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2015年6月の記事

2015年6月27日 (土)

犬食文化を考える

最近の話題に中国での犬食祭りが大きな新聞種になっています。
このことに関連して過去にも韓国での犬食問題が世界から攻撃の的になっていました。

 

でも、このような食文化摩擦は歴史的相互理解が必要だと思うのです。このような観点から私が以前に書いた韓国の犬食文化にかんする記述を以下に抜粋しました。(拙著、「誰も知らなかった常識の背景」より)

 

 2002年のスポ-ツの世界では韓国の犬肉料理が話題となり、いろいろと物議をかもし出
していました。韓国に厳然として存在する犬肉料理の習慣が欧米人にとっては野蛮な行為
とみられていたからです。これなどはまさに韓国の常識が海外では野蛮にうつるのです。六月に韓国と日本で行われたサッカ-02年ワ-ルドカップ大会開催にさいして国際サッカ-連盟から韓国に対して大会開催中はレストランでの犬肉料理は遠慮するようにとの要望に対して、韓国が猛反対をし拒絶したこと、また二月に行われたソルトレ-クでの冬季オリンピック大会で韓国の金東聖選手が失格となり金メダルが取り上げられ、このことについてアメリカのテレビ番組で司会者が「金選手は怒っているので犬を蹴り倒し、その犬を食べているかもしれない」と発言したことに対して韓国メディアが犬肉を食べる文化を蔑視した人種差別だと憤っていたことが新聞報道されていました。また同じ時期に世界的に動物愛護家と称しているブルジットバルド-も犬の肉が柔らかくなるように撲殺しているのは動物虐待である、と息巻いていました。

 

 つまり、この場合は韓国ではごく当たり前の食文化が欧米人からみると野蛮な行為とうつ
るようです。たしかに、そのような習慣がない日本人の場合でも、まず犬は可愛い動物と
いうイメ-ジが先行してその肉を食べるという習慣がありませんので、日本人でも犬肉が
韓国でレストランのメニュ-のなかにあるということを聞くと顔をしかめる人も居るはず
です。ましたや外国人から日本でも犬の肉を食べるんですか、と日本と韓国とを混同して
聞かれると、いゃとんでもない、とむきになって反論するに違いありません。でもその根底
にはやはり日本人の気持ちの中には犬の肉を食べるなんて、との軽い軽蔑が意識されてい
るのです。

 

 このような論争、非難に共通していることは他国の食文化への理解の欠如があります。
冷静に考えれば他国の食文化を自分の国を中心に考えることがおかしいのです。そこには
相手の食習慣への理解がゼロであるところに問題があります。今ではヨ-ロッパや米国で
刺し身や寿司を食べることは普通であり、日本食ブ-ムの一端をになっています。ヨ-ロッ
パの都市に回転寿司屋があるのはもう目新しいことではなくなっています。なにしろ、そ
のような日本食レストランの客の半数以上は日本人ではないのです。もう、そのような店
では日本人はマイノリティ-に属するのです。

 

しかし、二十年ほど前までは日本人が魚を
生で食べることを聞いたヨ-ロッパ人は目をまるくしてなんと野蛮な人間なのだろうと日
本人を軽蔑したものでした。おそらく鱒とか鮭などを生きたまま頭から魚を口に頬張る光
景を想像していたのかもしれません。事実そのようなポスタ-が作られていました。
そのような時に「いゃ、あんたがただってタタ-ルといった生の牛肉を食べる習慣があるでしょう」と反論すると、相手はなかば納得したような素振りをみせたものでした。

 

 このような食肉文化の相違、嫌悪の根底にある共通点は、食べられる動物が可愛くて、
しかも可哀相だということです。たしかに、特定の動物の肉を食べる習慣がない人達にと
ってはまずこの可愛い、可哀相の考えが先行します。なんであんなにおとなしい鯨を日本
人は食べるのか、韓国人はどうして愛らしい犬を食べてしまうのか、どうしてフランス人
はあのひょうきんな蛙を食べてしまうのか(現在、スイスでは蛙を食べることは禁止され
、スイスにあるフランス・レストランでは蛙の肉は食べられません)、なぜフランス人は
あのおとなしくて愛らしい馬を食べてしまうのだろか(チャ-リ-・ブラウンさんの話で
は昔の英国人はフランスには行ってはならないと子供に言い聞かせていたとか。なぜなら
フランス人は可愛くて、乗ることもできる馬を食べてしまうから。)などなど、自分が理
解できない他国の食文化を忌み嫌うことは世界中に昔から存在していたのです。

 

こうなると日本では馬刺しといって馬肉を刺し身として生で食べることが判ったら欧米人はとたん
にびっくり仰天し、軽蔑の目で日本人をみることになります。まあ、このことはあまり海
外には伝えないことです。

 

 このような単純発想でいけばインド人にとっては牛肉を食べる国民は野蛮に見えるはず
ですが、この場合は逆になぜインド人は牛肉を食べないで我慢しているのか、理解できな
いとヨ-ロッパ人は考えているかもしれません。ですから、インドに牛肉などを輸出する
ことは相手を侮辱するようなものなのです。もっともこのような宗教的な理由から特別な
動物の肉を食べないことはよく知られていますので、一般の人は何らの特別感情は持たな
いようです。このような考えを皮肉的に発展させれば、韓国の人達も何らかの宗教と犬肉
食習慣と結び付ける必要があるかもしれません。

 

 しかし、食肉文化の歴史をちょっと知ればかってはそのよな忌み嫌っていた食肉文化を
受け入れていたこと、或いはその逆に受け入れていなかったこともあることがわかります
。日本でも昔は四つ足の動物を食べることは宗教的な影響から忌み嫌われていたのが、鎖
国が解けて牛肉を食べる慣習が海外から日本に持ち込まれると、それを食べやすいように
とすき焼きが考案されました。鯨を捕ることだって昔はアメリカ人は太平洋の鯨を蝋燭の
原料源として捕り尽くしていた歴史があるのです。鯨の脂肪部分だけをとって、あとは海
に捨てていたのです。もっも、この場合は食とは関係なかったのですが、自分たちの過去
の仕業を忘れて、ただ感傷的に可哀相というだけで現在でも鯨肉を食べる習慣がある日本
が目の敵にされているのが現実なのです。もっとも、鯨の場合には種の保存という別な視点があるのですが、日本は調査捕鯨と称しながら海外に向けて科学的な説明を全くしていないのです。

 

 この犬肉料理に関して最近スイスの新聞にスイスでもいまだに犬を食べていますよとの衝
撃的(?)な記事がありました。もっとも、そのような現実を我々が知らないだけなのか
もしれません。この記事によりますと、現在でもスイスのラインタ-ル、アッペンツェラ
-地域の農家では犬を食べる人達がいるそうです。昔は犬や猫の肉も食べる習慣がスイス
やドイツなどの一部の地域ではありましたが、1993年にスイスで犬や猫の肉を食べること
の善し悪しが議論され、それ以降犬や猫の肉を販売目的で流通することはスイスでは禁じ
られるようになりましたが、個人的に消費することは現在でも黙認されているのがスイス
の現状なのです。ですから、現在でもスイスでは犬の肉を個人が食べても違反にはならず
、地域によっては犬肉がデリカテッセンとして家族の食卓に供されているのです。ただ、
ここで韓国と異なるのは、犬肉料理を食べさせるレストランなどは存在せず、一部の地域
の農家などでそのような光景が今でも存在するだけなのです。この点はたしかに大きな相違
かもしれません。でも、犬の肉を食べるという行為そのものには変わりがありません。な
んでも犬の肉と牛肉とは専門家でも区別が付かず、きわめておいしいとのことです。

 

 歴史的にみるとドイツでも1903年当時、ミュンヘンには17軒の犬肉店があったことが記
録に残っているとのことです。ドイツではその後法律が変わって1986年以降、猿、犬、猫
の肉を食することが全面的に禁止になっています。ということはつい最近までそのような
肉を食べていた人達がいたことを間接的に証明していることになります。もっとも、日本
でも江戸時代には犬を食べることは稀ではなかったようです。

 

 このような歴史的経緯を知ると韓国の犬肉料理もあえて感傷論的判断、コメントをすれ
ば、犬肉料理は多少時代遅れ的な感じがするかもしれませんが、それほど問題にするべき
ことではないことがわかります。韓国のマスコミもこのような事実を報道する意義があるか
もしれません。

 

なにしろ犬はスイスやドイツでは昔は「歩く薬局」と呼ばれ、犬の肉はい
ろいろな病気に効くとされていたそうです。そうなると蛇が薬用としていろいろと今でも
中国、韓国、日本などで利用されているのとそれほど変わりないことになります。昔は日
本でも馬肉は子供の寝小便に効果があるとか、馬油はヤケドに効くとかいわれ利用されて
いたのです。こうなると洋の東西を問わず、人間誰もが考えることは同じで、似たような
ことがなされていたのが、時代とともに一部ではそのような慣習が廃れてしまっていると
理解するのが正しいようです。

 

 いずれにしても、このような事情は国際サッカ-連盟会長のジョセフ・ブラッタ-氏は
ご存じなかったのでしょう。それにしても、食べ物の恨みは怖い、いや、恐ろしいです。
しかし、このような食肉文化の歴史的経緯を知ると、犬の肉を食べることがなにもそれほ
ど野蛮な食文化ではないことが判ります。肉食という習慣が今後も続く限り、いままで食
べなかった(或いは、食べることなどと考えもしなかったような)肉が我々の食卓に供さ
れるようになりつつあるのです。たしえば、カンガ-ルの肉、ダチョウの肉、カバの肉など
が徐々に我々の胃袋に入りつつあるのです。このような肉をただ単に「可哀相に」といっ
た感傷的な判断で食べるか食べないかは個人の判断に任せても、それを他人が非難するこ
とはできないと思うのです。

 

このような感傷的な行動が極端に発揮されるとブルジット・
バルド-のような動物愛護過激家となるのです。しかし、いくら極端な動物愛護運動家が
肉は一切食べませんと宣言していても、動物の革の靴は平気で履いているのです。

 

追記(2022 Sept,)

この内容の記事はもうかなり昔に書いたもので、現在ではあまり意味がないかもしれません。しかし、最近になった欧州、とくにスイス、ドイツでは食肉生産に関連して、それらの肉を生産するために牛とか、ブタが飼育されている環境が極めて最悪なので、動物保護という観点から、そのような施設の実態が議論され、もっと環境の良い飼育設備を、との議論がなされ、社会問題化しています。

でも、この問題の根底にあるのはそれらの動物を食べることに関しては全く触れておらず、その一歩手前の飼育環境にのみ関心があるのです。でも、もし動物愛護と言う考えから、そのような飼育環境が議論され、正当化されるのなら、そのような可愛い牛ゃ、豚を食べることは犬食反対の議論と同じことになるのではないのですが、だれも食肉という観点から、牛肉、や豚肉を食べるな、との議論は皆無なのです。

でも私の観点からすると、肉屋に行っていろいろな肉が綺麗に陳列されているのを見ると、心理的に、いつも可哀そうに、と思ってしまうのです。それは私が子供のころ、昭和の初めの時代、にはそのような肉を食べる機会は稀だったからです。

でも、不思議なことに現在の飼育環境改善を主張している人達にはそのような心理的抵抗感はないようです。

 

 

2015年6月25日 (木)

私の架空発明 (22) 以心伝心会話機

最近の新しい技術の進歩は目覚しいものがあり、いろいろな新しい機具、機械が考案されています。例えば、最近の報道によると盲人の人のために、あるチップを舌の上に載せるだけで前方にどのような障害物があるかを判断できるとのことでした。

このような日進月歩の世の中ですのでいろいろなアイデイを発信することも大切だと思うのです。

それで考えたのですが、以心伝心を特徴とする日本人男性用に頭で考えただけでそれが会話となって発言できる機械を発明することなのです。

日本の男性の多くは心に思っていることを話し言葉で表現することが出来ないのが特徴なのです。さらに悪いことには最近のSMSから始まって指先会話が氾濫し、将来には特に男性は会話が出来なくなるのではないかと推測できるのです。


この点に関して、女性は全く問題は無いのです。女性のおしゃべりはまさに世界共通でそのような補足機械の必要性は無いのです。

2015年6月20日 (土)

海外留学の成果

海外留学と言ってもその内容には千差万別があり、大きく分けて次のように区別することができるのではないだろうか。

 

 

1) 日本の大学を卒業してから実務に就き、その間に海外の大学、研究所などに短期間、数ヶ月から二三年、滞在する。 

 

 ⇒ このような場合には本人の経歴には、「終了」「修学」「留学」等が付けられているのが普通である。もっとも、なかには聴講生として登録しただけで「某大学終了」としている人もいる。とくに政治家とか大学講師などにはこの手の学歴記載者が散見される。

 

2) 日本の大学を卒業してから何らかの機会を利用して、海外の大学に留学し、その大学の卒業証書を手にする。  

 

 ⇒ このような例は極めて少なく、海外の大学に正規に入学し、その大学過程を勉強し、卒業証書を手にするので、まさしく「卒業」になる。なお、意外となされていないのは日本の大学と同じ学部を卒業する場合には国よってもその規則は異なるが、多くの大学では日本での履修科目をかなり認定してくれ、従って、たとえば目的とする同じ学部の大学三年に編入してもらえるので、その大学を一年か二年で正式に卒業できる。もっとも、他の関連学部への編入入学では学部内容によっても異なるが、認定される終了科目数は当然ながら少なくなる。

 

3) 日本の高校を卒業してから海外の大学に正式入学し、正式の過程を終了し、その大学の卒業証書を手にする。  

 

 ⇒ この種の留学は意外と少なく、高卒で海外の大学に留学するのはやや難しいかもしれない。

 

 

実は最近、ある雑誌に以下のような記事が載ったのですが、これは別に驚くべきことではなく、むしろその逆にそのような研修生の存在に驚くこと自体が私にとっては「驚き」なのです。

 

「徳田氏も驚いた! ハンガリー医学部卒研修医の実力」 http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_--_256018_--_215525_--_36

 

つまりこの記事を書いた徳田氏は自分の見解を堂々と発言できるような日本の大学卒の研修生、しかも女性、は殆ど存在しない環境に慣れているからであって、それが当たり前と理解しているので、たまたまそのような海外の大学卒の医師研修生に驚いているのでしょう。もつとも、彼女たちが英語で発言できることも大いに影響を与えているのかもしれません。それと、徳田氏が驚いた心理的背景には彼女らがハンガリ-というあまりなじみの無い大学を卒業していたこともあるのかもしれません。これがアメリカの大学を卒業してきた医師研修生ならおそらく驚かなかったかも知れません。 ちなみにハンガリーは外国の学生導入目的で授業はすべてが英語でなされている。つまり、海外留学でもいろいろと探すと意外な穴場があるものです。

 

しかし、むしろこのような成果のある海外大学卒業生の病院内での環境次第では「あの若造が・・・」「新参の研修生が・・・」と疎まれる可能性があることを私は懸念するのです。なにしろ自分の意見などを正々堂々と述べることは未だに場合によっては問題を起こす可能性のほうが日本では高いのです。日本の病院、特に大学病院なぞは意外と封建的であり、階級社会であり、したがって教授とか院長の見解にたいして異見、意見ではなく、を言え無いようような環境であることが未だに多いからです。

 

 

このような環境に関連して思い出せるのは超音波診断装置を世界ではじめて開発した和賀井敏夫氏のその開発の端緒となったエピソドがあります。(かなりな前のNHK番組「プロジェクトX 「創意は無限なり、超音波診断機エコ-」より)

 

彼が研修医として順天堂医科大学の外科に入局して経験したことが大きな出発点になっているのです。それは当時脳腫瘍で亡くなった子供をはじめて経験し、その後似た様な症状の子供の臨床経過を綿密に記録し、そこから得た結論はこの子供も重篤の脳腫瘍だから直ちに手術すべきであることを教授に申し出たところ一笑に付されたことなのです。つまり、大学出たばかりのなんらの経験の無い研修生が何を言っているのか、と言うことだったのですが、その後に手術して開頭したところ、手遅れ状態の脳腫瘍だったのです。しかし、その教授はこの研修生に対して「それは単なるまぐれあたり」だと軽くあしらわれ、これが契機となっていかにしたら脳の状態を外から知ることができないかと決心したとのことです。その結果としていろいろな人たちの協力を得て、最終的に現在使われているエコ-診断機の開発に成功しているのです。

 

 

このエビソドは海外留学とは関係が無いのですが、前記の若い医師研修生のような自分の意見を堂々と発言することに対して、もしかしたら未だにそのような新参研修生に対する医局内での風当たりが強くなるのではないかとの余計な心配を考えたからです。

 

 

いずれにしても海外留学することの成果はやはり何らかのプラスがあり、日本では経験できないような成果が必ずあるのです。とくに前記の留学の範疇の三番目に該当する海外留学は大きな成果があるのです。

 

 

海外留学というと日本人の多くは英語圏の大学しか考えないのですが、前記のように英語圏以外の国よっては海外留学生の受け入れに好意的な場合もあり、大使館などを通じていろいろな情報を得ることができるのです。なお、語学はあまり重要な問題ではなく、仮にその国の言葉での授業でも、入学前に二カ月か三カ月の語学研修で、大学での講義にはなんとかついていけるものなのです。従って、ドイツ語、フラン語、スペイン語圏、スエ-デン語などとその可能性は極めて広がるのです。

 

私は前記の留学範疇の二番目でイタリアのロ-マ大学に同じ学部入学(薬学部)で、日本での履修科目の多くが認定され、結果的には一年半で同大学を正規に卒業することが出来たのです。この場合も、入学前に三カ月の語学研修で授業についていけました。この範疇の留学は同じ学部なので授業科目の内容は日本とイタリアとでは大差が無く、 三か月間の薬局研修も楽しいものでした。

 

もっとも、海外留学が割に問題なく出来るのは日本人の場合には女性が有利なのです。なぜかと言いますと日本人男性はその多くが「ムッリ右門」、つまりほとんど話さないので、その点、女性はおしゃべりが一般的に好きなので黙っていられないのです。ということは語学の習得度も極めて高いのです。このことに関して、私はいつも冗談半分に「女性は口の体操が大好きなのだから・・・」と表現しています。

 

最近は文部科学省が「留学へトビタテ」と支援制度をたちあげましたが、その対象は当初は一年いないの留学が対象とか。その後は2-3年の両額、さらに高校生もその対象に入れるとか。そして将来は年間に1500人を目標にすることになっているそうです。https://tobitate.jasso.go.jp/

追記(2019 July)

最近の新聞記事に「千葉大 全員留学義務づけへ」の記事がありましたが、なんと二週間以上となっていました。これって、留学の範疇に入るのでしょうかね。この記事には「在学中に最低一度、二週間から二か月間」とありました。

でも、こんな短期間の留学なんて果たして意味があるのでしょうか。数週間、海外の大学で何をするのでしょうか。恐らく聴講生としてしか相手は受け入れてくれませんよ。それで、帰国してた千葉大を卒業すると「海外の大学終了」のような経歴になるのかもしれません。

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