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2018年11月の記事

2018年11月12日 (月)

自己責任と鎖国心理

自己責任と鎖国心理

紛争地にて取材中にシリアで拉致されたフリ-ジャ-ナリスト安田さんに対して、又も「自己責任論」が噴出しました。しかも問題なのはいろいろなマスメディアが挙ってその賛否の議論を紹介、展開していることなのです。

今回のこのような自己責任論について考えさせられたことは、不思議なことにその対象となる人が必ず海外に出かけている日本人の場合に限定されていることなのです。安田さん以外の例でも、今までに海外で何かの事件に巻き込まれたり、不幸に遭遇したりした場合に日本領事館や日本政府に何らかの援助を求めたような例が過去に何回となくあったのですが、今までの件では、殆どの場合、自己の意志で海外に勝手に出かけ、困った時に日本政府に援助を求めるなんて虫が良すぎる、との暗黙の解釈から、なんらの具体的、積極的な行動は日本政府は取っていないのです。つまり自分の意思で海外に勝手に行ったのだから、全て自己責任であるとの非難が直接ないし間接に出ていることなのです。

しかし、ここでよく考えてみると、もしそのような事故とか遭難のような事故が日本に住んでする日本人に起こった場合の救助とか援助に関連しては誰も自己責任だと非難、バッシングはしないのは何故なのでしょうか。たとえば、冬山に一人で登山して遭難した場合などで最終的には救助されても誰も自己責任論を持ち出さないのです。
この両者の違いの根底にあるものは海外に出かけること自体、いかなる理由があろうとも、結果的には自己の意志に基づくものであり、したがって「自己責任」の対象になるということなのです。

でもなぜこのようなきわめて対照的、かつ極端なまでの反響、解釈がでるような心理が場合によっては、日本では表面化するのでしょうか。これはまさに日本人独特の心理現象であり、欧米の人たちには絶対見られない心理現象なのです。

ではなぜ日本人は日本に居住している日本人と海外に何らかの理由で滞在したり、居住したりしている日本人の場合とを心理的、無意識的に区別するのでしょうか。その大きな理由の一つは日本は島国であり、まず国境と言う概念が心理的に理解できないし、また殆どの日本人は日本に居る限り国境と言う概念、別な見方をすれば日本を離れて何らかの活動をするという概念はなかなか理解できないのかもしれません。

極論すると、日本に生まれ、日本で生活している、日本人の心底にあるのはかっての鎖国という概念が未だに心のどこかに残っていることに気が付かず、またそのような状況はまったく理解されていないと理解できるかもしれません。

その典型例として海外に出る日本人が必ず手にする日本の旅券の最初の頁に書かれてある文面を熟読すれば、いったん、海外に出かけた時には日本の政府はなんらの援助をしませんよ、もし何か必要なことが起こった時には外国政府に何分よろしく、と頼んでいるのです。このことは法務省の見解でもあり、日本政府はそのような海外での日本人を援助する根拠は何もないですよと間接的に明言しているものと理解できるのです。実際に、法務省は海外の邦人を援助、保護する法的な根拠はないと明言しているのです。

なお、安田さんの件に関連して、邦人保護は責務であり、外務省はそのような場合には何らかの対策を講じることが外務省設置法で「海外における邦人の生命及び身体の保護」が明確になっていますとのコメントが今回の安田さんに関連して報じられていましたが、この外務省設置法には「邦人テロ対策」の項目があり、今回の安田さんの件はこの法律に準拠して対応されたと外務省は声明しているのです。しかし、この法律はつい最近になって、つまり平成11年に、「外務省の設置並びに任務及びこれを達成するため必要となる明確な範囲の所掌事務を定めるとともに、その所掌する行政事務を能率的に遂行するため必要な組織を定めること」を目的として出来たものとされ、あくまでもその対象はテロ関連に限定されているのです。

このような潜在的な心理環境がさらに海外在住日本人に向けられた時、これらの海外在住日本人が何らかの理由から自ら外国籍を取得した場合には無条件で日本の国籍を失うことに関連して、それらの日本人は勝手に自分の判断で海外に行き、自分の都合で外国籍を取ったのだから、日本の国籍を失うのは当然で、そのことに不平を唱えるることはまさに自分勝手な判断、つまり自己責任になると考える人が日本人の大半なのです。

このような状況を正しく理解するには物事の判断に際して、必ず原因と結果が連結していることを忘れてはならないのですが、なにか問題が提起されると、殆どの場合、結果から物事を判断しており、その原因に関連しては全く考慮がなされていないのです。

結果だけから物事を判断するのはいとも簡単で、誰でもできるのです。安田さんの場合には拉致、という結果があればなぜそうなったのかと言う原因、つまり現在のシリアの状況を認識、報道するという大きな目的、つまり原因があったのですが、このことに関しては誰も異議を挿まないのです。同じように、海外でなぜ日本人が外国籍を取得したかという原因に関しては誰も関心がなく、結果としての日本国籍喪失だけを取り上げて自己責任へと直結してしまうのです。


2018年11月 9日 (金)

東京オリンピックでのボランティア活動者

来るべき東京オリンピックに関連して正式なボランティア活動者の募集が始まっているが、その勤務時間とか待遇などに関連していろいろな問題が提起されています。

このボランティアと言うのは必ずしも登録しなくとも誰でもそれこそボランティアで出来ることはあるのです。特に外国人が一番困るのは言葉の問題があるのです。そこで一つの解決策として少しでも外国語が理解できると自負できる人でボランティア精神がある人に対して、それぞれの外国語の象徴である国旗のバッジを胸に付ける事を推奨することです。

たとえば、フランス語で何とか道案内とか切符購入などくらいの手助けらいならできる外国語の知識があって、喜んで手助けをしたい気持ちのある人にそれぞれの国の国旗のバッジを付けてもらうことなのです。つまり、そのようなバッジを自由に配布するだけで済むのです。勿論、この場合には試験とか資格とか登録などは不要で、あくまでも個人個人の裁量に任せるのです。

骨折は副作用か

骨折は副作用か

骨折、死亡などは副作用として扱うべきか

睡眠薬とか血圧低下剤などを長期に服用していると、一時的なめまいなどの影響で起立性の転倒が起こり、その結果として「骨折」することはよく知られています。特に高齢者の場合にはこの種の転倒、骨折は一連の日常出来事でもあるのですが、実際にそれらの薬剤を服用している人たちの何割くらいの人がそのような結果としての骨折を起こしているのかという情報、デ-タは誰も持っていないのです。と言いますのはそのような骨折は医療の現場では副作用として捉えられていないからなのです。その一つの原因は、このような骨折が処方薬で起こるのではなく、一般薬でも起こり得るので、骨折で入院しても治療医師はその患者の服用歴には関心がないので、当然ながらだれもその原因となった背景情報、つまりその原因「服薬歴」には関心がなく、「結果」としての骨折に関心が集中するのです。従って、行政とか企業に対してそのような「骨折」を副作用として報告する医師は一人もいないのです。

しかし、不思議なことに「副作用用語集」には骨折fractureが明記されているのです。確かに、骨折はある現象の結果として起こったものなので、薬剤の直接の影響、つまり直接な副作用とは誰も考慮しないのですが、間接的な副作用、或いは本来の副作用の結果として、と理解することは出来るかもしれません。このような場合には骨折は服薬の「結果」であって、服薬そのものが「原因」ではないのです。

このような、あるネガティブな事象は「副作用の結果」なのですが、ではどのような場合に骨折を副作用として報告できるのでしょうか。

内服用の経口ステロイド剤が原因で骨がもろくなる骨粗しょう症になった時、骨折を起こす可能性は予想外に多いことは知られていますが、そのような製剤の添付文書には「骨折」は副作用としては載っていません。つまり、この場合も「骨折」は副作用とは捉えられていないからです。しかしながら、繰り返しますが、骨折という用語は副作用用語集には載っているのです。

似たような例では市販の大衆薬の風邪薬で重篤な副作用、例えばステイブンソン・ジョンソン症候群などを引き起こし、最悪の場合には死亡につながることもあります。この場合の死亡も重篤な副作用の結果であるので、死亡そのものを副作用ととらえるべきではないのですが、副作用用語集には「死」が載っているのです。

ここで考察しなければならないのは副作用の結果としての「死亡」、あるいは「骨折」などをどのように扱うかということです。たとえぱ、骨折とか死亡が報告されてきたとき、その患者はどのような薬剤を服用していたのかとの情報を探索すれば、意外な薬剤の副作用を知ることが出来ることになるかもしれません。しかし、現在の安全性報告業務にはそこまでは必ずしも求められていません。特に、骨折のような場合には事後処理としての骨折の対応、治療に際しては誰もその原因を究明し、もしそこに薬剤の関与がある場合にはその薬剤の副作用として報告する医師は一人もいません。

一方、死亡に関してはその結果が重大であるので、どうしてそのような結果になったのかとの調査をして、該当医薬品の副作用として報告する医師はいるかもしれません。

あなたはニッポン派、それとも二ホン派

あなたはニッポン派、それとも二ホン派

普段何気なく使っている日常用語も時として紛らわしい発音があるのです。その典型的な例として挙げられるのは日本という国名の発音なのです。普通の会話の中ではほとんどの場合、「二ホン」となるのではないでしょうか。例えば「ニホンジン」であって、「ニッポンジン」と発音する人は極めて稀ではないのでしょうか。ところが、紙幣に印刷されているのはNipponですので、そのまま読めばニッポンになるのです。ですから、正式な国名の発音は「ニッポン」であると解釈できるのです。従って、日本人の発音もニッポンジンとなるべきなのかもしれませんが、通常の会話の中では多くの人はニホンジンと発音するはずです。

似たようなことは日本の通貨、つまり円の発音にもあるのです。これも紙幣に書かれてあるのはYenであるので、正しく発音すると「イェン」となるべきかもしれませんが、日常会話では「エン」、つまりEnとなっているのです。

このように日常会話では意外と寛容的な発音が常用されているのかもしれません。もっと探せば似たような例はほかにもあるかもしれません。

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