海外での活躍に伴う「言葉の力」について
海外での活躍に伴う「言葉の力」について
最近の新聞に「世界への一歩、言葉と勇気」と題する特集記事が載っていました。その概念は「グローバル化が急速に進むなか、世界を舞台に活躍できる人材の育成が求められているとして、朝日新聞社が15大学と協力して展開するシンポジウム「朝日教育会議2018」の第4回は、海外に多くの若者を送り出してきた神田外語大学が企画され、とかく「内向き」ともいわれる日本の若者が、世界に飛び出すために欠かせない「言葉の力」について考えているとのことです。
ここで改めて考えさせられることはこのような発案は何も今になって始まったことではなく、昭和の時代、いゃそれより以前から言われていたことでこの分野の従来の歴史を知っている熟年社会の者にとってはまさに“なにをいまさら“の感じなのですが、若い世代の人にとっては常に新鮮な話題なのです。
でも、なぜこのような陳腐な話題が現在でも新鮮なものとして取り扱われるのでしょうか。それは極めて簡単で、日本は島国であり、海外という表現がいみじくも意味しているのです。つまり、日本から海外に出るということは極めて現代の内向き志向の若者には新鮮な話題になるのです。ある意味では島国に住んでいる日本人には国境という概念を日ごろから身をもって経験する機会がゼロですので、極めて新鮮な意味を持っているのです。
確かに海外に飛び出すためには言葉の力がある程度必要になりますが、この場合の言葉は一般的には英語しか考えられていないのです。でも、海外にはいろいろな国があり、それぞれの国にはそれなりの深い歴史があり、また海外に飛び出すことができる世界は英語圏だけではないのです。たしかに、現在のようなグロ-バル社会では英語が多く使われていますので、外国語イコ-ル英語と短絡的に捉えられるのも無理がないかもしれません。しかし、観光客として海外にでかるときの言葉の力としての英語と、海外に居住して在る程度の国際感覚、経験を習得するにはやはり相手先の言葉を身に着けなくてはならないことは意外と忘れられているのではないでしょうか。
一旦、海外に目を向けた時、周知のように世界にはいろいろな国があり、それぞれの国でいろいと異なった言葉が使われているのです。このように考えた時には海外と一口に言っても実にいろいろな国があり、それぞれの国にはそれぞれの歴史、文化、伝統などか存在するのです。例えば、欧州と一口に言っても、大きく分けるとフランス語圏、イタリア語圏、ドイツ語圏、などかあのます。更に目的によってはスエ-デン語、オランダ語、ロシア語などが言葉の対象になるかもしれません。その他にもアジアに目を向ければお隣の中国があるかもしれません。
ともかく、日本では外国語、イコル 英語という感覚が殆どですが、言葉を習うということはその背景にある国民性などをも知ることが出来るのです。戦後間もなくの「カムカム英語」以来、今日に至るまで、日本では外国語勉強と言えばもっぱら英語のことになり、現在でも英会話上達法とか、英語がペラペラにる、などの宣伝広告が毎日のように新聞にあふれています。確かに日本人にとっては外国語、つまり誰でもが一度は英語で話したいとの願望があるものと考えても大げさではないかもしれません。しかし、残念ながら日本は島国であるため国内での英語を話すことが出来る環境はゼロに近いのです。
しかし、考えてみればそのような環境下での外国語学習の対象は英語だけではないのです。日本ではあまり関心が求められていないフランス語とかドイツ語とかイタリア語などもある意味では奥深い外国語でもあるのです。同じ外国語を習得するという努力をこれらの言葉に目を向けることは欧州旅行、滞在などに際して非常に有意義なのです。例えば、スイスのような国では国語がドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンス語の四か国語であり、語学環境は世界のなかでも抜群なのです。むしろこれらの外国語の勉強は日本では希少価値があり、同じ努力でも達成感が得られやすいかもしれません。
このように言葉の力という対象には実にいろいろな可能性があり、海外という対象は無限にあることを念頭に「海外」という概念を理解してほしいのです。
« 疾患の非対称性、副作用の対称性 | トップページ | 映画「ビリーブ 未来への大逆転」を見て »
「国際問題」カテゴリの記事
- 裁判関与の裁判官の人間性(2021.06.02)
- 海外での活躍に伴う「言葉の力」について(2019.03.10)
- 日系人はなぜ南米だけなのか(2018.04.19)
- 日本人は朝鮮人を知らなすぎる(2018.03.21)
- ベルギーの日本人(2018.03.11)
コメント