧な概念が混在し、しかも国籍法そのもの自体にはなんらの罰則もなく、日本にのみ居住している日本人は全く関心のないという極めて異常、例外的な法律なのです。したがって、基本的には外国籍を取得した場合には、現在の根本概念、つまり基本的には重国籍を認めない、という絶対論ではなく、希望すれば「外国籍を取得しても日本の国籍を維持することも出来る」のような柔軟な解釈を11条に明記、改定することにより、解決できるのです。結果として、上記(7)に記述されている色々な国籍維持、喪失の状況が問題なく施行できることになり、今後も日本人が日本人として海外で大いに活躍できるようにすべきではないだろうか。その結果として当然ながら他の国籍法条文の柔軟性解釈がそのまま認められることにもなるのです。或いは、もっと曖昧な文章「・・・外国籍を失うこと」のようにすれば、本格的な法改正をしなくとも条文改正するという忖度解釈を介在させるだけでも十分かもしれません。
  最近、横綱白鵬が引退後に自分の部屋を持つためにモンゴル籍を捨てて日本の国籍を取得せざるを得なかったことが報道されていましたが、彼が国籍を変えても「人間そのものが変わったわけではなく、自分の国を愛しているからこそ、日本という国をも愛せる」と発言していました 。 このような心境は国籍法が全く関与しない日本人には理解できないかもしれません。しかし、このような心境は海外で活躍していて国籍法に基づいて日本の国籍を失っている人には十分理解出るのです。ノ-ベル賞を受賞した中村さんも自分は米国籍を取得して米国で研究生活をしているが、自分は日本人であることには変わりがないと述べられていることと相通じるのではないでしょうか。つまり、日本人は顔かたちを変えられないのと同様に、本来持っている日本人としての人間性は変えられないのです。残念ながら、海外で活躍する機会のない人にはこのような問題には全く関心がないのです。

追記(2019 Dec)

この記事は外務省、法務省の関係者も閲覧しているのですが、現時点では海外公館までにはその反響が届いていないようです。もっとも、現時点で、もし国籍法11条該当者が旅券の更新の申請を求めた時に海外公館がどのような反応を示すのか知りたいものです。

 

2019年11月24日 (日)

研究より業績

「日本終焉レベルの大問題。iPS細胞10億円支援打ち切りという愚行」との報道がありました。

しかし、これは何も大学での研究そのものだけではなく、医療関連分野でも似たような傾向が強いのです。たとえば、製薬企業でも同じこと。製薬企業は利益を先行し、基本的な業績は二の次、三の次なのです。

今日のような医療社会では、いろいろな新しい疾患などが増加し、医療全体ではそれらの疾患の治療ということが重要視されています。確かに、目の前にいる患者の治療と言うことは大切であり、その目的に貢献する意味でもいろいろな製薬企業が新薬の開発に懸命になっているのは当然なのです。しかし、現在のようにいろいろな医薬品が次から次へと開発、市販されると、当然のことながらいろいろな副作用も発生します。しかし、問題はそのような副作用の発生をできるだけ防ぐにはどうしたらよいのかという観点からの政策、調査は殆どの製薬企業はしていません。

医薬品の副作用関連情報は現実には医療用添付文書に記載されてあるように、副作用の種類、そしてその発生頻度しか記載がないのです。このような単純情報は現実に全く役に立たないのです。最悪なのは発生頻度の意味なのです。この発生頻度の数字は医薬品が申請されるときに使われたデタがそのまま永久に続くのです。医薬品の添付文書に記載の副作用情報は、新しい副作用とか、重篤な副作用などが市販後に新たに見つかった時には適時訂正されているのですが、発生頻度そのものは殆どの場合、製薬企業はその真実性を検討するような調査は積極的には全くしていないのです。その典型的な例としてこのブログに記載されているある「抗生物質の口中苦味感にかんする副作用」のブログが毎日、十人前後の人が検索しているのです。

いずれにしても、基本的にはそれぞれの副作用情報の詳細、つまり、該当する副作用は服用後何日くらい目に発生するのか、もしそのような副作用側が発生した時、自然に消えるかどか、などの時間薬理学的情報が全く存在しないのです。

そのほかにも年齢薬理学、つまり該当する副作用は年齢層に関係があるのかないのかなどの情報も必要なのです。

このように考察すると、そのほかにも性差薬理学、つまり、男女間でのその副作用発生状況が異なるのか、と言うことも重要なのです。

このほかにもいろいろな情報が必要なのですが、実際に具体的に実際に経験した副作用の関連情報、例えば、該当副作用の対処としての治療がどのようなものであるのかなどの詳細なデタは企業は全く関心がないのです。

もっとも、企業側にしてみれば、今日のように一つの医薬品が世界規模で使われている環境下では当然のことながら副作用数も膨大なものとなり、とてもそれぞれの各服作用症例について詳細なデタを報告医に求めることは不可能に近いのです。

さらに、問題なのは副作用対策業務は企業にとっては収入源の対象にはならず、余計な出費がかさばるだけなのです。ですから、最低の業務、つまり行政性当局に報告するだけが主要業務となっており、場合によっては外注業務の対象ともなっているのです。

つまり、六十年台ころには医薬品の使用範囲も一つの国だけの場合が多く、副作用数も極めて少なかったので、それぞれの副作用症例に対して報告医師にいろいろな関連情報を問い合わせることは可能だったのですが、現在のようなグロバル社会では、そのような対処は全く不可能に近いのです。

ですから、最悪なのはある副作用に関連していろいろな情報を企業に問い合わせても多くの企業は満足できるような情報は持っていないのです。

このように考察すると「研究か業績か」という問題は少なくとも製薬企業内では業績重視、になるのです。

似たような傾向はともかく論文数を増やすことが目的であり、その為には一番簡単なのは一つの「単一因子」、例えばワイン摂取と複雑要因「がん死亡率」などとの関連性を調査した論文が最近は沢山あるのです。

その他にも論文数を増やす目的で色々な偽証論文が意図的に造られていることもあるのです。最近の朝日新聞(2020 March) に「実験せずに研究をしたことにして科学論文を量産する「論文工場」が中国にあるのではないか。そんな疑惑を日米欧の研究者や学術誌の編集者らが今年、相次いで指摘した。論文数が昇進に有利に働く中国の医師たちが、こうした論文を買っているとみられるという。」との報告が載っていました。

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