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2013年7月の記事

2013年7月28日 (日)

私の架空発明 (17)  携帯やスマホに自動警告・停止装置を導入 (+)

私の架空発明 (17)  携帯やスマホに自動警告・停止装置を導入

携帯やスマホなどの使用に関連して、歩きながらのそれらの使用の危険性が論じられています。最近では子供から大人に至るまで、歩きながら、自転車で走りながら、車を運転しながら、横断歩道を渡りながら、など、など極めて危険な状態での使用が拡大しています。特に、横断歩道や、駅のプラットホームでの「なから使用」の危険性も報道されています。

そこで提案したいのはそれらの携帯やスマホに自動警告・停止装置を導入することです。つまり、「ながら使用」の時には携帯やスマホが人の動きを自動的に感知し、最初に警告音が鳴り、それでも「ながら使用」を続けていると、自動的にその機能を停止することにするのです。

逆な見方をすると、携帯やスマホは動きのない停止状態でのみ使用が可能になるようなソフトを全機に導入することです。もっとも、このような装置では車や自転車の場合には別な感知装置の併用が必要になるかもしれません。

このような発想は他の分野にも適用できるのです。例えば、車での安全シトベルトの着用に関しても、もし着用していないときには自動的にモータが停止するようにすることです。そのほかにも考えればいろいろな分野にこのような自動停止装置を設置することができるのです。

しかし、このような装置の導入は関連業界全体が一体となって推進することが重要で、一部の機種にのみ導入しても消費者が選択する可能性が大となり、その製品は売れなくなるかもしれないのです。したがって、このような装置の導入に関しては業界全体の規制、あるいは行政指導でのみ効果があることになります。。

追記 (2014 Feb)
 このほかにも考えられるのは現在のアイパッドとかスマトフォンは手のひらに載せて頭を15度くらい前倒しにして使っているので、これらの機器を垂直の位置にしないと作動しない装置を設置するのです。そうすることによりそれらの機器を手で目の前に高く持ち上げて目と同じ位置に垂直に保たなけれならないようにするのです。そうすることにより、姿勢が正しくなり、しかも前面が見えるようになるので、ぶつかる可能性が低くなります。
ともかく、このような垂直型機器を導入すれば姿勢は良くなると、前面がかなりよく見えることになります。
もし、今のままの状態が続くと今の若者が20年、 30年後には首が前かがみになってしまいます。

2013年7月26日 (金)

有害事象か副作用か ?

有害事象か副作用か ?

ファルマコビジランス分野では最近は有害事象という表現が頻繁に使われ始めています。ところが、ほとんどの人は有害事象も副作用も全く同じ感覚で捉えており、両者は同じ概念のものと理解しているようです。

例えば、抗ガン剤の副作用の解説書の中で「化学療法に伴う悪心、嘔吐は患者が最も苦痛と感じる有害事象の一つである」のような記載になっています。もう、こうなると副作用も有害事象も同じことで、有害事象の表現は正に流行語の一つ扱いなのです。

しかし、厳密には両者は全く同じことではなく、有害事象はadverse eventのことであり、副作用は side effects, adverse drug reactionを意味しており、前者の有害事象は投与薬剤とそれに伴って見られる日常生活では見られない特別な出来事を意味し、果たして該当薬剤によるものかどうかは全く不明、または因果関係ありとは認められないと理解したときにも使われるのです。

一方の副作用は少なくとも医療関係者が該当薬剤投与との間に何らかの因果関係があるかもしれないと推測、判断した時点で副作用扱いになるのです。簡単に表現すれば、有害事象は因果関係はあるかどうかはまったく不明、あるいは問題にせず、そしてともかく従来の日常生活では頻繁に起こらない事態を経験したときに使われるのです。その反対に副作用という表現は医療関係者が該当薬剤に起因するものかもしれないと推測した時点でこの表現が使われるのであり、その段階には「疑い」suspectedから「確定」definiteといろいろな段階があるのです。

ところが、最近は殆どの製薬企業は医療関係者に対して「有害事象報告書」との名を付けた用紙を配布しているのです。しかし、実際は医療関係者は「副作用」を報告しているのであって、有害事象を報告しているのではないのですが、企業関係者はそんなことには全くお構いなく、うちは有害事象を医療機関から報告してもらっていますと豪語さえしているのです。つまり、企業の関係者の多くは副作用という古い表現より、なんとなく新しい表現と捉えている有害事象のほうが受けが良いものと思って居るのです。医療関係者が直接行政に報告する場合の機構のホムペイジからダウンロドした用紙は明らかに「副作用報告用紙」となっているのです。

このように、最近では副作用という「古い」表現よりも語呂の良い「有害事象」という表現が乱用されているのです。例えば、一部の有志が開局薬剤師を中心に有害事象検討会のようなものを開催したりしていますが、彼らには副作用よりも有害事象のほうが好まれるのです。似たような現象は医療関係者にまで拡大され、例えば、「抗がん剤有害事象、知っておきたい最新情報」のような記事が散見します。この場合はこの記事を書いた人は抗がん剤の副作用を意図しているのですが、抗がん剤で起こる様々な副反応はそれらの原因がはたして抗がん剤に起因しているかどうかは不明とも考えているのでしょうか。もう、こうなると有害事象という表現は従来の副作用という表現よりも聞こえが良いから使われ、最近の新しい表現にかわっているものと考えているのかもしれません。あるいは、そのような厳密な解釈の必要性は無いものと考えているのかもしれません。

治験の経験のある人には有害事象と副作用との違いは歴然としているのですが、そのような経験のない人、特に臨床医には有害事象の表現のほうがなんとなく聞こえが良いのでしょう。そのような人たちに両者の違いを説明するときに一番簡単な質問は、「ではあなたたちは患者がある薬剤を服用中に自転車事故が起こったときも自動的に有害事象としてその情報の収集につとめ、行政に報告していますか」なのです。

治験の場合には文字通り因果関係の有無を問わずすべての非日常的な好ましくない事象、つまり有害事象を収集し、それらの事象を詳細に検討、因果関係をできるだけ究明し、少なくとも因果関係が完全に否定、除去できないときに初めて副作用扱いとして対応するのです。

このように両者の間には明確な区別があるのですが、現在のような状況を意識的に理解しながら以下の文書を読むと、ここに書かれてある有害事象は副作用の意味で使われているのかどうか極めて曖昧になるのです。

「高齢者は、薬剤の有害事象が起こりやすく、アドヒアランスが不良となりやすい半面、同じ年齢でも寝たきりの人から元気な人まで振れ幅が大きいことも特徴です。そのため、有害事象の起こりやすさやアドヒアランスの程度は個々でかなり異なり、結局は、主治医が患者の情報を集め、その人に適した治療をデザインするしかないようです。」

このように考えますと、なにも薬剤の安全性に関連していない他の分野でも似たような誤解、曲解の表現が頻繁に使われているのに気がつきます。

  移民は本来出て行く行為なのですが、日本に移民して来ている人のような場合にはemigrationの意味でも使われているのです。日本語にはimigrationと, emigrationを区別する表現はないのです。それは従前は日本から南米などに移住した経験しかないので、日本から外に移り住むこと、つまり、移民emigrationとなっているのです。しかし、呼民imigrationという日本語はいまだ存在しないのです。

  似たような例として、植民地と併合、これはほとんどの日本人はごっち混ぜに理解しているのです。

2013年7月25日 (木)

個人情報保護法の曲解、誤解

個人情報保護法の曲解、誤解

最近の朝日新聞に「朝鮮戦争後日本に戻れず、元在日義勇兵、妻子を探す」の記事の中に、60年ぶりに日本の新発田市を訪ねて、市役所でなにかの手がかりを求めて、資料の閲覧を求めたところ、個人情報保護法を理由に閲覧を認めなかったとの記述がありました。これはあまりにも杓子定規的対応であり、また非人間的な対応だと思うのです。

でもどうしてこのような事態になったのでしょうか。それは個人情報保護法を正しく理解していないからです。この法律の基本は個人情報が悪用されることを防ぐことが目的なのです。したがって、もし悪用される可能性がないものと判断された時には前向きに対応してほしいものです。

しかし、現実はこのような悲劇もしばしば発生し、その典型例は一人暮らしの人の親族を探すときなどでも知られています。ともかく、私たちの日常生活環境の中で如何にこの個人情報保護法という名前のもとにこの法律が誤解、曲解、悪用されているか、そのような例を挙げたらきりがありません。住民の安否確認や、その家族への連絡には住民の一覧表、名簿があればその確認などは簡単になるのですが、このような場合でも個人情報保護法を盾にそのような情報提供を拒否する地方自体がほとんどなのです。

例えば、学校のクラス会の名簿は昔はいとも簡単に作成され、クラスの全員に配布されたものですが、最近では個人情報保護法の影響で完全に廃止され、請求しても個人保護法の名のもとに拒否されてしまいます。もうこうなると電話帳なども同じ運命にあるわけです。たしかに電話帳を悪用しようと思えばいろいろな方法があります。そのような意味では電話帳は悪用される可能性があるので日本では各家庭に配布されてはいないようです。しかし、スイスやドイツなどでは電話帳は従来通り無料で各家庭に配布されているのは日本的感覚からいえば異常なのかもしれません。本当は日本のほうが電話帳に関しては異常なのですが・・・。もっとも、最近ではインタネットでいろいろと検索できるので、電話帳のような紙の媒体は必要ないと考える人もいるかもしれませんが、インタネットでは簡単に検索できる電話番号の紙の媒体はこの法律で発行できませんとの理屈はまさに笑いものです。

このように従来は当たり前であったことがこの個人情報保護法の影響で、いろいろな問題が派生しています。日本の様に猫も杓子も個人情報保護法を盾にかたくなに情報提供を断ることはあまりにも極端かも知れません。


そのほかにも私の専門分野で副作用情報を提供する時とか、その逆により詳細な情報を該当病院に求めてもこの法律で簡単に断られてしまうのです。これも個人情報保護法の誤解、悪用で、その中の条文をよく読んでないことになるのです。この法律に関連して「医療・看護関係事業者における個人情報の適切な取り扱いのためのガイドライン」の(2)第三者提供の例外として適用外となっているのです。

もうこうなると知らない土地を訪問して、目的とする知人のうちが何処にあるかを通りすがりの人に聞いても「それは個人情報保護法により教えられません」となるかもしれません。まさに漫才的な対応が現実のものとなりつつあるのです。

もしこのように拡大解釈をすると、いろいろな笑い話的な現実がうまれそうです。

その①
たとえば路上で警官に職務質問を受けて名前と住所は?と聞かれても個人情報保護法で答えられませんと反論したらどうなるのでしょうか。でもこうなるとまさに漫才的な情報提供拒否になるかもしれません。

その②
子供が学期末に成績表を学校で貰ってきたので、父親が成績表を見せてごらん、と要求したときにそのこどもが「これは個人情報保護法により誰にも見せられません」とその提示を拒否したらどうなるのでしょうか。このような場合、もしかしたらその子供は父親からゲンコツを貰うかもしれませんね。

いずれにしてもねこの法律の悪用、誤用、曲解など例を挙げたらきりがありません。最近の新聞に「ス-パ-などで受け取るレシトにレジ担当者の名前があるのは個人情報保護法の観点から疑問だ」との投書が載っていましたが、本当にそのように解釈すべきなのでしょうか??? このような考えをさらに拡大すると、病院などでの医療関係者が自分の名前を白衣に表示しているのも個人情報保護法の対象になるのかもしれません。

2013年7月20日 (土)

私の架空発明(16) ディスク・プレイヤーに速度調節機能を

私の架空発明(16)
ディスク・プレイヤーに速度調節機能を

CDやDVDでいろいろな音楽を聴いたり、見たりするときにふと考えたのですが、ある部分を繰り返しゆっくり聞きたいときがあるのです。特にこのような状態を切実に感じるのは語学の学習のときです。市場にはいろいろな語学用のCD, DVDが存在しますが、それらの内容を聞くときに市販のプレイヤーでは繰り返し同じ部分を聞くことができるボタンはあるのですが、その話すスピードを落とすことはできないのです。つまり、同じ会話部分を繰り返し、しかもゆっくりと何回も聞くことができるプレイヤーがあればと思うのですが、いまだそのような機能の付いたプレイヤーは無いようです。

2013年7月11日 (木)

維新の会の橋下氏の発言は国際感覚ゼロの子供の発言

維新の会の橋下氏の発言は国際感覚ゼロの子供の発言

日本の維新の会の橋下氏が新潟市内での選挙運動で慰安婦問題に関連して「第二次大戦のときの各国の軍隊も、また朝鮮戦争やベトナム戦争のときの韓国軍も、・・・女性を性の対象として利用していたのは厳然たる歴史的な事実だ」と発言していたことが報道されていました。

彼の言っていることは事実なのですが、似たような発言を公の立場で何回も繰り返し発言ていることは彼には国際的な政治感覚が全くゼロであることを示しています。島国日本だけでの発言ならばよいのかもしれませんが、今日のような情報社会では国内も国外もその壁は存在しないのです。

更に悪いことには、この発言は選挙活動とは全く関係のないことなのです。確かに彼は通常の日本人とは異なり、思っていることをズパズは発言するという点では政治家として大きな価値があるのですが、いかんせん発言の良しあしの判断が政治家としては不適切だと思うのです。

全く情けなくなります。これでは彼は馬と鹿が合体した状態も同然のことなのです。少なくとも公の立場にいる人はいくら事実のことであっても公言して良いことと、してはいけないことの区別、けじめがなければ品位を書くのです。つまり、そのような人は政治家になる資格がないのですが、彼にはそのような理解が全くないのです。事実だからと言って、なんでもかんでもそれを公言することの良し悪しはその対象となる話題に大きく影響されていることが彼には理解が出来ないのです。

例えば、ある市長が未成年の女子と関係を持ったことが公にされ、非難されたとき、そんなことは多くの人もやっていることであり、私だけではないのです、と公言するのとまったく同じ論理構成なのです。他人がしていることだから、私がしてもそれは事実であることには変わりがない、と似たようなことを公言するようなものなのです。これが一介の民間人が酒の席で公言しても、それは全く問題にならないかもしれません。他人に笑われておしまいになるかもしれません。

2013年7月 9日 (火)

肩書き、経歴重視社会

肩書き、経歴重視社会

 最近になって改めて認識したことの一つに日本は「経歴、経歴重視社会」であることです。その典型例は本の表題に付けられている著者名と本の奥付に記載されてある著者略歴欄があります。多くの場合、どこそこ大学教授とか、なんとか研究所部長などの肩書きがほとんどで、なんらの肩書きのない著者名の本、とくに専門書、は皆無といってもよいくらいです。最低でも、医学博士とか薬学博士などは必需品です。最近出版された本にはなんと「薬学修士」のタイトルが自分の名前の前に付けられていました。

確かに、「馬子にも衣装」と言われるように、肩書はやはり体面を尊重する社会では必要なものになっています。ですから、たとえば、「医学博士が開発した育毛の裏技が世界各国で大注目」のような宣伝文句にも使われ、「医学博士」という肩書が必要で、無名の発明者の名前よりも「医学博士」が未だに通用するのかもしれません。でもこのような概念は欧州にはまったくありません。でも、「医学博士」の人が必ずしも医学の専門家とは限らないのです。

そのほかにも、新聞への投書に際して「職業」を記入することが一般的ですが、その場合、「無職」と記入するのか「元・・・」と書くのとでは読者が受ける印象が違うのかもしれません。つまり、そこに「無職」とあるとそこに書かれてある内容の裏付けが違ってくると一般的に多くの人が無意識に理解、認識するのではないでしょうか。

つまり、「無職」の人と「元・・・研究所長」とで、たとえ同じ内容のものが書かれていても、その内容の格付けが違うかもしれません。本当はそのような理解、解釈は無意味であり、書かれてある内容を読者自身が判断すべきなのですが、しばしば昔の肩書がそこに書かれてある内容の意義を違った観点から理解しているのが普通なのです。それにしても、新聞の投稿欄に必ず職業名が付けられ、その中に「無職」という職業が日本には存在するのです。

たとえば、「日本は2025年には世界の三流国になる」という見解を「無職」の人間が書いたときと、「・・・大学教授」が書いた時とでの読者が受けるインパクトはかなり異なるかもしれません。そこにはやはり学歴、経歴社会が現実に存在するからです。本当はそこに書かれてある内容からその本の価値、さらには著者の見識を理解、評価すべきなのですが・・・・・。もしかしたら、そのような見解を「無職」のひとが書いたら、誰も取り上げてくれないでしょう。

ところが、欧州など海外で出版された本の表紙タイトルの著者名にはまずなにも肩書きがないのが普通なのです。そこには名前だけなのです。さらに日本の本とは異なり、いわゆる「奥付」がなく、したがって、もしあるとすれば日本でいう著者略歴は外表紙のカバーの後ろの内側に簡単に記載されてあります。あるいは、本の中の始めの頁に肩書き、所属などが表題と一緒に書かれてある場合もあります。特に英国での出版物には本の中の表題の下にごてごてと書かれてある場合が多いのです。その典型例として、称号は実にいろいろなものが列記されてあり、内情を知らない人には何の略号かはまったく見当がつかない場合があります。たとえは、一人の人の肩書にBSc, MB, BS, PhD, DavMed, AFOM, MBAeSなどが書かれてあります。いずれにしても、大学関係者の肩書には実にいろいろな名称があり、以前は教授、助教授、講師、助手くらいしかなかったのですが、現在では准教授から始まって、特命教授、特任教授など外部の人間には全く理解できない名称が使われています。もう、こうなると一回でも大学での講義をした場合には「時間講師」「特任講師」などになるのかもしれません。

もっとも、ドイツでは未だに称号、特にDr.の肩書きは大切で、日常社会でもDr.の呼称は普通であり、特異的なのは旅券にDr.なにがし、と正式に記入することができるのです。このようなことは日本の旅券では不可能です。

このように日本では著者の肩書き、詳細な略歴が書かれてない本、少なくとも専門書では、は存在しないといっても過言ではありません。また、出版社もそのような情報を著者に求めることが普通なのです。つまり、そのような肩書き、豊富な略歴はその本の売り上げにも貢献するものとの認識があるからです。ある意味では日本はきわめて重症的な肩書き、経歴社会なのです。 ですから、なんらの肩書きもなく、また奥付の著者略歴に何も記載がないと「どこの馬の骨」か分からないので、まったく無視されてしまう可能性が高いのです。

なぜ、私がこのような日本ではまったく常識的なことを敢えて書いたかといいますと、今までにいろいろな専門書を出版して、そこには恒例のように略歴をごてごてと書いていましたが、今年の始めに出版された専門書「医療の個別化に向けた ファルマコビジランスの理論と実際」には初めて意図的に肩書きなし、略歴なしにしてみたのです。そしてこの本を自分なりの判断で選んだ未知の大学のお偉方の先生方十人に謹呈として郵送したのですが、それら大学の先生全員からは何の連絡もありませんでした。

まぁ、未知の人間で、しかも肩書きもなく、略歴もない、ただの「どこの馬の骨」か分からない人からの寄贈本にはまったく価値がないものと理解され、見事に無視されてしまいました。たとえ、予め予想していたとはいえ、いざ現実のものとなった時にはいささかがっかりしましたがこれが日本の現実なのですね。本当に貴重(?)な経験をしたことになります。もし、将来この本の改訂版を出す機会があれば、他人並みにごてごてと勲章を着けるようにいろいろと書き並べてみます。

ともかく、欧州では一旦大学を卒業するとどこの大学を卒業していようかみんな同じ扱いなのです。ですから一旦大学を卒業した人はそれで過去の学歴はおしまいで、あなたは何処の大学で勉強しましたかなどとは全く聞かれないのです。

最近気か付いたのですが、内閣の変更とか閣僚の変更などで新しく任命されたひとの経歴には必ずどこの大学を卒業したがが明記されています。こんなことは欧州の場合にはありえないのです。

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