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2015年1月の記事

2015年1月30日 (金)

私がブログを書き続ける理由、「傍観者になるな」

私のブログは一般の人のものとは少し異なり、自分の専門分野のことから始まって日常生活の中からの思い着き、新聞記事に対する感想、批判等いろいろな分野でいろいろな観点からその時々に考えたことを綴っています。

一般には一つの話題についてブログを書くのが普通のようですので、私のブログには一定の読者は多くないようです。ですから私のブログは「異見万華鏡」のようなものかもしれません。

最近の新聞にアウシュビッツ解放七十周記念に関連して、この収容所での生き残りの人が「傍観者になるな」ということを強調され、そのような状態になることが一番恐ろしいことであるとのことが伝えられていました。つまり、この収容所で働いていたドイツ人みな平凡な人であったのだが、みんな思考を停止し、周囲に同調して悪魔の所業に加担したことを指摘しているのです。

確かに、一つの集団の中で一個人の影響などはほとんどないのかもしれませんが、それで沈黙を保っていることは結果的には「傍観者」になることなのです。

そのような観点から何かを発信するということの意義をこの人からも学べるのです。まあ、このような意義の認識、記述はある意味では大げさなことかもしれませんが、要は何を言っても、何を書いても、意味が無いからといって止めるのではなく絶えず継続することも必要なのです。

2015年1月24日 (土)

個人情報保護法についての問題点

個人情報保護法についての問題点

現在の個人情報保護法についてはかなりの誤解、八階、曲解があるのです。私の理解では基本的にはこの法律は個人情報が「悪用される可能性」を防ぐのが目的なのですが、問題はその「可能性」への範囲、理解なのです。そもそも個人情報保護法の規制対象は「個人情報取扱事業者」であって、一個人が何らかの参考に使うことは問題が無いのですが、しばしば誤解され、個人情報すべてがこの法律の対象になるものと曲解され、その結果、クラス会の名簿とか電話帳なども往々にしてこの法律の対象になるものと理解されており、いずれもその作成そのものが法律違反であると捕らえられていることです。

したがって、この法律に関してはいろいろな笑い話的な事例が考えられるのです。例えば、以下のような事例が考えられるのです。

その①
   銀行の窓口でお金の出し入れに窓口の女性に通帳をだしてもすぐにはことが済まず、いったん椅子に座って待っていて、「鈴木さん---」と呼ばれて再び窓口に向かうのですが、これもこの法律を誤解、曲解するとこのような行為も法律違反になることになります。それにしても、このような習慣で問題が起こっていないのはまさに日本的です。もし、同じ待合室に鈴木さんが二人居たらどうなるのでしょうか。もっとも、最近は番号札を取って、待っていてその番号が掲示されるような方式になりつつありますが、このような場所での呼称について誰も個人情報保護法のことを切り出さないのが不思議です。

その②
  道路で警官に呼び止れて「あなたの名前は・・・」と職務質問を受けたときに「それは個人情報保護法で答えられませんよ」と答えたらどうなるのでしょうか。

その③
  学校で生徒が先生に叱られて、「君のお母さんの名前を教えなさい」と詰問されて「それは個人情報保護法で言えません」と答えたらどうなるのでしょうか。

その④
   学校での期末試験で悪い成績をもらった生徒ががっかりしているのをみた友達が「心配するなよ、うちに帰って父親が成績はどうだったと聞かれても、個人情報保護法にのっとって教えません、と言えよ」との助言を受けて、実際にうちに帰ってからそのとおりに言ったら、父親から殴られたとか。

その⑤
   郵便配達人が「お宅の郵便入れ」に名前が書いてないので、配達に困りますので書いて置いてくださいと言われ、「いゃ、それは個人情報保護法で禁じられています。

そのほかにも、ある団体の会報に会長や役員の名前は載っていても住所、電話番号が記載が無いのはこの法律で禁じられているからです、との説明なのです。もし本当にこの法律に従っていると考えるのならば、名前そのものも記載してはいけないことになるのです。

つまり、この法律の本質を全く理解せずにいたずらに誤解が蔓延しているのです。全く困ったことです。ですから、病院内での個人名を呼ぶことが本当に本人が知られたくないと思っているとは殆どの場合考えられないのですが、そのような傾向になってしまっているのが現実のようです。そうなると看護婦さんの白衣に名前があるバッジをつけるのもこの法律を誤解すると違反になるので、そのような名前の表示は駄目になるのです。つまり、看護婦さんの名前が悪用され、なんとかハラスメントになる可能性があるからです。

2015年1月23日 (金)

不能率、不親切な各種機関窓口

不能率、不親切な各種機関窓口

郵便局、両替所、銀行などの窓口は極めて不能率、不親切なのですが、日本では当たり前のように取り扱われています。

たとえば、郵便局に小包と払い込み用紙を持っていっても一つの窓口では処理してはくれず、郵便・小包窓口と払い込み窓口の二箇所に別々に行かなくてはならないのです。欧州の郵便局ではひとつの窓口ですべてが出来るのです。こんな簡単なことがなぜ出来ないのでしょうか。

また、銀行の窓口で預金とか引き出しをするときには窓口の女性に依頼しても、必ず待たされて呼び出されるのを待たなければならないのです。これもどうして即座に対応できないのでしょうか。

空港などの両替所も似たような状況でガラス越しに見ていると窓口に座っているひとが一人ですべてをするのではなく、窓口の女性が紙幣と伝票を客から受け取って、それを後ろに座っている上司に回し、この上司が依頼の外貨を取り出して窓口に戻し、窓口の女性がそれを再び受け取って、数量を数えてから客に渡すのです。このような作業はどうして一人の人が出来ないのでしょうか。

まあ、ある意味では雇用の増加にもなるのかもしれませんが・・・・。

2015年1月20日 (火)

薬剤師の検疫官はなぜ少ないのか

薬剤師の検疫官はなぜ少ないのか

 

最近の新聞報道によると、「検疫官30人増員」とあり、現在の検疫官は医師や看護師、事務官ら384人となっているとのことです。

 

検疫官に看護師がなれることは知りませんでしたが、本来は医師、獣医師、薬剤師が検疫官になれるのですが、今回の新聞報道には薬剤師や獣医師が抜けていました。ということは薬剤師や獣医師の検疫官が極めて少数なのかも知れません。

 

本来、薬剤師は衛生化学、公衆衛生、裁判化学などをも勉強しているので、検疫官になるのは問題が無いのですが、やはり職業としての検疫官はあまり魅力が無いのでしょうか。基本的には薬剤師は検疫官に最適な教育を受けているのです。看護師が検疫官の大部分を占めていることはもしかしたら薬剤師は検疫官の職を知らないかもしれません。

 

薬剤師の職域は単に薬局だけではなく、衛生関連業務もいろいろとあるり、検疫官もそのひとつなのです。それとも新卒の人に対する就職活動の範囲にはこのよう職業は全く考慮されていないのかもしれません。検疫官とか麻薬検査官などは薬剤師が活躍できる分野なのですが・・・。

 

もっとも、最近の薬学教育六年制の導入以降、その教育内容がなぜか医療職の領域に力が入り、応用薬学、衛生薬学領域の教科がなくなってしまっているのは残念なことです。例えば、現在の薬学教育の中には裁判化学の教科が廃止されたり、あるいは、公衆衛生学なども軽視されている傾向が強いと思うのです。薬剤師の職域は病院とか薬局だけではなく、検疫官、裁判鑑識官、保健所衛生技師、麻薬取締官、などいわば脇の領域の職場もあるのですが、これらの分野の話題は薬剤師関連メデイアには残念ながらほとんど登場してきません。

 

私が、薬科大学を卒業してから、一年間過程の衛生技術部門を当時の国立公衆衛生院で勉強した時には大学では教えてもらえなかったいろいろな分野の知識を得ることが出来たのですが、本来ならば六年制に薬学教育が拡大されたときに、これらの分野の教科をも導入すべきだったのですが、なぜか完全に無視されてしまいました。

 

もっとも、検疫官になることの唯一の欠点は転勤が多いことです。なぜならば、検疫官は空港、港などに配属され、ある一定の期間が過ぎると転勤させられる可能性が高いのです。

追記(2020 March)

最近、出版された本に厚労省の麻薬取締官の瀬戸晴海さんの「マトリ」という表題の本があります。麻薬取締官、つまり「マトリ」も薬剤師の専門領域になるのですがこのような分野に薬剤師が活躍していることはあまり知られていないのではないでしょうか。

薬学教育が従来の四年制から六年制になったのにもかかわらず、これらの分野の教育が軽視、無視されていることは極めて残念なことです。最近の医薬分業の実態を知ると、若い人はドラックストアで働くことにあまり抵抗感がないように思われるのですが、薬剤師の職業分野は意外に広範囲にあることを知らせる必要があるのではないでしょうか。

私は大学を卒業してから環境衛生技師の資格を取り、偶然に当時の国立衛生試験所の温泉分析室に配属されて、その関係でイタリアの国立高等衛生研究所Istituto Superiore di Sanitaで二年間研究生活を過ごすことが出来ました。つまり、薬剤師でも薬局以外にもいろいろな分野での職域があることをなぜ薬学生に教えないのでしょうか。

 

2015年1月10日 (土)

患者からの副作用報告(3) 追跡調査の問題点

患者からの副作用報告(3) 追跡調査の問題点

しかし、仮に副作用が患者から報告されてきても、その内容は千差万別なので、場合によってはその副作用を経験した患者の担当医を訪問して、さらに必要な追加情報を収集しなければならなくことが起こります。あるいは患者に面接し、必要情報を聞き出すことが必要になることもあります。つまり、そのデータの信憑性チェックのためのデータパリディションが必要になることがあります。

実はこの点が処方薬によると考えられる副作用の企業処理の一番の問題でもあり、また患者からの直接副作用報告対応のネックなのです。

例えば、問題となるのは医療機関の対応なのです。つまり、報告してきた患者の病院、担当医を該当企業が探し出し、その担当医にコンタクトをとるときの問題があるのです。つまり、該当患者の担当医の対応なのです。ほとんどの場合、もし企業の人間がその担当医に対しして必要とする情報、データを求めてもここで大きく立ちはだかるのが個人情報情報保護法の存在なのです。極端な場合には、個人情報保護法で詳しいことは教えられませんとなるのです。実はこのことはこの法律の誤解解釈なのですが、・・・・。

このように考えると、まず企業は処方薬に起因する患者からの副作用処理を敬遠してしまうのです。したがってそのような場合には患者に対してやんわりと担当の病院の先生にご相談くださいとなり、結果的には処方箋薬の副作用処理は該当企業は受け付けないことになります。

しかし、もっと困難なのは非処方薬によると思われる副作用の処理に関しては製薬企業や薬局が出来ることは精々医薬品名、副作用症状ぐらいしか把握できないと思うのです。詳細なデタ、例えば服用期間、服用量、副作用発生時期などの二次的なデ-タの追跡調査・収集は可成り困難になります。

このような環境、状態を考察すると患者からの副作用の直接報告は絵に描いた餅に終わる可能性が極めて高いのです。しかも、仮に患者からの副作用報告が軌道に乗ったとしてもその症例報告の質は極めて低くなる可能性が高く、そのような副作用報告は文字通り「点情報」に終わる可能性が高く、しかもその内容は軽微な副作用に集中する可能性が高く、結果的には医療の質的向上、並びに安全性情報の質的向上には何らの貢献をもたらさない可能性が高いのです。ファルマコビジランスの基本から考察するとこのようなことはあってはならないことなのです。


中国に関するジョーク (3)

中国に関するジョーク (3)

あまり歴史にあまり知識の無い二人の中国人の会話

「日本は中国の領土なんだよ」
「とうして?」
「だって日本には東京という名の都市があるだろう。あれは南京とか北京とかのように中国の都市の名前なんだよ。おまえ知らなかったのか」

でも考えてみれば全くありえない話ではないかもしれません。
周知のように東京という名前は京都の東という意味で江戸の名前が明治維新で東京という新しい首都名になったのですが、歴史的には中国にはかっては北京、南京、東京、西京、中京、上京などの都市名もあったのです。

2015年1月 2日 (金)

聴覚、視覚などの機能向上

聴覚、視覚などの機能向上

一般的には人間誰しも聴覚と視覚は同時に働いていてもそれぞれの機能への認識は殆ど無いのではないでしょうか。これが、聴覚障害者とか視覚障害者になるとそれぞれに存在している能力が最大限発揮されるのは当然のことなのです。

私たちは一般的には日常生活において見たり聞いたりすることは当然のことと考えているのではないでしょうか。ところが、意識的にこれらのどちらかの機能を閉じると意外な効果、発見があるのです。

例えば、音楽会では普通の場合、音楽を聴きながら無意識的にオケストラ・メンバーの動きなどを眼で追っているのです。このような場合には視覚と聴覚が同時に働いているので、両機能を通じて受けるコンサート全体の印象は極端に言うと半減されているのです。つまり、音楽会などで演奏を聴く場合、眼を閉じて聞くのと、眼を開けたまま聞くのとではそのインパクトが異なるのですが、そのような微妙な違いはなかなか認識できないかも知れません。

音楽会とか観劇などの場合に一度そのような経験をしてみるとそれから受ける印象はすこし異なることが分かるはずです。似たようなことはテレビなどを音なしで見ることによって、画面から物語を理解しようとする機能、能力が100パセント発揮されるのが分かるのです。つまり、そのような場合には視覚機能が最大限発揮されるのです。私は長距離空路での旅の機内テレビはヘッドホンなしで見るようにしています。それでもストリーは容易に理解できるのです。おそらくそこには理解しようとする機能が通常以上に発揮されるからかもしれません。

このような動作を日常生活の中で頻繁に繰り返すことによりそれぞれの機能、つまり視覚と聴力、が訓練され、いままで以上にそれぞれの能力が向上するのですが、殆どの人はそのような訓練の意義を知らないので、全く経験していないのではないでしょうか。

身体を鍛えるということは単に運動機能だけを念頭に置くのではなく、人間が本来持っている機能、つまり聴覚、視覚、触覚、味覚、感覚なども訓練次第ではかなり向上するのです。もちろん、これらの機能自体がはじめから鋭敏になっている人も居ますが、訓練することによりかなりそれらの機能も向上するのです。例えば、香水調合師とか調理師なども訓練によりそれぞれの能力が向上することが知られています。

そのほかにも嗅覚能力は人によってさまざまですが、意外とそれらの違いを経験する機会は少ないかもしれません。人ごみの中にいままで外でタバコを吸っていた人が入ってきたときもその人の体からタバコのにおいを即座に感じる人と感じない人とが居たりします。このほかにも、座禅とか瞑想の時間で、それらの行為が終わった後の部屋の空気が通常のものとは異なるとのことですが、もっとも、このような微妙な違いを経験するのはむずかしいかもしれません。

意外と知られていないのは触覚の機能なのです。ある研究では盲目の人が指で触るだけで描かれている絵の色を認識できことが明らかにされています。

これと似たようなことで、私は手で触れだけで洋服などのほこり、汚れをある程度認識することが出来るのです。そのほかにも私の嗅覚は他人より敏感で、プールなどでゴム製のキャップを被っている人からのゴムの臭いは二メートル先ぐらいから感じ取れるのです。そのほかではメンスのある女性の呼気から容易にその存在を感じ取れるのです。いゃ、本当なのです。

中年層の糖尿病患者では認識能力が減退するようだ

中年層の糖尿病患者では認識能力が減退するようだ

糖尿病になっている人にはいろいろな障害が出てくることは知られていますが、意外と知られていないのは認識、認知障害も関連してくるようです。このような軽度の認知障害は意外と無視されていたのかもしれません。


Diabetes in Midlife Is Associated with Accelerated Cognitive Decline
Jamaluddin Moloo, MD, MPH
Reviewing Rawlings AM et al., Ann Intern Med 2014 Dec 2; 161:785
During nearly 20 years of follow-up, cognitive function declined 19% more
among patients with diabetes than among those without.
http://www.jwatch.org/content/2014/NA36497?query=etoc_jwgenmed

2015年1月 1日 (木)

調剤専門のコンビニ薬局の拡大への危機 (*)

コンビニ薬局の普及に思うこと

最近の傾向は調剤薬局併設型コンビニが出店し始めたのです。すなわち、病院前の門前調剤薬局をコンビニ内に併設することで、調剤薬局の待ち時間に患者が買い物でき、また店内で飲食が可能なイートインコーナーも設置し、OTC医薬品は第2~3類の約150品目を取りそろえ、セルフメディケーションのニーズにも対応できるとのことです。

でもこのような形態の調剤薬局、厳密には門前調剤オンリー薬局が出来るということは日本の薬局の概念が根本的に崩壊、変化し、往時のように薬局自体そのものが調剤をはじめとし、すべての医薬品を取り扱っていた形態が完全に消滅しつつあることを物語っています。

とくに欧州大陸各国にある薬局のようにほとんどすべての医薬品を扱っていて処方薬から非処方薬,大衆薬まで幅広く取り揃えてあり、手元に無い医薬品の場合にも卸との協調性が緊密で、数時間以内に薬局に届けられるといった制度を知っている者には日本では薬局そのものが消滅しつつあるとの理解になります。

そもそもすべての医薬品(処方品薬、非処方品薬、健康サプレメントなど)は人間の健康と密接な関係があり、何らかの障害のある身体を元に戻すという性格のものであり、コンビニなどでサンドイッチなどを買うのとは全く次元が異なる行為なのですが、日本ではこのような極めて異常とも考えられる医薬品提供形態が存在し、薬剤師会をも含めて誰も異常とは考えていないのです。そこには医薬品という人間の健康に直接関与するという厳然とした高尚な存在価値が全く無視されているのです。

極端な場合には健康大衆薬(例えば、コンドロイチン製剤,ナットキナーゼ製剤など)は栄養補助食品などに分類されその使用法には「・・・一日に三錠ずづお召し上がりください」のような表現が使われており、あたかもキャラメルとかドロップのような感覚で扱われていることです。
たしかに現在の法律では栄養サプリメントなどの健康食品。本来、その効果を謳うことは薬事法で禁止されているのですが、でもその使用目的は基本的には損なわれた健康を元に戻すという概念で使われているので、食品ではなく医薬品なのです。

そこには健康に関与するという高尚な概念は完全に消滅し、医薬品の『品性』というものが完全に無視されているのです。処方箋を必要とする処方薬以外ではクスリ、くすり、大衆薬、OTC薬、医薬品、健康サプリメントなどの表現が混在し、極端な場合には薬局の看板に大きく「くすり」と書かれてある場合もあるのです。

すくなくとも医薬品は「処方薬」、「非処方薬」の二種類に分類すべきなのです。でもどうして日本ではこのようないろいろな区別を医薬品に対して当てはめているのでしょうか。

さらに最悪なのは上記のコンビニ内の調剤薬局の営業時間が月・火・水・金:午前9時~午後7時30分。土:9時~午後1時30分などと全くの殿様営業時間なのです。このような調剤薬局専門での備蓄医薬品は当然のことながらその数はその限られ、門前となっている大学病院が処方する医薬品に対応できれば良いわけで、仮に全く異なった地域の医師の処方箋を持ってこられてもすぐには対応は出来ないのです。

このような異常とも考えられる日本独特の薬局環境が日本に定着し、日本薬剤師会もそれを当然のように対処していること自体が問題なのですが、このような状況がさらに進展すれば、一部の先進的な薬局を除いては日本からいずれは薬局が姿を消してしまうことにもなりかねません。すでに都会の繁華街では処方薬、非処方薬すべてを取り扱う本来あるべき薬局を見つけることは至難の業なのです。

こうなると一般消費者(患者)は処方箋をもらったら調剤薬局、基準薬局を探し、頭痛薬とか風邪薬はコンビニを探さねばならないのです。本来、「くすり」の範疇に入るものはすべて一軒の薬局でことが済むのが原則であり、またそれが薬局の責務でもあるのです。

しかし、このような内容の話を講演会でしても、いゃ、日本ではそうなっているのです、でおしまいなのです。つまり、その異常さを全く理解していないのです。まことに嘆かわしいことです。これでは将来は薬剤師になろうとす人はどんどん減っていくいくのではないでしょうか。最近の薬剤師国家試験の合格率が極めて低いのもこのような背景が関与しているのかもしれませんね。

もしかしたらそのような学生の為に「薬剤師補」のような制度を新たに設けなくてはならないかも知れません。
それなしてもコンビニが薬剤師の就職先なんて考えたらだれも薬科大学になんか行きませんよ。

でもなぜこのような事態にまで凋落してしまったのか。それは文字通り事態を傍観している薬剤師会の責任なのです。それらに反して、医師会はそこまでは落ちぶれていません。なにしろ、薬局での血圧測定とか血糖検査に対して激しい抵抗を示したではありませんか。仮にコンビニ薬局と同じ概念のコンビニ医院を提案したら、医師会も医務局もぜんぜん受け付けないはずです。むしろコンビニ医院のほうかが大勢待っている医院の待合室よりもその間にコンビニで買い物が出来たら便利なのですがね。

調剤薬局と一般薬局との区別を良く知らない患者が調剤専門薬局でボルタレンの湿布剤はありますかと聞いたときに「あっ、それはうちには置いていませんので、コンビニで買ってください」なんてまるで漫才会話にもならない事態が浸透しているのです。

もしかすると近い将来、「薬剤師って、あのコンビニで白いウワパッリを着て働いているおじさんのことね」なんていうことになりかねません。

いずれにしても海外から日本の薬局事情を調べに誰も来ないことを祈るばかりです。

追加(2015 Jan)
最近の新聞には今年は調剤薬局の再編成のような記事があり、年商2億円の調剤薬局とか三店舗で5億円の調剤薬局などの存在が表現されていますが、調剤薬局ってそんなに儲かるのでしょうか。このような状態が続くと日本には門前薬局から出発した調剤専門の調剤薬局のみが氾濫し、処方薬以外の医薬品、健康サプリメントなどはドラックストアで買ってくださいとのコンセプトが拡大し、医薬分業の模範である欧州に見られるようなすべての医薬品を扱う本来の薬局は消滅してしまいますね。

薬局は商店か、それとも医療機関か

薬局は商店か、それとも医療関係者か

「薬」の使用に関連してよく表現されている例に「店頭から薬適正使用促す啓発を」のような例があります。そのほかにも「薬局の店内で・・・」「薬局の店先で・・・」などの表現がいとも簡単に使われています。

確かに、ドラッグストアなどでの「薬」の販売には関しては「店先で・・・」「店内で・・・」と表現しても違和感は無いのですが、その使用対象が薬局の場合には極めて違和感を感じるのですが、どうなのでしょうか。

基本的には薬局は医療機関の一部に属し、例えば、薬局が患者からの副作用の報告を受けたときには行政に報告することが義務付けられていることからもその範疇は明確なのです。つまり、薬局も医療機関であることを行政的には区分されているのですが、現実の薬局、特に処方調剤を取り扱わない一般薬局ではそのような感覚を持っている薬剤師はあまり多くは無いようです。

したがってそのような薬局では「うちの店にはその薬は置いていません」などの発言が聞かれるのも稀ではないのです。薬局は「薬」を取り扱う場所であり、野菜や魚などを売る商店ではないのです。

そのほかにも「・・・薬局公立病院前店[鹿児島県南種子町] 薬局長」のような表現がいとも簡単に使われていることから、まだ多くの人は「薬局」はお店なんですね。

でも考えてみればこれは当然のことで、極言すれば日本薬剤師会は歴史的には「薬屋のおじさん」の団体だからです。

もし本当に薬局は医療機関の一部との認識があるのなら、せめて名前だけでも注意を払って、「・・・支店」のような表現はやめて「・・・支局」にしては ??

もっとも、現在のように薬局が医薬品を区分し、第一類とか第二類などのように意識的に分類、差別化し、どんどん医薬品の取り扱いを薬局から放り出している現状を考えれば薬局はやはり商店なのかも知れません。

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