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2015年12月の記事

2015年12月28日 (月)

「収賄・賄賂」と「贈り物・謝礼」との違い (**)

「収賄・賄賂」と「贈り物・謝礼」との違い

サッカ-のFIFAに絡んだ汚職、収賄が最近の新聞を賑わせています。でもFIFAのプラッタ-会長は収賄を否定しています。

ここで考えたのですが、収賄も謝礼も基本的には同じだと理解できるのです。その両者の根本的な違いは膨大な金額がどの時点で動いたのかということだけなのです。なにか一つの事項を決定する前に金銭授与がなされれば、それは収賄、そして汚職になるのですが、その反対に、ある事項の決定後に同じ額の金銭授与がなされれは基本的にはそれは謝礼として認められるからです。

その典型例は、日本でほぼ慣習化されている入院患者が退院の際に主治医になにがしかの謝礼を包むことがいまだになされているようですが、これはあくまでも謝礼なのです。しかし、入院してすぐに主治医になにがしかを包めばそれは賄賂になるのかもしれません。

発展途上国ではよく収賄、賄賂が日常茶判事のように行われていると批判しますが、これら多くの国の政治家は収賄との概念がなく、当然のことのように金銭授与が行われているのですが、その授与のタイミングは全く問題視されていないのです。

このように考えると賄賂とか贈与とかは金銭授与の時間的要因により無意識的に判断されるものであり、結果的には同じ行為なのです。

似たようなことは日本でも最近話題になっている税率に関連して「生前贈与」と「遺産相続」との違いにきわめて似ているのです。

このように理解すると賄賂もうまく取り扱えば、贈与だと主張することもできるのです。ほとんどの政治家がこのような微妙の違いを無意識的に使い分けているのですが、この点に関した議論は誰もしたがりません。

最近の甘利大臣の金銭問題も彼は金銭授与がどの時点でなされたのかを判断すれば、問題ではなくなるのかもしれません。もし、結果的にそうすると彼は「収賄・賄賂」と「贈り物・謝礼」との違いを十分に理解していたことになります。もっとも、このような政治の世界では「口利きの見返り」という形態でなされている場合があるのですが、これは「政治的な贈与」扱いになるので、多くの政治家は無意識に簡単に受け取っているのです。

今回の甘利大臣の場合もこの「口利きの見返り」であって収賄。賄賂との認識は全くないとのことなのです。

追記(Jan. 2018)
最近の報道で、JOC会長の竹田さんがフランスで東京オリンピック誘致に関連して取り調べを受けたとのことです。この場合、武田会長がどの時点でお金を相手に払ったかによって、収賄が謝礼との判断が異なることです。

2015年12月20日 (日)

ついに現れた「甘いスシ」

日本食の代表的な料理の一つのスシ(寿司)はいまや世界中に普及しています。どこの町にも必ずすし屋があるのですが、多くの場合、日本の古典的な(?)スシとは全く異なったものまで普及しています。中にはとても日本では考えらないようなものまでもスシの名前で食べられているのです。

ともかくその普及率はかなり高く欧州のちょっとしたス-パ-とかコンビニなどもすでに作られてプラスチックの箱入りのスシセットも普及しているのです。もっとも、このようなスシは低温ケ-スに置かれているので、数時間もするとシャリが固くなって日本人にはとても食べられない代物なのですが、生身のマグロとかシャケなどが使われているので致し方がないのかもしれません。

しかし、ほとんどのすし屋は中国人や土地の人たちがスシを握っており、日本人がいるすし屋はあまり多くはありません。もちろん、大都会の日本料理店などでは日本人スシ職人がいますが、ス-パ-などに配達されているスシは時としてとんでもないものがあります。そのひとつは通称、「カリホルニア巻き」という日本では絶対に見られないものもあります。

ところが、このクリスマスを迎えた大売出しの時に、とんでもないスシが現れたのです。それは文字通り「甘いスシ」、つまりシャリの上にジャムなどの甘いものが載っているのです。ちょうどパンにジャムとかその他の甘い果実ペイストが使われているのと同じ感覚なのです。これにはびっくりしました。

2015年12月17日 (木)

JALと ANAの違い

JALと ANAの違い

最近の映画市場で大ヒットになったものにStar Warsがあります。

ところが、この大ヒットをいち早く自社の広告に取り入れた航空会社があるのです。それがANAなのです、何しろあの大きな機体にStar Warsと宣伝文字を大きく書いてるのです。もちろん機内の椅子にも全席にその名前入りのシ—トが使われているのです。これほど、タイミングの良い宣伝は見事です。

それにしても最近の日本の代表的な航空会社JALと ANAを見ているとANAのほうが躍進しているような気がします。かってはJALはJoy After Landingの略だともてはやされていて、ANAが発足した当時はまるでAlmost Negrected Airlineだったのですが、現在の状況は当時とは正反対のJAL = Just Acceptable Lineに、そして ANA=Advanced Network Airlineになっている感じです。

2015年12月13日 (日)

国籍法11条の改正を(***)

国籍法11条の改正を !!!

日本に住んでいる日本人には国籍法という法律は全く関係のない法律なのですが、海外居住の日本人にとっては時として重要な法律になるのです。つまり、日本には法律がゴマンとあるのですが、日本に居住している日本人には全く関係の法律、それが国籍法なのです。

最近になって在スイス大使館が在留邦人全員に対してのお知らせとして自己の意思で外国籍を取得した場合には国籍法に基づき日本国籍を「自動的に喪失します」と意図的に公知しています。この通知により一部の在留邦人は不安な状態になっています。 つまり、国籍法の十分な知識のない人はこの通知を見て、自分が二重国籍を所有しているときは今後どうなるのか、つまり日本の旅券の有効期限が過ぎるときに旅券の更新が出来なくなるのではないかとの危惧があるからです。そうなると自分は日本人ではなくなるのかと。つまり、従前はこのような意図的、かつ無条件な通知は在留邦人に出しておらず、また旅券の更新も外国籍は不問にして柔軟に対応されていたのです。たしかに、ある日突然に「もうあなたは日本人ではないのですよ」と言われたらどう思うのでしょうか。海外で旅券が無いということは日本人ではないことになるのです。

なお、このスイス公館と似たような行為がアメリカでもなされるいるとのことなのです。アメリカの場合には在留邦人が領事館に旅券の更新に来たときに「口頭で」あなたはアメリカの国籍を所持していますかと聞いて、もし本人が口頭で「ハイ」と答えただけで、旅券の更新を拒絶しているとのことです。これは明らかな越権行為であり、国籍法条文の誤解、曲解なのです。

もっとも海外公館の多くは似たような行為を無造作に行っており、該当する多くの日本人は仕方がなく、受け入れているのです。その典型的な例は南米移民の日本人の場合なのです。つまり、戦前や戦後まもなく南米に移住した日本人はその後の段階で何らかの理由でブラジルをはじめとする南米諸国の国籍を取得せざるを得ない状況下で、二重国籍を認めていない日本政府の方針に従って、それぞれの旅券の更新が海外公館により拒絶され、泣く泣く日本の国籍を放棄している現実があるのです。

ですから現在では南米には数多くの日系人と称されている旧日本人が生活しているのです。もし、これらの人たちが日本の国籍を例外的に維持できる政策がとられていたならば南米には日本の国籍をも持っている人たちが多く居住していて、その子供たち、つまり二世、三世も日本の国籍を維持することが可能になって居る筈なのですが、現実は厳しく、そのような例外は存在しないので、日系二世、とか日系三世などの表現が使われているのです。でもなぜこれらの人に対してわざわざ「日系」という表現を無意識に使うのででしょうか。おそらく、当時の南米移民はある意味で「棄民」扱いだってので、彼らの存在については日本の政治家はほとんど関心がなかったのです。しかし、戦後から経済ブムが発生した時にはわざわざ法改正して、これら南米移民の二世、三世に日本での就労許可を与えて日本の労働人口に貢献させているのです。


ここで問題なのは「自動的に喪失」の解釈なのです。この表現は極めて紛らわしいものであり、誤解を招きやすいのです。しかし、二重国籍を取得した時点で「自動的」に日本の国籍を失うことはありえないのです。法律の条文の実施にはそれなりの手順と言うものがあり、その手順なしにはその条文の効力は発生しないのです。例えば、刑法で窃盗に対しての罰則がありますが、その実効に関しては当然のことながら手順、手続きがあり、まず第一番目に窃盗の事実の確認が行われなければならず、刑法の条文に罰則があることだけで「自動的」にその本人に刑罰が科せられることはありえないのです。


つまり、国籍法第11条に「自己の意思で外国籍を取得したときには日本国籍を喪失する」とあっても、この条文の履行にさいしてまずなすべき第一の手順は外国籍取得の事実の確認があるのです。日本の憲法12条でも外国籍がない場合の日本の国籍離脱(無国籍になること)を認めていない。つまり国籍離脱を提言する場合には外国籍の証明がなければ国籍喪失届は出せないことになるのです。


ところが、これら海外公館では「自動的に日本国籍を喪失する」とか「口頭でのやりとり」だけで国籍喪失を宣言しているようなものなのです。このような一連の海外公館の行為は間接的には海外在留邦人を意図的に日本人から除籍、排除しているものと解釈することも可能なのです。とても常識では考えられない行為が多くの海外公館でなされており、大局的には海外在住の有能な日本人を間接的かつ意図的に排除することを推進していることにもなるのです。その典型例としてよく挙げられるのは米国籍を取っている日本の科学者でその中にはノベル賞を受賞した人も何人かいるのです。


このような行為は、現在の日本の少子高齢化社会では将来的には日本社会への大きなマイナスにもなるのです。現在の海外邦人社会はある意味では将来的にかなり日本社会に貢献できるのですが、このような事実は日本の施政者の頭の中には存在しないようです。

もっとも、法律を文字通りそのまま杓子定規に解釈すれば理論的にはこれら公館の対応、つまり旅券の再交付、延長の拒否は違法にはならないのです。なお、その逆に海外公館が国籍法を無視ないし軽視して、在留邦人の旅券更新を外国籍所持とは関係なく、柔軟的に従来通りに受け付けても、本省から職務怠慢で譴責された事実は一件もないのです。ましてや、そのような状況下で旅券の更新がなされても国籍法違反で裁判沙汰になったことは全くないのです。

つまり、現在の国籍法の11条は「恣意的」に行使されていると解釈されても致し方がないのです。もし、この点が指摘され、「人権」との関わり合いを持ち出されたらどうなるのでしょうか。なお、世界人権宣言15条2項では、「何人もその国籍を恋意的に奪われない」と規定されているのです。

理論的には国籍法に基づいて外国籍を所得している人に対しては外国籍所得の事実の確認をしてからそれらのデタを該当者の市町村事務所に送付することにより、国籍が無くなり、戸籍も無くなるのです。ですから
海外公館が11条該当者に「国籍喪失届」の提出を求めることは違法になるのです。なぜなら、11条該当者はその時点でもう日本人ではなく、外国人になっているので、日本の法律にあるそのような届の提出を求めることは出来ないのです。

日本の憲法12条でも外国籍がない場合の日本の国籍離脱(無国籍になること)を認めていない。つまり国籍離脱を提言する場合には外国籍の証明がなければ外国籍選択届、あるいは国籍喪失届は出せないことになるのです。

ちなみに、現在の国籍法の原則は二重国籍を認めておらず、二重国籍者の範疇を「自己の意思で取得した場合」と「自己の意思とは関係なく二重国籍になった場合」の二種類に分けて、国籍喪失届、または国籍選択届を出すことが求められているのです。(国籍法の二元制) いずれの場合もこの届を出さないときには法務大臣による催告書が出されることになっているのだが、いままで一度もだされていないという現実がある。その理由の一つに海外居住者には日本の国内法が適用しにくいし、また一人に催告した場合にはいままでに催告書が出されていない何万人、何十万人との差別が生じてしまうと説明されているのです。 (法務局民事一課の説明)

このように、この「国籍喪失届」の提出は国籍法11条には規定されているのではなく、すでに該当者は日本の国籍を失っていると定義されているので、もう二重国籍所有者には該当しない(法務省民事局民事第一課の見解)のだが、残念ながら手続き上、日本の戸籍にはそのまま載っているので、その戸籍を消滅するために、戸籍法に規定されている「国籍喪失届」の提出が求められているに過ぎないのです。

このことは海外の公館により「外国に帰化をした場合には、自動的に日本国籍を失うことを意味しています。この場合の国籍喪失の効果は、戸籍の記載の有無に関係なく、外国の国籍を取得した時に、自動的に外国の国籍を取得したことで発生します。」と説明されているのです。つまり、自己の意思で外国国籍を取得した日本人は,その時点で日本国籍を喪失するため,二 重国籍者にはなり得ず,従って、国籍法には催告云々の記載は存在しないのです。

このように11条該当者はその時点で日本の国籍をすでに失っているので、もう重国籍者ではありえず、理論的には国籍喪失届を出しなさいという催告の対象とはならない、しかし、国籍がなくなっている、つまり日本人でなくなっているのにも関わらず、いまだに戸籍に記載があるのは不都合なので、戸籍を訂正するための国籍喪失届(戸籍法103条)を出してください、というのが公式説明なのです。つまり、国籍法の概念では11条に概念した時点で日本の国籍がなくなっているので該当者は既に二重国籍者所有者ではない、つまり「日本人ではない」と定義されているのです。ですから、そのような日本の国籍を失っている人、つまり外国人に日本の戸籍法の事項を該当させることは理論的には出来ないのです。そのような作業は法務省自体が積極的にするべきなのです。

このように、国籍法と戸籍法とは一対になっていて、現在のところ、日本国における日本人の国籍と身分関係を公証する唯一の手段は戸籍のみだからです。つまり、国籍法と戸籍法は国籍に関しては同時、同一効力が施行されるとの解釈から、国籍法11条該当者は戸籍法103条と連携しているので、法文にはない「自動的」という表現が法務局、いゃ、厳密には海外領事館、によって使われているのです。

もっとも、このような該当者が戸籍法に従った国籍喪失届を出さないときには法務大臣名による催告書が出されることになっているのですが、現実にはこの法務大臣による催告書は今までに一度も出されたことがないという事実は意外と無視されているのです。同じように国籍法15条に規定されている国籍選択届たいする法務大臣による催告書もいままで一度も出されていないのです。

ところが、普通の人はこのような背景情報を全く知らないので、旅券の更新ができません、国籍喪失手続きをしてください、と海外公館から言われればそれに従うほかないと考えるのです。

一方、このような法不備により、現実には海外には二重国籍所持者が何十万と存在するのです。その中に、岸恵子、フジモリ前ベル-大統領、宇多田ヒカルなども挙げられるのです。ひとつの説明(下記の松野議員による法務省の回答)から推測すると単純計算では現在は50万人以上と推測されるのです。さらに、行政が全く関心を持っていないことの一つに、海外で外国籍を取得し、それ以降に日本の旅券を使わなければ実際の二重国籍者の実態を知ることは不可能であり、そのような人たちの戸籍は現存するのです。しかし、そのような人の実態を知ることには全く関心がないのです。理論的には旅券発行の記録とその有効期限が切れた段階で、その該当者がどこに居住しているかとの追跡調査は理論的には可能なのですが、そのような調査の必要性は誰も認めていないのです。このことは国籍法概念が誕生した明治の時代には海外に出ていくものは追わず、とい概念がその基本にあったのですが、その延長線上に現在の国籍法の理念が現存しているのです。ですから、当局に現在戸籍が存在する海外居住日本人の総数はどのくらいですかと問い合わせてもそのような数的情報は把握していないのです。

一方、一部の海外有志が長年にわたって二重国籍容認の請願運動していますが未だに実現していません。その大きな原因は、この運動に対して一部の団体や国会議員がそのような二重国籍を認めると在日外国人が大挙して日本国籍を取得して日本の国情が乱されるとの懸念を強調しているのですが、これは単なる憶測に過ぎないのです。今までに国籍法改正法案が議題になったときに、「外国人が日本人になり済ますことができる危険な法案だ」との声が上がり、改正反対活動の発端となったとされています。そのほかにも日本に永住している外国人に対する日本国籍所得の便を図るように提案した議員を「売国奴」呼ばりするのもこのような二重国籍反対の人たちなのです。

したがって、正攻法で日本は二重国籍を認めよ、と請願することはむしろ逆効果なのです。つまり、今までの国籍法改正案では外国人などの帰化に関することが主目的のためにいろいろな反対があったのですが、いずれの場合も海外日本人の国籍喪失の問題は全く考慮されていなかったのです。

これらの反対派の人たちは外国人が日本の国籍をいとも簡単に取得すること、つまり日本に帰化することと考えているのですが、帰化にさいしてはそれなりの審査があり、自動的に誰にも日本国籍を与えることはありえないのです。いずれにしても、これら反対者は海外在留邦人のことは全く念頭にないのです。

一方、現実には在日外国人や外国人が日本の土地やビルなどを大挙して手に入れているのですが、そのような現実に対してはこれらの団体や議員による反対は皆無なのです。

このような状況を考慮したとき一つの便法として二重国籍を原則として禁止している国籍法11条の条文を
「自己の意思で外国籍を取得した場合はそのまま日本国籍を維持することが出来る」とか
「自己の意思で外国籍を取得した場合には日本国籍を喪失することが出来る」 あるいは
「自己の意思で外国籍を取得した場合には外国籍を放棄することに努めなければならない」
のような柔軟な規則に変更するだけで、上述のいろいろな問題が簡単に解決されるのです。もちろん、本人が外国籍を取得した時点で日本国籍を必要としないと判断した場合には戸籍法に基づいた国籍喪失届けを出せば済むのです。このような柔軟な法律にすれば、日本居住の外国人への国籍授与は全く関係なく、本来の日本人だけの問題になるので、前述のような一部の団体の外国人への日本国籍云々はまったく関係がなく、意味がなくなるのです。

このような観点から、従来から繰り返しなされていた二重国籍容認請願運動を「国籍法11条改正請願運動」に切り替えるべきなのです。今までにいろいろな観点からに二重国籍に関する意見書とか国会答弁などがなされていましたが結果的には何らの成果も見られていないのは、上述のような外国人の日本国籍取得容認と混同、理解されているので現実にはこのような二重国籍容認という正攻法では全く成果は見られないのです。
参考資料
  ①日本弁護士連合会の「国籍選択制度に関する意見書」(2008/11/19)
②衆議院法務委員会での松野議員による質疑(2004/6/2)
質問(松野議員)国籍法の15条により、現実に法務大臣の催告をしたというような実例はあるか。
答弁(房村法務省民事局長)これは相当慎重に行うべきで、現在まで法務大臣の催告をしたことはない。
 ③「誰も知らなかった常識の背景」(「海外在留日本人の保護と国籍問題」の章参照) (鈴木伸二著)
  
ちなみに、こ「国籍選択制度」が1984年の国籍法改正の時に、その当時の二重国籍所有者が日本国籍を選択した場合には 外国籍の離脱に努める義務(国籍法13条、「日本国籍を離脱できる」、つまり任意制度)が生じるが、国籍離脱に関する外国の法規制が様々であることを考慮して、その後に外国籍の離脱手続きをとらないことをもって日本国籍喪失事由とはならないと公式に説明されているのである。つまり、このような場合には外国籍離脱は「努力義務」であり、二重国籍維持が暗黙の了解事項になっていることも国籍法の矛盾点の一つになっている。

いっぽう、この国籍に関しての日本国内でのマスコミ報道はあたかも外国国籍を持っていることがファッション的な感覚で無造作に報道されている。とくにスポ-ツ選手などではまるで外国籍をも持っている選手が意図的におおきく取り上げられている例がしばしばである。しかしながら、そのような紙面には二重国籍問題が言及されることは一度も存在しない。そのほかにもノ-ベル賞受賞当時にど国の国籍を有しているかによってノ-ベル賞の受賞国の発表になるのですが、この場合も二人の日本人受賞者の場合は公式には米国人扱いなのですが、日本の政治家やマスコミはいずれも無条件に日本人の受賞者としているのですが、この場合には二重国籍そのものの存在は全く無視されているのです。このような場合には日本の首相までがこれら二人のアメリカ国籍の人も手放しで、日本人として名誉なことであると声明し、国籍法のことなどは全く無視しているのも皮肉な事実なのです。

つまり、マスコミや日本人の大多数は二重国籍を無意識に容認しているものと理解することが出来るのではないだろうか。

いずれにしても、従前は多重国籍による不都合を避けるために立法上の工夫がされてきたが、国際化社会が進んだ現在では欧米などを中心に多重国籍を容認する国が増えてきており、国籍唯一の原則はもはや国際的趨勢とは到底言いがたい状況にあると認識されているのです。ましてや、今後の小子高齢化社会に向けて一人でも日本人を活用すべき時に、意図的に海外在留日本人を切り捨てるという愚挙は中止すべきではないだろうか。

結語
 ①従来の二重国籍容認請願運動を国籍法11条改正請願運動に切り替える。
 ②日本で生活している日本人にはある日突然自分が日本人でなくなるという実感を理解させる運動をすべきである。
 ③今後の少子高齢化社会を考慮した時、海外日本人を意図的に追放、排除させるべきではない。
 
なお、法の改正ということはかなりの努力、時間を必要としているので、とりあえずなすべきことは法務省が、国籍法11条の取扱いに関して、柔軟にすることができるとの通知を出すべきではなかろうか。

この国籍法11条改正について河野太郎議員あてに意見書を出したのですが、全くの反応はありませんでした。つまり、河野議員にはこのような問題は現時点では全く関心がないことが分かりました。なお、この河野議員が二十数年前にWorld Readerというサイトに「ごまめのはぎしり」という項で国籍問題にもかなり関心を示していたのですが・・・。

追記(2017 May)
なお、この国籍法11条の自動的国籍喪失はある意味では憲法違反にもなるのです。つまり、憲法では国籍離脱、つまり日本人で無くなることは、自由の裁量であり、強制されるものでないのです。

憲法22条2項。

② 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
   何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

憲法の条文では「移住」という表現が使われ、「居住」ではないのです。つまり、「移住」という表現は間接的にその国に定住することを意味し、場合によってはその国の国籍を取得することも前提にあるのです。そのような場合には日本の国籍を離脱することは出来ますよ、と説明しているのであって、本人が希望すれば「離脱しなくとも問題ない」ことを意味しているものと理解できるのです。つまり、国籍離脱は本人の意思次第、つまり離脱は努力義務ということになり、強制されるものではないと理解できるのです。

したがって、法的には国籍法11条は憲法違反にもなるのですが、誰もこの点に関しての議論をする人は一人もいないのです。

このように現在の国籍法11条に言及されている、在外日本人が何らかの理由で外国籍を取得するという動機は在日の日本人にはおそらく理解出ないのではないでしょうか。、以下にどのような環境下で在外日本人が外国籍を取得するようにならざるを得ないのかとの理由列記してみました。

【結婚】 外国人と結婚することにより、一部の国では当然のこととして該当国の国籍が結婚の届け出に伴って無条件に与えられることがあるのです。つまり、結婚という「原因」があると、その「結果」として、該当国の国籍が得られるのです。このことは、もし結婚という「行動」「原因」が無ければ当然のことながら外国籍は得られないのです。外国人と結婚するということは自己の意志であり、その結果として一部の国ではその居住国での国籍が自動的に付与される場合があるのですが、このような場合も理論的には自己の意志で外国籍を自動的に得ることを暗黙の了解で実行していることにもなると解釈することが出来るのです。このような解釈は一部の憲法学者が使う「擬制」に該当するのかもしれません。

【職業上】 例えば、海外の大学とか研究所にて何らかの研究を続行するために、該当国から研究費などを獲得するためにはその国の国籍が無いと不可能な場合もあり、そのような場合には研究費の獲得という「目的」の為に該当国の国籍を手に入れることになる。つまり研究費の獲得という「原因・目的」の為に便宜的に外国籍を獲得するという「結果」になる場合がある。その典型例としてはノ-ベル賞などの日本人受賞者が海外で研究を続ける場合がこれに該当するのです。

【行政関与】 該当国に長く居住している結果、該当地区、該当国に何らかの行政的な貢献を果たしたいという「原因・目的」から該当国の国籍を取得する「結果」に至る場合もしばしば知られている。
【人間性関与】 外国に長らく居住していることにより、様々な人間性問題が関与する事態(「原因」)に遭遇することがあり、その「結果」として、該当国の国籍を入手せざるを得ない場合となることもあるのです。 たとえば、一部の高齢者施設に入所するにはその国の国籍所有者に限るという場合があったり(スイス)、或いは家族の墓地に自分が亡くなった場合、一緒に埋葬してほしい(「原因」)との願いがあっても、一部の墓地では外国人を一緒に埋葬されない場合(リヒテンシュタイン)もあり、さらには国によっては該当国の国籍がないと配偶者の死により受ける相続の税率が変わったり(アメリカ)、など色々な要因が存在するのです。このほかにも、在外日本人が滞在国の国籍を入手せざるを得ない原因には数多くいろいろあるのですが、それらの行為はいずれも必然性の高いものであり、在日日本人には全く想像、理解も出来ないことなのです。

なお、国籍法11条に関連して、日本人の殆どすべてがその条文を知らない、いゃ、知らされていないのです。それは当然で、日本人のほぼ全員が国籍法の知識はゼロに等しく、その周知義務は数年前まではほぼゼロに近かったのです。ですから、今までにこの11状該当者が海外で旅券の期限が切れたので、その再交付に領事館などに出向いて、初めてこのような国籍法の存在を知らされて、まさに青天霹靂事態に陥るのです。本来ならば、このような重要な法律は旅券のどこかに記載されているべきなのですが、どこにもそのような記載はありません。それでも行政はその周知度には問題がないとでも解釈しているのでしょうか。

しかし、残念なことは、このように国籍法11条を改正し、必要とあれば外国籍を取得しても、もし本人が望めば本来の日本の国籍を維持することが出来るということを一部の右翼系の人は「そんな重国籍容認は許されん」となるのです。しかし、この改正目的は日本人だれもが重国籍をみとめろということとは次元が異なるのです。しかし、日本が重国籍を認めたら中国人や韓国人が日本の国籍をも取得して云々、との議論に飛躍してしまうのです。もしそのような危惧があるのなら、帰化した日本人はこの改正案には適用できないとの付則をつければ済むことなのです。

いずれにしても、この国籍法11条改正の目的は本来の日本人が海外で活躍しているときに場合によってはその滞在国での国籍を得ることが必要になる場合もあるので、そのようなときには本来の日本国籍を維持する可能性を認めてほしいというのが主目的なのです。ですから大乗的に最初から二重国籍を認めろということではなく、日本の国籍を維持することが主目的であり、その結果として二重国籍者ともなりえることがあるということなのです。すなわちこの目的は日本の国籍を維持することが「主目的」であり、その結果として二重国籍者にもなりえるということなのです。ですから、この場合の「結果」と「目的」とは基本的には大きく異なるのです。したがって、短絡的に二重国籍を認めろ、ということではないのです。

追記(2018 Sept)
アメリカでの全米テニス大会で初めて優勝した大阪選手は父親がアメリカ人、母親が日本人で、現時点ではアメリカと日本の国籍の二重国籍者なのですが、日本人としてUS Openに出場し、優勝したので、まさに英雄扱いで、マスコミも政治家も彼女の二重国籍の可否についてはあまり問題化していません。

2015年12月12日 (土)

高額なスイスの医療費

スイスの物価はかなり高く、またスイスフランもかなり高いのですが、外国の人にとっては実情が分からないかと思うのです。

例えば医療費もかなり高く、しかもスイスの医療保険は全国均一ではなく、収入額に応じて、義務制医療保険と任意性医療保険との区別があり、その違いは受ける医療の質、入院時の処遇など大きな差があります。

その高額な医療費の実例を以下に紹介しましょう。なお、スイスフランと日本円との交換比率ですが、大雑把に計算して 100 sFr = 10 000 Yenとしして計算しています。

現在、眼底血栓症で、網膜浮腫にたいしてLucentisという高価な薬剤の眼注射を受けた時の費用が1883 sFrになっています。つまり、二十万円前後というところでしょうか。なお、この注射に際して、全般的な眼の検査(視力、眼圧、眼底検査など)をしますが、この費用が472 sFrとなり、合計するとなんと二十五万円近くにもなります。

全く驚くべき費用ではないでしょうか。もっとも、Lucentisそのものが高価なことはよく知られています。

「薬剤疫学の基礎」 薬事日報社版

日本に薬剤疫学というか概念が導入されたのは文献的には1980年代であり、この用語が日本で最初に公式の会議で紹介されたのは1989年 1月に東京で開催された国際シンポジゥム「医薬品の安全性に係るリスクの認識および管理」であった。

当時は薬剤疫学の概念は道の段階であり、このシンポジウムに参加したのほとんどの人は薬剤疫学という名前を初めて聞いたのであった。当時、この薬剤疫学を表題とした啓蒙文献はすでに散見できたが、その入門書は見当たらなかった。

そこで、ともかくこの薬剤疫学という学問がなんであるのかということを簡単に紹介できるほんの出版が望まれていたので、本書がとりあえず出版されたことになる。

したがって、本書はその概念を誰にでも理解できるような観点から平易な文章で、しかも統計の知識のない人でも気楽に読めるような観点から本書「薬剤疫学の基礎」が書かれている。

確かに現在ではこの薬剤疫学という概念はかなり浸透しており、数多くの専門家も知られており、またその学会「日本薬剤疫学」も存在する。その間にもいろいろな参考書がそれぞれの専門家により出版されている。

ただ、現存の薬剤疫学の参考書にはいきなり統計関連の数式が至る所に書かれてあり、統計を全く勉強したことのない者にとってはかなり敷居が高いのです。

確かにこの「薬剤疫学の基礎」はかなり昔に出版されており、内容的には新鮮性はないのですが、薬剤疫学という内容に全く関係がない人にはひとつの「読み物」として気楽に読めるのです。

そのような意味でも本書は現在でもある程度役に立つかもしれません。

本書はもちろん紙の媒体としての本も購入できますが、電子書籍として無料でだれもがダ-ウンロ-ドできます。
(www.ipad-zine.com)

「謝り文化」の日本の社会

しばしば新聞種になる記事に、暴言発言の取り消しがあります。

ことに政治家とか議員などが会議場とかツイッタ-とかフェイスブックに思い付きの暴言、批判などをして、その発言内容が非難されると、最終的には「いゃ、酒を飲んでいてあのようなことを書いてしまった」とか「本当はそのような意味ではなかったのです。少し言葉が足りなかったようです」などと弁解して謝っている例が日常のようになされています。

しかも、表向きの社会ではそのような弁解交じりの発言ですべてが水に流されている傾向が極めて強いのです。しかし、私にはそのような謝罪は心からではなく、たんなるゼスチァ-そのものであって、本心は謝り対象の発言そのままなのです。

でもこれほど便利な社会は日本独特なのかもしれません。つまり、何かを書くときとか、発言するようなときには自分のしたことに対して責任をもって軽々しく前言を取り消したりするべきではないのです。

このような社会の中では「お前は馬鹿だ」と発言して、その結果その人に非難されて、謝罪を求められても、「いゃ、実は馬と鹿とは取り違えてしまいました、どうもすみません」で済むかもしれませんね。

2015年12月 7日 (月)

欧州の落語

落語は日本だけのものと思いがちですが、落語に使われるような「落とし噺」は欧州でも話題になることがあります。ただ日本と違って落語の寄席のような興行的なものはあまりないかもしれません。もっとも、普通の小劇場でひとりの演者が笑わせるような催し物はあります。

日本の落語については「古典落語」 (與津要編)のような解説書もあり、なかなか面白いです。

それでも欧州などで庶民が笑い話的に交わす「落ち話」も結構あるのです。例えば、以下のような会話があります。

二人の老婦が偶然に市電の停留所で会ったので、挨拶を交わしながら、
「あなたは何番の電車で帰るのですか」
「私は1番の電車ょ、・・あんたは?」
「いゃ、私は6番の電車なのよ・・・」

そうこう話しているうちに16番の電車が来たのをみて、「あら、今度の電車は1番と6番とが一緒だからこの電車に一緒に乗りましょう」

これで笑えますか。

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