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2015年3月の記事

2015年3月31日 (火)

健康情報に関する笑い話

健康情報に関する笑い話

新聞などにはいろいろな健康関連の情報とそれらに関連した新刊書が毎日のように溢れています。でもそれらの情報は単一因子としての情報であり、その背景にあるいろいろと異なった要因による解析は殆どなされていないのです。人間の健康はそれほど簡単なものではなく、いろいろな複雑な要因が重なり合って健康であったり、病気になったりするのです。したがって、「私は・・・・を毎日食べているので90才まで長生き出来ているのです。だから....」の類の宣伝はその人以外には当てはまらないことが多いのです。
したがって、問題は巷に溢れるいろいろな健康情報をどのように理解するのかということが重要なのです。

例えば次のような架空情報を読んでみて単純に考えたときにどうなるのか。笑い話的に引用してみました。

「太っている人は痩せている人よりも五年は長生きする」
「ランニングをする人はしない人に比べて寿命が三年延長する」(*)
「毎日りんごを食べている人は五年寿命が延長する」
「タバコを吸っている人は吸わない人に比べて十年寿命が短くなる」
「規則正しい生活をしていない人は正しく生活している人よりも五年は寿命が短い」
「砂糖をやめれば10歳若返る」

これらの情報を短絡的にそれぞれ理解して、笑い話的にまとめて解釈すると以下のようになります。

「おれはいま五十歳で、体重が五十キロとかないので、すくなくとも太っている人より五年は長生き出るのか。そして毎日ジョギングしているのでさらに三年は長生きできることになるね。」「そして毎日リンゴを食べているのでさらに五年、つまり合計すると5+3+5で、合計十三年長生きすることが出来るわけだ。」
「それならいままで喫煙をやめていたが、毎日タバコを吸ってても差し引き13-10で、まだまだ三年は長生きすることが出来ることになる。」
「しかし、おれは規則正しい生活をしていないので寿命は五年短くなるか、そうすると残り三年からこの五年を引くとマイナス2で、もう俺はすでに二年前に死んでいることになるのか」

(*)ランニングをする人はしない人に比べ寿命が3年長い可能性があることが、「Journal of the American College of Cardiology」8月5日号に掲載されている

そのほかの例
新刊書に「サラダ油をやめれば脳がボケずに血管も詰まらない!」という医学博士が書いた本があるのを見て、「そうだとすると俺はボケもしないし、血管も詰まらないという事か、だって俺はサラダ油なんて今まで使ったことがないんだよ」

このほかにもいろいろな誤解、八回の例があるのです。私が、いままでにみた似たような笑い話的な真面目な解説が、ある民間医学関係の本のなかに以下のような記述がありました。
  副作用の発生頻度には0.01%、 0.1%のような数字が挙げられています。この発生頻度は概念的にはある副作用が起こる割合は一万人に一人、千人に一人の割合で発生する可能性が有ることを意味しているのですが、この本の中での0.1%の解説では「この副作用は千回使っていた後に初めて起こる副作用(つまり0.1%)なので。使用回数が千回以内でしたら問題の副作用は起こりません」と説明されているのです。

どうです、皆さん笑えましたか。もし大笑いできたらあなたの理解度はかなり高いのです。

2015年3月21日 (土)

薬局での医薬品在庫は卸の責任 (*)

薬局での医薬品在庫状況は卸の責任

以前に厚労省がGE薬促進の取り組み事例等に関する調査報告の中で、薬局では多くの在庫を確保するため、地域薬局が連帯しながらGE薬をすぐに供給出来る体制構築が求められ、薬局間での融通を期待していることです。これは基本的にはあまり意味がなく、また本来あるべき姿ではないのです。たとえば、厚労省が「薬局のあるべき姿」の通知(2014/1/21)の中でも備蓄のない医薬品に対する近隣との連携強化ねを謳っています。つまり、行政も医薬品の備蓄に関しては医薬品卸の協力は全く考慮していないのです。行政が項ですから、当然のことながら薬剤師会もそれに準じているだけなのです。まことに情けない環境にあるのです。

基本的には薬局は出来るだけ多くの医薬品在庫をもつことが望ましいのですが、そこには限界があり、したがって、ある医薬品を求められ、その在庫がない場合には医薬品卸が数時間以内に該当う薬局に届ける体制が無くてはならないのですが、日本の医薬品卸の体制は必ずしもそうなってはいないのです。ですから、調剤薬局でも処方箋に書かれてある医薬品の在庫がないときには近所の調剤薬局に連絡してそこから取り寄せるような事態が有るとのことですが、この場合も医薬品卸の存在は頭には無いようです。

ある一部の地区ではそのような薬局と医薬品卸との間に提携が有るようですが、全国的に均一にそのような連携が有るわけではありません。このような状況は至急改善すべきなのですが、そのような気配はいまだ見られません。また、薬剤師会はそのようなことには全く関心が無いようです。

欧州の薬局では薬局と卸との連携は密で数時間以内に不足している医薬品を届けるような仕組みになっているのです。たとえば、午前中に薬局に行ってある医薬品を求めたとき、もしその製品の在庫が無いときには数時間以内にはその薬局に届けられるシステムになっているのです。これは何処にある薬局でも同じことなのです。つまり、それだけ薬局と卸の関係は密接であり、どのような医薬品でも日本のように「うちにはおいていません」との返事が返ってくる日本の薬局とはそれこそ月とスッポンの違いがあるのです。

一般的には欧州の薬局のカウンターの後ろには引き出し式の棚がずらっと並んでいてそこにそれぞれの医薬品が収められているのですが、その在庫が少なくなると自動的に卸に連絡が届き、即座に備蓄が行われます。医薬品の性格にもより、あまり使われない場合には最後の一箱が出払うと自動的に卸に連絡が行くようなシステムになっている場合もあります。もっとも、このようなシステムは現在では古いカテゴリーに入り、最新式の薬局ではすべてそのような情報は自動的に卸に通報される仕組みになっています。いずれにしても、在庫がないから近所の薬局に電話して融通して貰うなどの中世的なやり方はとても考えられないのです。

もっとも、日本の場合には処方薬の交付はバラ製品での投与なのでまさか卸に何十錠だけ至急持ってきてくださいとは言えません。この点が難点なのですが、そのような細かい問題は卸自身が解決策を見つけるべきなのですが・・・・。

いずれにしても、日本の現在の多くの薬局の医薬品の備蓄状態は極めて貧弱であり、在庫がない場合には多くの場合は「うちには置いていません」でおしまいなのです。これでは地域の医療に貢献するなどは絵に描いた餅に終わるのです。

追記(2017 Feb)
最近の業界紙に「広域医薬品卸は配送コストに見合わない少額・少量取引を敬遠するため、小規模薬局は一般薬を扱いずらくなっている。取引できても仕入れ値は高い。こうした背景から現金問屋を利用するニズが生まれる要だ」とありました。このように卸は相手をみて商売をしているとも考えられるのです。
欧州の薬局ではどのような医薬品であれ、患者から求められた医薬品が、たとえを0TC薬であれ、数時間後には必ず薬局に届けてくれるのです。
でも日本ではなぜこのような臨機対応型に卸がなっていいのかということです。確かに配送コストも大きな要因になるかもしれません。しかし、なぜそのような状態になっているのかとを考える必要があるのです。現在の医薬品の販売はどんどんドラックストアに移転し、すべての医薬品を扱うべき本来の薬局が7どんどん消滅し、薬局での医薬品販売量、金額がどんどんドラッグストアに移転し、もっばら調剤゛、調剤と専念していること時代が、大きな誤りなのですが、誰もそのようなことには気が付かないのです。
もし、本来あるべき姿の薬局経営がなされていれば、備蓄のない医薬品の卸への要望も格段と増えてくるので、配送そのものも頻繁になり、配送コストもある程度カバ-できるのです。
しかし、現在のような卸の役割はかなりの量をドラッグストアに卸すことで満足しているのではないでしょうか。

女医は差別用語か (*)、なぜ日本語の男女区別表現をなくすのか

女医は差別用語か

 

ある女医さんが女医という表現は差別感を与えるのでその使用を止めて欲しいと書かれていました。そして、男医という表現が無く、女医とわざわざ女性を意識させるのは差別になるとのことでした。そうしたら、助産婦もだめですし、男性専属の表現もだめかもしれません。たとえば、鉱夫は鉱師になるかも。

 

ここで考えたのですが、そういわれるとそうかなとも考えてしまうのですが、男性の立場からはこの女医という表現は差別を意識して使われているとは思えないのです。むしろ、女医さん、という表現そのものにはより親しみが感じられると思うのですが、どうなのでしょうか。

 

ドイツ語、フランス語、イタリア語などと異なって日本語にはそれぞれの名詞に性別を区別する接尾語がないので、例えば友達といっても男の友達なのか、女の友達かは判りません。ある意味では日本語は便利かもしれません。なにしろ、ちょっと友達のところに行ってくるよ、と言っても相手が女友達なのか男友達なのかは分からないからです。しかし、欧州語で書かれた小説などを日本語に翻訳するときは性別のある用語の日本語訳はどうなるのでしょうか。例えば、ドイツ語でAerztin、イタリア語でのdottoressaのように書かれていても女医とは訳せなくなるとでもいうのでしょうか。

つまり、欧州の言葉には男女の区別を明確にし、両者の表現を表すときには必ず女性用語が最初に来るのです。日本人的感覚からはなぜ女性が先に来るのかとの反論が出るかもしれませんね。 でも、このような男女の区別をひていする傾向が当たり前とすると、主婦、なんかもだめになり、家庭師にしなければならないと思うのです。だって、今日のような共稼ぎの家族が増えているときには、男性だって家事をすることは当たり前なので、家庭しにでもすべきかもしれませね。

 

でもこのように考えて女医が差別用語になると考えると助産婦などは助産師にしたほうがよいかも知れません。男の助産師が居てもふしぎではないからです。でも、理容師と美容師とでは男、女の接頭語こそありませんが、男と女とを明確に意識した表現になるので、差別表現にはならないのでしょうか。なにしろ、看護婦が看護師になっているくらいですから。

 

このように考えると男女を意識した表現が差別表現になっているから理容師、看護師などの表現が生まれたものとは考えすぎではないでしょうか。もっとも、看護婦の職場に男性が入り込んできてそのような場合の表現に困ったのですべての場合に看護師と統一したのだと記憶しています。でも、どうしてそのような区別があると困るのでしょうか。

そこには差別云々の発想はなかったと思います。似たように、助産婦も性別を意識した表現になるのでしょう。助産婦は助産師にすべきかも。産婦人科も女性を意識した表現かも・・・? となると婦人科という表現も差別用語 ??? それにしても、看護婦という表現が日常の新聞などには使われていますが、もし、過去の歴史についての記事を書くときに「戦地の看護婦が…」のような表現を「戦地の看護師が・・」のようにでも書くのでしょうか。

 

そのほかにも、女優とか女子大などの名称は女性をあえて意識していると理解すると、ある意味では差別用語に捉えられるのかも知れません。そうなると男優、女優も差別語、女形歌舞伎役者、などもその対象になるのでしょうか。宝塚の女子歌劇なともだめになります。

 

しかし、私はそのようには理解はしないのですが、女性の立場から見るとまた考え方が違うのかも知れません。でも、いささか考えすぎではないでしょうか。

 

もしこのような概念を拡大すると電車の「女性専用車」はある意味では差別表現にはとらえられないのでしょうか・・・・? 外国にはそのような列車はありませんので、考えようによってはこの女性専用車という表現は差別用語にならないのでしょうか。そうなると、トイレに男と女と区別してあるのも差別用語の乱用にはならないのでしょうか。

このほかにも、憲法には婚姻は両性の合意、のような語句があるのですが、ここに書かれてある両性は常識的には男女と考えるのですが、これを男男、女女と解釈できるという憲法学者がいるのです。つまり、「両性」と言うのは差別用語を無くするために用いられているとでも言うのでしょうか。

 

もぁ、このようにいろいろと考えてみると、そもそも「女医」という表現から意外な発展があるのですのが、本当にそのような被害者意識が女性にはあるのでしょうか。

いずれにしてもそのような考えから推測すると、母性愛のような表現もダメで、「親愛」のような表現すべきかも。だって、男性だって子供に対する愛情はあるのですが、男性愛もあるのですが、そうなると男女を意識するので、ダメになるのかも。その他にも、銭湯などに女湯、男湯の区別があるのもおかしいとでもいうのでしょうか。

 

となり、まったくきりがありません。その他にも母国語は女性のみを念頭に置いているので、不公平であり、女性差別、いゃ、この場合にはある意味では男性差別になるのでしょうか。そうなると「両親語」にでもするのでしょうか。

つまり、女医という表現から始まって、女とか男とかが付いた表現は全てダメ、にしたら日本語は支離滅裂になってしまいます。

不思議なことに、マスコミは異常のような観点にたっての表現の一貫性がなく、女医さんからの反対意見があったのでねそれを尊重することにしているだけで、性差表現についての一貫性は全くなく、「女優」という表現や「助産婦」のような表現は無意識に使っているのです。

似たような表現の問題でも、アメリカでの記事に関し、わざわざ「黒人議員」などと書く新聞もあるのですが、わざわざ黒人と書かなくともその人の写真を見れば誰もが黒人であることは分かるのに、なぜ「黒人」と書くのでしょうか。

最近の新聞記事に「女性看護師さん」の表現が使われていましたが、その記事の内容によっては改めて看護師が女性であることを意識しているのですが、なんとも日本語表現は複雑です。でも、このような例でも分かるように、相手が女性であることを意識させたい場合には「女性・・」と書くこと自体問題ではないでしょうかね。 このように理解すると最近のこのような「中性表現」は男女の区別意識を意識的に不明にしていることであり、その心底には日本人の場合にはその表現意識には男女の区別を表さないのですと、なるかもしれません。しかし、そのこと自体が男女同等扱いなのですとの感覚から使われているのですとの判断があるとすると奇論に感じるのです。

 

2015年3月18日 (水)

調剤手数料  スイスの例

最近の医薬分業に関連した問題のひとつに処方箋調剤関連費用が挙げられています。実際の医薬品の薬価以外にいろいろな名目で手数料が加算されることに対して医療費全般の向上に繋がっているとの批判があるのです。

確かに、医師が処方した処方箋を持って門前薬局とか保険薬局に行くときに患者に請求される費用は医薬品そのものの実費以外に調剤技術料などある程度費用が加算されるのです。

この調剤技術料に付いて、スイスの薬局では実際の医薬品の実費に加えて、「処方箋チェック」(Medikamenten-Check),が各医薬品ごとに一律に4.35 sFr、そして 「給付料」(Bezugs-Check)として 3.25sFrが自動的に加算されるのです。

たとえば、以下はある処方箋支払いの明細になります。
  
Atrov Pfizer Filmtabl. 40mg 30 Stk 34.60 sFr
Medikamenten-Check 4.30 sFr

Aspirin Cardio Filmtabl 100mg, 28 Stk 6.60 sFr
Medikamenten-Check 4.30 sFr

Bezugs-Check 3.25 sFr

Total 53.05 sFr

となっています。つまり、薬価そのものは41.20 sFrになるのですが、それに加えて合計 11.85 sFrが加算されるのです。スイスフランと円との換算は約1sFr/100Yenとの目安になります。いずれにしても処方箋チェックが各医薬品ごとに加算されるのはある意味ではいたし方が無いかも知れませんが、処方箋一枚ごとに給付料なるものが加算されるのはあまり意味が無いのですが・・・・。

上記の処方箋に基づいて日本でバラ調剤をしてもらったらいくらくらいになるのでしょうか。
なお、薬局で医薬品を受け取るとそれぞれの箱の上に用法用量がタイプ打ちされたものが貼り付けられ、簡単な使用説明がなされます。しかし、日本のようなお薬手帳のような制度はありません。

もちろん、それぞれの医薬品は箱包装単位ですので、その箱の中には患者用使用説明書が同封されていますので、医薬品情報は自動的に患者に交付されることになります。

ただ欧州での医薬品投与は処方薬を含めてすべてが箱製品投与ですので、患者の待ち時間は殆どありません。

2015年3月 9日 (月)

医薬分業と薬局の存在意義

医薬分業と薬局の存在意義

来る三月十二日に規制改革会議が医薬分業に関した公開討論の開催をすることになっています。
でもなぜ今頃になって医薬分業についての議論が必要になったのでしょうか。いゃ、ここで注意しなければならないのはそのような議論が必要になってきている背景、現状を十分に理解することが重要なのです。

ここで改めてこの会議でなぜ今になって医薬分業が話題になっているのかを理解すると現時点では次の二点に要約されるのではないでしょうか。
   1) 患者の利便性
   2) 調剤技術料に基ずく医療費の高騰

最初の患者の利便性とは主として患者の調剤薬局での待ち時間が長いことに要約されるのです。平均すると三十分前後の待ち時間があるようで、最悪の場合には一時間近くも待たされる事があるのです。これでは患者にとっては病院、医院からわざわざ別のところにある調剤薬局をわ探してそこに行くなんらの利便性もありません。でもどうしてそのような待ち時間が必要なのかを検討する必要があるのですが、今までにこの点に焦点をあてた議論は一切なされていないのです。

一方、調剤に関しては実際の医薬品費用以外にも薬暦管理指導料が410円、など実際の薬価以外にいろいろな名目での付加費用が計上されているのです。でも本当にそのような付帯業務にたいして対価を考慮しなければならないのでしょうか。

これらの問題を理解するためには以下のような歴史的背景情報ならびに現状を理解しなければなりません。

1) 医薬分業施行時の対応の欠陥
(とりあえず便宜的な門前調剤薬局の発足・本来。これは便宜的なものであったはずなのだか、なんらの改革もなされず今日に至っている。) 
2) 調剤だけしかしない門前調剤薬局、並びに調剤を全く引き受けない薬局の共存 (あってはならないこと)
3) とりあえず分業の形をとるために従来の院内処方業務そのものを機械的に外部に出した為、処方調剤が院内でのバラ処方をそのまま踏襲し、箱包装処方が考慮されず、その結果、患者の利便性(特に待ち時間)が著しく阻害される結果となっている (非処方箋薬は箱投与、処方箋薬はバラ投与との矛盾)
4) 調剤専門の門前薬局の開局時間の超優雅性
5) 本来、非処方薬をも含むすべての医薬品を取り扱うべき薬局の一部業務(非処方薬の投与)がドラッグストア、インタネット販売などに積極的に取り入れられるようになっている。(その結果、将来は非処方薬は薬局で手に入れるものとの概念が失われることになる)
6) 調剤業務は本来は薬局内部業務の一部のものにも係わらず、コンビニ、ドラックストアなどにそれらの業務が取り入れられ始めている
7) 二十四時間対応の薬局、調剤薬局が皆無
8) 薬局の収入は本来は医薬品の販売による薬価差に基ずくべきであり、技術料金などに依存するのは医療機関としての薬局の退廃化(調剤業務関連費用の弊害)
9) 薬局と医薬品卸との密接な協調性がほとんどない(薬局の在庫状況を数時間以内で解決する全国的なシステムの欠如)

つまり、このような状況から判断すると日本での医薬分業はその本来の趣旨から大きく外れ、支離滅裂状態にあり、その結果として今回の規制改革会議の公開討論の開催となったものと理解すべきではないだろうか。

ここで改めて認識しなければならないのは、薬局は処方薬、非処方薬(大衆薬)を含めて全ての医薬品を一括して患者に提供すべき役割を担っているとの認識が必要であり、また医療機関の一員でもあるとの高尚な理念を維持すべきである。

医薬分業の発祥地である欧州の薬局の現状を知れば、日本の医薬分業が以下に変態であり、また非効率的であることが分かるのです。

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