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2014年5月の記事

2014年5月26日 (月)

医薬品投与形態の全面的な改革を / なぜ箱包装処方ができないか

医薬品投与形態の全面的な改革を

  現在の医療社会では医療費の高騰が大きな問題となっている。その中でも薬剤費、調剤技術料の占める割合はかなりの高率になり、従って医療費高騰の要因の一つにもなっている。さらに問題なのは処方箋調剤に関連した調剤技術料は最近の統計では年間では一兆七千億にもなるとのことである。ここで改めて調剤技術料について考えてみると処方箋調剤で一番手間がかかるのは、該当医薬品を処方箋に基づいて大瓶から正しく選別し、それぞれの剤型に応じてのカウンティングから始まってそれぞれの錠剤とかカプセルの配合を整え、患者に手渡すことである。勿論、その際には適切な使用説明を行い、必要に応じて既成の説明書を交付することにもなる。つまり、日本での処方箋調剤はある意味では錠剤やカプセルのバラ処方であり、患者に対し必要量の錠剤あるいはカプセルを正しく数えて投与することが基本になっている。このことは患者側から見れば薬剤師が大瓶から錠剤とかカプセルを必要数だけ手で取り出して交付しているだけの行為とみなされてしまう。

  ここで医薬品投与の基本を考えてみよう。医薬品もたとえ医療目的であってもある意味では商品であり、それなりの付加価値が求められる。医療用医薬品の医療関係者向け添付文書にも日本標準商品分類番号が付けられているのはそれなりの理由がある。ところがその商品でもある医薬品をバラバラにして投与することは商品としては極めて例外行為となる。なぜなら、同じ医薬品でも非処方箋薬(いわゆる大衆薬)は綺麗な包装箱に納められ、中には必ず使用説明書が入っていて、まさに商品価値が認識できる。ところが処方薬の場合にはそのような商品価値は認められず、しかも統一された患者向けの使用説明書は交付されず、「くすりのしおり」などのような暫定的な説明書が交付されているのみである。

  そもそも医薬品は基本的には薬剤の包装箱とその使用説明書が自動的に患者に投与されれば現在の調剤技術料はかなり低くなる。本来、薬剤師が処方箋薬を患者に手渡すときに服薬指導をするのは薬剤師の責務であり、また義務でもあるので、それに対し現在のような可なり調剤技術料報酬を期待することはあまりにも商売概念が強すぎる。では現在の処方箋調剤に際しての日本式バラ処方と欧州式箱処方の両者の長短を比較してみよう。

「バラ処方の長短」  
(一)それぞれの錠剤、カプセルなどを正確に数える手間作業が入り、それなりの時間がかかる。したがって患者の待ち時間がかなり長くなる。 (短所)
(二)患者向けの説明書には統一性がなく、また必ずしも自動的に交付されない。  (短所)
(三)患者は受け取ったそれぞれの処方薬剤の詳細を自動的には知ることが出来ず、またその製造会社に関する認識も得られない。  (短所)
(四)必要数量だけが患者に渡り、投与医薬品の無駄が省ける。 (長所)
   特に門前調剤薬局での待ち時間の長さはしばしば患者の大きな苦痛でもある。医院や病院での散々な待ち時間の長さにへきへきして、その挙句にまた調剤薬局でも待たされることへの苦痛は実際に体験したことの無い人には分からない。ことに欧州での薬局に慣れている筆者にしてみればあまりにも患者軽視の処方体系である。

「箱処方の長短」
(一)必要とする数量だけの錠剤とかカプセルを投与することが困難。   (短所)  
(二)医薬品全体の備蓄、在庫管理が極めて容易となり、在庫の無い医薬品でも少なくとも数時間以内に卸問屋から薬局に届けられるようなシステムが構築できる。   (長所)
(三)箱包装であるので、患者の手元に使われずに医薬品が残ることがあり、非経済的かもしれないが、この点は調剤技術料の低減により医療費削減に貢献することが出来る。   (長所)
(四)箱包装には必ず有効期限が明記されてある。   (長所)
(五)箱包装であるので商品としての認識が高まり、製品自体の価値づけが可能。 (長所)
(六)患者は服薬するそれぞれの薬剤の製造会社名を自動的に知ることが出来、会社の貢献度を認識できる。   (長所)
(七)箱包装だと心理的に「えっ、こんなに沢山の薬を飲むの」と驚きが大きくなり、バラの錠剤を受け取る時よりも過剰服用への意識が患者に高まる。(むしろ長所) 


  このように比較、考察すると医薬分業の先進国欧州での常識である箱処方のほうがそのメリットが大きいことが判る。この場合、議論の的となるのは錠剤とかカプセルが使用されずに残ってしまい、費用の無駄が出ると考えられる。しかし、箱包装の規模をそれなりに小さくすれは使用後の残量がかなり制限される。しかも、忘れてはならないのは軟膏とか外用液のような外用薬の場合には必要量だけの投与は不可能であり、錠剤・カプセル以上にその残量が大きいことは明瞭であるが、この点には誰も配慮していないのが現実である。

箱包装の場合には在庫の確認が容易であり、医薬品卸問屋との関係をもっと密にすることにより処方薬の確保が容易になる。現在のようなバラ処方で在庫がない場合に、近くの薬局からの融通を求める便法自体が不自然であり、このような緊急融通は本来は卸問屋の責務であるが誰もそのことには言及していないのは不思議である。

  もし箱処方が欧州並みに実施されれば製薬会社はその売上高がおおきくなるのに全くこの点には言及していないのが不思議である。さらに、調剤技術料などといった不可解な出費を見直すことができる。

  なお、この箱包装投与を現実のものにするためには現在の薬局と卸問屋との関係を今以上に密接にし、医薬品卸問屋も医療関係者の一員との認識を持って二十四時間対応体制を持つべきである。欧州の薬局では薬局に在庫がない医薬品は殆どの場合、数時間以内に薬局に配達される。箱包装処方が実施されている欧州の模範薬局では処方箋を薬剤師が患者から受け取って該当医薬品を患者に手渡すには数分以内で済んでしまう。つまり、すべてが自動的になっているので、日本のような患者の長い待ち時間体制は考えられず、したがって、患者に対して投薬指導をするのも充分に時間を割くことが出来る。  

  でも、なぜこのような日本独特のバラ処方が定着してしまったのか。それは医薬分業が実際に稼働し始めた当時の薬剤師会の対応にすべての原因、責任がある。当時、すべての薬局が分業に対応できず、とりあえず門前薬局として院内調剤方式そのものを単に病院外に便宜的に設けられ、その結果、病院内でのバラ調剤様式がそのまま院外に移動、踏襲されてしまった。この「とりあえず」方式がそのまま現在に至ってしまい、その間に日本の医薬分業はその時点で思考停止してしまい今日に至っている。このような経過を考慮すると日本での箱処方体制の実現は永久に不可能かもしれず、世界でも稀に見る日本独特の処方調剤体系が続くのかもしれない。

しかも悪いことにはそのような処方を全く扱わない普通の薬局が存在することである。これも日本独特の制度であるが、薬剤師会はそのようなことには全く目をつぶっている。

この問題に関連して、どこかの大学の先生が厚生科学研究費を使って両処方形態の経済学的、経営的比較研究を実施して欲しいものではあるが・・・・。

開局薬剤師と安全性情報

開局薬剤師と安全性情報

  昨今の薬局を取り巻く環境は、大型ドラッグストア・チェン店の増大、さらにはインターネットによる薬の販売など、激変しています。とくに、ネット販売に関しては世論では当然と受け止め、また全面解禁の方向に向かいつつありますが、これに反対する日本薬剤師会は意見広告で「私たち薬剤師は、お客さまの症状や体の状態、生活習慣など、直接お会いして、丁寧にお話しを伺うことで、お客さま一人ひとりに合ったお薬を選ぶお手伝いをしています。」と反対の立場を改めて強くアピールしています。これは一言でいうと「対面販売」を間接に表現したものです。

しかし、現実には本当にそのような対面販売のメリットが一般薬局で実行されているかとなるとかなりの疑問が生じます。特に、保険調剤をしない一般薬局の薬剤師の対応は必ずしもそのようにはなっていない場合があるからです。このような環境下ではもし現在の状態がそのまま続けばいずれ近い将来に、一般薬局に関しては、視点を変えた表現を借りれば薬局淘汰の時代に直面しつつあるものとも考えられます。
  
いっぽう、薬局形態の如何を問わずすべての開局薬剤師は医療関係者の一員であり、薬事法では医療関係者は副作用を知った時には、その副作用を報告する義務があることは周知のとおりです。さらに平成十七年の都道府県衛生部長あての局長通知により患者も医療関係者並みに副作用を報告できるとされ、副作用自発報告は患者レベルにまで拡大されています。つまり、現時点では患者も医療関係者並みに直接行政に副作用を報告できることにはなっているので、開局薬剤師も医療関係者としての認識を新たにする必要があるのです。

  いずれにしても開局薬剤師が患者から副作用情報を知らされたときには理論上は厚労省安全対策課に直接報告する義務があるのですが、開局薬剤師はこの業務にあまり慣れていないので、積極的に対応はしていないようです。一般的に開局薬剤師が直面する薬の副作用には二種類あり、一つは処方調剤薬に起因すると考えられる場合、そしてもう一つは一般薬に起因する場合とがあります。

  一般的には、処方薬に起因する副作用と思われる主訴、症状を患者から知らされた場合には、その薬剤を処方した医師に連絡し、詳細な情報、データをその担当医から行政(あるいは企業に)報告してもらうのが一般的になります。その理由は処方薬の場合には担当医が患者の病歴など、より詳細なデータ、情報を持っているからです。その目的のために一部の大学病院では調剤薬局と緊密な情報交換のシステムを持っているところもあります。

  しかし、問題なのは処方薬以外の一般薬による副作用の対処、対応なのです。その場合に留意しなければならないのは患者の服用状態、主訴、など出来るだけ詳細な情報を聞き出して行政に報告する必要があり、それは義務でもあるのです。ところが現実には一般薬局の薬剤師と患者との間にはそのような暗黙の理解、了解は薄く、患者は一般薬局の薬剤師がそのような責務があることは多くの人は知らないようです。

  では、開局薬剤師が実際に患者から副作用と思われる症状を訴えられたときどのようにすべきか、そしてどのような情報、データを患者から聞き出すか、また不足していると考えられる情報、データをどのように聞き出すかということが一番重要になります。たとえば、患者の訴えが一般薬による副作用なのかか、あるいは日常生活では見られない特別な事象なのかとの区別が必要になります。即ち、副作用ではなく、因果関係が全く不明な有害事象なのかとの判断が必要になります。

つまり、ここで大切なのは開局薬剤師がそれらの主訴、事象などを副作用かもしれない(即ち「副作用疑い」)と判断しなくてはならないからです。理論的にはすべての医療関係者は「副作用疑い」との判断があって初めて報告義務が生じるのであって、副作用と薬剤との因果関係が全く考えられない場合には、報告の対処にはならないのです。

例えば、服薬期間中に自転車事故を起こした場合、果たしてそれが薬剤と関係があるのかないのか、もしないものと判断されればそれは有害事象になり、副作用報告制度上の報告対象とはならないのです。これは極めて微妙な判断になるのですが、対行政報告はあくまでも「副作用疑い」の場合のみに初めて報告対象になるのです。

  いずれにしても開局薬剤師の強みのひとつとしての対面販売一環として、安全性関連情報の対応、対処を今後はもっと積極的に実施することにより、ドラッグストアーやインタネット販売との差別化に努力することが必要になります。さらに、一般薬局での医薬品の品揃えを今まで以上に充実することも大切になります。

2014年5月16日 (金)

医師の倫理とノバルティス社の愚挙

医師の倫理とノバルティス社の愚挙

 

最近の新聞種になった大きな話題の一つに製薬企業と大学病院とのなれ合いが問題視され、結果的には「企業は悪」との通念のもとにノバルティス社がやり玉に挙げられています。

 

でも、内情をよく知っている人にとってはそのような企業と医療関係者との間のなれ合いは周知の事実であり、お互いに良いとこどりを満喫していたのです。でも一旦、そのようななれ合いが表面化され、問題視化されると大学病院はあたかも自分たちが被害者との主張をし始め、千葉大のように過去の恩恵のことは完全に忘れ、ノバルティス社製品のボイコットにまで発展しています。

 

今回のノバルティス社の件では例の小保方さんの件にある意味では共通点があるのです。つまり、いままだ問題が表面化していなかった時点ではチヤホヤされていたのが、一旦なにか問題が起こるとそれまでの恩恵に関与していた周りのひとたちが一斉に反旗を翻させたからです。
でも、ノバルティス社はなぜアンケトで副作用の調査なんていう愚挙をしたのでしょうか。副作用アンケト調査KIZUKIなるものは本来は企業がやるべきものではなく、副作用はあくまでも医療関係者が薬事法に基づき行政に報告する義務があるのですが、多くの医師は薬事法のことなんかは全く関心がなく、企業のMRが来た時点で、こんな副作用があったよとMRに伝え、その見返りとして企業はその報告医師に一万円から二万円あたりの謝礼を受け取っているのです。

 

しかし、考えてみればこれは全くおかしな日本独特の現象で、本来は副作用を発見できるのは企業ではなく、臨床の場に居る医師なのです。ですからそのような医師は副作用を行政に直ちに報告するのが義務であり、また倫理でもあるのです。ところが日本の行政はそのような世界に稀な副作用報告制度を改正するつもりは全くなく、副作用は企業が報告するものだとの暗黙の了解があるのです。ですから。今回のノバルティス社の副作用報告漏れは薬事法違反の疑いとのもとで処理されているのですが、関連医師は全くお咎めはないのです。

 

そもそも医師は薬事法なんかには関心はなく、あれは薬剤師のための物であって、医師には医師法があるとの認識があるのです。さらに悪いことには医師法には副作用の報告義務については全く言及がないのです。たとえば、医薬品と医療機器の安全対策強化を柱とした改正薬事法がようやく2003年に施行されたのですが、薬事法にのみ記載されているのです。そもそも重大な副作用や医療機器の不具合が起きた場合、医師や薬剤師は国に報告することが義務付けられていなかったのです。

 

副作用などについてはこれまで、製薬会社に報告義務を課し、医師に対しては報告への協力を求めていただけなのです。ようやく2003年になって、医師らにも法的義務が課せられたのですが、多くの医師はこのような改正はなんとなく知っているくらいの関心しかないのです。

 

2014年5月12日 (月)

知らなかったでは済まされない事実 (1) 憲法の押し付け論

私はいろいろな情報をどこから得ているのでしょうか。その情報源は新聞とテレビ、そして雑誌がありますが、一般読者はそこに書かれてあるのがすべて事実であると簡単に信じてしまいます。ましてや、それぞれの新聞にも独特性があり、ある新聞は左よりだとか右よりだとか言われていますが、一般の人はひとつの新聞しか読まないと思うのです。

つまり、私たちの常識はある意味では一方的なものであり、さらに悪いことにはその偏向性が分からないのです。

例えば、現在いろいろと議論されている憲法改正についても、現在の憲法はアメリカの押し付け憲法であるということが、半ば常識になっています。ところが、ある新聞の投書欄に「現在の憲法が押し付けであるとの議論があるので、当時のマッカサ-元帥が憲法を施行後の二年以内に自由に改正できる権限を日本政府に与えていた」とあるのです。

もしこれが事実であれば当時の政府は現在の憲法はアメリカの押し付け憲法ではないということを間接に言明しているのです。その二年間の間に当時の日本政府はなにもしなかったのでしょうか。あるいはなにも出来なかったのかもしれません。

でも、このような事実は現在の憲法改正論には意識的か無意識的かは分かりませんがまったく表面化されていません。

これと似たような状況は戦争中の従軍慰安婦問題で、日本の新聞や政治家は当時の慰安婦の半数近くは日本人女性であることにはまったく言及していません。ですから、何も知らない若い人たちは慰安婦は韓国人だけだったとしか理解していないのかもしれません。嘘が本当かは知りませんが、ある記事によると新聞記者が村山元首相に慰安婦には日本人女性もかなり居たことをご存知ですかと問いただしたところ、彼は絶句したとか。

2014年5月 8日 (木)

日本人のダンス観

日本人のダンス観

  最近の新聞に客に性風俗を乱す享楽的なダンスをさせていたとする問題で、裁判沙汰になり、最終的に無罪になっています。

  ここで考えたのですが、日本人は昔からダンスは享楽的なものであるとの先入観が強く、その結果、1948年に施行された風俗法なるものがダンスを取り締まりの対象とされていました。それにしても、ダンスクラブが風俗法の規制下にあることを外国人が知ったらあきれることでしょう。そうすると社交ダンス教室はどうなのでしょうか。これは各種学校の範疇に入るのでしょうか、いゃ、そんなことは無いでしょう。なにしろ男女が身体をくっつけ合う場所だからです。

  考えてみれば、従来のつつましい日本人的感覚から判断すると男女が身体をくっ付けあってダンスすることには極めて違和感が強く、不謹慎とされているのです。

私の経験でも、1950年代に社交ダンスを習ってかなりのレベルにまで到達したので、折角収得したダンスをそのままではもったいないと考え<、なにかアルバイト的に活用出来ないものかと考えたのですが、その当時でも普通のダンス教習所でダンスを教えるなどは極めて退廃的なことであるとの認識が強く、諦めたことが有ります。
  
  でも、このような感覚は未だに日本には根強く存在し、ましてやダンスのダの字もしたことの無い政治家にしてみれば男女が身体をくっつけあって踊ることには極めて違和感が強いのです。彼らが出来ることと言えばバア―などで女性の手を握ったり腰に手を回すことは出来ても、人前で堂々とダンスをするなどはもってのほかなのです。
  
  しかし、日本人全体の感覚として多かれ少なかれ殆どの人はこのような感覚は持っている筈です。これは文化の違い、社会通念の違いから起こるものであり、致しかたがないのかも知れません。 なにしろ、人と挨拶するにも欧米のような握手ではなく、お辞儀、つまり相手の体に直接接触する行為はタブ-なのです。

  考えても見てください。欧米では友人同士での日常の挨拶にも頬をお互いにくっ付け合う挨拶が最近では当たり前で、握手はむしろ未知の人の場合にのみ使われているといっても過言ではないのです。そのような挨拶の仕方も以前は左右の二回だけの頬合わせでしたが、最近では三回が普通になりつつあります。まあ、男性にしてみれば相手が美人だったら三回でも四回でも歓迎なのですが・・・・・・。(o^-^o)

  このような頬合わせの挨拶の導入はとても日本には無理かも知れません。このような挨拶で、違和感を持ったのは数年前にスイスの大統領が日本を訪問し皇居を訪れた時に大使夫人が美智子皇后に対してこの頬合わせの挨拶をしてしまったのです。こればかりは文化、風習の違いとは言え、大使館の事前打ち合わせでもまさか大統領夫人が通常の親しみからの挨拶で頬合わせスタイルを実行するとは考えられなかったようでした。もっとも美智子皇后は何気なくサラッと受け入れでいました。

日本語は難しい (8)  「立場」か「立ち位置」か ??

最近の新聞を読んでいて私の知らないある表現にぶつかりました。

それは「日本の立ち位置」とか「世界の立ち位置」のような表現なのです。私にはこのような場合には「日本の立場」「世界の立場」のように書くのですが、この「立ち位置」という表現は意外とつかわれていることに気が着きました。

こうなると「私の立場」と「私の立ち位置」との表現の違いは有るのでしょうか。私にとっては「立ち位置」のような表現を見たのはは初めてでした。(o^-^o)

2014年5月 7日 (水)

治験を製薬企業から切り離す

治験を製薬企業から切り離す

最近いろいろと問題視されているのは新薬申請の目的でなされた臨床試験デ-タすべてが公表されず、都合のよいデタのみを公表して申請許可を得たり(例えばロッシュ社のタミフル)、或いは治験デタに手を加えることの出来るような環境が指摘されています。(たとえば、ノバルティス社と治験関与大学との癒着)

このような問題の解決策として、いっそのこと企業が開発した新薬の第三相、第四相試験は企業が行うことを禁じて新たに第三者機関(例えば、新薬開発促進機構のようなものを新設)がすべてを行うようなシステムを創れないものなのでしょうか。つまり、企業が新薬を開発し、第二相試験まで終了した時点で第三相に進むと企業が判断したときには動物実験デ-タから始まってすべてのそれまでのデータを第三者機関に提出して、申請に必要なと第三相試験データ作成を企業から完全に切り離すことです。このような考えはいまだ誰も持っていないようですが、もし日本が世界に先駆けてそのようなシステムを創ることが出来れば素晴らしいと思うのです。

そしてその運営に関して、この第三者機関においては該当新薬の臨床試験などに必要な直接経費は該当企業が受け持つのは当然なのですが、その機構の通常の運営費用はかっての副作用救済基金制度を見習って、その運営資金はそれぞれの企業の売り上げ高に準拠した企業拠出金でなされ、その分担は新薬開発企業と後発企業とに区分するのです。後発企業の場合には該当新薬が特許切れとなってジェネリックを製造する企業になるのは当然のことです。

少なくともこのような運営方式の設立はそれほど難しくはなく、行政はそのような新しい中立的な組織の設立には大いに関心があるのではないでしょうか。たとえば、天下り先が増えるからです。つまり、副作用救済基金制度の導入と同じ概念ですが、この副作用救済基金制度の導入によりその基金が貯まるに貯まってその使い道を考えて現在の医薬品医療機器総合機構が出来上がり、その過程で、いつのまにか肝心の副作用救済基金の冠が組織名から消えてしまっていることは意外と知られていない事実です。そのくせ副作用救済制度の周知度が低いとこの機構が嘆いているのはまさに皮肉そのものです。

2014年5月 6日 (火)

五輪に向けて東京から電信柱を地上から無くそう

五輪に向けて東京から電信柱を地上から無くそう

 東京五輪に向けていろいろな構想が考えられていますが、東京のような大都会で都心とか繁華街以外の住宅地ではいまだに電信柱の乱立があり、国際都市としてはまことに恥ずかしい限りです。電信柱には電話線と電気線との両方が使われていますが、いっぺんに両者を地下に埋めることは大変な費用が掛かり、また大工事にもなるかもしれません。

  そこで考えたのはとりあえず電話線を電信柱からまず無くすことです。その一つの方法として、都内の各家庭で使われている従来の配線方式の電話機を携帯電話並みの受信方式に変更すれば都内の住宅街に電柱にクモの巣のように張リめぐされている電話配線は不要になります。

  現在の家庭にて使われている電話機の形はそのままにしてその中に携帯電話機能を置き換える装置を新たに作るだけになります。つまり、普通の家庭で従来の電話機を使っている場合、配線による通話方式から電波による通話方式、つまり携帯電話方式、の電話機を開発し、五輪経費の一環として都内各家庭に無料配布することです。

ただ、この場合、電話回線を使用しているインタネット利用には問題が生じる可能性があるが、その場合の新たな方式を同時に開発することでこの問題は解決するのです。そして次の手段として電気配線を地下に埋めることにより東京から電信柱が無くなるのです。

五輪に向けていろいろな施設が新しく作られたり、従前の施設を改善したりすることは当然なのですが、都民の税金をつかっても、一般家庭にはなんにも還元が無いのは不公平だと思うのです。つまり、五輪を機会に一般家庭の電話機の機能を改善させ、都民に還元できるようにすることです。

 もし電信柱から電話線が無くなれば、あとは電力配線を地下に埋めるだけになり、その費用もかなり少なくなります。

さらに東京のような住宅街では歩道が狭く、そのような歩道にさらに電柱がたっているのでもともと狭い歩道が更に狭くなっているのが現状です。もし、そのような歩道から電柱が消えてなくなればある程度歩道幅が広くなるのです。もしかしたら、自転車専用のレ-ンを設けることが可能になるかもしれません。(o^-^o)

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