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2018年3月の記事

2018年3月21日 (水)

日本人は朝鮮人を知らなすぎる

日本人は朝鮮人を知らなすぎる

 

 

それぞれの民族にはいろいろな意味で長所、欠点があり、他国との関係において、時として大きな国際問題を引き起こすことがあります。これは当然で、一般的な傾向としては第三者を理解、批判する時には相手の考え方、習慣、立場などを完全に無視、軽視して自分の立場からの判断、批判になるからです。従って、当然のことながら両者の間には摩擦が生じ、それが高じると嫌悪感、対立にまで発展することにもなるのです。

ある記者が以下のように書いていました「北朝鮮と韓国は工作国家である。この前提と認識がないのに、公式発表を完全に信じれば騙される。朝鮮半島問題を取材する記者の常識だ」、これはなにも工作国家と言うよりはそのような行動をすること自体が朝鮮人本来の性格、民族性と理解すれば、なにも目新しいことではないのです。。

 

 

そのよい例が朝鮮人の振る舞いなのです。私に言わせると日本人が朝鮮人を批判する時には日本人としての考えが100%あり、それをもとにして朝鮮人を批判、非難するのです。朝鮮人を理解するための良い本は呉善花さんがいろいろと書かれていますので、ぜひ多くの日本人は読むべきだと思うのです。たとえば、以下のyoutubeをみればその一端が分かるかもしれません。その中の、学校での消しゴムに関するエビソドなどはなるほどと思えました。
https://www.youtube.com/watch?v=OkMfV6-bQ3I

 

この消しゴムエビソドを拡大、演繹すれば、朝鮮人が他国の技術を簡単に自分のものにするという行為は、第三者的には技術を盗む、となるのですが、朝鮮人にして見れば隣にある物をそのまま自分の物にしてなにが悪いのか、ともなるのかもしれません。この辺の理解は日本人には出来ないでしょうね。このような概念を拡大すれば、韓国が竹島を勝手に自国領として取り扱っていること自体、当たり前のことなのです。

 

なお、最近の新聞に以下のような記事がありました。
「マンガ家の手塚治虫はあるとき、韓国の出版業者の訪問を受けた。鉄腕アトムの海賊版を売って大もうけしたので、お礼に韓国旅行に招待したいのだという。「手塚さん、私どものように良心的な業者はほとんどいませんよ」と言われたそうだ。あっけらかんというか、悪びれないというか。」
これなどはまさに朝鮮人としては当たり前の行為であり、上記の消しゴムの一件に相通じるものがあるのではないでしょうか。

このような民族性の異なることに関して、日本の「おもてなし」文化が外国人にとっては好感を持っていろいろと報道されています。このような日本人の「おもてなし」行為はなにも日本人自身にとっては当たり前のことであり、おもてなしとして意識して行動しているわけではないのです。これと同様に朝鮮人の行動は朝鮮人にとってみればごく日常的なものであり、何も特別に意識してそのような行動に出ているのではないのです。つまり、朝鮮人の物の考え方、行動はごく当たり前なのですが、そのようなことを経験したことのない外国人が印象付けられるのはどちらかと言うと否定的な印象であり、日本人のおもてなし行動とはまさに反対的なものに理解されてしまうのです。このように理解すると日本人の「おもてなし」に対して朝鮮人の「ひとりよがり」は当たり前と解釈することが出来るかもしれません。ただ、残念ながら外国人にとってみればこのような朝鮮人の「ひとりよがり」行動は否定的な印象を与えることになるのです。

 

ですから、韓国の元大統領の逮捕劇も上記のような朝鮮人の性格を熟知していれば「さもありなん」、なのです。韓国の 文在寅 ムンジェイン 政権が進める「積弊清算」の下で、また一人、大統領経験者が逮捕されました。収賄などの疑いで今月22日に逮捕されたのは、 李明博 イミョンバク 元大統領。大統領経験者の逮捕は4人目である。つまり、収賄とか盗みなどという概念は日本人が考えている概念とは基本的に異なるからです。このような朝鮮人の性格、倫理観を殆ど多くの日本人は知らないので、日本人的感覚から日本の大学の先生たちがいろいろと全く別な視点から解釈を進めているのです。

 

 

 

その他にも最近発信された以下のサイトが非常に参考になりますので是非読んでみてください。
Japan On the Globe(1050)■■ 国際派日本人養成講座 ■■  The Globe Now: 空気が読めない韓国人
も参考になります。

 

更に悪いことは日本人の多くが朝鮮はかっての日本の植民地だったと平気で表明していることなのです。これは歴代の首相も同じことで、、最悪なのは一部の新聞は朝鮮は日本の植民地であったと、社説をはじめ朝鮮関係の記事に堂々と未だに何回となく繰り返し積極的に明言しているのです。このブログに別途「併合と植民地化の違い」に関して書かれていますので、読んでみてください。

ともかく、植民地に自国と同じ帝国大学を設立するようなことはありえないのです。朝鮮が日本により併合されたので、日本と同じ規模の帝国大学が京城に帝国大学が大正3年に予科が、そして15年に学部が設立されたのです。もし、朝鮮が植民地だったらそんなことはありえないのです。

 

つまり、このような日本側の発信を朝鮮側から理解、解釈すると、われわれ朝鮮は日本により植民地化されたと卑下、逆恨みをすることになり、その結果として、日本の政治家や新聞はそのようなネガティブな朝鮮人の心理に拍車をか行けていることになるのですが、日本人の多くはそのことには全く気が付いていないのです。考えてもみてください、もし自分の国が外国から植民地化されていたとの過去の歴史を認識し、そのことを繰り返し何回も日本人から表明されている時には多くの場合かなりの抵抗感、嫌悪感などが持ち上がるのではないでしょうか。

 

自分の国が外国により植民地化されと言うことは極めて侮辱的なことなのですが、そのような経験のない日本人の多くは植民地化と併合とでは雲泥の差があるにも係わらず、そのような違いには全く無関心なのです。

特に現在の北朝鮮は共産国であり、彼らのものの考え方はさらに特別であり、とても日本人には理解できないことかもしれません。以下のような記述はそのような意味で参考になるかもしれません。

「共産主義者やその亜流は、力関係を重視し、戦略を考えるのが普通であり、敵または交渉相手の善意を信じるということはほぼない。彼らは大変に現実的である。こういう相手との交渉では、善意で先に譲歩することは相手から弱さと評価されるか、あるいは下手な交渉と評価されるかである。

 

ちょうど加害者と被害者との関係に似ていて、加害者は自分のしたことは比較的に簡単に忘れてしまうのですが、被害者は自分が受けた被害についてはそう簡単には忘れられないのと違いに似ているのです。よく言われているように、日本人は日本が他国に対して加害したことに関しては自虐的との認識が潜在的に強いのではないでしょうか。朝鮮への併合が他国に対しての加害とは捉えるべきではないかもしれませんが、朝鮮人の立場からは日本による加害ととらえられていることを忘れてはなりません。

 

 

いずれにしても、、植民地化がどのような意味があるのかを歴史的に認識、理解したらとても日本が朝鮮や台湾を植民地化したとはとても考えられないのですが・・・・。

 

西欧の国々がかってアフリカ大陸をあらそって植民地化していたこと、そしてそのような結果、どのような状態にあったのか、そしてその影響が現在までも続いていることを理解したら、とても日本が朝鮮や台湾を植民地化していたとは考えられないのです。でも、島国日本の政治家にはそのような理解も解釈もあり得ないのです。

 

このような理解から判断すれば、例の慰安婦問題も朝鮮人の立場からすれば植民地化された結果、日本によって強制的に朝鮮人だけが慰安婦にされていたと曲解していてもそれほど不思議ではないのです。しかし、この慰安婦問題で大きな日本の誤りは当時の朝鮮は日本に併合されていて日本と同じような行政的環境下にあり、その当時は朝鮮半島をも含めた日本国内でも慰安婦募集があったので、何も朝鮮半島だけが特別だったのではないということをだれも表明しないし、日本のマスコミも一言もこの点については知らん顔しているのです。かって、日本の首相が国内での会談で、日本人新聞記者から、当時の日本人慰安婦についてどうお考えですかと質問され、絶句して何も答えられなかったそうです。このような事実はむしろ逆に韓国が間接的に説明していることがあるのです。つまり、慰安婦制度は日本の政府が公式に設定し、それぞれの慰安婦に接する時には必ずコンドムを付ける事を日本の兵士にさせていたことなのです。ですから、韓国内では岡本のコンドムも日本に茎の対象であり、韓国内での岡本製のコンドムのボイコット運動もあるのです。

 

確かに日本人的感覚からは日本人の女性も慰安婦であったのですよとは口が裂けても言えません。ましてや、当時の日本人の慰安婦から、私は戦争中は慰安婦でしたなどとは死んでも言えないのです。ところが朝鮮人の感覚からすればそんなことは特別に恥ずかしいことではなく、比較的簡単に私は慰安婦でしたと言えるのです。

 

更に朝鮮人は日本人と比べて自己主張が極端に強いのです。その他にも地理的には隣国とは言え、日本と韓国は全く別の、正反対の資質をもった民族である。その事を端的に表しているのが泣き女の「お葬式」という風習ではないでしょうか。未だにそのような慣習が朝鮮に存在するかどうかは分かりませんが、かなり最近までは存在していたようです。

 

このような微妙な感覚は日本人には理解できないのです。ですから、慰安婦問題が話題になるたびに日本の政府が言えるのは「遺憾です」、の一言で終わっているので朝鮮人にして見れば自分たちの意見が正しく、日本人に渋々受け入れられているとも理解してしまうのです。それは当然で、具体例を以て日本は反論できない、いゃ、反論したくないのです。

そのほかにも、朝鮮には「恨」の文化が定借しているとのことです。自分を害する者には、命をかけても恨み通すのです。


このように植民地化された国と、併合された国とでの該当国の国民感情、政情は大きな違いがあるのです。例えば、ハワイ、沖縄、などは植民地化されたのではなく、併合されたのです。つまり、併合されることは理屈的には併合する国と全く同じ制度、組織などを共有することになるのです。ですから、当時の日本に併合された朝鮮や台湾には日本の帝国大学も設立されていたのです。こんなことは植民地化では絶対にありえないのです。

 

このような理解に立てば、朝鮮も多少は対日関係に目くじら立てないかもしれませんが、日本から朝鮮は植民地化されたのですよと頻繁に言われていれば、当然の結果として植民地化という被害者意識が盛り上がるのです。とくに、朝鮮は日本の隣国でもあり、朝鮮人独特のものの考え方も手伝って、反日感情が自然に生まれてくるのです。更に悪いことは現在の日本人の多くは朝鮮人は日本人とは根本的に性格、民族性が違うことを深く認識しいないのです。ある意味では朝鮮はあまりにも日本に近すぎるので、日本人と考えはあまり違わないとの潜在的先入観があるのではないでしょうか。

 

一方、同じように日本に併合されてことのある台湾では反日感情は殆ど無いですが、そこには中国人と朝鮮人との国民感情の違いも大いに関係があるのではないでしょうか。もちろん、それ以上にこの両国が置かれている政治的環境も大いに影響があるのかもしれません。

 

いずれにしても現在の韓国の反日感情は日本人の常識からは理解するのは困難かもしれませんが、朝鮮半島の歴史を深く理解すれば朝鮮人がどのような民族であるかとの理解は深まるのです。更に理解すべきは朝鮮半島は歴史的には中國と日本との間に挟まれている関係で、いろいろな干渉が両国からあったので、なおさら国内事情は複雑であったのです。

 

ともかく、韓国に対してかっての日本は朝鮮を植民地化していたとは絶対に言わないことが大切なのですが…。最悪なのは一部の学者までが日本の朝鮮植民地化は西欧のそれとは違って、極めてマイルドな植民地だったのですと、いろいろな所で記載、表明していることなのです。このような理屈を演繹すると日本はいまだに死刑制度を廃止しておらず、海外からかなりの批判を浴びているのですが、そのような一部の学者たちはもしかしたら、日本の死刑制度は極めてマイルドな制度なのですと考えているのかもしれません。

 

追記(2018 Sept)
最近の報道によると日本の軍艦の日章旗がけしからん、となっていますが、いずれにしても朝鮮人にとってはなんでも反日の材料になるのです。ですから、そのうちに日本の国旗の日の丸はけしからんとなることでしょう。

 

 

追記(2019 Jan)
最近に出版された韓国人ベストセラ-作家による「なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか」という本が出版され、そのタイトルが示していることはまさに韓国人の性格を端的に物語っているのです。ただ、この本にはなぜ韓国人の性格がそのようなまさに上記に記述しました韓国人の特性であるのかとの原因には触れていないようです。

なおこの本のタイトルを借用すると、「なぜ韓国人は日本から受けたいろいろな良い面をありがとうと言えないのか」となるかもしれません。

 

 

いずれにしても、韓国人は一旦手にしたものは絶対に返しません。ですから、いくら竹島は大昔から日本の領土であり、その証拠になる大昔に作成された日本の地図に竹島が日本の島となっていたとの記事がありましたが、そんなことで韓国が竹島を返すことはありえないのです。

 

 

追記 (2020 April)

最近この記事に以下のようなコメントがあったのですが、これがスパムなのかコメントなのかが分かりません。メイルアドレスを見るとロシアとなっていますが、全く不可解なものです。

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追記 (2021)

最近に以下のような本が出版されました。

「なぜ韓国人は借りたお金をかえさないのか」扶桑社

 

 

2018年3月12日 (月)

豪華な公衆トイレ

豪華な公衆トイレ

 

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このトイレ、どこにあるかわかりますか 

このような大きなトイレがあるのはなんと高速道路にある中継所なのです。

このトイレの特徴は男女別がないことなので、ですから、観光バスなどで大勢の男女が一斉にトイレに来ても、ほとんど待ち時間がきわて短いのです。

世界的にもこのようなトイレがあるのは日本だけではないでしょうか。

いずれにしても、現在の公衆トイレは世界的に見ても男女別が常識であり、最悪なのは男女それぞれのトイレの規模は同じなりです。ですから、映画館とか劇場などの休憩時間になるといつも長蛇の列をしているのは女性用のトイレなのです。

 

2018年3月11日 (日)

ベルギーの日本人

ベルギーの日本人
以下は次のサイトからの転送です。
Japan On the Globe(1053)■■ 国際派日本人養成講座 ■■
人物探訪: 日欧貿易の草分け、宮田耕三
 その「三方良し」の姿勢が、日本と欧州との貿易を発展させた。


 宮田耕三は明治28(1895)年に札幌の北東50キロほどの現・美唄(びばい)市にあった屯田兵村に生まれた。父・利一はその4年ほど前に祖父、妻、妹、長男などを連れて、淡路島から入植した。一家は未開の荒野の開拓に明け暮れた。日露戦争後、生活が安定すると、利一は尋常小学校4年生を終えた10歳あまりの耕三を東京に送った。

「新天地を目ざすのは宮田家の血だ」と考え、三男ながら成績の良い耕三を東京で大きく成長させようとしたのである。「東京市新宿区・池田次郎吉様」と書いた白い布きれを母親が背中に縫い付けて、送り出された。

 東京では当時の麻産業の最大手である帝国製麻でアルバイトをしながら、早稲田実業予科に通った。その後、早稲田実業、早稲田専門学校で経済の勉強しつつ、帝国製麻での仕事の中で、将来貿易商となって世界で活躍したいという夢を膨らませていった。

 宮田がロンドンに着いたのは、第一次世界大戦が始まった1994(大正3)年秋の少し前であった。父親・利一は開拓した土地の半分を売って旅費をこしらえてくれた。しかし、3等の切符を買い、ロンドンで2ヶ月も勉強すると、その資金も消えてしまった。

 しかるべき筋の紹介状も持たず、単身ロンドンに乗り込んできた宮田を採用する現地企業も日本企業もなかった。毎日英字紙の求人欄を眺め、ベビーシッターや留守番の仕事で食い繋いでいた。

 ロンドンではいろいろ不愉快な思いもした。地下鉄の中で、初老の紳士から「お前はモロッコ人か、それともアラブか」などと話しかけられた。「日本人です」と答えると「日本はどこにあるのか、電気がついているのか」と根掘り葉掘り尋ねる。英語で一生懸命に答える宮田を、紳士は薄ら笑いながら見下ろしていた。

 第一次大戦で日本の駆逐艦隊が地中海で英仏の輸送船を守って奮戦し[a]、またその後、昭和天皇が皇太子としてイギリスを訪問し[b]、大歓迎される前のことである。イギリス人にとって日本はまだ東洋の未開の国の一つでしかなかった。


■3.「他人様に喜ばれることをして死んでやろう」

 働きながら、何とかロンドン大学で経済学を学んだ宮田は1919(大正8)年、24歳にしてベルギーのアントワープに移った。アントワープは日本から欧州へ行く定期航路の終点で、日本船は1週間ほど停泊し、その間に食料や燃料である石炭を積み込む。宮田はそこで日本船に食料を売り込む仕事を始めた。

 宮田は日本人の乗組員や乗客が喜ぶような品物を見つけようと、市内の店をくまなく回った。ある店で太く脂の乗ったウナギを格安で売っているのを見つけ、売り込んだところ、大好評だった。またイタリアのピエモン米も、ふっくらと炊けて、よく売れた。半年もすると日本船相手の商売が軌道に乗ってきた。

 アントワープで商売を始めてから4年経った頃、ブリュッセルの日本大使館から菊のご紋のついた手紙が届いた。当時はブリュッセル、アントワープをあわせても日本人は20数人しかおらず、その中で、商売を伸ばしつつある宮田のことは知れ渡っていた。

 大使館からの手紙は、満蒙殖産株式会社社長の向井龍蔵という日本人が「ゼラチン」を作るためにベルギーに来ているので、ぜひ助けてやってほしい、という依頼だった。宮田には会社名はもちろん、「ゼラチン」についても何の知識もなかった。

 数日後、その向井と名乗る初老の人物が訪ねてきて、子供のような年齢の宮田に深々と頭を下げた。向井は満州の開拓民たちのために肥料となるゼラチンをなんとか作りたい、と語った。ゼラチンはベルギーを中心にヨーロッパで製造されているだけで、満洲の農民には手が届かなかったからである。

 宮田も北海道の開拓民の生まれだけに、向井の志に心動かされた。またその頃、宮田は肺結核に侵されており、このまま死んでしまうかもしれないという状況に置かれていた。それなら、他人様に喜ばれることをして死んでやろう、と決心した。

 宮田は向井社長に協力して、ゼラチン製造に関するフランス語の専門書を翻訳し、ゼラチン工場で働いていた工場員を雇い、設備を自作して、ついに東洋人として初めてのゼラチン製造に成功した。成功まで1年半かかった。


■4.貿易商として頭角をあらわす

 その後、船員たちからセキセイインコを買い集められないか、という話が宮田のところにもたらされた。セキセイインコは日本で流行っており、船員たちは本場のヨーロッパで買い求め、2か月の船旅で日本に運べば、言い値で売れるという。

 しかし船員たちの1週間程度の滞在では、大量の買い集めは無理である。専門の商社もない。そこで宮田の評判を聞きつけた船員たちが話を持ち込んだのである。

 宮田はアントワープからジュネーブ、さらにパリに至る地域まで人を派遣してセキセイインコを何百羽も買い集めさせた。船員たちが提示した価格は買い入れの数十倍もの値段で、宮田を驚かせた。

「日本と貿易出来るような商品を探そう」と思い立った宮田が見つけたのが、サケの卵の筋子(スジコ)である。筋子からイクラがとれる。毎年シーズンになると鮭がカナダからアントワープの魚市場に大量に輸入されるが、町のスーパーや魚屋は筋子を捨ててしまう。ヨーロッパ人は筋子を食べないからだ。日本人は筋子が好きで、高級品として売れる。

 宮田はスーパーや魚屋と話をつけて、筋子を無料で引き取ることとした。彼らにしても廃棄の手間がはぶけると大喜びだった。しかも宮田が小さな日本人形をプレゼントすると相好を崩した。同様に捨てられていたニシンの卵である数の子も無料で引き取り、日本に輸出した。

 宮田の見つけた商品の第3弾がダイヤモンドだった。アントワープにはユダヤ人が経営するダイヤモンドの研磨工場があった。そのころ日本ではダイヤモンドが注目され始めていた。宮田はアントワープにやってくる実業家や華族階級を知り合いのダイヤモンド工場に案内し、ユダヤ人から10%のコミッションを受けとった。こうして宮田は貿易商として成功していった。


■5.「オレは、彼らにその夢を叶えさせてやりたいんだ」

 1929(昭和4)年にニューヨークで起こった大恐慌はヨーロッパも直撃し、特に生活基盤の弱いパリ在住の画学生たちはその日のパンにも事欠いた。やがて彼らの間に、アントワープで見ず知らずの人間にも黙って宿を与え、食事を与える日本人の噂が届いてきた。宮田耕三である。

 宮田の名前を聞いて、パリから画家の卵が次々とアントワープにやってくるようになった。昼飯時には宮田と社員に混じって、居候たちがベルギー名物のムール貝にかぶりつく。白ワインは樽から飲み放題だ。その後はジャガイモやソーセージとなり、メインディッシュにはビフテキが登場する。

 こうして一週間ほど、ただ飯を食った後、片道切符でやってきた画学生は「すいませんが、パリまでの汽車枕を貸していただけませんか」と宮田に小声で聞く。どうせ返せるあてなどない事は宮田は百も承知だが、相手の心を傷つけないように汽車賃に2、3日分の食費を上乗せして渡してやる。

 多いときはこんな食客が20人もいた。たいていは20歳代の若者で、30代も半ばにさしかかっていた宮田には、彼らが可愛くて仕方がなかった。社員の1人が心配して、「社長、いい加減にしたほうがいいですよ。見ず知らずの日本人をこう抱えこんだんじゃキリがないですよ」と献言した。

 宮田はこう答えた。「みんな夢を持って日本を出てきたんだ。だからオレは、彼らにその夢を叶えさせてやりたいんだ。夢が叶うまでは時間がかかるものなんだ」

 食客たちの中の何人かからは芸術に対する執念を宮田は感じとっていた。その中には後に大成して、作品がニューヨーク近代美術館にも収蔵された鳥海青児(ちょうかい・せいじ)もいた。


■6.「遠いヨーロッパの地で国家に尽くす道は無いものか」

 1936(昭和11)年には世界的な建艦競争が始まっており、日本は後に「大和」「武蔵」と命名される巨大戦艦の建造を始めた。その情報をつかんだとき、宮田は遠いヨーロッパの地で国家に尽くす道は無いものか、と考えた。宮田の見つけた答えは鉄だった。東京駅ほどの全長の戦艦を2隻も同時に作るのでは、いくら鉄があっても足りない。

「ヨーロッパの質の良いクズ鉄を日本へ送り続けることで、日本人としての役割を果たそう。自分は日本人なのだ」 そう考えて宮田はベルギー国内はもとより、ドイツやフランスなど欧州各地を飛び回って、鉄くずを買い付ける使命に没頭した。

 1939(昭和14)年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次大戦が始まった。ドイツ軍はフランスまで占領したが、やがて連合国側が反撃し、ドイツ軍の撤退に伴って、宮田は身一つで邦人たちと一緒にドイツ国内に避難した。三国同盟により、日本人も敵性外国人と見なされ、逮捕される恐れがあったからだ。

 ドイツ東部がソ連軍に占領されると、宮田はシベリア鉄道の満員列車に乗って満洲に逃れた。終戦の玉音放送を宮田はハルピンの街中で聞いた。雑音のため聞き取りにくかったが、紛れもなくブリュッセルで言葉を交わした皇太子時代の昭和天皇のあのお声であった。


■7.再び、ベルギーへ

 ハルピンで危ういところをシベリア抑留から逃れた宮田は、戦後しばらく日本にいた。再びベルギーに戻ったのは1950(昭和25)年だった。学生時代にアルバイトをしていた帝国製麻のためにブリュッセルで亜麻買い付けを始めたのである。おりしも朝鮮戦動乱でベルギー国内の亜麻の価格が3倍にも跳ね上がり、経営問題となった。

 しかし宮田が依頼すると、戦前から彼を無条件に信頼していたベルギーの業者たちは、市価よりも3~4割安い価格で供給してくれることになった。

 1958(昭和33)年のブリュッセル万国博覧会は、戦後初めてのもので、貿易立国再興を目指す日本は、政府も経済界も凄まじい意気込みを込めた。戦前の万博は日本の伝統文化を伝えることが中心であったが、今回は「日本人の手と機械」と銘打って、日野のダンプトラックから、ニコンやキヤノンのカメラ、日立の電子顕微鏡、ソニーのトランジスタなどを出展した。

 宮田は陰ながら、開催準備に派遣された通産省官僚の世話をし、日本館内に設けられた日本料理店「つる屋」に外米の美味しい炊き方を教え、輸入食材が税関で引っかかると、即座に解決してやった。「つる屋」で、国賓として招かれた高松宮・同妃両殿下が、ベルギー国王の弟君アルベール殿下と食事をされている光景が、現地の新聞やテレビニュースで大きく報道された。

 この万博での入場者は4千6百万人と史上最高を記録し、うち3千万人以上が日本館を訪れた。世界116か国のパビリオンのコンテストでも、日本館は堂々、9位につけた。この成功の後、日本の貿易額は倍々ゲームで伸びていった。

2018年3月10日 (土)

朝鮮半島のシナリオ

この五月に北朝鮮とアメリカの首脳同士が会見することが報道され、その結果に関していろいろな人が予測をしています。

しかし、その中に全く含まれていない予測もあり得るのです。それは私の予測で、その可能性は全くゼロとは言えないのです。

その可能性とは、南北の朝鮮が統一され、朝鮮半島国家が核所有国になり、そして中国と同盟を結ぶことです。

もし、このような事態になればアメリカは手出しができません。このような中朝同盟は日本にとっては大きなダメジになり、最悪の場合には日本との戦争にまで至る可能性はないかもしれません。

仮にそのような可能性が無いとしても中朝同盟がロシア、日本、アメリカに与える影響は計り知れないものがあります。

2018年3月 2日 (金)

血統と国籍との関係

血統と国籍との関係

血統とは普通の理解では「血の繋がり」というように理解されているのです。その結果として、日本人の子供は血統的に見てやはり日本人になるわけです。

日本では国籍法で、父親か母親が日本国民なら子も日本国民とすると規定されているのです。従来は父系からの取得しか認められなかった(父親が日本国民である・そう証明出来る場合のみ、子も日本国民)が、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に日本政府が署名したことにより、1985年の国籍法改正において、父親か母親のいずれか一方が日本国民であれば、子は日本国民とすることとなった。これを父母両系血統主義と呼ぶ。例外的に、“日本で生まれ,父母がともに不明のとき,又は無国籍のとき日本国籍を取得する原因となる、として出生地主義が用いられる。

つまり、日本の国籍を持つことが出来るのは日本人の血を引いている子供で、日本の国籍を得ることが出来るが、現実には両親のいずれかがその届け出を出さなければ国籍を得ることはできなく、当然のことながら戸籍も存在しない、という不合理性があるのだが、これはたんなる手続き上の問題とされている。つまり、国籍のない人が日本の国籍を得るためには戸籍に記載があるかどうかが重要であり、必ずしも血統があるからといって自動的に日本国民にならないという不合理性があるのです。つまり、戸籍に載せるという行為がなければ日本人として日本の旅券を入手することはできないのです。

たとえば、戦後になって東南アジアで日本人男性が現地の女性と結婚してその子供について父親が出生届を出さなければ、たとえ、日本人の血を受けついていてもその子供は日本人にはなりえないという悲劇がたくさんあるのです。この場合、血のつながり、つまり日本人血統があるにも関わらず単なる書類上の不備からその子は日本人でないことになるのです。

このように理解すると、血統と国籍とは必ずしも一致しないのですが、書類国家では致し方がないのです。
つまり、国籍というのは単なる血統だけでは自動的に父親の国籍を得られないのです。そうするならば、日本の国籍は血統主義だという表現は不適切になると考えられるのです。換言すれば、特に国籍に関連して日本は血統主義だと表現していますが、あまり意味のないことになります。そうなると「血統」という表現ではなく「系統」なる表現のほうが適切かもしれません。したがって、日本の国籍法が血統主義だと理解するのではなく、系統主義が正しいのではないでしょうか。
もし、血液学的に血のつながりがあっても、父親が認知して、戸籍に載せてくれなければ日本人にはならないのです。ですから、いくら血統主義だといっても血液学的つながりがあってもダメなので、血統主義という概念は当てはまらないのです。もし、血の繋がりだけで判断するならばもう何百年前から継続しているスペインのハポンさんは当然のことながら日本人であるのですが・・・。

つまり、戸籍法にもとづいて、戸籍に記載されることにより、国籍を取得することになり、このことはその逆の国籍を失う、例えば国籍法11条に記載されてある、外国籍を取得した者に課される国籍喪失届の提出そのものは、国籍法には戸籍法の届け出により日本の国籍を喪失させるものではないのです。この届は単なる書類上の手続きであり、戸籍を消滅させる手続きそのものに過ぎないのです。

つまり、国籍の喪失に関しての国籍法11条該当者の場合には国籍法の定義により国籍が自動的に失われるのです。ですから、戸籍法での記載そのものの有無が直接に国籍有無に関連しているのではないのです。このことは極めて理解が困難で、国籍法11条該当者が誤解する大きな原因にもなっているのです。

つまり、【国籍の取得は国籍法によるのではなく、戸籍法に基づき】、
     【国籍の喪失は戸籍法によるものではなく国籍法に基づく】
ことになるのです。

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