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2013年10月の記事

2013年10月19日 (土)

日本語は難しい (5)

日本語は難しい (5)

最近の朝日新聞記事を読んでいて時として意味不明瞭な場合とか、全く反対の解釈をしかねない場合があります。

例えば次の文章です。
「三鷹署は規制法に基づき文書で警告したり、被害届を受理したりすることはなかった。」
この文章はストカーにより殺害された女子生徒に関する記事の中にありました。この文章をななめ読みにすると規制法が文書で警告したり、被害届を受理したりすることを禁じている、とも読めるからです。この記事を書いた記者には当然のこととの心理が働いていて、簡単に上記のような文章にしてしまったのでしょうが、他の同僚も規制法では当然のことながらそのような対応をするものであるとの先入観があり、誰もこの文章の不自然さに気が付かなかったのでしょう。

この文章の正しい読みかたは
「三鷹署は規制法に明記されている文書で警告したり、被害届を受理したりすることはなかった。」
となるのです。

2013年10月18日 (金)

日本の中でのロシア革命の余韻/ 亡命ロシア人のこと

日本の中でのロシア革命の余韻 亡命ロシア人のこと

 

10 月11日の朝日新聞の死亡著名人として「佐賀にわか」第一人者としての筑紫美主子さんの記事がありました。そこには彼女は亡命ロシア人の父と佐賀出身の母との間に北海道で生まれたとの記事がありました。享年92歳。

 

つまり、彼女のお父さんは1917年に起こったロシア革命の影響でシベリアから日本に亡命してきた数多くのロシア人の一人であったのです。この記事を普通の人が読んでも亡命ロシア人に関して特別な関心はないので、そのまま読み過ごしてしまいますが、昭和一桁の人間、そして私の父が福島の出身であることから、私にはいろいろな関心、想い出があるのです。

 

当時の日本にはロシアから革命が故に多くのロシア人が日本に亡命してきたことはおそらく多くの現代日本人は知らないのではないでしょうか。当時の亡命ロシア人は北海道、東北にやってきてそれらの一部の人たちはアメリカに渡らずに日本に定着していたのです。その中の一人が筑紫美主子さんのお父さんだったのです。

 

実は私の母方の伯母は福島に居住していましたが、ロシア正教の信者だったのです。それは当時の東北には多くの亡命ロシア人が居住していて、当然のことながらロシア正教の牧師も居て、亡命地日本での布教にも従事していたのです。ですから、今でも東北にはある程度のロシア正教の信者が居る筈なのです。

 

そのほかにも医師などの職業を持っている人たちもいました。数年前の新聞記事に「あのルーブル札を追え」との表題のもとに熊谷敬太郎さんの経済小説本の紹介記事があり、その記事の中で熊谷さんが眼病で清瀬市の病院を訪れたところ、その時の院長が亡命ロシア人女医武谷ピニロピさんだったのです。彼女は物理学者・武谷三男と結婚していたのです。

 

現在、彼女が名誉院長となっている武谷ピニロピ記念きよせの森総合病院があります。

 

このように今から三十年ほど前までは東北をはじめ関東にも当時の亡命ロシア人の面影はかなり残っていたのです。東京にはニコライ堂というロシア正教の教会があります。私が子供の頃はこの教会の建物はかなり大きく神田界隈を歩いていても際立って大きい建物でどこからでも見え、すごく目立っていたのですが、今では周りに大きなビルが乱立しその存在感はかなり薄れてしまっています。

 

恐らく今の若い人たちにはニコライ堂なんて聞いたことも見たこともないのではないでしょうか。

 

いずれにしても、ロシア革命が原因で革命から逃れた多くのロシア人が日本にも大勢来たことは当然のことで、彼らは白系ロシア人と呼ばれていました・その総数は革命後の数年間で200万人にものぼるとされ、一時は日本にも一万人近くの白系ロシア人が住んでいたとされています。そのようなロシア人は日本での生活に、洋服の材料となる毛織物製品を行商したり、バレエやピアノなどの教師をしたりしていたとのことです。日本のプロ野球で活躍したスタルヒン氏もその中の一人だったのです。、

 

 

 

 

2013年10月17日 (木)

海外在留日本人困惑エピソード集(3) 靴を如何に脱がせるか

海外在留日本人困惑エピソード集(3) 靴を如何に脱がせるか

海外生活で一番困る習慣の一つに靴にたいする対応が挙げられます。
日本では畳の生活なので昔から靴を脱いで室内に入るのが常識であり、どの家にも玄関には靴脱ぎのための場所が有ります。つまり、日本での生活では他人宅に行ったときにも靴を脱いで座敷に上がるという行為は常識であり、唯一の例外はホテルに泊まる時には部屋に入るのも靴はそのままです。

ところが、海外では日本のようなわけにはならず、いまだ多くの人たちは室内に入る時も靴をわざわざ脱ぐことはしません。極端な場合には靴を人前で脱ぐことはベットに入ることを意味していた時代もあるくらいです。アメリカ映画などを見ているとベットの上に靴を履いたまま横になるシーンが見られますが、あれは普通なのです。従って、海外で日本人以外の人を自宅に招待するときに困ることは彼らは靴のままそのまま部屋に入ってくるのです。

このような場合、もしそれが日本であれば靴を脱いでスリッパに履き替えてください、と言えるのですが、もともとそのような習慣の無い欧米ではそのようにお願いするタイミングが問題なのですが、状況によってはそんなことにはお構いなく靴のまま部屋に入ってくることもあります。したがって、そとが雨降りだったり、雪降りだったような場合にはなおさら、問題なのですが、相手によっては全く無関心でそのままずけずけと部屋に入って来られてしまう場合が有ります。たとえ、入口にスリッパを揃えておいてもその意味を理解せず靴のまま入ってくる人は稀ではないのです。

しかしながら、若い世代では家に入るときに靴をぬぐ習慣が少しづつ取り入れられているのですが、これが古い世代の人の場合には問題で、もし靴を脱いでスリッパに履き替えてくださいということ自体が侮辱感を与えることにもなりかねないのです。

こればかりは習慣の相違で場合によってはどうにもならないのです。ともかく彼らにとっては靴を脱ぐことはベットに入る時だけという固定概念がいまだに染み込んでいるのです。この固定概念と言うのは意外と未だに一般家庭に残っており、例えば、部屋の掃除は土曜に限るとか、洗濯は何曜日とか、意外な古典的な規則性が残っている国もあります。例えば、スイスとかドイツなど。

欧州でいささか古い時代の名残りであり、今の若い世代の人にはほとんど忘れられているそのような習慣の一つに土曜の風呂が有りました。つまり、かっては家庭内で風呂にはいるという習慣は稀で、そのため土曜にだけ入るという習慣が有ったのです。とても日本人には考えられない習慣だったのです。ですから、この習慣に関しての笑い話に次のようなものが有りましたが、現代の人には何の意味か分からず、笑い話にはなりません。

その笑い話とは「娘さんがホテルに泊まった時に部屋に浴槽が有るのを見つけて、さっそく母親に電話したのです。”お母さん、この部屋には浴槽が有るのよ。土曜が来るのが待ちどおしいわ”、と言ったとのことです。」
みなさん笑えますか。

2013年10月15日 (火)

日本語は難しい (4) 「全体として」

日本語は難しい (4) 「全体として」

福島での汚染水制御に関して、五輪誘致の場で阿部首相が「全体としてコントロルされている」と言明したのですが、多くの人はこの声明で、福島の汚染水問題は制御されていてまったく問題がないと解釈していたようですが、その後になって少しずつ真相が小出しに出され、その実際はまったくコントロルされてはいないことが少しづつ明らかになっています。

ここで「全体として」という表現はこのような状況の場合にはまさに最適で、ただなんとなくそのような発言を耳にすると、すべてがうまくいっているものとの錯覚に陥ります。つまり、「全体として」議論するのと「個々の場合について」議論するのとではおおきな違いがあるのです。
例えば、「彼女は全体としては有能なのだが、個々のレベルでいろいろと検討すると問題が多すぎてだめだ」ともなるのです。したがって、この表現を前半だけとって「彼女は全体として有能である」だけで判断するととんでもないことになるのです。

ですから、阿部首相はこの汚染水問題で将来とんでもない状況になっても、いくらでも言い訳、弁解できるのです。本当に日本語はその正しい理解が難しく、悪いことには意味不明瞭な表現にもなるのです。

2013年10月 5日 (土)

日本語には性別がない。 なんと日本語は便利なのか 師か士か?

日本語には性別がない なんと日本語は便利なのか

ともかく次の文章を読んでみてください。
「母の死を機に父の心は壊れた。いまは言葉も表情も失い。土塊のようになって閉鎖病棟にいる。息子が会いに行くと、父は看護師に声を発する。“やっ„。彼女は“そうですよね、嬉しいですよねえ„と父に返す。この面会を父が喜んでいるという“意訳“に、息子は戸惑う。看護師にわかることが、めったに来ない息子には理解できない。」(横山秀夫 「動機」)

この文章を普通に読んでいて「彼女」に引っかかったのです。つまり、えっ、彼女って、誰のこと、と。でも繰り返し読んでみるとこの「彼女」は看護師のことを指しているのです。看護師という表現に慣れている人には上記の文章を読んでも違和感がないかもしれないが、私のような昔の人間にはこの看護師という表現がいまだに気になるのです。昔は看護婦だけでしたが、近年は男性の看護役も増加しているので、両者を含めて看護師という表現が採用されたわけです。確かに、理屈はわかるのですが、私には頭では分かっていても斜め読みのような場合にはかなり抵抗感があるのです。

この看護師という表現に使われている「師」は旧来の三師、つまり医師、歯科医師、薬剤師を意味していたのですが、いまでは看護師の登場でそのような意味がなくなってしまいました。当時の議論時にはは男性の場合には看護士という表現が使われていたのですが・・・・。

でも考えてみればそのほかにも調理師、理髪師などの表現もあり、「師」の使用が上記の三師以外にも結構あるものです。いっぽう、保育士というのがあり、この資格は大学卒かあるいは専門学校卒出なけれはならないのですが、保育師とはならないのです。なぜなのでしょうか。それとも学士、博士なみ扱いなのでしょうか。

ここで、なぜこのようなことに触れたかと言いますと、看護師だけでは男性なのか女性なのかが不明なのです。したがって、その性を明確にするには女性の看護師、男性の看護師としなければなりません。医師の場合には女医という表現があり、今でも使われているのに、薬剤師にはそのような区別はなく、看護師と同じ状態にあるのです。したがって文中に看護師とか薬剤師、調理師などがあってもその人が女性か男性かは全く不明なのです。

このような表現が使われている日本語をフランス語とかイタリア語などに訳すときには困るのです。また、その逆にそれらの言葉の性別があるときにそれを日本語に訳すときにはどのように訳すのでしょうか。例えば、「女性の薬剤師」「男性の薬剤師」あるいはもしかしたら性別を無視して単に「薬剤師」と訳されるのかもしれません。
周知のようにフランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語などでは言葉に性別があり、男性か女性かはすぐにわかるのです。

その点、日本語は性別とか、単複の区別がないのである意味では便利な言葉です。「友達に会いに行く」といっても相手がガールフレンドなのかポーイフレンドなのかはわからないから場合によっては便利です。旦那が夜遅く帰ってきても、ちょっと友達と飲んできた、と言っても相手が男性か女性かは詮索されない限り不明なのです。このように日本語の曖昧性はきわめて便利であり、なにも男女とか単数複数の区別ばかりでもなく、いろいろなあいまいな表現が限りなくあり、ですから日本の政治家は極めて気楽に、いい加減な表現を駆使して話せるのです。

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