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2015年10月の記事

2015年10月 4日 (日)

副作用評価はもう過去のものになりつつある

医薬品投与には必ず副作用が伴うことは常識なのですが、その取り扱いに関しては時代の流れとともに大きく変遷しつつあるのです。過去においてはそれぞれの副作用症例を十分に検討し、必要とあれば補足関連情報・デタを求め、医学的にその因果関係評価がなされ,その結果を元に行政対応をしてきたのです。

しかし、新しい疾患の増加、新しい医薬品の開発、医療概念の変革、医薬品投与形態の変化など過去半世紀にわたり大きな変化が見られるようになり、副作用症例数も著しく増加し,それらに対応するための従来の副作用個別評価は次第に脇に追いやられ、対行政報告のみに関心が高まり、従来は基本と考えられていた個別個別症例評価業務の重要性が次第に姿を消しつつあるのが現実のものに成っているのです。

確かに、大企業になればなるほど新薬の開発、既存医薬品の増加などにともない、関連する副作用症例数も膨大な数になり、その結果としてその処理はもっぱら対行政中心のものとなり、本来あるべき患者を念頭においた副作用情報の充実は姿を消しつつあるのが現実のものに成っているのです。

したがって、最近の大企業による副作用報告に関連す不祥事も、その対象数は百単位、いや場合によってはそれ以上にもなっているのです。

このような医薬品副作用を取り巻く環境はこの半世紀に著しく変化し、現在の大企業の副作用関連業務は対行政処理だけに顔を向けているといっても過言ではないのです。したがって、副作用評価の本来の目的、つまり各症例の詳細な検討を基にして、副作用発現のいろいろな条件、要因、経過、治療方法などを究明し、その結果を添付文書に反映させると言う崇高な目的はほとんど忘却のかなたに追いやられてしまっているのが現実なのです。

つまり、その結果、現在の副作用情報はその種類、そして発生率だけの旧来の記載のままの状態が継続し、それら情報の質的向上はもはや絵に描いた餅になってしまっているのです。まことに残念なことですが、それが現実なのです。したがって、新しい概念としてのファルマコビジランスの実践は次第に影か薄くなりつつある、いや完全に無視されてしまっているのです。

2015年10月 3日 (土)

イタリア薬学史  医薬分業の歴史を理解しましょう

イタリアの薬学の歴史を纏めてみました。

基本的には制度としての医薬分業の起源はイタリアにあるのです。これらの歴史的経過、発展を調べてみると意外と知らなかったこと、そして日本で通説となっている事柄が間違いであり、歴史の曲解であることがわかります。

それにしても日本の医薬分業の歴史的説明には欧州で中世期に国王の毒殺を防ぐために医薬分業になったとなっていますが、誰がこのような曲解的説明を考案したのでしょうか。日本のWikipediaには「国王などの権力者などが、陰謀に加担する医師によって毒殺されることを恐れていた。これを防ぐために神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が、病気を診察するあるいは死亡診断書を書く者(医師)と、薬を厳しく管理する者(薬剤師)を分けたことに由来する[3]。そしての飲用文献には以下のアメリカの文献が載っています。
http://www.pharmacy.wsu.edu/history/A%20History%20of%20Pharmacy%20in%20Pictures.pdf 

私が調査した範囲内では医薬分業関連の日本語の解説引用文献はすべてが英語で書かれあるものばかりでした。つまり、イタリア語の文献を直接に調査して書かれたものは皆無なのです。とくに歴史的な経過に関する記述はオリジナルの文献によらないといろぃろな問題点があるのです。

今回、私がイタリア語の文献をいろいろと調べて分かったことは、イタリア人自身も場合によっては勝手に判断して記述していることがあるので困ったこともありました。例えば、一つの歴史的な絵についての解説が人によっていろいろであったり、どれが本当なのかは実際にその絵のある美術館に行って確かめなければならないこともありました。

しかし、制度的にはイタリアの医薬分業の歴史を見れば医薬分業発足の経過は明瞭であり、職業制度の確立が大きく関与しているのです。その中の「イタリアの薬学史」にその経緯が記述されています。

この部分は、この三月に薬事日報社から「薬学史事典」という膨大な本の中の「外国の薬学史」の一部となって居ます。(2016 March)

いずれにしても、医薬分業の歴史をただしく、詳細に知るためにはイタリア語の文献を調べなくてはならないのですが、薬学関係者でイタリアの大学を卒業して、イタリアの文献を調査できる人は皆無なのです。幸いに、私はロ-マ大学薬学部を卒業しているので、イタリア語の古い文献をいろいろと調査することが出来たのです。脱線しますが、厚生省関係者の中でも海外に調査ね研究目的で出かける人は居るのですが、イタリアとかフランスに行く人は殆ど皆無なのです。私が在籍していた国立衛生試験所から海外に出かける人は殆どはアメリカか英国で、例外的に私の位置ねん先輩で逢った太幡利勝さんはフランスに行き、帰国後にフランス薬害会を設定していました。

 

イタリア薬学史 (これは原稿であるので、添付の写真はコピ-出来ていません。)

 

      ファルマコビジランス・コンサルタント
      薬学博士(ローマ大学)   鈴木伸二
(注: 本稿ではすべてイタリア語資料を参照しているので、日本語表記の場合にはすべてがイタリア語読みにしてある。したがって、中には誤解を招くようなカタカナ表記がある。例えばFrederico IIはフレデリコ二世と表記されているが、これはフリドリッヒ二世のことである。そのほか、Firenzeはフィレンツェとなり、フローレンスとは表記されていない。なお、ラテン語表記はイタリック体で記してある。)

 

1. 『くすりの歴史』
イタリア文化はアラビア、ギリシャの影響がかなり強く、ローマ帝国の時代にもその影響は著しいものであった。その当時、ネロ皇帝の医師を務めていたギリシャ人・ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides, 40?‐90?)が、77年頃に書いたと言われている「マテリア・メディカ」(De Materia Medica )全5巻には約600種の薬草、80種の動物性薬物、50種の鉱物性薬物、など1000種類以上の治療薬が記載されている。本書はその後のイタリア医学、薬学の発展に大きな影響をもたらしたとされている。

 

   
(写真  ディオスコリデス著「マテリア・メディカ」原著はラテン語/ it.wikipedia.org/wiki/Materia_medica)

 

2.『薬局の歴史』
古代ローマ時代には薬を扱う場所としての名称として「クスリの貯蔵所」(Tabernae medicinae)の存在が知られている。これは単に薬を保存する場所ではなく分け与えたりもしていたことになる。

 

一般的に、イタリアの薬局の起源はもともと修道院の僧侶たちがいろいろな薬草を栽培していたことから出発しているので、現存の古い薬局の起源をたどるとすべてが僧院にたどり着くといっても過言ではない。その当時は薬局という概念ではなく、いろいろな薬草類の保存所といった規模の存在であり、必要に応じてそこから薬草類を取り出して医療目的で使用されていたにすぎない。いずれにしても、ある意味では薬局の出発点は修道院にあると認識することは可能である。

 

その後、十一世紀に入ると、最もその由来が古く、記録に残っており、かつ現存する薬局体系を整えているひとつにトスカーナにあるカマルドリ僧院(Monastero di Camaldolii)内にある薬局が挙げられる。この僧院は1024年から1025年にかけて設立され、1046年にはこの僧院内に医院が開設され、その当時からいろいろな薬草などを原料とした薬が使用され、十五世紀からそれらの作成法、使用法などの記録が蓄積され、1543年にその僧院内の一部が薬局として改装され現在に至っている。なお、この僧院内の医院は1810年にナポレオンにより廃止されている。もっとも、これら由緒ある薬局も開設当時は薬局という概念よりはクスリの貯蔵・管理場所といった概念のものであった。   

(写真  現在のカマルドリ薬局内部/ www.monasterodicamaldoli.it/index.php?option=com...id..)

 

(注:したがって、現存するイタリアでの一番古い薬局としては1543に開設されたカマルドリ僧院薬局が相当する。そのほかにもフィレンツェには1561年に開設されたと言われているアヌンツィアータ薬局(Farmacia Annunziata)があり、それ以降にも同じ市内にはサンタ・マリア僧院(basilica di Santa Maria delle Vigne )内に1612年に開設された薬局がある。)

 

2.1 『薬局の独立』
今日の概念で理解している薬局は中世期前後のイタリアから出発している。当時は医者とか薬屋とかの職業行為の厳密な名称や区別はなく、病人を観て医者が治療を施し、場合によっては当時の薬草類を使って医者が患者を治療したり、或いは戦で傷ついた兵士への簡単な手術をしていた外科屋、その一方では薬屋はいろいろな薬草などから治療薬を調整し、さらには必要に応じて歯の治療をしたり、浣腸を実施する行為などが入り混じっていたとされている。したがって、当時のこれらの人たちはむしろ医者、薬屋、外傷手当屋(外科屋)のような表現が現実的であるかもしれない。
(注:なお、古代ローマの時代から浣腸という行為は使われていた。)
 
(写真 薬屋の風景/ベネツイア科学学会美術館)  

 

ちなみに、当時の浣腸器はパビアのガティナリア(Gatinaria)により1840年に考案されたと言われているが(Joseph-Francois Malgaigne: Œuvres Complétes d’Ambroise Paré)、定説ではなく、研究者によってはアビチェンナ(Avicenna: 980-1036)とも言われている。(Adrien Phillippe: Histoire des Apothiecaire/1853) しかし、ガティナリアの場合には1840年とされているので、年代的考察をするとそれ以前のアビチェンナのほうが妥当性が極めて高い。

 

(注:当時の薬屋は浣腸を実施する役割をも持っていたので、薬局を意味するシンボルとしてある時期には浣腸器の絵が用いられていたこともあった。この浣腸器は後の注射器の原型となったと言われている。)

(写真 浣腸器を持っている薬屋/www.culturaevita.unimore.it/site/home/corsi/2012-2013/documento21024182.html)

 

そもそも薬剤(farmaco)という名はギリシャ語のpharmakonに由来し、薬、毒を意味しており、古くはエジプトのコクト語のpahre,fahriに由来し、その意味は治療、薬(rimedio)を意味している。その後、中世期前後になるとイタリアでもいろいろな薬草、薬根などが治療薬として盛んに用いられるようになり、したがってその当時の薬屋は薬草屋(Speziale)、或いは薬根屋(Rizotomo)とも呼ばれるようになった。
(注: 現在でもイタリアの地方町村での高齢者のなかには薬局のことを未だに Spezialeと表現していることからもイタリアでは現在の薬局Farmaciaという名称使用の歴史はそれほど長いわけではない。ちょうど日本でも昭和の初期頃までは、薬局が生薬屋(キグスリ屋)と呼ばれていた状況に類似している。)

 

このように13世紀頃までの時代には医者、薬屋、外科屋、床屋といった職業的な役割は存在していたが、その区別は明確でなく、たとえば簡単な歯の手当てとか簡単な外科的手当なども床屋や薬屋が兼ねておこなったりしていた。つまりこの当時まではそれぞれの役割分担は便宜的なのであり、また特別な規則もなく、極言すれば少しの技量があれば誰でも出来るといった混沌とした状況下にあった。とくに戦争での傷の手当はそれまでの薬草などを使った医学的治療は役に立たず、外科的な手法が必要であったため外科屋の存在が大きかった。この傾向は戦争が頻繁になされ,外傷が日常茶判事的な存在であった古代ローマ時代には顕著であった。
 (注:現在の床屋Barbiereの表現は野蛮人Barbaraに由来し、ローマ帝国の衰退とともに北ヨーロッパからひげを伸ばし、髪の毛を伸ばしていた人たちがイタリアに来るようになり、その人達を野蛮人と呼び、そのような格好を改めさせる役割を担っていた人に対してBarbiereという表現が使われていた。なお、古代ローマ帝国時代には剃髪に従事していた人はTonsoreと呼ばれていた。その後になってこれらの人たちが北ヨーロッバから来た“野蛮人“の髪やひげなどを整えたりするようになったと理解できる。つまり、床屋Barbiereとい表現は少なくとも古代ローマ帝国の時代には使われていなかった。特に古代ギリシャやローマ帝国の上流階級の人たちは殆ど髭などを蓄えていなかった。もっとも、十五世紀頃から外科的手当てを専門にしていた職種が明確化、制度化され、さらにその目的のための外科医となるためには特別な教育を受けねばならず、それまでの外科屋の役割維持が困難になってきた。その結果、それまで外科的な行為をしていた人たちが床屋の分野に入り込んできたとされている。このような背景を理解すると、古代ギリシャからローマ帝国時代には当時の床屋が外科的行為をしていたのではなく、その逆に外科的行為者が中世期以降の資格の厳格化に伴い、徐々にそれらの外科屋が床屋に移行したものと理解すべきである。つまり、日本での通説とし信じられている床屋が外科的業務をもしていたのではなく、その逆で現在の床屋という職種、少なくともBarbiere,Barberという表現が使われるようになった当時の職種の中に外科屋が入り込んできたものと理解すべきである。したがって、日本で通説となっている「当時のヨーロッパでは理容師が外科医を兼ねていて床屋外科と称されていた」は正しくなく、その逆である。)

 

しかし、時代とともに行政の各分野での法的規制、立法社会への認識が高まり、いろいろな分野での法律作成の動きが高まり、たとえば、「アルレスの法律」は下記の「医薬品に関する法令」よりも40年ほど前に制定されていた。この「アルレスの法律」は1162年から 1202年にかけて施行されたと言われている。
(注:この法律も1162年から1202年の間にとか、或いは1162年に作成されたとか、1202年に作成されとも記録されている。)

 

「アルレスの法律」では医者がシロップ製剤(facere syropum)などをつくることが禁止され、薬屋に限定されている。
(注: アルレスは地域的には現在のフランス南東部にある都市アルルのイタリア語読みではあるが、当時のフェデリコ二世の治政領域内にあり、イタリアの薬学史の範疇にいれることができる。この法律により当時の医者と薬屋との職域が明確化されていたことになる。したがって、現在の医薬分業発祥という観点から理解すれば概念的にはこの法律が後述のフェデリコ二世の“医薬品に関する法令“よりも約20年ほど先行していることになる。)   (http://www.farmacista33.it/radici-della-professione-nel-nasce-farmacista/)

 

(写真 メルフィ勅令Costituzioni di Melfi/www.stupormundi.it/liber_augustalis.html)

 

いっぽう、ほぼその時代にシシリア地方でも、薬草屋、薬根屋という職業の拡大と独立性への認識も高まり、さらには医者の法律的確立、明確化という観点からそれらの職種の役割をも明確にする必要性が認識され、1231年にシシリア国王フェデリコ二世(Federico II)により「フェデリコの勅令」(Ordinanza di Federico)が設定された。
(注: フェデリコの勅令(Ordinanza di Federico II)はメルフィで公布されたのでメルフィ勅令(Costituzioni di Melfi)とも称されている。また、皇帝による書簡という意味で 『皇帝の書(リベル・アウグスタリス Liber Augustalis)』とも呼ばれている。なお、日本の文献ではこの勅令は“シシリア王国法典“とも訳されている。)

 

この勅令は255条から成り立ち、メルフィの会議で、フェデリコ二世はかつてのローマ皇帝たちが施行した法令を参考にして、ピエル・デレ・ビイニェ(Pier delle Vigne)の協力により編纂されたもので、その内容はかなりの広範囲にわたっている。その中で医療に関連する項目では貧民を対象とした無料の診察とか薬価の制定が挙げられる。

 

このフェデリコ二世の勅令では、各分野での規範書(corpus normativo)が設定されており、例えば医師はサレルノ医学校を卒業した者に許され、また偽せ薬とか危険薬の取り扱いをも規定されている。つまり、この勅令によって医師の資格が明確、厳格にされるようになっている。

 

その後、時代の変化に応じ、前述のような医者とか薬屋とかの職業をより明確にする必要が認識され、1240頃に“医薬品に関する法令“(Ordinanza medicinale di Federico II/ Constitutiones medicinales)が施行されるようになった。
(注:この法令の施行時期も明確ではなく、1231年、或いは1240年、場合によっては1231年から 1240年の間、とも記載されているが、多くの文献では1940年が用いられている。なお、この法律の別名称もあり、“医薬品憲章“Constitutiones medicinales“とも表記されている。)

 

この法令は他の法令と同様にラテン語で書かれてあり、その45条(Ut nullus audeat praticare nisi in conventu publice magistrorum Salerni sit comprobatus)では医者になるための資格、条件が規定されている。
また、法令の46条(De medicis)には医者は薬屋と混同すべきではなく、薬屋が医者の処方に基づいて薬剤を処方することと規定されている。もしこの勅令に従わなければ厳罰に処せられ、最悪の場合は死刑に処されるとされていた。
いっぽう、その47条(De fidelium numero super lactuariis et sirupis stratuendo)は、45条とは異なり、薬屋そのものの職業の規定ではなく、薬を調合する行為そのものに重点が置かれ、作られた飲み薬とかシロップ薬などはサレルノの自然科学の権威者(Salernimaxime per magistros in phisica)による品質管理が規定されている。この47条には薬屋はsconfectionarius (調剤師)あるいはvendantur(販売者)とも表記され、また薬局はapothecisと表記されている。このように、この法令の中では医師はmedicisと表記されているが、一方の薬剤師はfarmacistaとの表記はこの法令の中ではいまだ使われていなかった。
このように薬屋(speziale)の役割、製造方法などが明確化されていて、薬屋が薬の製造、調合に係り、その品質保証の必要性など実務の詳細が規定されている。

 

「46条の要約」医師(De medicis)
a) 医師になるための勉強をするためにはその前にすくなくとも三年間の倫理学(scientia loycali)を勉強してからでなくてはならない。
 b) 三年間の予備教育を受けたのちに医師の勉強をするためには五年間の勉強を必要とする。
 c) 上記の五年間の間には外科の勉強も必要である。
 d) その後に、該当機関の権威者による試験に合格しなければならない。
 e) 新しく医師の認可を得た医師(mdicus)は薬剤師(confectionarius)が持ち合わせていない医
  療行為の能力を貧者に対して無料で施さなければならない。
 f) 医師は病人を少なくとも一日に二回は訪問し、もし必要とあれば一晩に一回は訪問す
  ること。
 g) 医師は薬剤師と協調してはならず、報酬も一定額に限定され、病院のような施設を設け
  てはならない。
 h) 薬剤師は一定の料金でくすり製品を調整し、医師の証明がなされ、さらにこの法令に基
  づいた適正な料金を設定し、製品が正しいものであることを宣言しなくてはならない。
 i) 薬剤師はこの法令に準拠した製剤で収入を得ることが出来、調整された製剤は薬局内に
  一年以上保存してはならない。製剤の性格上、或いは何らかの理由で一年以上薬局に保
  存されている製剤の価格を変更することが出来る。
 j) 本法令の適用範囲はシチリア王国内の特定都市に適用される。
 k) 上記の五年間の医師の勉強をしてから一年を経過しても実務に付いていなければ医師の
  業務をすることは出来なくなる。
 l) 外科医(cyrurgicam)は権威当局の認可を得て、すくなくとも一年間の医学教育を受け、
  解剖学の知識並びに実務の研修を受けて居なければならない。

 

しかし、その当時はこのような法令による職業の明確化はシシリー島だけに限定されていたがそのような法令の影響はその後まもなくイタリア全土、北ヨーロッバに拡大されていった。

 

それとほぼ同じ時期にはベネツイアでも似たような法制化の動きが見られていた。即ち、ベネツィアの決議(Capitolari di Venezia)が1258年に公布され、この決議に基づいてイタリアで最初の薬局が開設されたとも理解されている。

 

したがって、このような時代の変化に伴い、薬剤師(Speziali)という業務内容、職業、表現はさらに進展し、最終的には中世期のほぼ同じころにそれぞれ異なった地域で施行された三種類の規範(decreti)によって確実なものとなったと理解することが出来る。

 

即ち、これら三種の規範とはアルレスの法律(Statuto di Arles: 1162-1202)、上記の医薬品に関する法令(Ordinanza medicinale di Federico II/ Constitutiones medicinales: 1240)、そしてベネツィアの決議(Capitolari di Venezia: 1258)を意味し、これらによりその後の薬剤師の職業としての役割が大成したものと理解することが出来る。
(注:イタリアの薬剤師の間ではこれら三種の法律により、職業としての薬剤師が確立され、この時期を以て医薬分業が実施されたとの理解が定説になっている。とくにイタリアの学会ではベネツィアの決議に基づいてイタリアで最初の薬局が1258年に制定されたとの解釈がなされている。Renato Vecchiato: “Gli speziali a Venezia – Pagine di storia”)

 

たとえば、「ベネツィアの決議」は「ベネッィアにおける職業の決議」(Capitolari delle Arti Veneziane)とも称され、 医師と薬剤師との職業分担を明瞭にしており、市民保護の役割としての認識を念頭に置いている。この決議の中で明確にされていることを要約すると以下の様になる。
  a) 毒劇薬の販売の禁止 
  b) 薬剤師は医師の処方に対して自らの経験を踏まえて助言すすること
  c) 宣伝の目的で第三者を利用してはならない 
  d) 偽せ薬とか欠陥医薬品は直ちに行政当局に報告すること 
  e) 患者に対して医薬品の適正な値段を提示し、この決議に異議を唱えることがあれば直
ちに通告すること
  f) 薬剤師の品格は、医師と比較して、人間的にも、また技術者としても比較されるべき
であること 
 
(写真 1258年当時のヘネチァの薬屋/ “Gli Speziali a Venezia“)

 

 一般的には上記の“医薬品に関する法令“(Ordinanza medicinale di Federico II)が医薬分業という概念を基本的に規定しているものと理解されているが、この法令の目的は医師の職業を明確に定義し、その職域をも規定し、薬剤師というよりは実際に作成される薬の取り扱いを明確にしていることになる。したがって、厳密な解釈をすれば医薬分業というよりは「医師・薬剤師業務の明文化」と捉えることが出来る。
また、同じような時期にいろいろな法令が施行され、その結果、現在の概念での医薬分業が確立したものと理解すべきである。つまり、一つの法律で医薬分業が法制化、完備されたと理解するよりはほぼ同じ時期に異なった地域で施行された前記の三種の法令により中世期のイタリア、フランス、ドイツなどでの医薬分業が確立したことになる。
(注: 日本の医薬分業に関した解説書に「フレデリコ二世の五ヶ条の法令」との説明があるが、このような「五ヶ条の法令」の存在はなく、上述の法令が五項目に要約されたものであ。)

 

その後になって、さらに1260年に制定されたパドバ(Padova)の決議内容はかなり厳格であり、たとえば、薬剤師になるには,熱心なカトリック信者であること、良い家庭の出身であること、すくなくとも三年間の徒弟研修を受けていること、父親の許可を得ていること、25才以下であること、ギルドに加盟していること、年間の税金を納めていること、などとその資格が厳しく限定されている。(R.Cotti: Farmaci salute e società 2007: anno 5, no.5)
(注: 日本では医薬分業の起源は医師による毒殺を防ぐためにその使用を禁じる意味で薬剤師が毒薬などの薬剤を管理するようになった、と解説されているがこれは曲解である。フレデリコ二世は法治国家としての立場から医師や薬剤師の役割に言及していただけである。このような曲解の背景には、薬剤(farmaco)という名のギリシャ語pharmakonには、薬、毒を盛る、のような意味があることから毒殺と結びつけていたものと考えられる。)

 

このように十三世紀頃までは薬屋の表記はSpezialeと表記されており、現在のような薬剤師(Farmacista)という表現は十八世紀初期頃からSpezialeという表現が徐々に Farmacistaに置き換えられるようになり、かなりの長い期間はSpezialeという表現が使われており、どの時点からFarmacista (英語:Pharmacist)が使われ始めたかとの文献上の明確な推定は困難である。ただ、興味あることには上述のフェデリコ二世の法令の中でくすりを扱う場所、つまり薬局をApothecisとラテン語表記され、これはドイツ語の薬局Apothekeの起源になっていることである。

 

2.1 『ヴァチカンの薬局』
 ヴァチカン内にある薬局は、1874年にアントネリ枢機卿(Antonelli)の要請に基づいてローマのサン・ジョバンニ病院の薬局長であったフロンメン(Eusebio Ludvig Fronmen)により開設され、現在に至っている。

 

3. 『薬局方(Farmacopea Ufficiale)』
往時には処方集のような形でいろいろな記録、文書に保存されていた解毒剤、処方薬、一覧表、伝統薬、薬屋の秘薬などを異なった製薬所で特別に貯蔵されていたものを、総括的に正しく製造する目的で纏める必要性が認識されていた。したがって、そのような成書は現在の薬局方の原点であると理解することも可能である。

 

従ってどの時点から現在の概念の薬局方が出来上がったかを定義、明記するのは難しい。例えば、すでに681年にはミラノの司教、ヘネデェット・クリスプス(Benedetto Crispus)が当時使われていたキズク、没薬、ヒヨスなどの製造解説書(Commentarium Medicinale)を編集していた。その後になって、例えば前述のカマルドリ僧院内には設立当時からいろいろな薬草などを原料とした薬が使用され、十五世紀頃からそれらの作成法、使用法などの記録が蓄積されていた。このように理解すると、薬局方という原点としての内容の成書はかなり古い時代にすでに存在していて、例えば、イタリアで中世期になってサラディノ・フエロ(Saladino Ferro)によって1488年に出版された薬草事典(Compendium Aromatarium)は当時の疾患、流行病の治療などに用いられた薬草類の使用法などを解説したものであり、ある意味では薬局方の原型とも見なすことが出来る。もっとも、イタリア各地に散逸していたいろいろな製造法、処方集のようなものを全国的に纏めた時点で「薬局方」の概念の誕生とすることは可能かもしれない。

 

このような時代変化に伴い、それまでは個々に編集されていた都市単位の処方集として統括されていたが、政治形態の変遷に伴い一つの国単位での処方集の概念がうまれ、十三世紀にシシリア国王フェデリコ二世の後援、保護のものと処方集、薬局方のような形ですでに編集が始められていたとされている。したがって、当時はそれぞれの処方集には独特の名称が使われており、例えば、Dispensari(処方集), Ricettari(処方書), Formulari(処方書), Teatri(製造書), Lumi(教示書), Tesori(宝庫書).のような名の下で編集されていた。

 

その後中世期に入ってからは主要都市(例えば、マントバ、ベルガモ、ボロニア、トリノ、パルマ、ピアチェンツア、ベネツイア、フィレンツェ、サレルノ)ごとに処方集のような形で編集、利用されていたことが記録に残っている。当時のイタリア主要都市は都市国家的な機能を有していたので、それぞれの都市で独立して処方集のようなものが作成されていた。たとえば、1480年にフィレンツェでフィレンツェの優れた医師たち( Collegio degli Esimi Dottori fiorentini)により「処方集」(Ricettario Fiorentino)の名の下で編集、作成されていたが、薬局方(Pharmacopaea)の名称はいまだ使われていなかった。そのほかにもマントバでは1559年に処方集が作成されていた。
 
(写真  フイレンツ処方集/ www.poligrappa.com/.../ricettario-fiorentino-il-famoso.)

 

このような時代変化に伴い、それまでは個々に編集されていた都市単位の処方集として統括されていたが、政治形態の変遷に伴い一つの国単位での処方集の概念がうまれ、十三世紀にシシリア国王フェデリコ二世の後援、保護のものと処方集、薬局方のような形ですでに編集が始められていたとされている。したがって、当時はそれぞれの処方集には独特の名称が使われており、例えば、Dispensari(処方集), Ricettari(処方書), Formulari(処方書), Teatri(製造書), Lumi(教示書), Tesori(宝庫書).のような名の下で編集されていた。

 

そのような状況下で、ベネチアでは1617年に医師クルツィオ・マリネロ(Curzio Marinello)によって初めて「薬局方」という名称で出版されていたが、その後かなりの誤りがあることによりこの薬局方は回収されていた。したがって、少なくともイタリアで薬局方(Pharmacopaea)の名の下で出版されていたことから、イタリアで最初の薬局方というタイトルで出版されたとみなすことは出来る。

(写真  イタリア最初の「薬局方」の表題の出版物/ “Glie Speziali a Venezia” 」
したがって、薬局方(Farmacopea)という名称が使われていた例としてはこの1617年にベネツィアの医師による薬局方が最初のものと理解される。当時はイタリアがいまだ全国的に統一されていなかったので、それぞれの主要都市単位での薬局方であった。
(注: ちなみに、薬局方Farmacopeaの名称の語尾poeaはギリシャ語の poiia、「作る」という意味がある。つまり、いろいろな薬を正しく創る目的に作られていたのが現在の概念の薬局方である。最初のFarmaはギリシャ語のpharmakéiaに由来し、薬、毒を盛る、の意味がある。)

 

その後、イタリア全国の薬局方とし1802年になって「イタリア共和国、薬剤師と医師のための薬局方」(La FARMACOPEA AD USO DEGLI SPEZIALI E MEDICI MODERNI DELLA REPUBBLICA ITALIANA)としてナポリで発行されている。もっと、これはナポレオンによるイタリア共和国の薬局方とも理解されている。

(写真 ナポリで発行された薬局方/ www.storiadellafarmacia.it/archives/402 )

 

しかし、現在のような全国的な薬局方が正式のものとして施行されたのは「イタリア王国のイタリア薬局方」として1892年5月3日に第一版が発行され、現在はその12版が施行されている。
(注: イタリアが全国的に統一され、イタリア王国となったのが1861年、そしてイタリア共和国となったのは1945年)

 

 このようにどの時点から薬局方が出来上がったのかとの判断には次のような異なった視点から考察することが出来る。 
  i) 処方集のような形で記録されている。
  ii) 少なくとも都市単位の薬局方という名称のものが編集されている。
  iii) イタリアが統一され全国的な範囲で薬局方が発行されている。
このように理解すると、イタリアでは少なくとも薬局方という名称で発行されたのは前述のベネチアで1417年の幻の薬局方が最古のものとなる。
  (注:従来の日本の文献では1498年に発行されたフィレンツェの処方集が世界でもっも古い薬局方と理解されているが、これには薬局方という名称はなく、「処方集」であり、もし処方集を以て薬局方の概念で解釈するならば、世界でもっとも古い薬局方は前述の 681年にミラノの司教、ヘネデェット・クリスプスが編集した「製造解説書」が相当することになる。)

 

4. 『薬剤師の現況』
  最近の統計によるとイタリア国内の薬剤師数は総数が79 000人、そのうち女性は 66%、そして薬局勤務の薬剤師数は 62354人となっており、欧州の中では最多の国となっている。なお、薬剤師会に登録し、薬剤師としての職能を発揮できる人は72779人となっている。つまり、薬剤師会に登録しても薬局、病院で働いていない人も居ることになるが全体的には極めて少ない。なお、過去二十年の間に薬剤師の数は二倍になっている。もっとも2012年のデータでは登録薬剤師数は81856人、そのうち女性は54024人となっており、女性が七割近くを占めている。
5 『現在の薬局事情』
  最近の統計 (2013年三月現在)ではイタリア国内の薬局数は18 039であり、基本的には人口12 500以上の町村では4000人当たり一薬局、それ以下の人口の町村では5000人当たり一薬局の開設が基準となっている。総体的に一薬局あたりの人口数は3442人となっている。

 

6. 『薬学教育の歴史』  
大学の薬学部は最初から薬学部という学部(Facolta)から出発していたわけではなく、最初は薬学課程(Scuola Farmacia)として教育がなされていた。たとえば、パドバア大学(Università degli studi di Padova)では薬学部となったのは1935年である。このパドバア大学は1222年に設立され、この大学には1592年から1610年にかけてガリレオ(Galileo Galilei)が教職についていて、この大学の科学的レベルの向上に貢献したとされている。もっとも、この大学でいつの時代から薬学教育がなされていたかは不明である。

 

そのほかにも、1224年に設立されたナポリ大学は世界最古の国立大学の一つであり、現在はフリードリヒ2世の名前を冠して「Universita degli Studi di Napoli Federico II」と呼ばれている。ナポリ大学は数世紀にわたって南イタリアの学術の中心地として機能していた。そのほかにもイタリアでもっとも古い大学のひとつであるポロニア大学が挙げられる。

 

現在、イタリアでの薬学教育に関与している大学数は34校であり、その中でいわゆる薬学部の名の下にある大学は28校でありその他の6校は薬化学部、薬学・サイエンス学部のような名称になっているが、いずれも薬剤師になる資格を得るための学部となっている。いずれにしても、薬剤師の資格を得るためには大学勉強中に六か月間の薬局ないしは病院での研修が義務付けられている。
  (注:なお、イタリアには日本のような薬学専門の単科大学は存在しない。)

 

大学で薬学の学位(Laurea di Farmacia)を得てから国家試験に合格すると薬剤師会(Ordine dei Farmacisti)に登録することにより薬剤師(Farmacista)となり、薬局を開設したり、病院で働くことが可能となる。

 

なお、薬剤師の資格を得てからもさらに専門課程として病院薬剤師の課程が1977年にナポリ大学に設置され、そのほかにも薬剤師取得以降の専門課程(Masterの称号)として化粧品科学(二年過程)、病院薬局長(一年過程)、前臨床並びに市販後調査過程(一年過程)、マケッティング・マネジャー過程(一年過程)、などが一部の大学に設置されている。
(注: イタリアの大学を卒業するとし、薬学博士Dottore in Farmaciaという学位を得るが、その後に上記に挙げたようないろいろな分野での研修によりMasterの称号をえることが出来る。イタリアではMasterという表現は称号であって学位ではない。)

 

「参考文献」
 1) Carlo Pedrassini: La Farmacia Italiana nella Storia e nell’Arte (Editrice IGAP. S.p.A., 1934)
2) Leonardo Colapinto/Giacomo Leopardi: L’Arte degli Speziali Italiani (Editore: L'Ariete, 1991)  
 3) Federigo Kernot: Storia Della Farmacia E Dei Farmacisti (Napoli 1872/reproduced)
4) Renato Vecchiato: Gli Speziali a Venezia, Pagine di Storia (Mazzanti Libri, 2013)
5) Luigi Boriani: Introduzione alla Storia della Farmacia in Italia (Bolognia 1897/reproduced)
6) GianCarlo Signore: Storia della Farmacia, Dalle origini al XXI secolo (LSWR S.r.l., 2013)
7) Aldo Gaudiano: Storia della Chimica e della Farmacia in Italia dalle piu Lontane Origini ai Primi
Anni del Duemila (ARACNE editrice S.r.l., 2008)
8) Collana Schiapparelli: Per una storia della farmacia e del famacista in Italia/Venezia e Veneto
(Edizioni SKEMA, 1981)
9) Collana Schiapparelli: Per una storia della farmacia e del famacista in Italia/Sicila (Edizioni
SKEMA, 1975)
10) www.storiadellafarmacia.it/

 

 

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