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2014年3月の記事

2014年3月30日 (日)

日本語は難しい (6) 「粛粛と」

最近の新聞記事に載っていた記事に以下のような文章がありました。

「利用環境によって成分の広がりが異なるという表示も加える。日常の生活空間で行った試験デタもあり、効果が否定されたとは理解していない」と会社が説明し、「生活空間での効果は実証出来ないので粛々と対応します」とありました。

この会社側の説明に使われた「粛々と対応します」という表現なのですが、これはどこかの政治家が使っていたと思うのです。でもこのような表現は日常生活の中では絶対に使われません。

そもそも「粛々」との表現の意味は辞書的には「つつしむこと」「静かにひっそりしたさま」のような意味で、「鞭声粛々」のような場合にしか使いません。

企業の弁解にこのような表現を使うことは間接的には私たちは何も悪いことをしていませんが、一応誤解があるようなので謝ります、トの意図がありありなのです。

もし家庭内で子供が何か問題を起こして父親が怒ったときにその子供が「粛々と反省します」と答えたらどうなるのでしょうか。一度だれかこの表現を会社の上司に対して使ってみてはどうでしょうか。

2014年3月12日 (水)

福島原発事故三周年と海外メディアの反応

福島原発事故三周年と海外メディアの反応

  三月十一日の福島惨事の三周年に当たり欧州のメディアでも詳細に放映されていました。その中では原発の現状が詳細に放映、解説され、今後どのような状態になるのかは全く不明であり、極めて危険な状態にあることが強調されていました。

  詳細を知らない当地の人たちにしてみれば、福島はいまだいろいろな難問を抱えており、状況によっては広島原爆の何十倍の悲劇をもたらす可能性があることと理解されていました。

  その一方で、阿部首相は福島の原発問題は完全にコントロルされていて問題は全くないと明言しているのはまさに日本は世界に向かって嘘をついているのですが、そのような認識は日本の政治家には全くありません。むしろその逆に五輪に向かって浮かれているのです。もし現在の福島原発が最悪の事態に陥ったら、とても五輪の騒ぎではなくなるのですが・・・・。それこそ国際的な笑いものになるのです。

STAP細胞の小保方論文の問題点/ 小保方糾弾の背景 (**)

STAP細胞の小保方論文の問題点

現在、この論文に疑惑の目が投げかけられているが、この問題には二つの異なった視点があることを忘れてはならない。

一つは、そもそもSTAP細胞が技術的に再現できるのかどうか。そして二番目は発表された論文に過去の写真や他の論文が無断で使用されているという点である。

第一の問題は素人には判断できず、新聞報道からの判断では、本人は再現できた、しかし一部の研究者は再現が困難であったとなっている。

第二の問題はネイチャ-に載った写真が過去の論文のものと極めて似ていること、そして引用された20行あまりの文書が全く出典が記載されていなかったとの指摘なのです。ただ、不思議に思うのはこの論文の内容に関する疑義を指摘している若山教授は実験技術そのものには全く言及していないのです。つまり、彼の主張は論文の質を疑問視しているのだが、STAP細胞再現の技術的な問題には全くのノータッチなのです。もしかしたら、彼はSTAP細胞再現については全く問題がないと解釈しているのでしょうか。しかも、彼はネイチャ-誌に発表された論文の共著者の一人になっているので、厳密に言えば自分が関与している論文に自分で難癖をつけているようなものです。あるいは、この論文にはただ自分の名前を「貸与えた」だけなので、自分には責任はないとでも考えているのでしょうか。全く前代未聞の騒動劇です。

彼が指摘している論文内容の正確性は極端に言うとどのような論文にもおおかれ少なかれ当てはまるのですが、果たして今回のネイチャ-論文の取り下げに値するかしないかという判断があります。確かに、他人の論文と同じ文章を出典なしに引用することは倫理的ではないかもしれないが、もしこのような観点から今までのいろいろな分野のひとたちが書いた論文を精査したらいくらでも問題点は出てきますが、そのような詮索は殆ど誰もしないのです。他人の論文を自分勝手に解釈して間違った記載をしても通常の論文では誰も注意を払いませんし、また多くの人は気が付きません。

例えば、私の分野であるひとが私の著書を無断で引用し、しかも勝手に解釈して間違って引用しているのですが、そのようなことは決して珍しくないのです。

つまり小保方論文の価値判断はその技術的な再現性にあり、写真の取り違えとか、他人の文章の出典なしでの引用はそれこそ重箱の隅を穿り出す作業だと思うのです。

もし彼女がどこかの研究所長とか大学名誉教授だったらあるいはそのような詮索はされなかったかもしれません。いずれにしてもこのような詮索は目的があってなされたもので、今回もたまたま偶然そのような点が発見されたとは考えにくいのです。つまり、この問題に根底にあるのは、たかがあの若娘がとの判断があるのかもしれません。それを間接に裏付けるのは、論文を撤回すべきとの若山教授にたいして「お騒がせして申し訳ありませんでした」と謝っても、「では論文を撤回するようにします」の発言が全くないことです。

これと似たような問題はドイツの閣僚の博士論文が同じような出典記載なしの引用があることが指摘され、閣僚を辞職する結果になったのですが、なんとその博士論文は三十年前の物なのです。ここで誰も考えるのはいったい誰が、何の目的でそのような大昔の論文の疑義を調べたのかということです。ドイツではそのような過去があると閣僚とか大臣は潔く辞めるのです。でも日本の閣僚とか大臣はそんなことでは辞任しません。ましてや、学歴詐称などは朝飯前の行為なのですが、日本ではあまり問題視されません。

でもこの問題に関してはマスコミも騒ぎすぎであり、この疑惑問題に加担していると思うのです。しかし、ノベル賞ものだの記事も飛び出したのでかなりのやっかみがあるはずです。、誰がノベル賞ものだと書いたのでしょうか。最初の新聞記事だけを読んで理解するとこの細胞を作るのは中学生でできるような簡単な方法だっとの記載があり、したがって、誰でも簡単に再現できるものと理解してしまうのです。

追記(2014 March 13)
そのごふと考えたのですが、あの論文の筆頭共著者にもなっている若山教授がなぜこれほどまでに剥きになって論文の撤回を求めているかということです。他の日本人共著者からは何らの反応もないのに。もしかしたら、彼が筆頭著者になることを期待していたのではないだろうか。しかも、STAP細胞は、刺激惹起性の多能性獲得細胞で、細胞への命名は、笹井芳樹氏が行っているのです

今度は彼女の博士論文にまで飛び火し、その内容に疑義がはさまれました。もうここまで来ると彼女は日本の封建的かつ学歴、序列社会からはじき出される可能性が大きくなりました。彼女はまさにそのような封建社会の犠牲者に追いやられ、最終的には日本に居られなくなるでしょう。まったく可哀そうです。次に起こり得るシナリオは彼女は日本の研究所から排除されてしまうことと想像しています。

追記 (2014 March 16)
最近の朝日新聞にネイチャ論文作成関係者の役割分担が記載されていました。その一覧表を見るとこの論文撤回の急先鋒者、若山教授は理研在職中で、かれが担当したのは実験再現のみでした。つまり、彼は小保方さんの実験技法に関しては問題がないことを認てめているのです。従って、彼が問題にしているのは論文の内容についてコピ-、ペイストがあったことを大袈裟に攻撃しているのです。でも、あの論文が書かれたときには彼は小保方さんの同僚であったのですが、本来なら同僚をかばうのが普通なのですが、彼の場合にはその逆を選んだことになります。まあ、それそはそうでしょう、あの若娘があのような論文をネイチャ-に出し、その結果、日本中が大騒ぎしたのですから、面白くないのは理解できます。
でも、実際にあの膨大な論文を書くのは大変なことで、この一覧表にもこの論文作成には理研の同僚が協力したことになっていますが、この人は何も発言、コメントしていません。

追記(2014 April 20)
今日の朝日新聞の図書紹介欄に市川房枝さんに関する本の紹介があり、その中に市川さんが「婦女新聞」(1939 March 5)に書いていた次のような一文がありました。
「婦人の事といえば面白可笑しく、誇大に報道し、直ちに有名婦人をつくってしまう」
とあり、今も昔も女性に関する新聞報道に関しては変わりがないことが伺われます。つまり、小保方さんの新聞報道に関しては市川さんが75年間前に嘆いていたことがいまだに通用するのです。日本はいまだに女性が社会的に進出することが難しい環境にあるということです。

追記(2015 Feb)
彼女はついに理研から追い出されてしまいました。確かに結果的には彼女は実験の再現が出来なかったのですが、実験がそう簡単にうまくいかないこともあるのですが、一回の試みで駄目というのはどういうものなのでしょうか。これがあのように新聞種にならず、単に実験室内での出来事であったのなら、もう一度か二度くらい試してごらんとなるのでしょうが、あれだけ騒がれればそうはならないのです。つまり理研全体があの騒ぎに便乗して鼻を高くしていたので、それだけに彼女だけを悪者にして放り出したのです。普通の研究所内でしたら、そのような人に別な研究課題を与えて若き研究者を育てるのが理研本来の任務なのですが・・・・。普通の実験室で二回や三回の再現実験が失敗したからと言って研究所から放り出していたら日本の科学はお先真っ暗です。でもSTAPという新しい概念そのものは消失していないのではないでしょうか。いずれにしても、この時点で私が今までに危惧していたことが現実のものになっていることなのです。もうこうなると日本の利権の現在は封建社会に戻った感じです。恐らく今後数十年は理研からは世界に誇れるような成果は出ないかもしれません。

追記(2016 March)
「文藝春秋」誌の四月号に佐藤優と緑慎也との対談記事で、小保方さんが書いた「手記」に騙されるな、彼女は錬金術師だときわめて露骨に非難されていましたが、この人たちは理研内の実情を知らないのではないでしょうか。従来のマスコミ報道だけでの理解だけで、小保方さんの「手記」を読んで単純に彼女は錬金術師だと論じるのは大きな誤り、誤解なのです。佐藤優さんまでがこの問題に首を突っ込んでいるとなると、彼はその問題に精通しているのでしょうか。

追記(2016 March)
【STAP論文】若山教授、共同執筆者に無断で撤回が発覚…小保方氏捏造説へ誘導
びじねすじゃーなる
2016年4月8日(金)6時13分配信 ビジネスジャーナル

このような事実が少しづつ表面化していることは最終的には小保方さんを誰かが排斥するためにしたことになる。

2014年3月 2日 (日)

水滴型会話と滝型会話

水滴型会話と滝型会話

この表題だけからは一見何を意味しているのかを理解することは不可能だと思います。

水はどこにでもあるものですが、空から雨が降ってきて、川に流れ、そして最終的には海に流れ込み、このサイクルが繰り返されていることになります。しかも日常生活においては水は欠かすことができません。水の形態には水滴から始まって、雨、小川、池、滝、湖、川、海など様々な形にて人間生活にいろいろな面で密接に関与
しています。水滴というのはぽとぽとと断続的に落ちてきます。一方の滝はものすごい勢いで流れ落ちてきます。同じ水でも水滴と滝との動的動きはまさに月とスッポンの違いがあり、極めて対照的です。

日本人とヨーロッパ人とではいろいろな面で極めて対照的な相違がみられることは日本の社会と欧州の社会をよく知っている人には周知のことであり、数え切れないほどたくさんの例が挙げられます。

最近ではこのような相違をもうすこし掘り下げて学問的に(?)研究しようという観点から国際行動学会なる、まさに日本的な発想の学会さえ日本では結成されています。陸地続きで各国が入り混じって歴史的にもいろいろな交流がある欧州ではそのような相違を改めて構えて研究する対象にしようなどとの考えはありません。これも島国日本ならではの発想になるわけです。

それらの違いの中で、日常会話でおおきな差異を感じさせられる場面のひとつに女性の会話力があります。人との会話で大きな差を感じさせられるのはやはりなんといっても女性の会話です。男性の場合は女性ほど会話力が強いわけではなく、日欧と比較してもやはり男性と女性との間でみられる差は洋の東西を問わず似ていることになります。なにしろ日本語で女が三人集まった形の漢字は「姦」であり、この漢字は文字どおり「かしましい」状態を示しています。つまり、女性は本来しゃべる能力が男性よりも大なのは世界共通なのです。しかし、このような違いを日本の女性と欧州の女性の会話能力とを比較して見ますとこれまた歴然とした大差があるのには驚
きです。

ここでいう会話力とは自分の意見、見解、見聞、など相手に伝える情報を常に十分に持っていること(話題量 )、相手にたいしてそのような情報をはっきり伝達することが出来ること(明確度 )、会話の持続力が大であること(持続度 )、話す速さ(速度)、などの要因から判断されます。

  会話力 = 話題量 +明確度 + 持続度 +速度

たとえば、俗に言うペラペラしゃべる場合、日本人女性と欧州の女性とを比較したとき、その会話力という観点から比較しますと、まさに月とスッポンの違いがあります。

ここで簡単に欧州と表現しましたが、ラテン系の言語と北欧系の言語とではもちろん言語そのものの持つ話し方や会話速度自体にかなりの相違が見られますが、いずれにしても女性の場合はそれらの違いが抜群です。欧州の言語のなかでもスペイン語とかイタリア語が女性によって使われたとき、その話す速度たるやおそらく欧州
一かもしれません。このような違いを実際に体験するには欧州のいろいろなテレビのニュ-ス解説者の話し方を比較すれば明白です。

もちろん、女性と一口に言っても、それぞれの個人差はありますので、女性全員がすべておなじような話し方をすることが無いのは当然です。しかし、典型的な女性の場合、欧州の女性が休み無く連綿としゃべる様子は実際にそのような光景に直面したことのない人にはまったく想像もできないのです。

ともかく第三者が口を挟む余裕するないくらいそれは見事な話し方なのです。それも10分や20分もとぎれることなく話しつづけるのです。まるで堤防が決壊して怒涛のごとく流れ出す様子すら想起させるのです。換言すれば、水が滝となって流れ落ちる壮大な光景に対比できるかもしれません。ともかく、その話し方はまるで機関銃のような話しかたなのです。

いっぽう、対する日本人女性の場合にはそのような話し方をすることが出来る人はほとんど皆無です。たとえ日本人女性がいくらペラペラ話すことが出来たとしても、欧州の女性のペラペラ度が極めて高いのと比較したら、日本人女性の場合はそれこそ水滴がぽたぽた滴り落ちる感じでしかないのです。片方が機関銃とすると日本人女
性の場合には小銃かもしれません。

繰り返しますが、ともかくこればかりは実際に経験したことのない人にはとても想像は出来ないことなのです。ましてや日本の男性に至っては会話力という観点からみたら最低になります。このことを日本での会合とか講演などで話すとかならず男性から「でも女性のペラペラよりは話す中身が大切ですからね」というコメントが返ってくるのです。まさに、典型的な日本人男性の発想なのです。小泉首相流の途切れ途切れ的紋切り型発言では話が相手に通じないのです。
 
会話力の強弱から分類すると
   欧州の女性 > 欧州の男性 > 日本の女性 > 日本の男性
のような順になるかもしれません。もちろん、全員がすべてそうであるということではなく、一般的な概念、傾向としてはそのような順になるということです。

これほどの大きなちがいがあることは単に会話だけに限定されず、いろいろな生活の場に於いてもそのような会話に起因または関連する心理、行動、思考などに多かれ少なかれ影響を与えていると考えても別に無理がありません。ここで改めて、欧州の女性の会話力と日本人女性の会話力とを念頭に置いて日本人とヨ-ロッパ人のものの考え方、行動パタ-ンなどを考察してみますと意外と大きな差があるのに気がつきます。

日本人の会話と同様、日本人の決断プロセスなども水滴にたとえることができるかもしれません。ともかく一般の日本人は会話は水滴の如く、途切れ途切れであり、極めておとなしいのです。つまり、そのような環境は水滴型社会と名づけることができるかもしれません。

たとえば、日本の政治家などはぼそぼそと話し、なにが言いたいのかが極めて不明瞭な場合が多いのです。小泉さんのような簡単な表現で全てを代表する紋切り型、俳句型の会話が多いのです。また日本人の典型的な判断、決断プロセスは「出来るところからすこしずつ始めましょう」がモット-であり、ドラスティックな決断をくだすことは不可能に近いのです。

日産のカルロス・ゴ-ン社長が日産の建て直しにさいしてあれだけ決断できたのも滝型社会の人間だからなのです。また最近の参議院の存在意義に関する議論のなかで、参議院は不要であるとのドラスティックな意見もありますが、今の日本ではそのような決断はまず不可能です。精々出来ることは少しずつ改革しましょう、その最初の手段としては・・・となればよいほうなのです。そのほかの例としては、日本独特の俳句とか和歌があります。これらは文字通り水滴型会話指向が昇華したものであり、欧州にはそのような簡潔かつ濃縮された含蓄のある表現形式はないといっても過言ではありません。

ともかく日本人の会話能力は先進国のなかではおそらく最低でしょう。母国語の日本語にしてこの有様ですから、日本人がいくら外国語を勉強しても日本語以上の会話力、発言能力を発揮することはまさに不可能なのです。それにもかかわらず、あるいはその逆に、それがゆえに日本には英語の勉強に関する本がゴマンとあり、
しかも毎年これでもか、これでもかと英語学習関係の本が出版されているのはまさに驚きなのです。

水滴型社会に生まれ育った日本人には所詮ヨ-ロッパ人並の会話力を発揮することは不可能なのです。それにもかかわらず、日本では昔とまったく同じテンポで英語学習法の本がこれでもかこれでもかと毎年出版され、よく売れているのです。たとえば、最近ベストセラ-になっているこの種の本では「聞ければ話せる、究極のノウハウに驚嘆の声続々」のような宣伝文句が付けられていますが、所詮水滴型会話民族の日本人には無理な話なのです。日本語でも人と禄に話せない人が外国語ではペラペラになることは不可能なのです。確かに、中にはそのような本のお陰で英語が楽々と話せるようになった人もいるかもしれません。

しかし、その比率、確率は極めて低いのです。ちょうど、民間医療雑誌とか健康雑誌などで「私はこれこれでがんを克服しました」などのセンセイショナルな表題の記事が沢山ありますが、たしかにそのご本人はそのような方法で治ったのかもしれません。しかしだからといってその方法が他人にも通用されるとは限らないのです。つまり、普遍性が極めて低く最近の医学表現を借りれば多くの人に適用出来るエビデンスがないのです。もっも、このような英語勉強法の本の洪水が長年続き、止まらないことはそれらのベストセラ-を読んでもほとんど効果がなく無駄に終わっていることを間接的に証明しているようなものなのですが、誰もそのことには気がつかないのです。

このほか、いろいろと例をあげることが出来ます。もちろんこのような水滴型社会のやりかたがすべて悪いわけではありません。逆におおいに成果を上げているもののひとつにトヨタの「かんばん方式」、日本独特の「改善」などが挙げられます。これらはもじどおり水滴型社会の真髄であり、小さいところから、些細なところから、こつこつと討議して、改良、改善し、長期的には大きな成果にまで到達することができるのです。このようなこつこつとある物に向かっていく行動は滝型社会のヨ-ロッパ人にはきわめて苦手なのです。これなどはまさに日本のお家芸でもあるわけです。すなわち、水滴型社会の人は「水滴りて石穿つ」(ミズシタタリテイシウガツ)の人間なのです。
  
いっぽうの滝型社会の人間は上記に挙げた例でもほとんどが対照的に大きく異なっています。欧州の議会などのテレビ中継をみていましても日本とは対照的に書かれたものの棒読み質問、回答は皆無にちかいのです。ともかく堂々と自分の見解をながながと表現できるのです。

日本で有名な表現のひとつに「話せばわかる」がありますが、この簡単なことが出来ないのが残念ながら水滴型社会に生活している日本人なのです。

2014年3月 1日 (土)

日本の薬局事情の特異性

「薬局事情の特異性」

薬事法では薬局を開設する場合には必ず調剤室を特別に隔離、独立したものにする必要が有り、すべての薬局では処方調剤が出来る仕組みになっている。ところが、現実には地方や郊外の一部の薬局では処方箋を受け付けず、従って保険薬局、調剤薬局の看板を掲げていない場合もかなりある。一方、病院からの処方箋を受けつけるための調剤薬局と薬局の看板を掲げている場合があるが、往々にしてこの調剤薬局では非処方薬(大衆薬)を全く扱っていないところもある。

でもなぜこのような奇異、独特な薬局制度を作ってしまったのか。その大きな原因は日本に医薬分業制度が導入された時にすべてがある。当時、医薬分業政策が本格的に推進され、それに対応すべき薬局を整備しなければならなかったので、当時の日本薬剤師会長の故石館守三博士がすべての薬局が均等に処方調剤を受け付けるべくカウントダウン方式を提案し、それに対応出来ない薬局は淘汰されても致しかたがないとの政策、実行を提唱したが、当時の薬剤師会幹部の総反対によりその実現が不可能となってしまい、今日に至っている。もっとも、故石館氏がこのような大胆な方針を打ち出せたのは、従来の薬局出身の会長とは異なり、衛試の所長であったといいう学者肌であり、薬剤師会の封建的な気風を知らなかったからできたことである。

従って、医薬分業は出来るところから少しずつ対応しましょうとの概念から、まず病院から薬局が飛び出し、いわゆる門前薬局の始まりとなり、その後はこの門前薬局式の処方調剤のみを行う調剤薬局の普及に繋がってしまった。したがって、未だに医薬分業率は100%にはなっていない。

調剤室が有りながら処方薬を受け付けないのは薬剤師自ら自分の業務を放棄しているようなものなのだが、そのような薬局の薬剤師にはそのような自覚は皆無のようである。そのほかにも、未だに薬局の全国規模での24時間体制が完備されていなくともあまり危機感がなく、さらに最悪なのは薬局での医薬品の品揃えの貧弱性が有る。

医療関係者が最良の医療を提供しなければならないことは責務となっているのと同様に、医療関係者の一端を担っている薬局薬剤師も同じことが言えるのだが、開局薬剤師の場合には必ずしもそのような信念は薄く、未だ「くすりや」の看板を掲げている地方の薬局もあり、一層の奮発が望まれる。そのためにも薬剤師会がもっと革新的な政策に取り組まなければ日本の薬局制度は崩壊してしまう可能性が極めて大である。

今までの開局薬剤師には医療職の一員であるとの認識が薄く、一般薬局内で顧客が来るのを待っているだけで、医師が処方した医薬品の使用に関しては一般薬局は全く無縁の存在であった。つまり、一番大きな問題なのは調剤を受け付けない薬局の存在である。でもそれは薬剤師側の責任であり、日本のように調剤を全くしない、いゃ、拒絶している開局薬剤師の意識、更に薬局内での品ぞろえの貧弱性が日本の薬局事情を複雑、特異的にしてしまい、その結果ドラッグストア、大衆薬のインターネット販売などの台頭に間接的に貢献していることに気が付くべきである。

ではどのような対策が必要になるのか。まず手始めにすべての開局薬剤師に「医療関係者として新しい分野開拓のために何らかの取り組みをしていますか」との意識調査をしてみること。恐らくその多くの人は「いいえ」「人がいない」「方法(ノウハウ)がわからない」「予算がない」と、ないないづくしで、新規の開拓には程遠い実態が浮き出されるはずである。現在の日進月歩の世界では、従来の待ちの姿勢では必ず淘汰されとしまう。

例えば、医薬品の安全性問題に関して患者のよき相談役にも成れるのだが、開局薬剤師のファルマコビジランス知識はまことにお寒い状態であることが多い。最近の薬剤師での調査では副作用救済制度を知っている人は極めて少ないことが報じられている。したがって、この制度の周知には一般薬局の協力も必要とされている。つまり、今後の薬局の生き残り対策とし、副作用情報への対応をはじめとし、健康相談、簡易検査の実施などについて薬局はもっと積極的に患者への対応、相談に努めるべきであり、ドラッグストアーとの差別化にも利用すべきであり、最終的にはインターネット販売、ドラッグストアーでの大衆薬販売を淘汰出来るようにすべきである。


追加(2014 Nov)
最近になって日医の幹部の人が「医薬分業の流れを院内調剤に戻す」ことを考慮、提案していましたが、現状を考えると当然な発言かも知れません。

 地域包括診療料の算定要件に、服薬管理や健康相談などがあります。「日医は方針転換をしたのか」との指摘を受けそうですが、かかりつけ医機能を評価する一環として、行き過ぎた医薬分業を是正するという意味です。


 五輪に向けて (3) 列車内のトランク置き場

2020年の東京オリンピックに向けて国内体制の準備が報じられています。

そこで将来の東京五輪に向けて成田、羽田への鉄道網新設が計画されていますが、忘れてはならないのは海外からの旅行客は必ず大きなトランクを持って来日することです。現在ではいまだ空港からの都心行のバスが便利なのでかなり利用されていますが、もし、この新しい鉄道網のメリットが宣伝されたときに、旅行客がまず困るのはその車両内でのトランクの置き場なのです。このことは新幹線にも当てはまるのです。初めて日本に来た海外の旅行者は必ずあの大きなトランクと一緒に新幹線に乗り込みます。

このトランク置き場は現在の成田線には各車両の入り口に置かれていますが、これはあまり感心しません。なぜかと言いますと、海外での空港の非安全性感覚に慣れている外国人には車両の入口に自分のトランクを置くことはそこに置いたトランクが盗まれはしないかとの心配があるのです。つまり、自分の視野に入らない場所に自分のトランクを置いておくことに対する心理的不安感があるのです。いくら日本ではそのような心配はいりませんよ、と宣伝しても着いたばかりの訪問客にはなかなか理解できないのです。

そこで、現在のような各車両の入り口にではなく、車両の真ん中にトランク置き場を設置することです。同じトランク置き場を設けるのにもそのような些細な気遣いが必要だと思います。

それにしても新幹線に海外からの旅行客が大挙してあの大きなトランクと一緒に乗り込んで来たらどうなるのでしょうか。考えただけでも恐ろしくなります。中には無理矢理に席の上の荷棚に置くことができるかもしれませんが、トランクの大きさにもよりますが危険かもしれません。

このような対応は今から考慮してできるところから改善していくべきです。

如何に疫学研究が難しいかの例

如何に疫学研究が難しいかの例

疫学研究実施に際して一番問題なのはその実施期間なのです。研究対象によってもその研究期間はかなりの変動が有りますが、その単位は年単位になることもあります。

例えば、最近に発表された40~59歳の女性に対するマンモグラフィ検診は、乳房触診検査や通常診療のみの場合に比べ乳がん死を低減しないことが報告されています。
Miller AB et al. BMJ. 2014 Feb 11;348:g366.
この場合はその調査期間が二十年以上となっています。

このような長期の追跡調査ではその結果がどのようになるかは分からず、もし期待とは正反対の結果になったらどうなるのでしょうか。たとえば、上記の調査で、乳がん死への影響は認められなかったとなると一体何のためにそのような「分かりきったこと」を何十年もの長い期間にわたって追跡調査したのかと非難されるかもしれません。

したがって、そのような長期にわたる疫学調査は普通の研究者、大学の先生は自ら進んで実施しようとは考えません。

所が現実にはそのような何十年以上にもわたる疫学調査が如何に重要であるかが推定されるものは沢山あるのです。特に、一般的に言われている「その毒性は許容量以下であるので、その使用に際しては全く問題はない」という判断です。ここで一番問題なのはそのような安全な許容量は一体どのくらいの期間調査したのかということです。

このような観点から考察すると私たちの身の周りにはいろいろな化学物質がゴマンと存在し、私たちの日常生活に密接に介在しているのです。介在と言うよりは微量ながら毎日身体に取り入れているのですが、それぞれ個々の化学物質の毒性は許容量以下になっているので全く安全ですとなっています。でも、そのようなごく微量の化学物質でも何十年以上にもわたって摂取した時の超メガ長期毒性に関しては誰も知らないのが大半なのです。

良く言われている、許容量以下の放射能の長期影響から始まって、ペットボトルの毒性、歯磨き成分の毒性、チュインガム成分の毒性、などなど、それらの例を挙げたらきりが有りません。

まぁ、そのような結果は知らない方が良いのかも知れませんが、基本的にはもっとも重要な研究部分でもあるのですが、だれがそのような何十年にもわたる調査、研究を進んでしてくれるのでしょうか。まず、そのような場合の長期研究費は誰が保障してくれるのでしょうか。

いろいろな分野ではそれぞれの機関がいろいろな研究費を出していますが、それらの多くは何かの成果、論文を出すための研究、つまり実施するために何らかの調査・研究対象が選ばれているのです。しかも、その実施期間は長くても数年です。

従って、疫学研究は特別な問題が起こらない限り、低調なのです。ところが日本では臨床疫学とは裏腹に薬剤疫学はその理屈だけが大受けで、理論家はたくさんいるのですが、では実際にいろいろな薬剤疫学研究の成果が出ているかというとそうではないのです。その原因の一つは薬剤疫学研究の場合にかなりの長期にわたる研究が必要になることが多いのです。従って、多くの研究者はそのような長期研究にはあまり関心が無いのです。、

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