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2019年3月の記事

2019年3月29日 (金)

外国語は英語だけではないのです  

外国語は英語だけではないのです

 

戦後間もなくの「カムカム英語」以来、今日に至るまで、日本では外国語勉強と言えばもっぱら英語のことになり、現在でも英会話上達法とか、英語がペラペラにる、などの宣伝広告が毎日のように新聞にあふれています。確かに日本人にとっては外国語、つまり誰でもが一度は英語で話したいとの願望があるものと考えても大げさではないかもしれません。しかし、残念ながら日本は島国であるため国内での英語を話すことが出来る環境はゼロに近いのです。もっとも、最近では日本に来る観光客が増えていますが、その人たちとの会話をするということは極めて限定的であり、更に必ずしもすべての外国人が英語を話すわけではないのです。

つまり、考えてみればいろいろな環境などを考慮すれば外国語学習の対象は英語だけではないのです。例えば、日本ではあまり関心が求められていないフランス語とかドイツ語とかイタリア語などもある意味では奥深い外国語でもあるのです。同じ外国語を習得するという努力をこれらの言葉に目を向けることは欧州旅行、滞在などに際しても非常に有意義なのです。例えば、スイスのような国では国語がドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンス語の四か国語であり、語学環境は世界のなかでも抜群なのです。むしろこれらの外国語の勉強は日本では希少価値があり、同じ努力でも達成感が得られやすいかもしれません。

 

 最近の新聞に「世界への一歩、言葉と勇気」と題する特集記事が載っていました。その概念は今日のような国際化、グロバル化が急速に進むなか、世界を舞台に活躍できる人材の育成が求められているとして、朝日新聞社が15大学と協力して展開するシンポジウム「朝日教育会議」は、海外に多くの若者を送り出してきた神田外語大学が企画され、とかく「内向き」ともいわれる日本の若者が、世界に飛び出すために欠かせない「言葉の力」について考えているとのことです。

 

ここで改めて考えさせられることはこのような発案は何も今になって始まったことではなく、昭和の時代、いゃそれより以前から言われていたことで、この分野での従来の歴史を知っている熟年社会の者にとってはまさに“なにを今更“の感じなのですが、若い世代の人にとっては常に新鮮な話題なのです。でも、なぜこのような“陳腐な“話題が現在でも新鮮なものとして取り扱われるのでしょうか。それは極めて簡単で、日本は島国であり、海外という表現がいみじくも意味しているのです。つまり、日本から海外に出るということは極めて現代の内向き志向の若者には新鮮な話題になるのです。ある意味では島国に住んでいる日本人には国境という概念を日ごろから身をもって経験する機会がゼロですので、ある意味では常に極めて印象的になっているのです。

 

確かに海外に飛び出すためには言葉の力がある程度必要になりますが、極端な表現を借りれば、この場合の言葉は日本では一般的には英語しか考えられていないのです。でも、海外にはいろいろな国があり、それぞれの国にはそれなりの深い歴史があり、それに随伴していろいろな民族性などが厳存するのです。つまり、海外に飛び出すことができる世界は英語圏だけではないのです。たしかに、現在のようなグロ−バル社会では英語が多く使われていますので、外国語イコ−ル英語と短絡的に捉えられるのも無理がないかもしれません。しかし、観光客として海外に出かるときの言葉の力としての英語と、海外に留学、勤務、在住、居住などをして、ある程度の国際感覚、経験を習得するにはやはり相手先の言葉を身に着けなくてはならないことは意外と忘れられているのではないでしょうか。

 

一旦、海外に目を向けた時、周知のように世界にはいろいろな国があり、それぞれの国でいろいと異なった言葉が使われているのです。このように考えた時には海外と一口に言っても実にいろいろな国があり、それぞれの国にはそれぞれの歴史、文化、伝統などか存在するのです。例えば、欧州と一口に言っても、大きく分けるとフランス語圏、イタリア語圏、ドイツ語圏、スペイン語圏などかあります。更に目的によってはスエ−デン語、オランダ語、ロシア語などが言葉の対象になるかもしれません。その他にもアジアに目を向ければお隣の中国があるかもしれません。むしろ、このような日本では希少価値的な言葉を勉強することは、英語を勉強する同じ努力よりもその効果には輝きが見られる可能性が高いのです。ある意味では同じ努力をしても英語の場合にはほかに何千、何万の日本人が同じ努力をしているので、あまり第三者的には効果が見られないかもしれません。しかし、英語以外の外国語を日本で勉強すれば、それなりの希少価値が表面化する可能性は高く、満足感は大きくなるはずなのです。

 

このように言葉の力という対象には実にいろいろな可能性があり、海外という対象は無限にあることを念頭に「海外」という概念を改めて理解してほしいのです。

では日本でそのよぇな外国語を習得するにはどうしたら良いのでしょうか。勿論、いろいろな外国語学校がありますので、そのような学校を探せばよいかもしれません。しかし、英語以外にはなかなかそのような可能性をどこでも見つけることは不可能なのです。たとえば、大都会以外でそのような可能性をどうしたら見つけることが出来るか。

私が、日本で実際に行ったことを例にとれば、それぞれの国の大使館に誰かを紹介してもらえませんかと問い合わせることから始めてはどうでしょうか。例えば地方にその国の人が滞在、居住している人を紹介してほしいと、連絡することも一つの方法なのです。

 

2019年3月25日 (月)

新聞広告の読み方

新聞には毎日のように色々な宣伝広告が載っています。


特に目立つのは本の広告、英会話上達法、化粧品、健康志向大衆薬などがあります。


例えば、本の広告には必ずといっていいくらい何万部増刷のようなタイトルが付いているのです。なにも知らない人は、「増刷」イコル「販売済」との短絡的な解釈で、えっ、そんなに売れているの、じゃ、私も買ってみようかなと思うのも無理がないのです。しかし、この「増刷」と「販売数」とは全く関係がないのです。


その理由は、書籍の流通事情を知る必要があるのです。本を出版した会社は日本全国の書店に配布することは出来るのですが、もし書店がこの本なら店頭に置いても良いですから、何部受け付けましょう、と出版社に申し出てその部数が出版社から送られてくるのです。そかそ、その時点で書店はそれなりの代価を出版社に払うのです。しかし、問題なのはその本の売れ行きなのです。ある一定期間が過ぎてもその本が売れ残っていれば本の内容によってはそのまま出版社に戻すことが出来るのです。そうすると出版社はそれに該当する金額を書店に払い戻ししなければならないのです。


つまり、そのような仕組みの中では出版社は一時的にはかなりの金額が配布先の書店から払い込まれるのですが、一定期間後にその配布した書籍が書店から戻されてきたときには、その書店に該当金額を払い戻しすることになるのです。したがって、最終的にはその本は売れていないことになるのです。このことはまさに「自転車操業」と同じことなのです。ですから、出版社は次から次えと本を出版しなければならないのです。


これが本の広告の実態なのです。


一方、英会話関連の広告も毎日のように見られるのですが、実に毎日のようにそれぞれの異なった方法で英語が話せるようになりました、と宣伝しているのです。でも考えてください。もし本当にそのような宣伝の通りに、英語がペラペラに話せるようになるのなら、その方法だけで十分なはずですが、なぜか毎日のように色々と異なった方法の宣伝が連載されているのです。それと同時にもう一つ考えなければならないのは、英会話関連の宣伝に、私はこのほうほでペラペラになりましたのと経験談が載っていますが、そこに現れる人のほぼ全員が女性なのです。でも、考えてみてください。日本の男性の多くは日本語でもあまり喋らない、いゃ、喋れないのです。その反対に一般的に女性は話好きの人が多いのです。これは当然の現象でもあり、世界共通の現象なのです。でも、そのような日本語でもあまり喋れない人が、英語になるとペラペラになるとでも思っているのでしょうか。そんなことはありえないのですが…。


 


 


 


 


 


 


 


 


 

2019年3月22日 (金)

映画「ビリーブ 未来への大逆転」を見て

映画「ビリーブ 未来への大逆転」を見て

 

女性の地位向上を目指したアメリカの女性法律家ルース・ギンズバーグの闘いを描く「ビリーブ 未来への大逆転」が、日本でも今月の22日公開されるとのことです。性差別を違憲とする画期的な判決を勝ち取った女性の闘いを描いた素晴らしい映画なのです。
この映画を私は当地で見たのですが、勿論この女性が如何に男性社会と闘ったのかと言うことに感銘した以外にも、男性としてこの映画を観た時、最初のシ-ンに黒い衣装の後ろ姿の男性の大群の中に一人だけの女性の姿があるシ-ンを見て、初めて一人だけの孤独な女性という存在意識を身をもって感じさせられた極めて印象的なシ-ンがありました。その時に思ったのはこのような異常性をほとんどの男性は意識する機会は全く無いのではないかと考えたのです。確かに、今日のような社会では女性がいろいろな分野に進出してるので,このようなシ-ンに異常性、感銘を受ける機会はかいむかもしれません。

この映画の概要はYOUTUBEで見ることが出来ます。

もっとも、その逆の立場を経験したことが私にはあったのです。もうかなり以前のことですが、私が日本で一人で生活を始めた時にある土曜の朝早く一人でス-パ-に朝食の買い物をと思って出かけた時のことでした。その時に入り口のレジの前に女性群がずらっと並んでいる光景に圧倒され、すごすごと戻って来たことが思い出されたのです。つまり、この映画と全く逆の立場を経験させられたことがあったのです。まぁ、普通の状態では男性がそのような瞬間的な印象を経験することは皆無だと思うのです。とくに未だに男性社会中心の日本ではぜひ男性が見てほしい映画だと思いました。

 

 

2019年3月10日 (日)

海外での活躍に伴う「言葉の力」について

海外での活躍に伴う「言葉の力」について

最近の新聞に「世界への一歩、言葉と勇気」と題する特集記事が載っていました。その概念は「グローバル化が急速に進むなか、世界を舞台に活躍できる人材の育成が求められているとして、朝日新聞社が15大学と協力して展開するシンポジウム「朝日教育会議2018」の第4回は、海外に多くの若者を送り出してきた神田外語大学が企画され、とかく「内向き」ともいわれる日本の若者が、世界に飛び出すために欠かせない「言葉の力」について考えているとのことです。

ここで改めて考えさせられることはこのような発案は何も今になって始まったことではなく、昭和の時代、いゃそれより以前から言われていたことでこの分野の従来の歴史を知っている熟年社会の者にとってはまさに“なにをいまさら“の感じなのですが、若い世代の人にとっては常に新鮮な話題なのです。

でも、なぜこのような陳腐な話題が現在でも新鮮なものとして取り扱われるのでしょうか。それは極めて簡単で、日本は島国であり、海外という表現がいみじくも意味しているのです。つまり、日本から海外に出るということは極めて現代の内向き志向の若者には新鮮な話題になるのです。ある意味では島国に住んでいる日本人には国境という概念を日ごろから身をもって経験する機会がゼロですので、極めて新鮮な意味を持っているのです。

確かに海外に飛び出すためには言葉の力がある程度必要になりますが、この場合の言葉は一般的には英語しか考えられていないのです。でも、海外にはいろいろな国があり、それぞれの国にはそれなりの深い歴史があり、また海外に飛び出すことができる世界は英語圏だけではないのです。たしかに、現在のようなグロ-バル社会では英語が多く使われていますので、外国語イコ-ル英語と短絡的に捉えられるのも無理がないかもしれません。しかし、観光客として海外にでかるときの言葉の力としての英語と、海外に居住して在る程度の国際感覚、経験を習得するにはやはり相手先の言葉を身に着けなくてはならないことは意外と忘れられているのではないでしょうか。

一旦、海外に目を向けた時、周知のように世界にはいろいろな国があり、それぞれの国でいろいと異なった言葉が使われているのです。このように考えた時には海外と一口に言っても実にいろいろな国があり、それぞれの国にはそれぞれの歴史、文化、伝統などか存在するのです。例えば、欧州と一口に言っても、大きく分けるとフランス語圏、イタリア語圏、ドイツ語圏、などかあのます。更に目的によってはスエ-デン語、オランダ語、ロシア語などが言葉の対象になるかもしれません。その他にもアジアに目を向ければお隣の中国があるかもしれません。

ともかく、日本では外国語、イコル 英語という感覚が殆どですが、言葉を習うということはその背景にある国民性などをも知ることが出来るのです。戦後間もなくの「カムカム英語」以来、今日に至るまで、日本では外国語勉強と言えばもっぱら英語のことになり、現在でも英会話上達法とか、英語がペラペラにる、などの宣伝広告が毎日のように新聞にあふれています。確かに日本人にとっては外国語、つまり誰でもが一度は英語で話したいとの願望があるものと考えても大げさではないかもしれません。しかし、残念ながら日本は島国であるため国内での英語を話すことが出来る環境はゼロに近いのです。

しかし、考えてみればそのような環境下での外国語学習の対象は英語だけではないのです。日本ではあまり関心が求められていないフランス語とかドイツ語とかイタリア語などもある意味では奥深い外国語でもあるのです。同じ外国語を習得するという努力をこれらの言葉に目を向けることは欧州旅行、滞在などに際して非常に有意義なのです。例えば、スイスのような国では国語がドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンス語の四か国語であり、語学環境は世界のなかでも抜群なのです。むしろこれらの外国語の勉強は日本では希少価値があり、同じ努力でも達成感が得られやすいかもしれません。

このように言葉の力という対象には実にいろいろな可能性があり、海外という対象は無限にあることを念頭に「海外」という概念を理解してほしいのです。


2019年3月 9日 (土)

疾患の非対称性、副作用の対称性

疾患の非対称性、副作用の対称性

 

いろいろな疾患の中で対称性の器官、臓器の場合にはほとんど例外なく、片方の器官、或いは臓器が問題であり、両方の器官、臓器が同時に疾患状態になることはないのが普通です。ですから、例えば眼底疾患のような場合にも両眼が同時に侵されるようなことはなく、どちらかの片方の眼が疾患として表面化するのが普通なのです。このように臓器、器官が対称性の場合、眼、耳、肺、腎、乳房など、何らかの障害が発生する時にはほとんどの場合両方に発生するのではなく、どちらかの片側にのみ発生するのです。

 

ところが医薬品の副作用によっておこる障害は殆どの場合対称性器官、臓器などが両方とも影響をうけるのが普通なのです。ですからこれらの対称性器官、臓器などでその疾患が対称性なのか非対称性なのかによって医薬品の副作用かどうかの判断をすることにはほとんど無理がないはずなのです。、

 

もっとも、下肢の場合には「下肢筋力の非対称性」が問題視される場合が知られていますが、下肢そのものを対称性器官、臓器とみなすことには大きな疑問があります。常識的には下肢とか上肢などは対称性器官とは捉えないのではないでしょうか。

 

いかし、それぞれの臓器にも意外と場所に依っての機能が異なることがあり、そのような場合にはある意味では非対称性と言えるかもしれません。その典型例は脳かもしれません。脳と一口に言ってもその機能には左脳とか右脳などにおける機能の違いがあるので脳も非対称性臓器と言うるかもしれません。脳左右差の異常はいろいろな脳疾患として表面化することがあるのです。

 

 

 

国籍法11条の理解と解釈

  
国籍法11条の理解と解釈
  法律の解釈には二通りあり、「理解」と「解釈」とがあり、両者の間には微妙な違いがあるのです。
  理解とは文字通り、そこに記述されてある事実をそのまま判断することであり、例えば「1+1 = 2」になるのですが、解釈となると必ずしもそうはならず、その典型的な例としては“法律的な“解釈なのです。法律の解釈は必ずしも「常識的」な理解とは限らず、かなり広範囲な対象をも含むことがあるからです。その典型として「自己の志望」という表現の解釈なのです。
  国籍法11条には「日本国民は自己の志望によって外国籍を取得したときには日本の国籍を失う」と記述されているのですが、この条文をそのまま理解する以外にも、状況とか環境などの介入によって文字通りだけの理解には終わらないことがあるのです。そのほかにも「・・・日本の国籍を失う」の解釈なのですか、その行為そのものの施行方法が全く記載されていないので、当然の結果として、つまり「自動的に」とも解釈されるのです。
➀ ある一時期には外務省とか海外公館の説明にはこの条文が「・・・・外国籍を取得した時は日本の国籍を“自動的に“失う」と意図的に「自動的」という表現を付加していたのですが、最近(ここ数年に)ではこの「自動的に」という語句が使われなくなっている傾向があります。これは当然のことであり、国籍の自動的喪失などはありえず、それなりの外国籍取得事実の確認、国籍喪失届の提出、最終的には該当者の戸籍の抹殺のような一連の行為がすべて完了して初めて日本の国籍が無くなるのです。
  しかしながら、最近の海外公館のホ-ムペイジにはこの条文の解釈、表現に微妙な違いがみられるのです。つまり、この条文の「・・・日本の国籍を失う」という語句がこの表現以外にも「日本の国籍を失います」「日本の国籍を失うこととされています」などと記述され、微妙な違いがあるのですが、なぜなのでしょうか。
  例えば、「・・・記録を失います」「・・・記録を失う」、そして「・・・記録を失うとされています」の三通りの解釈に関しては、それぞれに微妙な違いを考えてみました。
「失います」には事実を端的に表示し、その可能性をも含んでいて、記録を失う可能性もあるから気を付けてください、のような遠回し的な表現でもあり、次の「失う」は事実そのものを端的に表明しているのです。そして最後の「失うとされています」はその可能性をも暗黙的に意図しているのですが、失うことがない場合もありますよ、との意味にも捉えられるのです。
しかし、国籍法11条の場合には外国籍を取得した場合の「失います」は文字通り、結果としての事実を表現しているので、ある意味では「自動的に失う」と確定的になるのかもしれません。このような解釈すると一部の海外公館が「失うとされています」の表現は正しくないのですが・・・。
ちなみに海外の公館の表示の一部を以下に転載します。
ドイツ
外国に帰化した場合等、自分の意思で外国国籍を取得した場合、自動的に日本国籍を失います。
スイス
外国に帰化した場合等、自分の意思で外国国籍を取得した場合、自動的に日本国籍を失うとされています。
英国
自動的に日本国籍を失うとされています
カナダ
自己の志望により外国の国籍を取得したときには、日本国籍を失うこととなりますので、御注意下さい
オストラリア
日本国籍の喪失と国籍の選択
 日本人がオーストラリア国籍(市民権)を取得した場合の日本国籍の取り扱いと国籍の選択について説明を掲載致しますので、ご参考にして下さい。  特に、これからオーストラリア国籍(市民権)を取得しようとしている方は、日本の国籍を喪失することがありますので、慎重にご検討下さい。
しかし、このような表現の微妙な違いを正面から考えると、13条に「外国の国籍を有する日本国民は、法務大臣に届けることによって、日本の国籍を離脱することができる」の条文の解釈も、「・・・届けなければ、日本の国籍を離脱することは出来ない」、つまり、届けなくともいいですよ、との暗黙の可能性があるとも考えられるのではないでしょうか。すなわち、「届けなければ、日本の国籍を維持することが出来る」とも解釈されるかもしれないのです。そうなると、届が重要であることになり、11条の「自動的喪失」は間違いになるのではないだろうか。しかも、13条には「前項の規定に届をした者は、その届出の時に日本の国籍を失う」と明記されているので、11条の解釈には「失うことになります」が正しく、「自動的」は全くの間違いになるのです。
② 日本人女性が外国人と結婚した場合、往時には国によっては自動的にその外国人の国籍を授与されることがあったのですが、不思議なことにこの場合には国籍法11条は適用されておらず、対象外であるのです。しかし、結婚という事実は当然のことながら本人の意思であり、文字通り「自己の志望」に該当するのですが、不思議なことにこのような場合には国籍法11条は該当していないとされていたのです。なお、最近では多くの国では結婚による同時、かつ自動的にその国の国籍が与えられることは無くなりつつありますが、いまだにそのような制度がある国は少ないながらも存在するのです。例えば、アフガニスタン、イラン、エチオピア、などが自動的にそれらの国の国籍が与えられています。
なお、20才以前に外国籍を得ている場合には 22才になるまでに国籍選択届を、また 20才以降に外国籍を得た場合には2年以内に国籍選択届を出すことが求められています。理論的には国籍選択届を期限までに提出していないと法務大臣から選択の届を出すように求められ、また該当者との連絡が取れない場合にはその旨、官報に記載され、それから一か月以内に届が出されなければ日本の国籍が失われる、となっています。
しかし、この場合に問題となるのは海外で国際結婚をし、自動的に該当国の国籍を与えられていて、それ以降には日本の旅券を使わなければ、国籍選択届をだすことが必ずしも実施されていないことです。例えば、かなり以前(確か1992年まで)にはスイスでも日本人女性がスイス人と結婚した時には自動的にスイスの国籍が与えられていて、当時にはかなりの日本人女性が日本とスイスの国籍を持っていたのですが、それ以降に日本の旅券を使わなければ国籍喪失届の提出を求められなくなっているのです。もっとも、最近ではそのような日本人女性が日本の旅券の更新に領事館に行くと、更新が拒否されることと「なっている」のです。しかし、13条の国籍の喪失にかんする条文には法務大臣に国籍喪失の届を出さなければ日本の国籍を失われないと解釈できるので、海外で国際結婚をしていた人たちの間に未だに外国籍と日本の国籍を維持している人たちはかなりの数に上るのですが、そのような実態を調査しようとの発想は法務省、外務省にもないのです。理論的には今までに海外で旅券の更新をしていた人たちを対象にして旅券の有効期限が切れている人たちのデタを基に、現在そのような人たちが何処に居住しているかを調査すれば、二重国籍者の実態が明確になるのですが、そのような発想は誰も持っていないのです。もし、正式に、例えば法廷とか議会で、日本は現在の法律では二重国籍を認めていないのですが、現実にそのようなひ二重国者の存在についてなぜ積極的に調査をしないのでしょうか、と詰問した時の政府の返答はどの様になるのでしょうか。
③ 日本で外国人と結婚した日本人が日本で生活しているときに生まれた子供はどちらかの両親(特に父親)が日本人であれば、心理的に日本での出生届を出して日本人になるのが普通なのですが、そのような場合、外国籍を維持しているどちらかの両親(特に母親)が、心理的に自分の子供も自分と同じ国籍を持たせたいと考えるのは当然のことなのですが、そのような場合にその子供の外国籍取得を日本にある該当国の領事館に届を出したときに、この国籍法11条に該当するとして日本の国籍が失われしまう場合があるのです。その原因は日本にある該当外国領事館が日本の法務局に該当国の国籍を与えた旨の通知を自発的にしている場合があるからなのです。
従って、そのような通知を日本国内の法務担当事務所が受け取れば当然のことながら国籍法11条に該当する者として扱われ、日本の国籍が「自動的に」失われ、事情によってはその子供が日本に不法滞在している外国人として扱われ、一時的に拘束、隔離されてしまう実例があるのです。これに関連した家族が日本の国籍の復帰を求めた民事訴訟がありましたが、結果的には敗訴となっています。それは当然で、現在の国籍法11条が厳存する限り敗訴になるのは当然のことなのです。この場合には「自己の志望」が自動的にそのような子供にも"間接的に"認められていることになるのです。
これと似たようなことは海外でも起こり得ることであり、例えば海外在留の日本人が何らかの事情で該当国の国籍を取得した場合には、その該当国の担当者がその該当国にある日本領事館に通知をする場合もあるのです。
このように法律の解釈にはかなりの柔軟性が往々にしてあるのです。
つまり、法律の中の文章と言うものは時として意図的に曖昧性のある文章となっていることがあるのです。例えば、最近の新聞に外国人労働力の問題に関して彼らの永住権や国籍に関しての論説が載っていましたが、その中で国籍法が1899年に起草されたときの憲法学者の穂積陳重と言う人が帰化条件に「素行が善良」であること、と意図的に意味曖昧に書かれていたとのことなのです。もしこれを「一定の条件を具備して居りまする者は許可する」と書くと政府が自由に許可できなくなるので、「品行」のような「量り定めることが出来なくなる」要件を入れ、グレ-ゾ-ンを入れたのだとされいるとのことです。(第13回帝国議会衆議院「国籍法案審査特別委員会速記録」第一号 ) このような曖昧さを意図的に条文化することは特別に目新しいことではないようです。
つまり、現在の国籍法を詳細に検討するとそれぞれの条文の解釈にも極めて曖昧な記述、或いは解釈が可能な記述が散見されるのです。このことはもし、国籍法に関連しての訴訟が行われても、その国籍法の解釈はどの様にも解釈できるという可能性を示唆していることにもなるのです。その典型例は前述のように国籍法11条が適用されて日本の国籍が失われた国際結婚家族が日本の国籍復帰の訴訟を日本で起こしたのですが、敗訴している場合です。現在の11条の条文が存在する限り、「自己の志望」の解釈はどのようにもなるのです。つまり、該当者が子供の場合でも親がその行為を代行することは当たり前だからです。
このように、国籍法11条に記載されている「自己の志望」の解釈ですが、外国人と結婚するという行為は「自己の志望」によるものなのですが、その結果として当然のことながらその居住国の法律により場合によっては外国籍も自動的に取得されることがある(或いは、あった)のです。しかし、この場合の外国籍取得は国籍法の一般的な解釈では「自己の志望での外国籍取得」には該当しないとの認識が国内の法律の識者にはあり、その取扱いが異なるのです。この国籍法11条の概念が初めて国籍法として導入された1898年に当時にこの条文起草に関与してた憲法学者の同条起草概念が以下のように述べられています。「自己の意志を以て日本を離れて外国の国籍に入る者は強いてこれを日本人と為し置くも亳も日本に益なきのみならず国籍の積極的衝突を生ずる障害あり」とされていたのです。(民法修正案理由書附法令修正案国籍法案不動産登記法各理由書66-67頁,1989) つまり、当時の概念としては日本から出て行く国民をわざわざ日本人とみなす必要性はない、と解釈、理解されていたのです。 その当時は海外で外国人と結婚したり、自ら海外に出かけて外国籍を取得するなどの行為は当然の結果として日本人にはあらず、と解釈されていたのです。
このような議論は識者の法律解釈と法廷での解釈とではおそらく異なるのかしれません。いずれにしても、その解釈には柔軟性があり、もし外国人と結婚した時に自動的にその外国籍が与えられることは知りませんでした、と主張することは出来ないはずなのです。しかし、そのような外国の法律があることは知りませんでした、という解釈から現在の国籍法では外国人と結婚した場合の該当国の国籍取得の解釈は11条には該当しないとも解釈可能なのです。しかし、国籍法11条該当者が外国籍を取得すると自動的に日本の国籍法の規定に基づき、自動的に日本の国籍を失うという法律があるのを知りませんでした、とは主張できないのです。つまり、片や外国の国籍関連法律を知らなくて結婚した場合は自己の志望で外国籍を取得したことにはならないが、一方結婚以外の行為で外国籍を取得した場合には、日本の法律に従うと違反になるという事なのです。そうなると滞在国の法律に関しては「知らなかった」が容認され(結婚という行為による自動的国籍授与)、その反面、日本の法律の場合には「知らなかった」は通用しないということになるのですが、果たしてこのような理解の相違が法廷で認められるのでしょうか。
似たような条文解釈のあいまいさの例として同性婚が憲法違反にはならないと一部の憲法学者が解釈しているのです。結婚の定義、概念は何ですかと聞く人はおそらく誰もいないと思います、つまり男女がその対象であるとほとんどの日本人は考えている筈です。それが常識なのです。ところが、最近の同性婚の認容に関して、いろいろと議論されるようになり、世界的な傾向としてはこの同性婚は多くの先進国でも認容されつつあるのが現実です。しかし、日本の憲法では「両性の合意の下で」、とその24条には明記されているのです。ところが最近の同性婚の社会的認容に伴って、この「両性」の意味は必ずしも男女を意味しないと一部の識者が唱えはじめているのです。つまり、「両性」は二つの性と理解され男女の区別を必ずしも意味してるわけではないと解釈できるとのことです。その論理的根拠の背景には「憲法で想定されていないことは憲法で禁じられていることを意味するわけではない」とする説が有力であるとのことです。つまり、「両性」は男女でもあり、男男でもあり、又は女女でもあり得るとのことなのです。同性婚問題が表面化されていなかった時代にはこの両性は当然のことながら男女を意味しているものとの解釈は常識であったのですが、近年に表面化され始めた同性婚が社会的にも容認され始めると、この「両性」の解釈が拡大され始めたことになるのです。その他にも、「憲法で想定されていないことは憲法で禁じられていることを意味するわけではない」ため、憲法学者の間では、憲法は同性結婚を禁止していないとする説もあるのです。
このような解釈を国籍に関連した記述に演繹すると、たとえば「国籍」に関連して、「外国籍のない場合の日本国籍離脱は認めていない」とされているのですが「外国籍のある場合は日本の国籍離脱を認める」という規定がないので外国籍がある場合にはそのまま外国製を維持できるとも解釈できるかもしれません。しかし、そうなると11条に違反するので、このような演繹した解釈は成り立たないことになるのです。そうすると、11条の「自己の意志」で外国籍を取得した場合には日本の国籍を喪失する」という条文に相反するかもしれないのです。もっとも、「離脱」と「喪失」とではその意味するところはかなり異なり、「離脱」は原因であって、そこには自己意志が強く反映されているが、「喪失」は結果であり、その結果に関しては自己認識は全く関与していないことなのです。
このように、法律の条文の解釈に関してははかなりの柔軟性を介入することが出来る可能性があることなのです。

2019年3月 8日 (金)

多くのブログなどはなぜ匿名なのか


今日のようなIT社会ではいろいろなホムペイジやブログなどが簡単に作れます。

 

しかし、私が不思議に思うのはそれら、特にブログは殆どがそれらのブログの開設者や投書者は全てが匿名なのです。なぜなのでしょうか。

 

確かに匿名にすれば誰でもが自由にコメントや非難、を記事にして発信できるのですが、少なくとも開設者くらいは正々堂々と名乗るべきではないでしょうか。

最近の朝日新聞(2019/9/6)に「掲示板に実名、消ぬ恐怖」との表題で匿名書き込みに遭遇した中傷にあった人が裁判に訴えて、その発信者の名前を知り、最終的には賠償の訴えを行っている例が報じられていました。このように、匿名での非難、中傷記事を書いた人の大半は相手はそのまま泣き寝入りするものとの前提で書いていて、まさか裁判にまで持ち込まれるとは想像していないのです。しかし、このような傾向が今後もどんどん広がると、結果的には裁判沙汰にまで拡大する可能性が頻繁になることを認識すべきかもしれません。もし、そうなると訴えられた人は弁護士を必要とすることにもなり、また結果的に敗訴するとその裁判費用の負担も馬鹿にならないことを認識すべきかもしれません。

https://digital.asahi.com/articles/ASMBS5Q4TMBSUTFL00F.html?ref=mor_mail_topix1

いずれにしても、最近になってようやくそのような被害者が裁判に持ち込むことがすこしづつ報道されていますので、近い将来にはそのような傾向がもっと強くなるのではないでしょうか。

 

沖縄はやはり心理的植民地化かも !?

沖縄はやはり心理的植民地化かも !?

 

沖縄の基地問題で県民投票の結果も無視され、その結果は惨憺たるものなのですが、本土の人たちや政治家はこの問題にあまり関心がなく、心理的には致し方がないのではないかとの理解があるのです。ですから、県民投票後に東京で行われて抗議デモもいたって閑散とした300人程度の参加者しかいなかったとのこと。もしこれがフランスとかスペインなどであればデモ参加者が何千、いゃ、何万人にもなるのですが、残念ながらな本土の人たちの感覚では致し方がない、との低迷感があるのではないでしょうか。以前に安倍首相が某県に米軍基地設置の可能性を打診したところその県知事に一蹴され、簡単に引き下がったとか。しかし、沖縄はその逆で、県知事無視、県民投票無視となるのは何故なのでしょうか。

 

その心理的原因の一因は沖縄は植民地との暗黙の理解があるのです。沖縄は日本により併合されたのですが、日本人の殆どは併合も植民地化も全く同義語扱いだからです。この間違った概念は意外と多くの政治家、識者、学者などが共有しているのです。例えば、朝鮮と台湾は日本によって併合されていたのですが、現在でもほとんどの人は「併合され、植民地化された」という表現が連綿として使われているのです。ともかく、識者と考えられている大学教授の殆どが併合、イコル植民地化と解釈し、表現しているのです。

 

しかも本土の日本人の多くは沖縄の歴史、現状をほとんど知らないのです。確かに、現在の世界情勢の中では米軍基地としての沖縄の存在は日本にとって重要であることは誰もが認めることなのです。しかし、近代化された軍隊では米軍基地が沖縄にのみ存在しなくてはならない理由は無いのではないでしょうか。本土のどこかに移転しても戦略上のマイナスにはならないのではないでしょうか。以前に、成田空港建設が議論されたときに私は成田に米軍基地を移動させてはどうかと投書したことがあったのですが、無視されてしまいました。成田空港ほど利用者にとって不便な国際空港は無いのですが…。

 

更に不思議に思うのは、沖縄担当大使の存在なのです。なぜそのような大使が必要なのでしょうか。しかもその大使に任命された人自身が一年三ヶ月の大使任務期間中に経験したこととして、「沖縄戦、米軍統治など、沖縄の人たちが巨大不公正、不公平を負わされて来たと理解しました」と談話していることなのです。本当に心からそのように思っているとしたら、まさに驚きそのものなのです。

 

このように理解すると、沖縄は多くの政治家、マスコミ、学者などは日本によリ併合され、植民地化されたのだとの暗黙の了解があるのです。沖縄県と他県とは心理的に完全に区別しているのです。つまり、本土の人たちの大半には、沖縄は心理的には植民地扱いといっても過言ではないのです。

追記 (2021 July)

最近に出版された本に「沖縄の植民地的近代」があります。この本の著者は1976生まれの大学の准教授なのですが、このような若い、しかも本土の人には沖縄は植民地であるとの認識があっても不思議ではないのかもしれません。

 

 

2019年3月 6日 (水)

国籍法11条改正運動への誤解、曲解

国籍法11条改正運動への誤解、曲解


国籍法11条改正運動に関連して、いろいろな意見が交わされるのは良いことなのですが、一部の人たちにとってはその運動の趣旨を正しく理解せず、単なる想像、仮定で判断し、改正運動に反対していることなのです。

そもそもこの国籍法11条は明治の時代から連綿として同じ趣旨の文面になっていて、現在のような国際社会での国際的活動に関連している人達の交流が盛んになり、国外、或いは国内だけでの活動の意味が薄れてきていることなのです。つまり、今日のような国際社会では一つの国内だけでの社会は存在せず、各国との交流は当然の流れなのです。そのような環境下で、多くの日本人が海外に進出し、いろいろな分野で活動していることは当然のことなのです。

しかし、問題はそのような海外での活動に関連して、滞在国での法的な規制とか、家庭環境とか、職業上の規制とか、いろいろな原因があって、それぞれの滞在国の国籍を取得しなければならないことがあるのです。ところが、そのような環境下に置かれている在外日本人が滞在国の国籍を取得すると、自動的に日本の国籍を失うことが現在の国籍法11条に規定されているのです。そのもっとも典型的な例としては海外の大学とか研究所で活躍している人の場合にはその研究対象によっては滞在国の国籍が無いとその研究が継続できないことがあり、結果的にはその国の国籍を取得すると、自動的に日本の国籍を失うこととされているのです。
その典型例としては日本人ノ-ベル賞受賞者が海外で研究に従事し、場合によってはその滞在国での国籍を取得せざるを得ない場合があることなのです。

ここで考えなくてはならないのは国籍法11条と言う法律は日本に居住し、生活している限りにおいては全く関係が無いという極めて例外的な法律なのです。

基本的には日本でのみ生活している日本人にとっては一部の例外を除いては国籍法と言う国内法は一生涯関係のない法律なのです。例外としては日本で外国人と結婚して家庭を築いて日本で生活している場合には国籍法の影響を受けることはありますが、国籍法11条は全く関係がないのです。つまり、日本国内で生活している場合にはもともとの日本人は外国籍を取得できないからです。

一方、海外で活躍し、生活している日本人にとっては「祖国」という概念は何らかの形で常に存在しているのです。丁度、日本国内で、地方出身者が大都会に出て、生活しているような時に、常に「故郷」が頭の中に潜在している状況に相似ているのです。ですから、東京とか大阪などの大都会で生まれてその地に留まって生活している人たちには「故郷」とか「ふるさと」のような感覚は理解できないのです。

従って、海外で活躍、生活している日本人がある日突然に日本の国籍を消滅されるという事態は、日本人ではなくなる、つまり「ふるさと」である日本が故郷ではなくなるいう事と同義語なのです。このような心理的葛藤は国内にのみ居住、生活している日本人には全く理解できないのです。

従って、現在の国先法11条に記載されている「自己の意志で外国籍を取得した場合には日本の国籍を失う」とい条項を「自己の意志で外国籍を取得した場合には、日本の国籍を維持することもできる」のような柔軟な形に変えることを今回の改正運動の最終目的としているのです。ですから、もし本人が日本国籍の維持を望まなければ当然のことながら日本の国籍消失届を出せばよいのです。

ところがこのような背景を全く理解せず、短絡的に二重国籍を認めるとはけしからんとなるのです。
現在までにこの11条改正運動に頭から非難、抗議している人たちの見解を列記して、それぞれに解説をしてみました。

➀ 二重国籍を認めろということは虫が良すぎる
  今回の11条改正案はあくまでも二重国籍を維持できる可能性を求めているのであって、日本人全員が二重国籍を簡単に得ることが出来るということではないのです。当然のことながら日本に居住、生活している日本人には全く関係がないのです。

② 二重国籍者となったら税金は二つの国で払うのか
  税金は居住国での義務であり、国籍とは全く関係がないのです。

③ 兵役はどうなるのか
  兵役は税金と同様にその国に居住していなければ兵役に従事することはできないのです。ですから、日本人が兵役義務国の国籍を有し、その国に居住していれば当然のことながらその国の兵役に従事する義務があるのです。

④ 二重国籍を認めたら、帰化した中国人や韓国人が両方の国籍を持つことが出来るようになり、日本の国情が侵されるのではないか。
  今回の国籍法11条改正の趣旨は本来の日本人が外国籍を取得した場合を念頭に置いているので、本来は日本人ではない帰化した外国人の場合には該当しないようにすればよいのです。例えば、条文に「本来の日本人が・・・」と入れることにより帰化した外国人を対象外に出来るのです。もっとも、帰化の条件の中に帰化する場合には外国籍を放棄すること、とすれば問題が無くなるのです。
なお、この改正案に反対している人の多くは帰化した中国人、韓国人を念頭に置いているのですが、もし本当にそのような帰化外国人の危険性を危惧しているのなら、現在でも既に中国人が日本の建物や農地、森林、水源地などを自由に購入している事実をなぜ全く考えていないのでしょうか。 

⑤ 二重国籍者が政治に関与したら日本の国情が乱されのではないか。
  一般的に、二重国籍者が日本の政治に何らかの形で参与する可能性があり、それが望まれないとするならば、政治家とか官僚は二重国籍者は対象外との規制を創ればすむことなのです。

国籍法11条改正有志の会
鈴木伸二

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