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2015年2月の記事

2015年2月23日 (月)

アニメ、寿司だけが日本文化の典型か

アニメ、寿司だけが日本文化の典型か

後藤さんの悲劇に関連した記事の中でヨルダンとの緊密な連携が報じられていましたが、そのヨルダンについて「アニメなど日本文化が浸透しており親日国」との記載がありました。

確かにアニメは日本が発祥地であることは分かるのですが、日本の文化を代表する文化と謳うのはとんなものでしょうか。このような日本文化の海外普及ということに関して、以前はカラオケとかスシが使われていました。でも日本の文化云々を対外的には発信する場合にはもっと他にあるはずなのです。海外の人に日本の文化を紹介するのにカラオケ、スシ、アニメ、マンガではいかにも低次元の発想であり、物寂しい気がするのです。

もっとも、意外と気がついていないことは、これらの日本文化は積極的に日本が海外に発信したものではなく、海外の人たちに好まれ、その結果、自然と海外て普及したのであって、日本は何もしていないのです。つまり、日本文化の普及という概念は積極的に自分の文化を海外に発信するという意義が有るのですが、海外から見ていると日本は自国の文化を積極的に発信しているとは思えないのです。

例えば、最近の日本に関する評判として「おもてなし」が挙げられますが、これも日本国内の考えが外に知られるようになったのであって、日本に来た外国人が日本人の「おもてなし」の心に触れて自分の国に持ち帰って広まっているのです。

今日のような円安環境では外国人の日本訪問はうなぎ上りに増加しているので、彼らが日本の本当の文化に触れることは非常に大事なのですが、このような場合も日本が積極的に日本の文化を海外に普及させる努力とは捉えることは出来ません。

日本が海外に日本文化センタ-のような施設を一部の国に置いていますが、このような施設を世界各国にくまなく開設して積極的に日本の文化発信をするような考えは国内にはあまりありません。つまり、現在の日本の行政の対外的な文化発信は極めて消極的、ないしは無関心なのです。

2015年2月18日 (水)

2020年の薬局事情 (**)

2020年の薬局事情

最近の薬局を取り巻く環境はかなり変化しつつあるとの印象を受けます。例えば、最近の政府の【産業競争力の強化に関する実行計画案】にはいろいろな項目が並んでいますが,その中に
(4)医療用医薬品から一般用医薬品への移行(スイッチOTC)の促進
というのがあります。つまり現在の処方箋に基ずく医薬品を非処方箋薬に推進しようとの施策なのです。このことは患者が自由にそれらの医薬品を購入することが出来ることを意味しています。そのような促進政策の真意は分かりかねますが、文字通りに解釈すると今後は非処方薬がますます増えてくることになります。現時点ではそのような非処方薬は一応は分類されていて、その分類内での販売にある程度の規制がありますが、実際はそのような規制は表面上のことであり、あまり大きな影響は及ぼさないのが現実なのです。

一方、医療関係者の間でも現在の医薬分業の実態にたいしてその欠陥が指摘され、その将来を危惧され始めているのです。例えば、以下のような記事があります。

『2015年2月17日(火) 渡辺亨(浜松オンコロジーセンター院長)
  がん治療では、点滴抗がん剤副作用(吐き気、感染症など)の予防・緩和のための飲み薬、飲み薬の形の抗がん剤、そして今後主流となる分子標的薬剤が、「院外処方」により、「調剤薬局」で処方される。
 この「院外薬局」については、降圧剤、高脂血症治療薬、胃薬、便秘薬、風邪薬などの、特に問題のない薬が主たる対象となってきたが、ここに、がん治療につかわれる前記の薬剤も加わるようになって、様々な混乱が生じている。吐き気どめ、浮腫予防などに使用するステロイド剤、通常よりも短期間に多い量が使用されるが、これに対して不勉強な調剤薬局薬剤師が「こんな量を使うなんてとんでもない!」と患者に言ったため混乱した話、内服抗がん剤ティーエスワンが男性患者に処方されたが、奥さんが調剤薬局に薬を買いに行って、本人と勘違いして、病名も確認せず、腎機能も確認せず、処方されたけど、トンチンカンな説明で混乱した話・・・。なので、がん治療においては、内服薬の院外調剤は不適切だと思っている。

  一昨年のことだったか、「調剤薬局花盛り」というコラムが朝日新聞に載っていた。「塾や、昔からの商店が閉じたあと、あちこちに調剤薬局がオープンし、しかも、長者番付の上位に名を連ねている」という内容で、まえまえから噂されていたように、そろそろ調剤薬局冬の時代か!と思っていた。
 2月10日の朝日新聞、「くすりの福太郎」が、薬のカルテを全く記載していなかった、けしからん!!ということで一面に載っている。 そもそも、薬剤師は6年間の高等教育をうけて、国家資格を得、それで、調剤薬局で、薬のピッキング程度のことしかしないのでは、なんのための教育か? と首をかしげる。そもそも調剤薬局ができたのは、診療所などで医師がいい加減に薬剤を出していた、副作用にも注意を払わず、仕入れ価格も不明確、この状況を当たらめねば、という表向きの理由で院外調剤という仕組みが30年ぐらいまえに導入された。しかし、今回のような自体が続けば、この流れを変えることになるだろう。今こそ、「診療所に薬剤師を配置すべき」、診療所内での、医師、看護師、薬剤師のチーム医療で、多職種相チェック(監視)の体制を整えるのが正しい医療の方向であろう。』

このような環境の変化から推測すると将来的には日本での薬局は以下のように分類されてしまうかもしれない。一応の目安は2020年の東京オリンピックの時点を念頭に推測してみました。

1) 調剤だけを専門にする門前薬局系が都会では主流になり、そのような調剤専門の薬局がドラッグストア、コン
ビニなどにますます併設されるようになる  ⇒  調剤専門薬局チエンの拡大
2) 非処方薬を扱うのはドラッグストア、コンビニなどに集中、限定され、しかもその品揃えは満足できるものでは
ない。それに輪をかけるようにインタネット販売が拡大する。
     ⇒ 処方薬と非処方薬との販売経路の分極化 
3) したがって、都会では調剤をはじめすべての医薬品を扱っていた本来の姿の薬局は消滅する
     ⇒ 医薬分業体制の都会対地方の分極化 
4) すべての医薬品を取り扱い、調剤をもする従来の薬局は一部の地方にのみ生き残ることになる
⇒ むしろ、本来の薬局形態を維持し、地域の医療に貢献するのは地方に見られるようになる。
5) しかも、本来の薬局概念を充実させた模範薬局は地方のみにみられるようになる
     ⇒ 有能薬剤師による模範薬局の地方化
6) さらに今後は院内処方率が徐々に増加し、最終的には日本の医薬分業は都会では事実上崩壊する
     ⇒ 処方箋枚数を基準とした分業率の誤算

こうなると、 オリンピックの年に日本にくる外国人に対しては日本の都会では非処方薬を購入するのは意外と簡単ではなく、多くの場合、ドラックストアでしかその可能性が無く、また通常のドラッグストアでの品そろえは十分でもないので、自分の国からの持参を薦めることになりそうです。

果たしてこのような推測が的中するかしないかは五年後には判るでしょう。

ともかく、医薬分業の発祥地である欧州の、とくに欧州の都会の薬局の現状を周知しているものにとっては日本の現状とのあまりにも大きな格差に驚くとともに、なぜこうも日本の医薬分業は支離滅裂になってしまったのかと考えるとまさに世界への恥さらしものなのです。さらに残念ながら、今までにそのような欧州の薬局の現状を視察、研究してきた人たちの日本への提言、改革が殆どなされていないことなのです。つまり、視察が視察だけで終わっているのです。

したがって、将来の薬剤師の職場は病院か、あるいはドラックストアに限定されしまうでしょう。まことに残念なことです。将来の薬剤師が私の職場はドラクストアですと胸を張っていえるだろうか。

2015年2月13日 (金)

避難民に無情、無関心な日本

避難民に無情、無関心な日本

一月末の報道に「シリアを逃れた男性、家族と再会」の記事がありましたが、このような例は日本では極めて例外なのです。つまり、日本に来る避難民そのものが極めて稀であるし、そのことが新聞記事になることはごく例外なのです。ところが欧州では毎日のように押し寄せる避難民問題で大変なのですが、各国が協力してそれらの避難民の受け入れに大童なのです。

ところが日本のマスコミにはそのような欧州での避難民の現状、そして欧州各国の避難民受け入れ態勢についてほとんど報道していないのはナゼなのでしょうか。そこには避難民なんていうのは日本には全く関係のない話題なので報道する価値が無いからです。でも本当にそうなのでしょうか。例えば、北朝鮮や中国共産党政権が崩壊したらどうなるのでしょうか。それこそ日本にゴマンという避難民が押し寄せてくる可能性があるのですが、そのような可能性には全く関心が無いのです。

どうしてシリア難民は難民として扱われないのでしょうか。シリア難民支援に巨額の資金を提供してもわが国にはシリア難民を受け入れませんでは、あまりも虫が良すぎるのではないでしょうか。その根底には何でも金で済まし、面倒なことは引き受けませんよ、という意図がありありなのです。でも、イタリアなどに押し寄せてくる難民がもし日本にも波及したらどのような状態に状態になるのでしょうか。

難民条約では『人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員、政治的意見』を理由に迫害を受ける恐れがある人々を難民と定義しているので、「戦争、天災、貧困、飢餓、などから逃れた人はこの条約の対象にはならない」と日本の行政は厳密に定義し、杓子定規に実行しているのです。

しかし、現在の欧州で社会問題となっている北アフリカ、中東からの避難民はこの難民条約に該当するわけではないのですが、欧州全体が協力して受け入れに努力しているのです。でも、実際には内政問題からその国、地域が戦争状態になれば当然の結果として難民が発生するのです。

毎日のように北アフリカから満員の小船に乗りながらイタリアに避難してくる人たちは日本の行政官によると難民扱いはされないのです。つまり、これらの難民は上記の難民条約には該当する人々ではないのですが、難民と同じように扱われ、欧州各国が協力してそれぞれ分担、引き受けているのです。

例えば、仮に北朝鮮が内乱状態になって北朝鮮からの難民が小船に乗ってむ日本海側の海岸に押し寄せてきたら彼らは難民条約に規定されている難民には該当しないのでしょうか。このようなことが起こりえるる可能性は全くゼロではないので、日本政府はこの際真剣に難民対策を別な視点から考慮する必要があるのではないでしょうか。

追記 (2015 Dec)
最近の報道によると漫画家の作品「『そうだ難民しょう』蓮見敏子の世界」が偽装難民を揶揄した作品として非難されています。そこには「何の苦労もなく、生きたいように生きていきたい、他人の金で。そうだ難民しよう」と書かれてあるとのことです。もしこの作者が本当にそう思っているのなら本人が率先して難民になれば他人の金でのほほんと生活することを実行するべきなのです。この作者は欧州の難民の実態を全然知らないからそのようなことを平気で書いているのです。

2015年2月12日 (木)

ますます進む薬局消滅作戦 2015年

ますます進む薬局消滅作戦 2015年

最近の政府の【産業競争力の強化に関する実行計画案】にはいろいろな項目が並んでいますが,その中に
(4)医療用医薬品から一般用医薬品への移行(スイッチOTC)の促進
というのがあります。つまり現在の処方箋に基ずく医薬品を非処方箋薬に推進しようとの施策なのです。このことは患者が自由にそれらの医薬品を購入することが出来ることを意味しています。

こうなるとそれらの非処方薬は薬局からドラッグストア、コンビニ、インタネットなどで入手することが可能となり、薬局本来の存在価値がますます薄れてくることになるのです。つまり、非処方薬をも含めたすべての医薬品を管理、販売、情報提供などが、今後ますます従来の「薬局」から離れていくのです。そのような状態に進むと、どのような現象が起こるのだろうか。

つまり、薬局に行って「この薬ありますか」と問いただしても、「いゃ、うちには置いてませんので、コンビニに行ったらどうですか」との返事が日常茶飯事になるのです。このような場合、本来は「すぐ取り寄せますから午後にお出でください」となるべきなのですが、日本の薬の卸にはそのようなサ-ビスは全く考えていないのです。これが医薬分業の発祥地である欧州の薬局では当然の行為であり、場合によっては自宅まで届けてくれることすらあるのです。このような薬局の業務形態に慣れている欧州の人が日本に来たら目を丸くしてびっくりすることは請け合いです。そして、日本の薬局はまるで低開発国なみであると理解するかも知れませカ。

このような状況は、洋装店、洋品店に行って背広一式を購入しようと思っても、「いゃ、うちにはズボンはおいてません」「他の店で買ってください」となるのです。

もうこうなると今後は薬局の存在そのものが危なくなってくるのですが、日本薬剤師会は全くの無反応なのです。こうなると、私の推測では来るべき東京オリンピックには大都会から薬局が消えてなくなり、処方調剤しかしない門前薬局が生き残るのですが、最近の傾向を見ると病院からの院外処方が不人気であり、また患者にとっては極めて不親切、非効率、さらには医療費の高騰への間接的な影響などで、だんだん院外処方箋数が減っていくことが予想されています。

その結果、地方の革新的な一部の薬局を除くと、大都会では従来のすべての医薬品を取り扱う薬局という形態は完全に消滅し、オリンピックに訪れる外国人がちょっとした薬を買うのにコンビニとかドラックストアなどに行かざるをえない環境は全く世界の笑いものになってしまいます。たとえば、都心の新宿とか渋谷、或いは銀座などて薬局そのものを見つけるのは至難の業なのです。新宿の繁華街ではコンビニとかドラッグストアはやたらと目に付くのですが、薬局の看板を掲げているところは皆無なのです。渋谷でも似たような状況で、道玄坂に昔からある薬局が一軒ぐらいしかないのです。それもあの繁華街ではその存在すら影に薄れていて探すのに一苦労です。

欧州の薬局のようにうちは薬局ですよとの職業意識が前に出て、どの薬局にもミドリ十字の大きなサインが薬局の上にあるので何処から見てもすぐに薬局が何処にあるかが明瞭なのですが、日本の薬局にはそのような意識的な職業意識が殆ど無いので、そのような薬局のサインそのもののへの認識は皆無に近いのです。

2015年2月10日 (火)

なぜ、日系三世のような表現が未だに使われるのか

なぜ、日系三世のような表現が未だに使われるのか

 

 

最近の新聞にハワイの日系議員についての解説があり、その中で日系四世のコリン・ハナブサ上院議員がハワイでの選挙に敗れて米議会を去る、との記事がありました。そのほかにも、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマさんの対談記事にも、「日系二世の父と日本人の母との間に生まれた」との解説がありました。でも不思議とこの場合には日系三世との表現はありませんでした。

 

ここでふと考えたのですが、このような「なんとか・・世」の表現なのです。例えば、在日朝鮮人の場合にもこの種の表現がしばしば使われ、「在日三世」、「在日朝鮮人三世」などの表現が新聞に時折見られます。

 

もしこのような表現を普遍化するならば、日本に住んでいるドイツ人と日本人の子供はドイツからの視点で解釈すると、在日二世、になるのでしょうか、それともドイツ系二世、あるいはド系二世になるのでしょうか。いゃ、このような場合には日本の新聞はそのような表現は絶対使いません。

 

つまり、そのような表現の対象者、もちろん日本人であることを念頭に置いた表現とはならないのからです。なぜならば日本に住んでいる日系人なんと言うことはありえないからなのです。ところが、南米からの人の場合には日系人という表現が日本ではまず最初に来るのです。

 

つまり、そのような表現が使われるのはもっぱらアメリカとか南米に在住の日本人二世、三世、あるいは例外的に在日朝鮮人、在日中国人のみに使われているようです。欧州にも沢山の日系人は居るのですが、新聞にはそのような表現を見たことがありません。ナゼなのでしょうか。同じ日本人の子供なのに親が欧州人の場合には日系という接頭語は殆ど使われないのです。もしかしたらそのような表現を使える機会が未だ少ないからかもしれません。

 

いずれにしても三世80年とも言われるように三世の人たちが成人になっていれば当然のように日系の表現は使われなくなりつつあるのです。戦争の時代になるともうその滞在国の住民になり切っているので、日系の意識はかなり薄くなっているのですが、日本のメデイアはやはり日系という表現を使いたがるのです。

 

ですから、戦前に南米に移住した人たちの子孫はもえ完全にその国に溶け込んでおり、日本に居る日本人が考えているような日系人との認識はほとんどないのです。

 

しかし、このような心理的変化は南米への移民の子孫にはなくなりつつあるので、それらの人たちを念頭に置いた海外日系人大会というのが毎年開かれているのですが、南米からの参加者は年々減少してくるのですが、この協会は日系人という概念を南米移民の子孫としか捉えておらず、毎年の参加者誘致のために東京での大会中にカラオケ大会なるものを設置しているほどである。でも、わさわさ南米から日本にカラオケ大会に参加するためにくるのでしょうか。

 

そのほかにもアメリカのオバマ大統領についてはアフリカ系二世、厳密には「ケニア系二世」となるのですが、そのような表現は日本の新聞は絶対使いません。なぜなら彼は日本人とは関係が無いからです。そのほかにも南米チリのフジモリ元大統領が居ます。彼の場合には日系二世という表現は日本の新聞に時折しか使われていなかったと思います。もっとも彼の場合は日本国籍も持っていたので、日系ではないのかもしれません。

 

数年前に「日系定住外国人施策に関する基本指針」が設定され、ここでの日系定住外国人の定義は「国籍がブラジル、ベルの国籍を有するものに限らず、日系人であることにより、「定住者」「日本人の配偶者」などの在留資格で在留する外国人」と定義されています。でもこの文面にあるように主眼はブラジル、ペル名のです。となると、前述のドイツ人の子供の場合にはやはり日系人になるのでしょう。

 

でもナゼなのでしょうか。もしかしたら、このような表現をアメリカの大統領にたいして使うことは差別表現との暗黙の理解があるからかもしれません。もっとも、最近までアメリカにはOne drop ruleという暗黙の了解があったとのことですので、オバマ大統領はその当時の概念(One drop rule)から推すとアフリカ系二世、あるいはアフリカ人だったわけです。

 

確かにこのような表現はそれぞれの先祖、出身国を第三者が明らかに意識して使用する表現であり、そこには自国本意の解釈があり、あくまでも第三者的見地からの自己本位の表現であって、肝心の当人はそのような認識、意識はあまり持っていないのが普通なのです。

 

そこには「われわれ日本人が」という些細な誇りがあるのかもしれませんが、その一方での在日三世のような場合にはどのような心理が働いているのでしょうか。つまり、同じ「・・・世」という表現でも日系の場合には、あのひとはいまだ日本人なのですよとの暗黙の思い込みがあり、その一方の在日の場合には日本人ではないのですよとの理解があるのではないでしょうか。そうなると、白鴎のような日本人でない大横綱の場合にはどうなるのでしょうか。彼の場合にはモンゴル在日一世になるのでしょうが、なぜか誰もそのような表現は使いません。ここで面白いのは「・・・一世」という表現は全く使われませんが「・・・二世」という表現があるのなら「・・・一世」もあっても不思議ではないのですが。

 

いっぽう、このような表現概念は欧州にはありません。欧州のように国際結婚があたりまえの国ではドイツ系二世のような表現は全く使いません。どうして日本人は自国との関係を第三者に対して意識付けをしたいのでしょうか。それも限定つきで。それともそのような国際結婚で生まれたことが未だにそれほど珍しいので、意識的に強調したいのかも知れません。もしかしたらそこには島国日本人の国際的孤立感があるのかもしれません。

 

つまりこのような表現は第三者が自分本位の観点からの表現なのです。もしこのような感覚で表現するのなら四世とか五世とか、無制限に続くのかもしれません。そうなるといったい何世まで続くのでしょうか。例えば、ブラジルには日系五世、六世などの表現が永遠に続くのです。

 

このような観点から理解すると、一部の日本人もその祖先をさかのぼれば在日五百世くらいになる人はかなり居るはずなのです。テニスの錦織選手とか、李さんのような姓は在日何百世かになるはずなのです。

 

もっとも、日本には「万世一系」という表現があり、これは天皇家にたいして使われています。でもこの表現を借りると「日系二世」ではなく、「二世日系」と表現するのが正しいのかもしれません。

 

繰り返しますが、このような表現、意識付けは日本独特で、欧米にはありません。たとえば往時はイタリアからドイツとかスイスなどに労働移民として移住し、その後定着してドイツ、スイスの国籍を取得して生活していますが、
本国のイタリア人からはイタリア系二世とか三世などの表現はマスコミは使いません。つまり、それだけ人の交流が盛んな地域では「…三世」のような表現は意味がないのです。

 

やはり日本は島国で、しかも歴史的にも移民、呼民が極めて少なく、ブラジル移民とかハワイ移民くらいであり、ましてやその逆に日本に来る移民は極めて稀なので、そのような出身を明記したいのかも知れません。つまり、心理的にはこれら海外の日系人は準日本人扱いなのかもしれません。

 

このような考えはある意味では日本の学歴社会にも明瞭で、どこどこの大学卒という表現はいつになっても付いてくるのですが、欧州ではいったん大学を出ていれば何処の大学であろうといちいち明記、問題にはしないのが普通なのです。

 

現地採用の持つ意味 私も現地採用でした

現地採用の持つ意味 私も現地採用でした

最近の朝日新聞に連載、特集記事として日本人の海外での現地採用者の活躍が紹介されています。

この現地採用という表現は、一般的には「企業等が支店・営業所・工場等の所在地にて社員の採用を行うこと」「現地採用社員は 本社採用に比べて処遇や昇進面で冷遇されている場合が多い」と理解されています。
一般的には日本の企業などが海外に進出したときに現地の人を採用する場合が多いのですが、時としてその中には現地に住んでいる日本人が採用されることがあり、その場合も現地採用となるのです。ですから、企業以外でも大使館などには必ず現地採用の日本人が働いています。そこには同じ日本人であっても厳然たる格差があり、日本の本社から派遣されてきた日本人とは明確な差別、賃金格差があり、同じ社員でも全く異なった雇用形態が存在するのです。

しかし、現在のような国際社会ではこのような表現、雇用形態はむしろ純日本的であり、そこには国際社会のなかでの国際企業という概念はいまだ存在せず、したがって、仕事も常に日本を向いてなされているのです。これが現在の日本企業の海外進出の現状なのです。そこにはやはり島国感覚がありありなのです。
真の国際企業となるにはそのような現地採用のような概念は通用しないのですが、日本の企業のほぼ全社が未だにそのような感覚で国際化を謳っているのです。

本来は日本人が日本から飛び出して現地の社会に溶け込んで、そこの企業で働く人たちがどんどん増えて欲しいのですが、今の若者にはそのような国際感覚はあまり無いようです。それでも、日本の企業に現地採用された人たちが、ある時期に独立して日本の企業とは関係が無い、現地企業に就職したり、或いは自分で企業を立ち上げたりするひとが存在するようになりつつあるのですが、それでも現時点ではそのような日本人の存在が珍しいので、冒頭に述べたような特集記事が書かれているのです。

今後はそのような意味での現地採用という表現はなるべく早く使われなくなって欲しいものです。つまり、海外で、日本の企業とは全く関係なく、独自に海外企業に就職するひとたちが増えて欲しいものです。もっとも、大使館のような純然たる日本の官庁の場合には例外かもそれません。そこには国際的な感覚は極めて薄く、日本の本省に顔を向けて仕事をするからです。

このように考えると、私の人生を振り返ると私は現地採用の連続なのかもしれません。なにしろ、仕事の関係でイタリアに来て(ここまでは日本からの出向)、そこで日本の仕事先を辞めて、現地イタリアの会社に就職口を見つけ、その後に新聞広告でみたスイスの会社に応募して採用されたわけですが、果たしてこれも現地採用なのでしょうか。

2015年2月 7日 (土)

笑うことは医学的にもよい効果をもたらすことが知られている

私のこのペンネ-ムの由来は、ゲラゲラ笑う、ということからつけられたのです。

 

私が大学を卒業して、当時の国立公衆衛生院に新設された一年過程の衛生技術学科で勉強していたときの仲間から私がいとも簡単に笑うことから自然にこのニックネ-ムがつけられてしまい、以降この表現を自分のニックネ-ムにしたのでにす。

 

この表現をロ-マ字にするとgeraosanとなるのですが、似たようなドイツ語の単語にgelontologieというのがあります。これは「笑いの科学」「笑いの医学」の意味であり、私のニックネムとぴったりなのです。ひとつの違いはL と Rとが入れ替わっているだけなのです。もっとも、本来の意味からはgelaosanにすべきなのかもしれませんが、典型的な日本人の誤りとしてrと lとを混同してしまった結果geraosanにしてしまいました。。

 

したがって、今での私はよく笑うので、あるとき、友人を自宅に招いて話をしていたときに私の笑いにつられて彼も笑い続けたので、後になって、礼状に「久しぶりによく笑うことが出来ました」と書かれてありました。

 

以降、私はこの笑いの医学に強い関心を持ち、学会にも加盟したり、講演会に参加したりしてある程度の専門知識を身につけました。ともかく、毎日笑うことは健康にもよく、身体の免疫機能を高めることが知られています。

 

最近では、笑いの医学的貢献についての研究がいろいろとなされています。たとえば、次のようなことが知られています。

 

笑いの医学的エビデンスはリウマチやアレルギーなどの自己免疫疾患の他にも、心血管疾患や糖尿病の領域でも集積されるなど「多面的作用」が期待されているとのことです。福島県立医科大学疫学講座教授の大平哲也氏らは、「笑い」により疾患が改善するだけでなく、「笑わないこと」が心血管疾患や糖尿病発症に関連するとの国内大規模疫学試験による知見も得つつあるとのことです。

 

 「笑い」で期待できる医学的効果はまだまだあるようだ。米University of Maryland School of MedicineのMichael Miller氏は、健康ボランティア300人を対象にコメディー映画と戦争映画鑑賞時の血管拡張度を計測。コメディー映画を見て笑っている時と戦争映画で恐怖や不安などを感じている時の血管径の差は30-50%に上り、特に、笑った直後に見られた血管径拡大は「有酸素運動やスタチン投与に匹敵する」と評価している(2011年8月欧州心臓病学会のリリース)。

 

 笑いと血管障害がもたらす心血管疾患発症の関連については、大平氏らも地域住民2万934人を対象とした大規模疫学研究JAGES(Japan Gerontological Evaluation study;日本老年学的評価研究)において東京大学、千葉大学と共同調査を実施。笑う頻度が「ほぼ毎日」の人に比べ、「ほとんどなし」の人では虚血性心疾患リスクが1.21倍、脳卒中リスクは1.60倍有意に上昇していた(J Epidemiol 2016; 26: 546-552)。

 

 「笑い」が糖尿病にも抑制的に作用するとの知見も集積しつつある。端緒となる検討を行ったのは、ヒト・レニン遺伝子の解読などに世界で初めて成功した筑波大学名誉教授の村上和雄氏。糖尿病患者19人(平均年齢63.4歳)を対象としたクロスオーバー試験で、1日目は昼食後、糖尿病に関する真面目な講義を40分実施。2日目には当時有名だったベテラン漫才コンビ(B&B)による漫才実演を同じ時間実施。介入後の血糖値を比較したところ、糖尿病に関する講義前後の平均血糖値はそれぞれ151、274mg/dLに対し、漫才前後では178、255mg/dLと、食後の血糖値上昇が対照群に比べ有意に抑制されていた。この論文は米国糖尿病学会誌に掲載された(Diabetes Care 2003; 26: 1651-1652)。

 

 村上氏らは、「笑い」がインスリンの作用不足による食後高血糖を改善することが示唆されたと結論。機序としては、漫才を聴いて笑っている間の筋肉の動きによりグルコースの利用が増大すること、笑いというポジティブな情動が神経内分泌系に作用し、血糖値の上昇を抑えることなどが推定されると述べている。
 ちなみに大平氏によると、この研究でベテラン漫才コンビに白羽の矢が立った理由の1つは「対照の“糖尿病に関する40分の講義”と同じ時間、漫才が続けられるほどのスキルを持つコンビは数えるほどしかいない」ことだったそうだ。論文では、参加者のほとんどが0-5の「笑いレベル」で4から5と自己評価していたと報告されている。

 

さらに有意義なのは「笑わない」ことで糖尿病リスクが1.5倍増加するとのことです。
 大平氏らは「本当に笑いと糖尿病が関係するのか」を検討。ベースライン時に糖尿病のない地域住民4780人を対象とした横断研究を実施。笑う頻度が「ほぼ毎日」の人に比べ、5年の追跡期間における糖尿病発症のリスクは「週1-5回」の人で1.26倍、「月1-3回またはほとんどなし」の人で1.5倍に上昇していたことが分かった(平成25年度厚生労働科学研究報告書)。「これにより、“笑わないこと”が糖尿病のリスクになるのではないかということも分かってきた」。と言われています。

 ところで、「笑い」の研究において「笑い」をどう測定するのか。以前はビデオモニタリングによる地道な検討が主だったようだが、検討の性質上「被験者が撮られている意識を持ってしまう」ことによるバイアスが生じる恐れがある。また、評価者が「被験者が本当に笑っているのか、それとも咳をしているのか」などをビデオ映像で判定する作業もかなりの重労働になっているとのことです。
 呼吸モニタリングを用いたエネルギー消費量の評価もあるが、「かなり苦しい検査で、研究に協力してくれた学生が1時間の装着で最後の方は笑って泣いているのか、痛くて泣いているのか分からなくなるほど苦しい」(大平氏)。
 しかし、最近では頸部にBluetoothマイクを装着し、咳や体動に伴う雑音と「爆笑」を高い精度で識別できる「爆笑計」が開発され、「笑い」を簡便かつ被験者の負担が少ない状態で客観的に評価することも可能になっている(平成25年度厚生労働科学研究報告書)。「はっはっはっはの音節が4回続くと“1爆笑”と数える。笑いの回数が多い日で84爆笑を記録することもある」そうだ。

皆さんもぜひ笑いを日常生活の中に取り入れてください。

 

追記 (2021 July)

最近に出版された本に「がんが消えていく生き方」があります。その中の五番目の項は「微笑生活」とありました。

しかし、私の見解では微笑ではあまりいみがないのです。笑いでがんを消すためには「微笑」ではなく「爆笑」が必要なのです。しかし、実際には一人で爆笑することは不可能なのです。でも、日本にはそのような意味では最適なのは寄席があり、そのようなところで大笑いすることも必要なのです。

しかし、問題なのは一人で爆笑することは不可能なのです。これが大きな問題なのです。すくなくとも誰かと話す必要があり、そのような的に無意識的にわらうことが出来れば一番良いのですが・・・・・。

幸いに、私は自分のあだ名を自ら「ゲラオさん」としているように、無意識的に会話中に爆笑できるので、高齢者になっても元気でいられるのかもしれません。

次はマクドナルド薬局か

現在の調剤薬局の多極化はすざましいものがあります。
門前薬局といわれる主として調剤専門の薬局がコンビニなどに併設されたり、本来の薬局業務そのものが変形し、処方調剤業務のみに関心が集中している傾向が伺われます。

調剤業務というものがそんなに儲かること自体が問題なのですが、ともかくコンビニ、スパ-、などが目の色を変えて調剤業務に進入しています。

もしこのままでいくと近い将来はマクドナルド薬局が出来るかもしれません。つまり、マクドナルドの店の一角に調剤室を作ればよいわけですから。

このような調剤専門の業務が本来の薬局業務から解離していくことに誰も違和感を感じないのでしょうか。もしこのまま進むといずれ院外処方箋の減少に向かい、最終的には医薬分業の崩壊に繋がる可能性が見えてくるのです。それでなくとも最近の調剤関係業務の見直しが話題になっており、処方箋調剤が再び病院内に戻る可能性があると思われるのですが、どうなのでしょうか。

MRのための マーケッティング・ツールとしてのファルマコビジランスの実践

以下は前にあるところで講演した内容のものです。

「MRのための マーケッティング・ツールとしてのファルマコビジランスの実践」


1.現状分析
  1.1 現在の添付文書情報の問題点
現在の医療用添付文書は基本的には医療関係者が一応目を通すものとの大前提で作成されている。しかし、医療関係者、ことに臨床医がそれらを参照する機会は意外と少なく、全く新しい医薬品の場合とか、初めて使う医薬品の場合には参照することはあるが、その実態はあまり明らかにされていないし、またそのような実態調査を行うことにはほとんど関心が示されていない。新薬のような場合には訪問したMRを通じて処方用量、効能、効果、安全性などにについて説明を受ければ、あとは各医師の経験の積み重ねで処方実態が形成されることになり、よほどのことがない限り該当医薬品の添付文書は日の目を見ないことが多い。しかも、紙の媒体としての添付文書は病院内の薬剤部に一括保管されていることが多く、またPCで添付文書を参照することが出来るので、したがって、今日では紙の媒体としての添付文書の存在価値はあまりない。

   極言すれば、添付文書は日常の医療行為の中ではその存在価値は意外と極めて低いのが普通である。過去において、ある大学の先生が、添付文書は生命保険証の裏に書かれてある細かい契約内容の詳細文を誰も見ないのと同じように、ごてごてといろいろと書かれてある添付文書なんて誰も読みませんよ、と新聞に投稿、豪語されていましたが、案外本音なのかもしれません。でも、なぜそのような極論がまかり通るのでしょうか。その理由の一つには添付文書の記載内容は実際の医療の現場のニーズを反映させていないからだと考えられます。

  1.2 情報の性格:「点情報」から「球情報」提供
基本的には、情報には「点情報」、「線情報」、「球情報」と三つがあり、「点情報」はただ存在するだけを伝え、「線情報」はその情報に関連した付加価値情報をも意味し、最後の「球情報」は付加価値情報に加えて背景情報、関連総合情報を意味している。ファルマコビジランス分野で一番大切な安全性情報が危険情報と捉えられないためには最低、「線情報」が大切であり、最終的には「球情報」が必要になる。たとえば、一つの副作用に関連して、その存在および発生頻度は「点情報」であり、現在の添付文書記載様式である。しかし、その副作用がどのような時期に発生しやすく、どのような状態で進展し、どのくらいの期間にわたって継続し、その治療方法は、そして転帰はどのようになるのか、などの実務的な情報は「線情報」になるが、このような情報は添付文書には全く記載がない。もっとも、厳密な意味では「副作用発生率」は「点情報」ではなく「線情報」扱いになるかもしれないが、極めて概念的な情報であり、「点情報」に近い。
 さらに、その副作用に関連した疫学情報、または副作用とは関連しなくても同じような症状がどのような疾患でも起こり得るのか(たとえば鑑別診断、因果関係評価に参考になるような情報)、あるいはそのような副作用の発生機序はどうなのか、どのような要因(年齢別、性差、投与期間の長短、など)がその発生に関与しているのか、などが「球情報」になる。例えば、軽微な副作用とされる「吐き気」が、添付文書に記載されているだけでは単なる「点情報」に過ぎない。しかし、少なくともその「吐き気」が服用当初に見られるだけで服用継続中の数日後には自然消失するものなのか、あるいは服薬期間中ずっと継続するものなのかということは、患者にとっては大切な情報になる。しかし、こんな簡単、しかし重要な情報はどこにも記載されていない。そもそもそのような情報を解析、演繹できるだけの情報量(副作用症例の絶対数)が不足しているからである。なぜなら、そのような軽微で既知の副作用は誰も行政あるいは企業に報告しないし、また企業もそのような症例の収集には全く関心がなく、場合によってはMRがそのような情報の受け取りを間接的に拒否することは知られている。
つまり、最終的にはコンピューターに医薬品名と副作用名を入力すると、これらの総合的な情報、「球情報」が ただちに画面に現れるのが望ましい。そのためにはたとえ軽微でもすべての副作用がすべてのデータとともに報告されてくれば、それらを社内の関連部門が解析して、それぞれの「球情報」をMRを通じて医療関係者に自動的に提供できるようになる。繰り返しになるが、医学的にはたとえ軽微な副作用でも、患者にとっては必ずしも軽微とは受け止められないこともある。
    すなわち、安全性に関連した情報について言えば、「球情報」はひとつの副作用項目に関連したいろいろな付加価値情報を意味している。ただ、ここで注意しなければならないことは、確かに「球情報」はもろもろの付加価値情報の集大成版と考えるべきであるが、付加価値の「付加」は企業が努力していろいろな情報を作成することができるものではあるが、「価値」そのものは企業が判断するものではなく、その受け手である医療関係者が判断するものである。したがって、一生懸命企業が「球情報」を念頭に置いていろいろな情報を収集、解析、提供しても、それが顧客である医療関係者のニーズに会わなければそのような付加価値情報は全く意味のないものになり得ることを銘記すべきである。つまり、一口に「付加価値情報」と言ってもその意味には二つの視点が介在することである。
1.3 無意味な「慎重投与」表示
   現在の添付文書の最大欠点は「慎重投与」の表現である。例えば、妊婦とか子供などに対しての「慎重投与」とは何を意味しているのだろうか。そこには何らの具体的な情報はなく、「点情報」以下である。この慎重投与の対象になる患者に対して臨床医はどのような方法で該当医薬品を投与しているのだろうか。実際にはいろいろな投与方法が存在するが企業はそのような貴重な詳細情報を積極的に収集しないのはなぜなのだろうか。おそらく、そのような情報はいままで臨床医から求められたことがない、だから求められることのない情報を苦労して集める必要はない、との暗黙の了解があるのかもしれない。あるいはそれらの情報は特別に行政からの指示がないので、あえて特別な対策は講じていないのかもしれない。しかし、実際は臨床医の全員がそのような慎重投与のいろいろな実例を経験しているのである。いっぽう、現時点では仮にそのような細かい情報、データを企業に求めても企業にはそのような情報はなく、したがって何らの返事も来ないから、聞いても無駄だ、との過去の蓄積が医師にはあるので、当然のことながら医師から企業には問い合わせが来ない。したがって、新しく医局に赴任した経験のない新任の医師はそのような場合には、先輩などに聞いて実際に医薬品を投与していることになり、企業に気楽に問い合わるといった発想は全くない。このように考えると、すくなくとも添付文書は医薬品中心の情報であり、臨床医中心の情報ではない。

   1.4 情報源の開拓
    ではそのような臨床医中心の実際例データは誰が収集するのだろうか。理論的には企業がそのようないろいろな症例を実際に集大成し、一つのデータべース化することが出来るが、それらの具体的な情報はMRが日常接している臨床医側に集大成されているにも関わらず、それらの情報、データの存在並びに収集に関して企業はほとんど関心がない。しかし、このような情報源への対応は一人のMRの力ではどうにもならず、企業全体がそのような概念、理念を如何に理解し、実行に移すかとの全社的な対応が必要になる。一般的に、このような情報・データが積極的にいまだ収集されていないということは、見方を変えれば他社に先駆けてそのような情報・データを集大成して臨床の現場に積極的に還元できれば、明らかな他社製品との差別化につながることになるが、このような発想は企業内ではあまり歓迎されていない。これほどの宝の山を全く無視しているのはなぜなのだろうか。
 
   1.5 情報提供の理論と実際 (既存情報の提供から創られた情報の提供へ)
      従来の医薬品情報の提供の代表的なツールとしては添付文書、場合によってはインタビューホームがあげられるが、前述のように実際にはそれらの情報源の価値はあまり高いものとして医療関係、とくに臨床医、には捉えられていない。したがって、臨床医が実際に何らかの新しい情報、データが必要なときにはそれらの既成の資料は何らの参考にもならないからである。つまり、既存の医薬品情報は実際の日常医療のニーズに十分こたえていないものと考えられる。
    
    もし、医療の現場で必要とする具体的なデータ、情報がある時点で必要なときにそれらの必要なものを医療関係者はどこから手に入れることが出来るのだろうか。つまり、企業にとっては実際の医療のニーズをどのようにして読み取り、それに答える努力をどのようにすべきかが大きなチャレンジになる。
  
  1.6 .現在の情報提供の問題点  
     繰り返しになるが、現在の添付文書内の情報は「点情報」であり、しかも、現実には既成の情報・データをもとにしてMRは情報提供活動を行っているといっても過言ではない。例外的に、医師から特別情報を求められたときには本社の担当部門に問い合わせてから対応することになるので、担当医師に即座にその場でコンビュターを駆使して要望された情報を提供できるようなシステムが完備しているとは限らない。一般的に、MRが即座に参考にできる基本的な情報は添付文書、インタビューホム、専門資料などの範囲内であり、それ以外の情報、データを求められたときには本社内の関連部門に問い合わせてから(つまり、時間的間隔を置いて)医療関係者に提供するといった極めて受身的な対応に終わっているのが普通である。
  
   1.7 受動的情報提供から積極的情報提供へ (待ちの姿勢から攻めの姿勢へ)
    しかし、企業内には意外といろいろな情報、データが蓄積されていることもあるが、以下に列挙した分野の情報は全体的には必ずしも満足できるような状態ではなく、今後積極的に収集し、解析し、提供することが急務である。

1) 市販前の安全性情報で不足しているもの中で重要と考えられる患者対象群には小児、高齢者、妊婦・授乳婦、肝障害ならびに腎障害などの併合疾患のある患者、治験の段階では対象になっていなかった該当適応症の重症疾患群などがあげられる。したがって、市販後になってからこれらのデータ、情報を収集しなくてはならない。そのほかの分野でも、遺伝子要因の影響などが挙げられる。
2) 前述のようなデータ、情報を収集するには、それぞれの副作用症例のすべてで少なくとも最低限必要とされるものに発症時期、継続期間、治療内容、経過、転帰などの詳細なデータ、情報などが既知、軽微な症例すべてが必要になる。そのほかにも基礎疾患と副作用症状との鑑別診断などもある。したがって、従来のように医療関係者から提供を受けたものだけ(主として安全性関連情報)をそのまま本社の担当部門に伝えるのではなく、必ずこれらの付加情報を念頭に置いて医療関係者から関連情報・データを積極的に求めるべきである。しかし、現実にはこれらのデータ、情報を即座に求めるのは極めて困難かもしれない。その理由のひとつは、医療関係者にとってなぜMRがそのような詳細な情報、データを企業が求めるようになったのかとの背景状況の理解の有無が大きく影響するからである。
3) 有効性情報の具体的表示
  実際の医療の現場でいろいろな疾患に医薬品が投与されているが、すくなくとも適応症として認
  められている各疾患での有効率、並びにその詳細、つまりどのような患者の場合には有効率が変 
  動するのかなどの実際例の収集、提供は殆どなされていない。極端な場合には、無効の場合もあ
  り得るが、どのような患者の場合には効果が認められないのか、その場合の患者背景等の情報は
  殆ど関心の対象にはなっていない。

  現在の副作用自発報告制度の大きな難点の一つに、無効例の情報がその報告対象にはなっていないことである。つまり、ある医薬品を投与しても効果がない場合には誰もそのような症例を企業か行政に報告しようと考える人はいない。しかし、既存の医薬品でほとんど有効性がない時は、最終的には市場から撤退させることが必要になることもある。数年前にBritish Medical Journal(BMJ 2010; 341:4737)誌に報告されていた論文によると、既存の抗うつ剤レボキセチンのすべての論文を検討したところその四分の三が未発表の論文であり、それらの論文すべてを改めて検討したところ全く有効性が認められなかったとのことである。このような例は稀かもしれないが、大きな問題だと考えられる。(過去においてこのような無効例が社会問題となった例として「脳循環改善薬」の場合が挙げられる。) したがって、もし個別症例としての「無効例」の情報もある意味では副作用と理解して副作用自発報告制度の対象にすれば、薬剤疫学的研究の経過を待たずに、早期の段階で「無効例」を検出できたかもしれない。

  したがって、定期的に企業は有効性情報の収集、フォローアップも行い、更にどのような状態の患者の場合(疾患状態、性差、年齢差、合併症の有無、効果発現までの時間的経過など)には有効率が低いのか、あるいは高いのかとの継続的な調査を行うことが求められる。しかし、現在の医薬品行政ではそこまでの情報を企業に要求しておらず、そのような有効率の変動は医療関係者それぞれの経験から判断されているものであり、そのような貴重な臨床情報・データを医療関係者全員が共有できるような情報提供システムは未だ確立されていない。このような情報を集大成出来、その結果を積極的に医療関係者に提供できるならば、明らかに他社との差別化情報に役に立つと考えられるが、企業はあまりそのような領域にまで活動を拡大することには積極的ではない。その背景には、そのような情報は医療関係者側の問題であり、さらにいままでそのような情報を医療関係者から求められたことは皆無であり、したがって、そのような情報には価値がないと暗黙の了解があるのかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか。いずれにしても、患者個人の観点から重要なのは、一般的に、医薬品が一人の患者に使われた時の有効率は100%なのか或いは0%なのかのいずれかにしかならないとの再認識が必要である。

   一般論として、適応症として認められている各疾患での有効率、並びにその詳細、つまりどのような患者の場合には有効率が変動するのか、あるいは無効であるのか、などの具体例の収集、提供は必要であるとの再認識が必要になる。

  医療用医薬品添付文書には適応症が記載されているが、それらの疾患に対して該当医薬品がすべての場合に100%有効とは限らないが、そのような有効率情報は現在の添付文書には通常は記載がない。例えば、セフェム系の抗生物質セファドロキシルの添付文書の効能・効果の適応症には、表在性皮膚感染症、深在性皮膚感染症、慢性膿皮症、咽頭・喉頭炎、扁桃炎、急性気管支炎、慢性呼吸器病変の二次感染、膀胱炎、腎盂腎炎、猩紅熱が列記されている。一般的にはこれらの疾患に本剤が投与された時にはほぼ100%効果があるものとの暗黙の理解があるのではないだろうか。ところが、これらセフェム系の抗生物質、たとえばセファレキシンの疾患毎の臨床効果は以下のような数値が報告されている。(ポケット版臨床医薬品集、薬事日報社)

           セファレキシンの有効率
---------------------------------------------------------------------------------------             
皮膚感染症(92.3%)  外科領域感染症(92.6%)  呼吸器感染症(79.4%)  尿路感染症(88.3%)  産婦人科感染症(100%) 眼科領域感染症(96.4%)  耳鼻科感染症(65.2%)  歯科・口腔外科感染症(82.4%)
---------------------------------------------------------------------------------------
 
もし、このような有効率の大きなばらつきをみた時、どのような反応を医療関係者はするのだろうか。つまり場合によってはあまり効果が期待できないような場合もありえるかもしれないので有効率が低い適応症には初めから使わないで、そのようなときには他のセフェム系抗菌剤を最初から使った方がよいかもしれないとの安易な選択技が生じる。しかし、どのような患者、疾患状態のときに使われた時には有効ではなかったかとの過去の実績が何処にも集積されていないので、該当医薬品投与前に医師はその医薬品選択に際して熟考、選択することは出来ない。実際に使ってみて初めてその効果が判明することになる。

1.8  同効類似薬の安全性情報・データ
   同効類似薬のような場合には必ずしも該当する他社医薬品の添付文書に記載がなくとも因果関係不明な未確認症例(つまり、有害事象症例)として該当医薬品の企業には報告があるかもしれない。従って、未知で重大な有害事象が初めて自発報告されてきた時、同効類似薬を発売している他の企業に問い合わせることが出来れば理想的であるが、現時点ではそのような動きは全く見られていない。(企業間での同効類似薬情報共有の必要性) 
   その逆に、同効類似薬、たとえば非ス剤、で時として横並び的に警告ないし副作用とか相互作用項目を追加することが行政指示で求められることがある。しかし、実際にそのような対応が自社製品の場合には果たして本当に該当するのかどうかとの検討の結果、横並び情報があてはまらないこともある。したがって、同効類似薬での横並び情報をそのまま機械的に受け入れる是非も検討する必要がある。

2.環境の変化
  2.1 患者の医療への関与
    最近では患者の医療への直接の関与が検討されている。では患者の医療への直接な参画とはどのような意味を持っているのだろうか。たとえば、患者の医療全体への関与ということをいろいろな団体が推進しているが、その結果はいまだあまり思わしくはない。例えば、「はばたき福祉事業団」が「患者が変われば、医療も変わる」とのスローガンのもとでいろいろな活動を続けているが、その結果はいまだあまり明るくない。一般的に、企業がそのような患者教育を念頭に置いた集会、啓蒙会などを積極的に推進していることは極めてまれである。
  
2.2患者の副作用報告の受け入れ
   最近では、安全性問題に関連しては、患者が直接副作用を報告することが出来るようになっているが、いまだその具体的な方法は明示されておらず、現時点ではいまだ検討の段階である。しかし、行政的には、患者は副作用を医療関係者と同列に報告することが出来ることが安全対策課長通知ですでに2005年に通知されている。

  2.3 医療の個別化への進展
     最近は医療の個別化(Personalized medicine)の概念が取り入れられつつある。その背景には副作用と有効性の個別化という概念が介在する。このことは医薬品の本質と大いに関係があり、医薬品には必ず副作用が多かれ少なかれ発生することである。逆に言えば副作用の全くない医薬品は存在しないとの概念は医療関係者や患者も全員が同じような感覚で共有されている。しかし、不思議なことに有効性に関してはこのようなネガティブな要因はほとんど話題にならない。このネガティブな要因というのは市販後の医薬品の有効性は常に100%ではないにも関わらず、誰もなぜ効かない場合もあるのかということにはほとんど関心がない。そこには、医薬品は100%有効であるとの暗黙の了解、期待があり、もし効かない場合にはある意味では広義の副作用、つまり医薬品のネガティブな一面であるとは考えないのはなぜなのか。従来の有効性、副作用もいずれも医薬品を投与した結果を観察し、有効かどうかを臨床的に、場合によっては臨床検査値から判断し、同時に副作用が発生するかどうかを観察するというスタンスである。そこにはなぜ、一部の患者の場合には有効でない場合があるのか、なぜ副作用は一部の患者に発生するのかといった個別的な要因解明はいままで無視ないし軽視されていた。このような状態は極言すれば、医薬品の効果は、「やった、効いた」「やった、見つけた」式の観察結果にすぎない。極言すれば「現象論的判断」ともいえるかもしれない。確かに、治験の場合では統計手法でプラセボと比較して有効性が何パーセントと判断され、科学的な判断がなされていると理解されている。しかし、治験の場合でも個人個人の無効例はその原因究明の調査研究の対象にはなっていない。

  今後の医療は疾患、症状の対症療法ではなく、患者を中心とした医療が求められるべきである。これは医療の基本であるにも関わらず、医薬品中心の医療社会ではどうしてもそのターゲットとして疾患が最優先されてしまう。血圧の高い人のために抗高血圧薬が開発され、高血圧の患者に投与して、血圧そのものが正常値に戻ればそれで治療効果は100点になる。そこにはなぜこの患者に高血圧が生じたのかとの原因究明は不要なのである。もし、この原因究明が個人レベルで詳細に検討、究明されれば、場合によっては抗高血圧剤投与が不要になるかもしれない。しかし、現実にはそのような医療は殆どの場合無視されている。そこには患者一人一人の特異性というものが完全に無視ないし軽視されているからである。

   しかし、最近ではこのような「現象論的・統計的判断」でなされた医薬品情報ではなく、患者個人個人を念頭に置いて、どのような患者の場合には有効ではないのか(あるいは有効なのか)、あるいはなぜ副作用が発生するのか、といった研究がなされ、実際に適用され始めている。これが医療の個別化といわれている。

   つまり、一人一人の患者にたいして有効性が完全に保証され、しかも副作用が起こらないような医薬品の使用方法が判明すれば、まったく理想的な医薬品の投与方法になる。もっとも、逆の立場から判断すれば、一人の患者に対してどの医薬品をどのように投与すれば有効性、安全性ともにほぼ完全な結果を期待できるのかという患者中心の考え方になる。このような考え方が医療の個別化、あるいは個別化された医療(personalized medicine)という新しい考えである。なお、日本語ではオーダーメイド医療のような和製英語表現も使われているが正しい英語表現ではない。つまり、医薬品中心の治療から患者中心の医薬品投与に移行しつつあるものと理解すべきである。

  2.4 市販後調査からファルマコビジランスへ
    薬事関連環境の変化の中で過去二十年くらいの間にファルマコビジランスという概念が浸透してきているが、その概念を理論的にしかも正確に把握しようとする努力は意外と軽視ないし無視されている。その典型例として、ファルマコビジランスは従来のドラックモニタリンク、市販後調査、安全性調査のような表現が新しい表現に置き換えられたものとの単純に理解され、したがってその日本語訳に「医薬品安全性監視」のようなあたかも安全性のみを念頭に置いている概念と理解されている。

安全性関連分野の表現の変遷
____________________________________________________________________________________________________
 (文献情報調査)  --> ドラック・モニタリング --> 市販後調査 --> ファルマコビジランス


   現実には、ファルマコビジランスという表現が従来の安全性対策、市販後調査などといった表現に置き換えられつつあり、現在では企業内の医薬情報部とか市販後安全性担当部門はファルマコビジランス部、あるいは品質保証本部のような表現に変化している。しかし、残念ながら多くの人は従来の市販後調査部門とかドラッグモニタリング部門とか医薬情報部などの名称がファルマコビジランスという表現に単純に置き換えられたものとの短絡的な考えしかない。しかし、この理解はファルマコビジランスの側面だけを念頭に置いており、なぜこのような表現が台頭してきたのかとの歴史的進展への理解がないと本来そのもつ意味を理解することは困難になる。

 2.5ファルマコビジランス概念の二面性
   過去においては、医薬品の開発、販売の許認可は一国内での問題であったが、医薬品のグロバリゼーションの結果、医薬品の開発、市販などの区分がそれぞれの国で異なり、世界的にそのような開発・市販後段階が混在し、一つの医薬品について市販前、市販後の区別が不明瞭になり、さらには市販後も単なる安全性中心の調査だけではなく、新規の適応症の開発、リスク・ベネフィット比評価、有用性の評価などその対象範囲が著しく拡大し、全体的な有用性にまで拡大された結果、新しい表現としてのファルマコビジランスが登場したと理解すべきである。

ファルマコビジランスの流れ
----------------------------------------------------------------------------------------------------
患者 => 副作用 => 安全性データの集積 => ファルマコビジランス(薬剤疫学研究、データマイニングをも含む)  => 有用性の個別化へ
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   しかしながら、現実と理想とではかなりの乖離が存在し、企業サイドとしては行政が規制しているいろいろな規則などの対応に追われ、理想的な倫理面にまでファルマコビジランスの実施には積極的に取り組まれていないのが現実である。したがって、その表現の日本語訳に「医薬品安全性監視」のような訳が付けられているのはあくまでも行政対応面のみを念頭に置いているからである。ましてや医療の個別化に向けた取り組みまでは企業は積極的に考えていない。

   一方、医薬品情報を対行政型からさらに企業としての倫理面にまで介入したファルマコビジランス分野までを自発的に収集、提供する場合に、どのような分野に拡大することができるのだろうか。特に、以下に述べるニッチ薬理学領域の部分のデータ、情報を企業が自発的に、しかも積極的に収集、解析、提供する部分であることを強調したい。現時点では、このような観点からの活動は多くの企業が実践していないので、もしこのような分野での活動を活性化できれば他社との差別化情報になり得る可能性は極めて高い。

   つまり、ファルマコビジランス概念の両側面、すなわち対行政の業務(逆の見方をすれば行政が企業に求めている最低限の業務)、そしてもう一つの局面は医療の倫理面での業務とに大別することが出来る。このことはちょうどコインには両面があるように、ファルマコビジランスという概念にも両側面あり、その片面だけに限局すれば「医薬品安全性監視」と訳しても大きな間違いにはならないかもしれない。

             ファルマコビジランスの両側面
   --------------------------------------------------------------------------------
      1) 行政が規制している側面 (副作用自発報告、市販直後調査、PSUの作成など)
          ⇒ 企業が実施すべき最低限のデーター収集、情報提供 
                 (レギュラトリサイエンスの研究対象)   
⇒ 現在の企業が実施している業務
2) 企業独自のイニシャブによる医療情報の収集、解析、提供 (「慎重投与」
        などの表現で概念化されている分野の実務的な情報の収集、解析、提供など)
          ⇒ 企業が積極的に実施し、最終的には医療の個別化に貢献するデータ、情報の
            収集並びに提供  
   ----------------------------------------------------------------------------------------
   
このように本来あるべき姿のファルマコビジランスは行政が求めている以上の医薬品の全体像を積極的に収集、評価、情報化、そして提供という広い分野の活動を意味している。しかし、このような理想的な活動すべてを企業各自のイニシァティブに期待することは非現実的であるので、そのような分野を行政面で少しずつ実施するための検討方法として、最近になってレギュラトリーサイエンスという概念が生まれているものと理解することができる。すなわち、最近になって日本でもレギュラトリーサイエンスという概念が取り入れられ、レギュラトリーサイエンス学会が2010年8月に設立され、かなり急速にその概念は浸透しつつある。ちなみに、FDAが定義しているレギュラトリーサイエンスという概念は医薬品の安全性、有効性、品質、有効性の評価を対象にした新たな規制を念頭に置いている。(Regulatory science is the science of developing new tool, standards and approaches to assess the safety, efficacy, quality and performance of all FDA-regulated products) ちなみに、従来の日本公定書協会は2011年6月に、医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団と改名されている。

   ここで、興味あることはMRの定義にも二通りあることである。このMRについて、厚生労働省は、平成17年4月の改正薬事法施行にあたり、「GVP省令」において、MRを「医薬情報担当者とは、医薬品の適正な使用に資するために、医療関係者を訪問すること等により安全管理情報を収集し、提供することを主な業務として行う者」と定義している。
  一方、財団法人医薬情報担当者教育センター(現在のMR認定センター)の「MR教育研修要綱」では、MRの定義を「医薬情報担当者とは、企業を代表し、医療用医薬品の適正な使用と普及を目的として、医療関係者に面接の上、医薬品の品質・有効性・安全性などに関する情報の提供・収集・伝達を主な業務として行う者」と定義している。
  
  このようにMRの定義が行政の解釈と民間の解釈との間に乖離があることは極めて興味深い。つまり、行政サイドからは安全性にのみ重点を置いているのに対し、民間は有効性、安全性などと極めて広範囲の情報収集、提供を念頭に置いていることになる。したがって、民間の定義にしたがえば、MRは該当医薬品のあらゆるデータ、情報を収集、情報化、提供という大義名分があるので、医薬品情報収集・提供の拡大・充実に向けて大いに活躍できる立場にある。換言すれば、ファルマコビジランス本来の姿、つまりファルマコビジランス概念の「両側面」全体を念頭に置いた活動がMRに期待されていることになる。いっぽう、行政の立場からすれば、市販後の段階では最低限、安全性に関しての情報を収集してくださいとのスタンスである。

   いずれにしても、医薬品についてはその有効性、安全性、有用性情報・データを総合的に収集し、医療社会に貢献し、最終的にはレギュラトリーサイエンスは行政指導を通じて国民の健康に貢献することを最終目的としている。このように理解すると、ファルマコビジランスが最終的には医薬品治療の最適化、患者指向の情報収集、提供といった総合的、両側面的な概念と理解すると広義の意味でのレギュラトリーサイエンスと同じことになる。もっとも、よく考えてみれば最終目的は同じではあるが、レギュラトリーサイエンスの立場は医薬品の許認可をするという上からの立場(つまり行政サイエンス)であり、その反対にファルマコビジランスは患者を念頭に置いた実際面の立場(医療の患者への貢献サイエンス)であり、下からの視点(医療関係者、企業、患者)であると考えると、どちらも全く同じ目的に向かっているものと解釈できる。基本的には、ファルマコビジランスの両側面を念頭に置いた活動を積極的かつ自主的に常時に企業が実行していれば、何も特別にレギュラトリーサイエンスという名目の活動は不要になるかもしれないが、現実的には、行政が法律、規則、マニュアルなどを作成し、企業がそれに従うという従来の企業の受け身的立場が世界的見地からみても残念ながらいまだ一般的である。なお現実を考慮すればファルマコビジランスの両側面を企業は実践化しておらず、したがって、行政がレギュラトリーサイエンスという概念のもとにいろいろな規則、法律などを検討、制定することになっているのが現実である。

  2.6 安全性関連情報の共有化の問題 (同効類似薬、ジェネリック製剤)
    医薬品の安全性に関連して、今までにいろいろな重篤な副作用が社会問題となっており、日本では薬害という表現が広く使われている。一方、医薬品には先発品と後発品との存在もいろいろな問題を抱えている。しかも、理論的には、それぞれの企業が独自にそれぞれの情報収集、提供を行っていることになる。
   
    とくに最近では医療費の削減という観点からもジェネリック製品の使用が推奨されている。このような場合で問題になるのは同じ有効成分を有する先発品企業とジェネリックメーカーはいまだに安全性関連情報の収集、評価、伝達をそれぞれ別個に行っているのが現状である。しかし、こと安全性の問題になるとその影響は同一成分含有の医薬品すべての製品に均一に影響を受けることになる。このような場合には、ある重大な副作用で問題となっている医薬品は当社のものではないので、当社とは関係がありませんとのスタンスを保つことは不可能である。つまり、同一成分を有するすべての製品(先発品、後発品を問わず)に大きな影響を同時にもたらす可能性が大である。つまり、こと安全性に関しては先発、後発を問わず、すべての企業が「呉越同舟の考え」が必要なのである。

   したがって、大乗的な見地からは少なくとも安全性情報、データの共有化が今後検討されるべきである。つまり、こと安全性に関する重大な問題が発生したときにはその該当成分を有する製品を扱っている先発企業、ジェネリックメーカーのすべてがまったく同じ影響を受けるとの認識が必要である。しかし、現実にはそのような考えはほとんど見られない。理論的には、このような対策はレギュラトリーサイエンスの検討課題にすべきことかもしれない。

  2.6.1 酸化マグネシュウムによる高マグネシュウム血症から学ぶこと
     この安全性に関しての呉越同舟の概念が全く欠けていた例として次のような実例が挙げられる。数年前(2008年)にきわめて広範囲に、しかも約60年近くも便秘に対して誰にでも使用されている酸化マグネシュウムによる死亡例が新聞報道され、添付文書に「重要な基本的注意」と「副作用、重大な副作用」の二項目が新たに追加された。いずれの死亡例も高マグネシュウム血症が原因とされている。この問題については医薬品情報の取り扱いという観点からは極めていろいろな死角が潜在する。その問題点を掘り下げてみた。

   酸化マクネシュウムの従来の添付文書の副作用欄にも「長期大量投与により高マグネシュウム血症が現れることがあるので観察を十分に行い、異常が認められた場合には、減量または休薬などの適切な処置を行う」との記載があったが、現実にはここで記載されている「異常」に気がつくことがほとんど不可能に近いことである。つまり、ここにはどのような異常かの注意事項の記載がなく、もし臨床所見で気がつかなければ血中マグネシュウム値の測定以外には高マグネシュウム血症の可能性を知るすべがない。しかも、その初期の臨床所見は高マグネシュウム血症独特なものではなく、日常頻繁に見られる症状(例えば、起立性低血圧、嘔気、嘔吐など)が多い。つまり、ごく通常の軽微な副作用であり、したがってそれらのほとんどが自発報告対象例としては誰も考慮しないものである。

   さらに一般的な便秘の治療に際し、定期的に血中マグネシュウム値を測定することは極めて非現実的な検査であり、日常診療時にそのような検査を考慮する臨床医はほとんど皆無に近い。ここでも、添付文書記載事項が如何に守られていないかを間接的に裏付けるものである。もっとも、添付文書に記載の「異常」は臨床検査値を意味しているのではなく、臨床症状を意味しているものと考えられる。

   この酸化マグネシュウムは1950年から便秘薬、制酸剤として広く使われ、現在でも一般的に広く使われている。しかも、往時の日本薬局方の解説にも、腎機能の障害がある場合には中枢神経系の中毒を起こすと記載されている。最近の推定では年間4500万枚の処方箋(延べ発行枚数)が発行されているといわれている。

   ところが、この新聞報道に端を発して改めて詳細が調査されてみると、2005年4月から 2008年8月までの約三年間に高マグネシュウム血症の報告例が15例行政当局に報告されていることが判明した。それ以前の報告例は不明なるも、それまでに企業に寄せられた類似症例は前記の15例を含めた25例となっていた。これらの数字から推測すると約三年間で15例は極めて少なく、氷山の一角にすぎない可能性が極めて大である。つまり、2005年4月以前には(理論的には1950年から55年にわたり)わずか10例の類似症例が複数の企業内に集積されていたことになる。それも数多くある企業内に散発的に別個に収録されていた可能性が高い。なお、これら25例も行政がそれぞれの企業に指示して改めて再調査された結果明白になったもので、それまでは企業から自発的には報告がなかったことになる。

   酸化マグネシュウムは腸管からはあまり吸収されず、比較的安全な薬とみられている。また実際に長期連続使用しなければ通常の場合は安全である。しかし、年単位の長期使用でなくとも、何らかの原因で腸管内での異常吸収が起こって、中毒症状としての高マグネシュウム血症が発生することは考えられる。基本的には酸化マグネシュウムは腸管からはあまり吸収されず、たとえ吸収されても腎機能が正常であれば体外にすみやかに排泄され、まず問題はない薬である。したがって、たとええ長期服用しても腎機能が正常で、しかも何らかの原因で急激な異常吸収が起こらない限り、安全な薬として扱われてきた。

    酸化マグネシュウムによる高マグネシュウム血症はすでに2004年の透析学会誌に二例発表されているにもかかわらず、2007年に関西の医療機関から行政への直接報告がなされるまで、全く問題視されていなかったことになる。また、2007年には日本麻酔科学会誌に同じく酸化マグネシュウムによる高マグネシュウム血症例が報告されていた。しかし、その後の行政指導に際しての添付文書改定にさいしては、この三例についてはまったく言及がなかった。酸化マグネシュウムを発売しているのは中小企業ばかりであり、その数は十社以上にものぼり、問題はそれらの企業の安全性情報に対する従来の取り組み方が極めて低調であり、結果的には高マグネシュウム血症報告例が極めて少ないことにも関係がある。つまり、酸化マグネシュウムはあまりにも普遍的、かつ安全な医薬品であり、しかも数あるそれら販売企業は中小企業であり、安全性情報収集という観点からはあまり満足するような社内体制ではなかったことが推測される。その証拠には前期の学会報告症例、三例はすくなくとも企業から行政には報告されていないことになる。このような社内環境は一般的にはジェネリック製品販売企業全体にあてはまることが多い。なお、このような場合、学会報告では商品名が明記されていないので、どの企業も自社製品としては取り扱わなかった可能性も高かったのかもしれない。あるいは上記学会誌が通常の文献検索の対象範囲内には入っていなかったのかもしれない。

この例から学ぶことが出来るのは:
1) 文献情報の取り扱い  (とくに学会報告例をも広く収集、できればインターネット情報も)
2) ごく普通の軽微な副作用症例も意外な重要性をもたらすことがあること
 3) 製品名ではなく成分名での報告例の取り扱い
 4) OTC薬、ジェネリック製品などの場合の安全性情報の各社共有化の必要性 (すくなくとも、安全性情報に関しては呉越同舟の概念が必要で、各社共通のデータべースを構築すべきであ
  る。)
      
3. ニッチ薬理学領域の臨床情報の積極的収集・提供
    ここでニッチ薬理学と特別に区分したのは以下に述べる領域は通常の臨床薬理学領域の影に隠れていて、あまりそれらの重要性がいまだ認識されていないものとも考えられ、現時点ではあまり重視されていないために、ニッチ、つまり隙間(あまり顧みられていない)のような意味に便宜上使っている。 

   このニッチ薬理学分野として考えられるのは以下の表に纏められるかもしれない。もっともこれらの分野でもニッチ以上に深く研究対象となっている分野もあるが未だ例外的な存在である。例えば一部の領域では国際学会が設立されている場合もある。その例として、国際性差薬理学会が2006年に設立されたが、四年後にはこの学会はその活動を停止している。 
    
ニッチ薬理学領域  
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  時間薬理学Chronopharmacology、 
遺伝薬理学Pharmacogenetics、  (一般的には薬理遺伝学)
ゲノム薬理学Pharmacogenomics  
性差薬理学Genderpharmacology 
心理薬理学 Psychopharmacology  
年齢差薬理学Natuspharmacology  (natusはラテン語で年令を意味する)
小児薬理学Infanspharmacology、
高齢者薬理学Gerontopharmacology
人種薬理学Ethnopharmacology 
   (なお、人種薬理学と遺伝薬理学とはかなり密接な関連性がある)
民族薬理学 Ethnopharmacology  
(なお、民族生物学, 人種生物学もethnobiologyと同じ表現が使われているが、人種と民族とでは意味が異なる)
体重薬理学Ponduspharmacology   (pondusはラテン語で体重を意味する)
気候薬理学 Climapharmacolgoy   (climaはラテン語で気候を意味する)
妊婦薬理学Graviduspharmacology (gravidusはラテン語で妊娠を意味する)
個体薬理学 Individual pharmacology   
  * 一部の英語表現は必ずしも確立されているものではなく、便宜上演者が造語したものである

3.1 今後積極的に収集すべきニッチ薬理学領域並びにその方法・対応
これらのニッチ薬理学分野での実際例を全部ここら紹介することは不可能なので、その概念を知るために、それらの一部を以下に列挙してみた。

[具体例]
その1.  妊婦薬理学
    現在の添付文書記載の不完全例の一つとして妊婦、産婦、授乳婦等への投与情報は極めて曖昧、かつ不十分である。例えば「妊婦又は妊娠している可能性のある婦人には投与しないこと。また、投与中に妊娠が判明した場合には、直ちに投与を中止すること」のような記載方式は稀ではないが、もし妊娠中に投与された場合には、その後の追加調査が必要で、直ちに投与を中止するだけではなく、その後の出産までの経過を観察することを義務付けなくてはならない。(もっとも、現時点ではこの問題に関連してレギュラトリーサイエンスの検討課題にいまだ取り上げられていないようである) その結果、似たような症例が蓄積されれば、妊娠のどの時期で投与されていれば問題がないのかとの極めて有用な情報が得られるかも知れない。ここで必要な情報とは服用時期、妊娠時期、妊娠中の経過、出産時の状態、胎児の状態、出産後の生育状態などが挙げられる。

 実はこの領域の安全性情報に関しては一番必要な情報であるにも関わらず具体的な情報はほとんど収集されていないし、また誰もあまり関心を持たないと言っても過言ではない。たとえば、過去の新型インフルエンザ流行に対して、タミフルを妊婦に使用することが産婦人科学会により推奨されていたが、現時点では妊婦への投与が胎児に対してどのような影響があるかは全く不明でありまたその投与を推薦した学会もそのようなフォローアップには関心を持っていなかった。本来ならはタミフルが妊婦に投与されていたすべての症例を出産まで追跡調査をすることを義務づけるくらいの指示がないとこのような情報の収集は不可能に近い。ここでも行政指示の有無が大きな影響を示している。

   そのほかの例として、若い女性が避妊薬を長期にわたり使用したときにおこる副作用の一つに骨量低下が知られているが、この副作用はデチャレンジによって骨量が数カ月後にはまたもとに戻る可能性があることは極めて大切な情報になる。このような場合、更に多くの妊婦への投与症例が集積されてくれば、それぞれのデチャレンジ期間ごとの回復期間、年齢との関係などの数値(%)が得られようになり、より具体的な情報となる、

   また、抗うつ剤「パキシル」の妊娠中の服用で「先天異常などのリスクが高まる」ことが指摘されていた。本剤は国内で延べ100万人が服用されているといわれ、妊婦へのリスクは2006年、「添付文書」に使用上の注意として追加された。ところが、新聞報道(2009年10月21日 毎日新聞)ではパキシル服用で新生児の先天異常などの副作用が8年間で約30件あった。2008年度までに国に寄せられた副作用報告に、新生児の心臓の一部が欠損する先天異常が7件、生まれた直後に痙攣や呼吸困難などを起こす「新生児薬物離脱症候群」が21件含まれていた。また、流産や子宮内胎児死亡の報告もあった。しかし、他の抗うつ剤では、これらの先天異常の例は報告なしとされていた。このような場合でも、30症例の詳細なデータは公表されていない。もしかしたらそれぞれの詳細なフォローアップがなされていないのかもしれない。つまり、このような場合でも「点情報」での段階で、それ以上の詳細な追跡調査はなされていないようであった。

    このように、妊婦への投与例ではいろいろな有用情報収集の可能性が至る所に存在するが、それらの情報を積極的に集大成するような動きは一部のセンターが試験的に試行錯誤しているくらいである。ところが、副作用/有害事象報告用紙には必ずと言ってよいくらい「妊娠あり/なし」にチェックするようになっているが、なんの目的でこの項目があるのだろうか。なお、一部の企業では、もし用紙の「妊娠あり」の項目にチェックが付けられてある場合にはその後のフォローアップをしている例もあるが、実際にどのようなフォローアップをしているのかは公表されておらず、まったく不明である。すくなくとも対外的にそのようなデータを医療関係者に公表ないしフィードバックすべきである。もし、そのようなデータが集積しているのなら積極的、かつ前向きに活用すべきである。

その2. 高齢者薬理学
  世界各国の共通現象の一つに高齢者への多剤投薬と副作用発生への関心がきわめて低いことが挙げられ、保健衛生上の主な課題の一つともいえる。例えば、高齢者に頻繁に処方される睡眠薬の使用実態は闇に包まれた状態であり、したがってそれらの睡眠薬による副作用はあまりにも普遍化しているので、誰も副作用として報告の対象にはしていない。高齢者への睡眠薬の自動的ともいえる安易な投薬は、場合によっては薬効の遅延に起因する朝のふらふら感による転倒が原因で骨折を生じる間接的な誘因にもなり、その結果、入院、誤嚥、肺炎、死亡といった典型的な副作用発生はあまりにも既知のことであり、副作用自発報告の対象にはならないのが現実である。(高齢者施設は副作用の宝庫)

その3. 時間薬理学、
抗がん剤の一日一回投与でも、午前中に投与するのと午後に投与するのとでは、白血球や好中球の減少に差があるとすれば、長期的には副作用の低減にも関係してくる。しかし、このような医療の現場での実務的な経験,データはなかなか外部には報告されにくく、公表されなければその医療機関内の情報にとどまる確率が極めて高い。しかし、MRが医師との間に良好な関係を築いていれば会話の中からそのような情報の入手はそれほど難しくはないはずである。

その4 小児薬理学
一般的には治験の段階では治験参加者は大人であり、特別な医薬品を除いては子どもの用量は市販後に得られた経験をもとに医師がそれぞれ設定しているのが普通である。一応、小児用量の換算式はあるが、これはあくまでも目安に過ぎない。現在の医療用添付文書の用量記載で、小児用量の規定があるのは全体の約25%と言われている。勿論、医薬品によっては小児用の製剤もあり、そのような場合には原則として小児用の用量を改めて計算する必要はない。したがって、一般用の医薬品をもし小児、子どもに投与する必要性があった時、その医師にとって初めての投与経験のような場合、経験のある先輩からのアドバイスによるか、それとも理論的な計算で決めるか、のいずれかに限定されている。このように小児用量は市販後に得られた経験をもとに医師がそれぞれ設定しているのが現実である。しかし、実際には小児にも投与されている医薬品は沢山あるが、それらの経験は現場の医療関係者に集積されていて、それらの情報を医療関係者間で互いに共有しようとする傾向は全く見られない。何故、企業はMRを通してそのような情報を収集し、医療関係者に積極的に提供しないのだろうか。

   これらの少ない例はニッチ薬理学情報の重要性を認識するのにはある程度参考になるのではなかろうか。いろいろな文献調査をすればこれらの領域が関与している文献はかなりの数になるが、具体的な症例報告は意外と少なく、それらの多くは臨床疫学の範囲内である。したがって、それぞれの医薬品についてより具体的な情報はやはり医療の現場から吸い上げるしかない。

4. その他の日常業務に関連して得られ雑情報の重要性
「常識では考えられない医薬品の使い方」
貼付剤とか軟膏などの異常な使い方による副作用は意外と知られていない。つまり正常な使い方が当然と考えられる”常識”も場合によっては常識でなくなることもある。例えば、
⇒ インドメタシン貼付剤を背中一面に貼って胃がおかしくなる
⇒ サリチル酸軟膏を全身に塗って消化官出血が発生  などが挙げられる。
(医薬品の例ではないが、日よけクリームを夏の期間中の外出時に毎日こどもの身体全身に塗った結果、最終的にビタミンD欠乏症が発症)

「予想外の効果」
   かなり昔に、乳がんの治療中に他の目的で非ス剤が投与されていたところ、腫瘍マーカーが減少したことにある医師が気付いて、その非ス剤投与パターンと腫瘍マーカー値との変動をグラフで追ってみたところ、明らかな関連性が認められた。しかし、その当時、そのような一人の医師の経験は同僚からは全く相手にされず、当時の知識ではそのようなことはありえないと考えられていた。しかし、その当時でも動物実験データを詳細に検討するとそのような腫瘍への影響があることが知られており、その後になって臨床的にも似たような結果が散発的に報告されている。このような偶然の発見はその当時の一般的な知識により強く影響を受け、結果的にはそのような新しい情報は日の目を見ない確率が極めて高い。

「副作用の継続期間」
例えば、シメチジンで、若い女性がかなりひどい抑うつ状態をきたすことがある。この場合、投与を中止しても改善するまでに、3~4カ月以上を要するが、このような薬剤性精神障害が出た場合、その薬剤性精神障害が薬剤投与を中止しても治るまでには、どのくらいの期間が必要かというより具体的な情報をあらかじめ知ることは、患者にとっては極めて重要な情報かもしれない。

5.社内環境の検討、改善  
  以上のような観点から、それではMRはどのように対応すべきなのだろうか。しかし、ここで言及しているようなことはなかなか簡単に実践に移すことはこんなんと考えられる。そのためにはどのようなことをなすべきなのか。

5.1 専門別MRのメリット、デメリット
   最近のMRは、オンコロジー領域MR、循環器MRのようにそれぞれの専門分野別に分かれつつある。確かに今日のような医療社会では一人のMRがすべての分野の医薬品情報を担当することには専門知識的にも無理があるかも知れない。したがって、ある意味では当然の結果とも考えられる。それゆえに今後はMRもさらなる細分化がなされる傾向が強まるのかもしれない。

   しかし、このような専門化にもマイナスな面が介在することは致し方がない。たとえば、それぞれの専門領域のMRを特別に育成、配置しなければならず、当然のことながら企業にとっては人件費の増加にもつながってくる。さらに専門領域外の情報については専門化されたMRが持つ専門外の情報量が局限される可能性があり、従前の全般的なMRとの比較から不便さを感じるかもしれない。さらに医療関係者にしても従来型のMRプラス専門別MRの数に対応する時間的な余裕がなくなりつつあるのも事実である。しかし、このような問題は今後もどんどん増え続けるMRの絶対数を考慮したときには、むしろ現在のMRと医療関係者との接点の問題を根本的に見直さなければあまり意味がない。たとえば、現在のような人海戦術的な対応ではいずれ限界が来ることは明らかである。むしろ、現在のような対人関係の維持ではなく、最近のIT機器、たとえばブラックベリーとかアイフォーンなどを介しての情報請求・提供などに切り替えて、対人接触は最低限に保つのも一つの方法かも知れない。そのためにもMRの医療機関への訪問、接触方式を今後は根本的に見直さなければならないかもしれない。ちなみに、本年(2012)4月からメーカー公取協の接待行為に対する新運営基準が実施され、従来のようなMRによる医療関係者に対する華美な接待が禁止されるようになった。このような動きはむしろMRの本来あるべき姿への回帰を促すのによい機会になるのではないだろうか。

5.2 ファルマコビジランス専門のMRの導入
  現在のMRの業務は市販後医薬品の効能、効果を中心にしたものであり、場合によっては専門領域向けのMRが存在するが、ファルマコビジランス専門のMRは現時点では存在しない。その大きな原因はファルマコビジランスを安全性関連業務と同義語扱いにしているためであり、また医療関係者のファルマコビジランスという表現に対する全般的な理解が不足しているからでもある。たとえば、この忙しい診療の間になぜ詳細な安全性情報を報告する手間を取らなければならないのかとの根本的な理解が不足しているのも大きな問題である。多くの場合、医療関係者は副作用症例などを企業に報告してもなにがしかの謝礼金を企業から受け取るだけで、その後の社内でのその情報がどのように処理されたのかなどは全く知らされていないからである。(なお、副作用を企業に報告してその症例に対してなにがしかの謝礼を払うのは日本独特の悪習慣である。) さらに、障害となっている原因のひとつは、こと安全性問題に関してはネガティブな要因が極めて強く認識され、そのようなネガティブ情報をポジティブに取り扱うことが出来るとの認識が不足しているのも大きなマイナス要因になっている。したがって、この点に関し医療関係者同様に企業の上層部にたいする啓蒙も必要になるかもしれない。

  しかし、財団法人医薬情報担当者教育センターの定義にもあるように、MR本来の業務はファルマコビジランス全般、つまり前述したようにその定義の両側面、を念頭に置いたものである。したがって、従来の単なる添付文書改定情報提供などではなく、前述のような具体的な安全性情報、有効性・有用性情報を積極的かつタイムリーに提供すべきである。このように考えると、今後はファルマコビジランスをマーケッティング・ツールとして活用することを念頭に置くとやはりMRの所属についても大改革が望まれるのではないだろうか。それがまた企業の倫理にも合致することにもなる。

5.3 MRはどこに属すべきか(理論と現実の乖離)
   現在の企業内での組織ではMRは営業部に所属しているのが鉄則であり、これは世界共通である。しかし、本来のMRの定義から考えれば理想的にはむしろファルマコビジランス部門に属しているほうが理論的である。しかし、営業所属ということは、歴史的な経過、つまりプロバーと言われた時代の名残りとも考えられ、したがってその当時は専門的な医療情報の提供というよりはもっぱら人海戦術による医薬品の売り上げ向上に専念していた名残りであり、製品の売り上げということにのみ集中していた時代であり、その影響がいまだ続いているものと理解することが出来るかもしれない。つまり、現在のようなIT情報社会では如何に医薬品に関連する医療情報をどのようにして積極的、しかも瞬時に伝達するのかという時代になっていることを考慮したときにはやはりその所属について改めて検討すべき時代になっているものと考えるのが妥当ではなかろうか。それにしても不思議なのは前述のMRの定義には「営業への貢献」は全く触れていないのはなぜなのだろうか。

  ただ問題なのはそのような対応の内容である。今日のようなIT社会では社外からでも自社の安全性、有効性データべースにアクセスすることはできるが、実際にそのようなデータの内容・背景に日常業務として精通していないと正しい返答が出来なくなることがある。たとえば、ある製品で死亡例が今までに何例報告されてきていますかとの問い合わせは鬼門なのである。なぜかというとだ簡単に死亡というキーワードから本社のデータべースを使って答えを求めて提供することは極めて重大な結果を及ぼす可能性がある。つまり、死亡という事実が何を意味しているのかを吟味、理解することが大事である、死亡には、副作用による死亡(投与医薬品との因果関係あるかも)、イベントとしての死亡(投与医薬品との因果関係不明)、基礎疾患に起因するとされる死亡(疾病のアウトカム)、突然死(死因不明)などが混在するからである。

例えば、最近社会問題視されているタミフル投与によるとされる異常行動の発生、そして飛び降り死亡のような場合の対応である。この場合の死亡は副作用ないしイベントとしての死亡ととらえられるが、単なる死亡という結果だけを念頭に置いて検索し、死亡例がいままでに何例報告されていますと提供することは非常に誤解を招きやすい。つまり、タミフル服用に起因するとされる異常行動が起こっても六階のベランダから飛び降りるのと、一階のベランダから飛び降りるのとではその結果(死亡)が大きく異なるからである。一階からの飛び降りては死ぬことはまず考えられない。そのように判断すると、この場合の死亡というイベントの持つ意味が全く異なってくることになる。   

つまり、このような医薬品特性の副作用、イベントの解釈に精通していないと、ただ単に死亡という用語からデータべースから総数を取り出し、提供することは極めて誤解を招きやすいし、また場合によっては大きな問題を引き起こす可能性がある。

   したがって、現在のようにMRが営業部に属しているような状態では、少なくとも年に数回はファルマコビジランス部門内での研修をMRに義務付ける必要がある。

  5.4 24時間体制の確立・充実
  理論的には対医療機関に対して企業は24時間体制で情報の提供をしていることになるが、週末とか祭日のような場合にどの程度対応できるかはいまだ各社ばらばらではないだろうか。なお、医療用添付文書の「製品情報お問い合わせ先」欄に日曜は除くなどのアクセス制限が記載されているのは本来あるべき姿ではない。理論的には、このような24時間体制はMRでも出来る筈である。なおこのことに関して改めて「需要と供給の法則」を再認識する必要がある。すなわち、今まで、医療関係者からいろいろな質問などが週末には来たためしがなく、また医療関係者もそのような企業体制を熟知しているので、週末とか祭日には誰も企業に電話してきませんよ、との暗黙の了解があるのではなかろうか。実は、このような環境が過去何十年と続いていたのである。 

5.5 理論と実際
    今後のMRの活動内容をいままでに述べてきた概念をもとにして、改善、改革するにあたって第一番目に大きな障害となるのは企業内部、そして二番目に医療関係者の理解の二点である。
  
  5.5.1 企業内の体質
    最初の難点は企業内の体制をどのように改善できるかという点にある。いままで述べてきた諸問題を一挙に実現することはほとんど不可能である。したがって、MRレベルでできることはひとつの製品に限定した情報・データを収集し、最終的には前述したような活動を念頭に置いた既成事実を構築する以外には手段がないかもしれない。ともかく、行政も要求しておらず(つまり,レギュラトリーサイエンスとしての検討課題以前の領域)、また会社内でもそのような体制の根本的な改善、改革の必要性が認められていなければ当初の目的はある意味では自己満足的な行為に受け取られる可能性は極めて大である。

  5.5.2 医療関係者への働きかけ
   二番目の問題点は肝心の医療関係者の理解(あるいは認識の改善 )をどのようにして得られるかということである。基本的には医療関係者はファルマコビジランスの基本のひとつである安全性情報の企業ないしは行政への報告は薬事法では「義務」になっているが、医師法ではそのような規定はない。医療関係者はこの薬事法の責務事項をどのくらい理解、認識しているのだろうか。したがって、なぜ今になっていろいろ細かな情報・データをMRは求めるのかとの理解、協力がないとまさに「絵に描いた餅」に終わってしまう可能性が極めて高い。つまり、医療関係者に安全性、有効性、有用性情報などを積極的に企業に提供するメリットが感じられなければまず医療関係者の協力を求めることは困難になる。現在の医療関係者はファルマコビジランスの意義などを熟知する機会もなければ関心もない。

6. まとめ
  1) MRは医療情報・データの宝庫に毎日接しているとの再認識。
  2) 医療情報の提供は作られたものだけを提供するのではなく、MR自らも創る努力をすべ
きである。
  3) 同一有効成分を含有している医薬品の安全性情報は企業間での共有が望まれる。
        (安全性問題に関しては呉越同舟の概念が必要)
  4) 同一社内でのMR間並びに本社の各関連部門の各種医療関連情報をより有効的に共有できる電
   子システムの構築が必要。
  5) 医療関係者は基本的には副作用報告には積極的ではない。そこにはなぜ副作用を報告しなけれ
   ばならないのかとのデメリットの認識しかない。そのメリットを認識させることが出来るのは 
   MRである。 
  6)本年4月からのMRによる接待禁止をひとつの契機としてMRの役割を改めて見直すこと。
7. 終わりにあたり
  1)「でもね」社会環境からの脱却
       ⇒「現実を知らぬが仏の夢物語」に終わらせない。
  2) 社内コンセンサスの充実  ⇒ 「余計なことはするな」からの脱却。 
  3) とりあえずは活動目的を一つに絞る  たとえば、製品単位。  
  4) 目に見える成果を挙げるのが最終目的 (他社との競合情報を強調する)
  5) 理論的にはここで言及したようなニッシュ薬理学分野の情報収集方法はある意味では古典的な
   手法であり、本来ならは最先端技術を使った分子レベルでの解析によるべきであるので、ある 
   意味では過渡的な手法に過ぎないかもしれない。

(2012/5/7)


2015年2月 5日 (木)

日本語は難しい (10) 「氏」か「さん」か

新聞を読んでいて気になる表現の一つに「…氏」という表現があります。

例えば「安部氏」「鈴木氏」のような表現は普通なのですが、相手が女性の場合でも新聞では一様に「氏」を使っています。

例えば「塩野 七生」さんの場合も「氏」が使われ、「さん」は使われていません。相手が女性の場合には私は「氏」を使うのに抵抗があるのです。例えば、雅子皇后の結婚前のことについて触れる記事にも「雅子氏」となるのでしょうか。

辞典にも「氏は主として男性に使う」との説明がありますが、これも相手の性別を意識してはいけないという考えから一律に「氏」という表現が使われているのかもしれません。このような傾向は「看護師」にあります。以前は看護婦という表現が一般的でしたが、戦後になってからは男性もこの領域に入り込んできたので、男性、女性の区別をしないという方針で「看護師」と統一されたとのことです。従って、人の名前を使うときにはそのような性別を意識した表現を統一したのかもしれませんが、女性に対して「氏」を使えるのは若い世代であって、古い世代の人間にはなかなか理解できないのです。確かに、性別を意識した表現は差別につながるのかも知れませんが、本当にそうでしょうか。

そうなると、今後は性差を意識した表現は使われなくなるのでしょうか。例えば、女優、女医、などなど。ましてや女子高校生、女性チ-ムのような相手の性を意識した表現はご法度になるかもしれません。

これと似たようなことは「小生」という表現があります。これも男性が使うのが普通なのですが、女性が手紙の中で「小生は・・・」と会あるのを見ると極めて違和感があるのです。これも辞書的には「男子が同輩以下の者に自分をへりくだっていう語」とあります。


中国に関するジョ-ク (4) 東京は中国の都市名か ?

中国にはいろいろな都市がありますが、勿論日本語式に読むのと中国語式に読むとでは発音は異なりますが、漢字だけをみると日本語なのか中国語なのかの判断、理解は困難な場合もあります。

学校で地理を勉強をしていた中国の小学生が中国にはいろいろな都市名があり、南京とか北京のような南北の漢字と京という漢字の組み合わせがあることに気がついたのです。

日本についての地理を勉強していて彼らが曰く、

 「中国には南京とか北京の名前の都市名あり、その他にも西京という都市名があるのになぜ東京という地名は中国になく、日本にあるのかな。」

 「それは簡単だよ、東京も中国だからさ」(o^-^o)

考えてみれば東京という都市名は確かに中国的な観点から理解すると当然のことながら中国の一部になってしまうかもしれません。

でも考えてみれば中国にはどうして東京という地名が無いのでしょうか。理屈からいえば南京、北京、西京があるので当然のことながら東京もあっても良いことになるのですが・・・・・・。

日本で江戸が日本の首都となり、京都から東に遷都したので「京都の東」という意味で東京と命名されたとの説明が一般的ですが、なぜ「京東」とは言わず「東京」にしたのでしょうか。もっとも、「東の京都」と理解すれば「東京」となってもおかしくはないのですが、その時には中国の地名との関連性については誰も気がつかなかったのでしょうか。

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