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2018年7月の記事

2018年7月 2日 (月)

日本人とポーランド人の心温まるお話

以下はある人のサイトからの転記です。

日本人とポーランド人の心温まるお話

http://nozomu0411.jugem.jp/?eid=210

2015.11.03 Tuesday 随想 22:53 comments(0) trackbacks(0) - - by Macky
日本人とポーランド人の心温まる話

初めてポーランドに行ってきました。
街路樹の黄葉、石畳の街並み、街の広場から流れてくるショパンの音楽。
こんな素晴しい旅に、心温まるお話を伺いました。

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。
ポーランドは、その年から夏休みに被災児を招いて激励をしてくれています。
ポーランドは、大震災の翌日から救援活動を始めてくれましたが、
歴史を紐解くと、そこには大正時代の日本人とポーランドの人たちとの深いつながりが見えてきます。

1795年、三つの超大国、ロシア、オーストリア、プロシア(後のドイツ)に三分割されて、ポーランドは地上から消えました。
ポーランドには愛国者が多く、何度も独立運動を興すのですが、その度に摘発されて、遠くの収容所に送られました。
ロシアは独立運動にかかわったポーランド人を、次々とシベリアに送り込み、多い時には10万人を超えていました。

1918年11月、第一次世界大戦が終わり、ドイツが戦争に負けました。
ロシアは革命が起きて戦争を継続できず、オーストリアも力を弱めていました。
まさにチャンス到来、ポーランドは100年以上を経てようやく独立宣言をしました。

シベリアに拘留されていた人たちも喜びました。
ところが祖国に帰る手段はシベリア鉄道しかありません。
革命後に新しくなったソ連は、ポーランドの流刑者が、シベリア鉄道を利用することを拒みました。
ポーランド政府は世界に訴えましたが、新しいソ連との関係もあって、いずれの国も、ポーランドを助けませんでした。
弾圧や飢餓で、シベリア難民が続出します。

そこで、せめて子供達だけでも何とか助けようと、ポーランドの若者が救済委員会を作り、
彼らをシベリアから、ウラジオストックに助け出したのです。
ところがそこも医療施設も不十分で子供たちに十分な手立てが取れません。
救済委員会のリーダー、アンナ・ビュルケビッチという女性は、赤十字社にも断られてウラジオストックに戻ってきました。
その時に彼女は、自分の祖母や両親から伝え聞いた話を思い出したのです。
船に頼み込んで敦賀に着き、東京に行って外務省に嘆願しました。

「我々は祖国から離れ離れになり、未だ何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供たちの命が奪われることは明らかです。子供を花のように愛する日本の人が子供達の命を救ってください。」

シベリアに拘留された人たちよりも、もっと遠くに流された人たちは、樺太の収容所にまで送られました。
そこで彼らは、アイヌの人達との交流を深め、日本という国を知ります。
そのとき日本は子供を大切にする国だという認識が、ポーランド人の間に広がっていったのだと思うのです。

ポーランド女性から嘆願を受け取った日本ですが、独立宣言をしたばかりのポーランドとの国交はなく、
仮に受け入れるとしても、決定するまでには長時間を要するはずです。
ところが日本は約2週間後でこれを受け入れるという閣議決定をしました。
日本赤十字社が現地に向かうことになりました。
現地には、ソ連軍がいましたが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、そこにもお願いをしたのです。
そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、
どんどんシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきました。
このようなことを2年間続けました。

そして、1820年(大正9年)~1922年(大正11年)の途中まで続けて、
東京には、2歳から16歳までの子供375人、大阪には1歳から15歳までの子供390人が運ばれました。
765人の子供達を日本に送り届けたのです。

やがて元気になった子供達をポーランドへ順次、送り返しました。
横浜港から最初の船が出港しようとするとき、子供たちは船に乗ろうとしなかったそうです。
看護婦さんやお医者さん、世話になった近所のおじさんやおばさんとの名残を惜しんで離れなかったそうです。
先に述べた、ポーランドの救済委員会の副リーダーは男性で、医学の心得があったそうです。
彼は日本の対応に感謝しましたが、お礼に返すもの何も無く、代わりに大量の感謝の手紙をポーランドから送ったのです。

その一通をご紹介します。

「日本は、わがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国です。
にもかかわらず、ポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくださいました。
われわれポーランド人は、その恩を忘れることはありません。
ポーランド国民もまた、高尚な国民です。
ここにポーランド国民は日本に対し、
もっとも深い尊敬、もっとも深い感恩、もっとも温かき友情、愛情をもっていることを、お伝えしたい。」

それから80年近い歳月を経て、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた時に、ポーランドは復興支援に協力したのです。
その年の夏に、最も痛手を受けた被災地の子供達を、ポーランドに招きました。
大正時代に、日本に助けられたポーランドの子供達、10人ほどが、今も健在です。

その方達が、日本の被災孤児たちを招いた時のお別れのパーテイーの際に、ポーランド各地から訪ねてきたそうです。
そのとき、子供達にバラの花を一輪ずつ渡して、通訳を通じて、
何故、自分たちが生きているのか、日本人の功績を語って子供達を激励したと言います。

2002年〈平成14年)7月、天皇皇后両陛下が、東ヨーロッパ諸国を歴訪されたとき、ポーランドも訪問されました。
このとき、おじいちゃん、おばあちゃんの三人が、どうしてもお会いしたいということで、両陛下との対面が実現しました。
このお年寄りも、大正の日本人に助けられた、当時の孤児の方達です。

80代のアントニナ・リーロさんは、美智子皇后の手をずっと握って離そうとされませんでした。
実は、日本で助けられた時、病院に大正天皇の后、当時の皇后がお見舞いに来られ、
小さかった彼女を抱いて励ましてくださったのを、かすかに覚えていたのです。

美智子皇后にお会いしたとき、美智子皇后を通じて、先代の皇后の面影を重ね合わせたのでしょう。
その感動と感謝の念に、自分はようやく80余年の年月を超えて、日本の皇室に感謝の言葉を伝えながら、
美智子皇后の手をずっと握りしめていたのです。

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