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2013年5月の記事

2013年5月31日 (金)

錠剤などへの付加価値情報

錠剤などへの付加価値情報

 

私は知らなかったのですが、最近は錠剤とかカプセルなどのそれぞれに薬名などを印刷することが出来るようになっているとのことです。

 

「製剤の工夫で差別化図る後発品が次々登場」: http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/201305/530773.html

 

このような工夫は消費者志向の成果でもあり、今後は先発品にもその影響が出ることでしょう。

 

そこでさらにこのようなアイディアを拡大し、それぞれの錠剤などに色を付けてはどうでしょうか。高齢者は色で錠剤などを表現することが多いので、錠剤名に加えて有色化、それもいろいろと着色の形を変え、例えば錠剤の半分だけ赤にするとか あるいは錠剤の片面だけを着色するとか、いろいろと視覚に訴える方法も必要かもしれません。現在の製剤技術では全く問題はなくできると思うのです。

 

そうすれば服薬コンプライアンスの向上にもつながるかもしれません。たとえば、高齢者の患者に「今朝は赤色が半分だけの薬を飲みましたか」、となります。

 

このような発想をさらに発展させれば、小児用の薬には薬名以外にも動物の絵を書くとか。そうすれば子供に薬を飲ませるときに、「あの象さんのお薬をのみましょうね」、との会話が成り立つのです。いかがでしょうか。

 

2013年5月26日 (日)

マスメディアの影響 韓国紙の「神の懲罰」報道とドイツ

マスメディアの影響 韓国紙の「神の懲罰」報道

 24日の日本の新聞に韓国の新聞Joongang Ilbo dailyが広島、長崎への原爆投下は「神の懲罰」Divine punishmentの記事を載せたことを一斉に報道し、韓国紙に日本が抗議したことが報道されています。

この韓国の新聞には原爆の投下と並行してドイツのドレスデンへの爆撃も「神の懲罰」と広島、長崎と同列に報じていました。このことは朝日新聞や産経新聞には記載されていましたが、読売新聞には省略されていました。なお、この韓国紙の英文版のタイトルにはsuggesting the atomic bombings were „divine punishment“と柔軟な表現が使われていましたが、本文中には・・・were acts of divine punishment and human retaliationと断定的な表現になっています。

ここでドイツのドレスデンへの絨毯爆撃( 第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍によって行われた完璧なまでの無差別爆撃)はドイツではちょうど広島、長崎への原爆と同じような感覚でドイツ人は受け止めています。それはドイツが降伏する二か月半前に避難民で溢れ、戦略的価値の全くなく、また無防備都市であったドレスデンへの無差別爆撃とされ、広島、長崎への原爆投下がなくとも日本は降伏する一歩手前の状態であったと同じように降伏直前の爆撃だったからです。ドイツ軍の降伏は1945年5月8日にフランスのランスで降伏文書に調印し、また5月9日に首都ベルリンで批准手続きとなる降伏文書調印を行った事で降伏しました。

しかし、ここで興味深いのは日本のマスメディアは一斉にこの韓国紙の内容を報道し、日本政府の抗議を伝えていますが、ドイツでは全く世論を沸かせていません。たとえば、ドイツの有名紙のひとつであるFrankfurter Allgemeine紙には24日付けの記事に、「日本の孤立」(Japanische Einsamkeit)の表題で Peter Sturmが書いた記事が載っていましたが、それは広島、長崎の原爆についての三行ほどの言及であり、ドレスデンのことにはまったく触れていません。もしかしたら、韓国の新聞そのものは入手していなくて、ニュスとして日本の新聞からの引用なのかも知れません。したがって、ドイツの世論は日本のように反応していません。それにしてもこの韓国の報道に日本憎しと同列にドイツ憎しの表現を使ったのは日独伊三国同盟が影響していたのかもしれません。そうなるとイタリアに対しても似たような表現が必要になりますが、見つからなかったのかもしれません。

確かに、日本とドイツとの間には現時点での韓国に対する印象、関係は大きくことなりますので、ドイツのマスメディアは全く取り上げなかったのかもしれません。つまり、マスメディアの取り上げ方如何ではいわゆる世論が大きく変わることです。つまり、知らされなければ当然のことながら世論は動きません。

逆の見方をすればマスメディアは世論をいかようにも左右することが出来ることをこの韓国紙の記事により改めて認識させられました。このように解釈しますとドイツは韓国との関係をあえてこじらせたくはないと考えているのかもしれません。その逆に日本のマスメディアは韓国関係に関しては極めて異常なまでに敏感であり、韓国の反日的な報道はすべて取り上げ過剰に反動しています。それがよいことか悪いことかは人によってその解釈が異なるかもしれません。もし、日本が、マスコミや政治家を含めて、韓国のそのような反日的な言動に何らの反応を示さなければ彼らの意図にそぐわないことになり全く言論戦が成り立たなくなるのですが、ある意味で見方を変えれば日本は韓国の言論に踊らせられているものと解釈することもできるのです。はたしてどちらの対応、反応かよいのかはひとによっても異なるかもしれません。

2013年5月24日 (金)

戦時中の米兵捕虜の死亡率 韓国人が喜ぶような数字

戦時中の米兵捕虜の死亡率
5月1日付で発表された米国議会の調査局(Congressional Research Service)による日米関係のレポート("Japan-U.S. Relations: Issues for Congress")によれば「ナチスドイツの捕虜になった米兵の死亡率が1から3%であるのに対して、日本の場合は40%に達していた」という記載があります。
ただここでこの数字の解釈なのですが、どのような状況下、環境下で捕虜が死亡したかということです。何事にも原因があって結果があるのであって、結果だけからすぐに判断するのはJump into the conclusionだと思うのです。
虐待による死亡なのか、飢餓による死亡なのか、重労働による死亡なのか、病気による死亡なのか、当時の東南アジア、インド等での日本軍の食糧事情、捕虜であった期間、捕虜として隔離されていた場所、なとも影響があったのかもしれません。それからドイツの場合はどのくらいの米兵が捕虜になったかは不明ですが、日本と大きく異なるのはドイツによる米兵捕虜はドイツに収容されていたが、日本による米兵の捕虜の多くは日本以外の各地に分散して収容されていたと思うのです。従って、米兵捕虜がどのような環境下で死亡したのとの分析デタはないのかもしれません。
この報告書にはそのような数字がただ述べられてあるだけで、だから日本軍はどうのこうだったとはなにも書かれていません。つまり、何事の判断には、必ず「原因」と「結果」があるのです。つまり、何事の判断には常にこの両因子を同時に検討して、論じることが必要なのですが、多くの新聞記事は結果だけの報道が多いことが問題なのです。
でもこのような数字は韓国の反日家にとってはどのようにも料理できる絶好の食材になるかもしれません。

2013年5月22日 (水)

海外在留日本人困惑エピソ-ド集(1) ありがとうを言えますか

海外在留日本人困惑エピソ-ド集(1)

海外には今ではかなりの日本人が生活しています。その人たちは大きく分けて外国人と結婚して海外に住んでいる人たち、日本の企業関係者とに大きく分けることができるとて思います。このほかにも学生とか研究者としてひとりで生活している人も居ます。

このような海外での日本人が日常生活の中でいろいろと困惑したり困ることもかなりありますが、そのような生活上の問題の中で日本に居れば絶対に存在しないようなものもあります。つまり、日本に居ては当然のことも、いったん海外にて生活するとそれらの習慣、考えが海外では理解できないことがあります。そのような点に焦点を当てて日本の皆さんにご紹介したいと思います。ただ、このような文化、習慣の違いの受け止め方は人によって様々なので、必ずしも困惑するようなことではないこともあります。そのような例を面白半分に紹介したいと思います。また、そのような例を知ることによって外国人と接する場合の参考にもなるかもしれません。

その一、「有難うの連続」

有難う、は英語でサンキュー、ドイツ語でダンケシェン、フランス語でメルシー、イタリア語でグラツィエ、などなどありますが、海外で生活すれば一番最初に覚えなくてはならない表現の一つかもしれません。

問題はこのような簡単な表現が日本人の口からはなかなか出てこないのです。さらに問題なのは彼らが「有難う」を使う頻度が極端に多いのです。日本ではいちいち「有難う」を連発することは殆どありません。ところが、欧州では事ごとにこの「有難う」が口から出てくるのです。例えば、お茶のお代わりをもらっても「有難う」、レストランでお茶を変えてもらっても「有難う」、新聞を受け取っても「有難う」、席を譲ってもらっても「有難う」、ともかく一つの行為に対してほとんどの場合「有難う」が口から素直に出てくるのです。こればかりは日本人は全く不慣れで、なかなか口から頻繁に「有難う」は出てきません。

ある日本の女性がこちらに来て人々があまりにも頻繁に「有難う」を連発するので、本当に彼らは感謝の気持ちで「有難う」を言っているのだろうかと疑問を呈していましたが、それほどに彼らはこの「有難う」を頻発するのです。日本人だったら、せいぜい「どうも」で済ませるかもしれませんね。ましてや家庭内の会話の中でこの「有難う」はあまり聞けない筈です。どうですか、みなさん。一度、今日は何回「ありがとう」という表現を使ったか記録してみてください。おそらくゼロの日もかなりありますよ。

ですから、その逆に日本人があまりこの「有難う」を使わないと逆に彼らはこの日本人は何かしてあげてもあまり嬉しくないのだろうかと疑問に思うかもしれません。習慣の違いとはいえ、恐ろしいですね。

許容値の意義/パラケルスス格言の欠点/ 古典薬理学の欠点(***)

許容値の意義 パラケルスス格言の欠点

十六世紀の医師にして哲学者でもあった有名なパラケルスス(Paracelsus)は、「あらゆるものは毒であり、毒無きものなど存在しない。あるものを無毒とするのは、その服用量のみによってなのだ」Alle Ding' sind Gift und nichts ohn' Gift; allein die Dosis macht, das ein Ding kein Gift ist.と喝破しています。これを意訳すると「すべての異物は毒であり、毒でないものは存在しない。問題はその用量次第で毒にもなり、毒ではなくなる」となるかもしれません。

なぜこのような格言を持ち出したかと言いますと、最近のミツバチの大量死は殺虫剤の影響によるとスイスの農薬会社が自然保護団体から非難されていることに対し、会社の反論にこの格言が使われたのです。確かに、殺虫剤そのものの毒性もその散布用量如何によっては毒にもなるが、毒にもならなくなると説明しています。

確かにパラケルススが言っていることは正しく、その「用量」が問題なのです。従来の毒性学ではある化学物質が薬として応用される時の毒性を動物実験の結果から推定し、安全用量を決めていますし、またいろいろな化学物質が食品などに添加された場合には許容量が設定され、それ以下の場合には日常的に使用しても安心ですよとなっています。ところが前記のパラケルススが見落としてるのは用量以外に使用期間があるのです。つまり、たとえ公に認定された許容量以下の極めて微量の含量でも長期、例えば10年間、 20年間と続けて使われたらどうなるかは多くの場合データ不足でまったく不明なのです。たとえば放射線を浴びても安全許容量がありますが、その長期暴露の影響は多くの場合不明なのです。

とくに、日常食品に常に添加あるいは混入しているいろいろな化学物質のメガ慢性投与の効果は実際にそのメガ慢性投与期間を経過してみないことには全く判らないのです。ですから、よく言われているような公認された許容範囲内であるから全く問題はありません、という説明の信憑性は全く不明なのです。

このブログに「ペットボトル飲料水、ジュースなどの毒性」について触れていますが、そのような毎日使われている飲みものは出来れば瓶入りのものを使ったほうが良いでしょう。

そのほかにも、意外と長期使用の影響について全く関心が払われていない例として、廃棄紙類から作られている紙製のカップとか包装箱などには極めて微量の化学物質が含まれているのですが、その量は極めて微量であり、全く問題はないとされているのですが、果たしてそのような紙製のカップなどを毎日使っていて、十年後、二十年後にどのような影響がみられるのかは誰も関心がないのです。一度、そのような紙製のカップとか食品包装箱がどのようにして作られているのかとの現場をみたらとてもそのような紙製のものを使える気にはならないのですが・・・・。似たような例は、トイレットペィパ-も似たような状態なのです。ある人がトイレの紙で目を拭いたりしていましたが、このようなことはそのような紙がどのようにして作られているのかを知ったら、とても使えないのです。

つまり、従来の薬理学では治験以前の動物実験の段階で該当薬剤の毒性試験を実施するのですが、その投与期間は一応、臨床上の投与使用期間を勘案して決められるのですが、長くとも9-12ヶ月なのです。確かに、医薬品の場合にはその程度の期間で大体の毒性を予知することはできるのですが、これが添加物とか、保存剤などのような本来の薬効を期待しないような化学物質の毒性に関しては動物試験での投与期間は設定されていません。ですから、我々の日常生活の中に介在するもろもろの科学物質のメガ長期毒性は殆ど不明なのです。

このように考えますと、私たちの身の周りに存在するいろいろな化学物質の毒性は従来の毒性学の試験で毒性発揮許容量よりもものすごく低く設定されているので安全性ですと説明されているのです。しかし、そこには年単位の使用時の毒性は全く考慮されていないのです。ですから、一般的に「この化合物の毒性は許容量以下ですので安心して使えます」のような説明をそのまま鵜呑みにしてはならないのです。

なお、最近の農薬に汚染されている食料品で、一度に大量を摂取した時に急性毒性がおこることが知られるようになっています。これは一定の許容量以下の残留農薬の場合には害はないものとの概念から決められているのですが、そのような食料品でも一度に大量を消費した場合には毒作用を呈するという従来の薬理学では考えられなかった毒性の概念が導入されています。厚労省はこのような概念を「急性参照用量」と呼んで、関連の農薬に義務付けるようになりました。つまり、一定の許容量以下では安全ではあるが、もしそのような場合でも大量に摂取した時には毒性が現れることを念頭に置いています。

つまり、ファルマコビジランスの大きな欠点のひとつに年単位の長期にわたる医薬品投与の副作用の検出がある。したがって、通常の副作用自発報告制度からはこのようなタイプの副作用報告を期待するのはまず絶望的である。そのような目的には薬剤疫学研究が大きな役割を果たすことになるが、ここでの問題は誰がそのような研究をするのかということである。この種の研究をプロスベクティブにするには時間、予算などの大きな障害が伴うので、レトロスベクティブな研究のほうがある意味では効果的である。

最近報告された低用量アスピリンの長期使用による副作用として眼の黄斑部変性aging macula disorderがあります。(Association between aspirin use and aging macula disorder. Ophthalmology. 2012; 119: 112-118) ただこのような研究ではその信憑性が疑問視される可能性がある。この場合にはaging macula disorderが確認された患者の過去におけるアスピリン服用調査であり、アスピリン服用の実態は必ずしも保障されるようなものではないが、ある意味ではアスピリンの長期使用に対して黄信号が出たとも理解することは可能かもしれない。
http://www.ophsource.org/periodicals/ophtha/article/S0161-6420(11)00568-9/abstract

その他にも睡眠薬の長期服用が死亡率や発がん性と関係(association)があるとの報告もあります。この場合は平均投与期間が2.5年となって居ます。
 BMJ Open2012;2:e000850 doi:10.1136/bmjopen-2012-000850

基本的にはこのような黄信号にたいして、企業あるいは大学研究者は何らかの形でプロスベクティブ研究を実施する意義、いゃ倫理があるが、そのようなことを望むのは無理があるかもしれない。

いずれにしてもすべての医薬品、添加物などの超慢性使用後の影響は全く分からないといっても過言ではないのです。しかし、現実にはわれわれの日常生活の中にはありとあらゆる化学物質に溢れているので、それらの身体への影響は計り知利得ないのです。

追加(2014 Sept)
最近、以下のような記事がありましたが、この人も量の問題にだけ触れていて、メガ長期間使用の毒性にはまったく触れていないのです。

学びなおしのリスク論 2014年09月22日  (漆原次郎)
添加物も無添加も、あらゆる食材は量によって“毒”になる
(1)食品添加物
無添加の食品は安全で安心―?冷静に食品添加物のリスクを考えてみると、そこには感覚と現実のギャップがあるのではないか。

追加(2016 Oct)
最近の東京豊洲の安全性問題に関連して「地下の大気に水銀が検出された」ことに対し、環境省の審議会は「短期的にその水銀値が上回っていても健康に悪影響があるものと解するべきではない」と判断していますが、ここでも長期的な影響については全く触れてはいないのです。

2013年5月20日 (月)

島国国民の外国語学習能力 政府の日本語普及政策はゼロ

島国国民の外国語学習能力

日本では英語の会話力に関しては多くの人が劣等感を持っており、英会話の学校、書籍は大繁盛です。一般的に言って日本人の外国語習得度はかなり低く、昔から言われているように今までにいくら英語を勉強しても英語で話すことが殆どできない(あるいは、できなかった)ということです。基本的には外国語の読み書きと会話とは同時に付いてくるものなのですが、日本人の場合には会話は特別な範疇に入るようです。このブログでその点に関しては詳細に論じていますので、ここではその点には触れません。

どうして日本人は外国語に弱いのでしょうか。その原因の一つには日本は島国であるので、ほとんどの人は外国語を必要としない環境に置かれているのです、海外に出かけて海外で仕事をしている人は極めて少数なのです、日本では翻訳文化が日常化していて外国語の本も日本語で読める可能性が極めて大きい、などがその理由です。特に、島国という環境は変えられませんし、この点に関しては大陸国家の国民とは比較にならないくらい大きな違いがあります。ですから、日本人の英会話力に関して中国人、朝鮮人と比較すること自体がナンセンスなのです。

このように書きますと、では島国英国はどうなのですかと反問されるかもしれません。なにしろ、世界の中で先進国としての島国といえば英国と日本がその代表的な存在なのです。しかし、基本的には日本人と英国人とでの外国語に関しては共通性があります。つまり、外国語の習得ということに関しては両国民とも積極性がないのです。英国人は英語さえ話せればどこに行っても困らないので、外国語学習ということに関しては殆ど関心がないのです。一方の日本人は海外に出かけて生活をするような機会、あるいは意欲はいまだに低いので外国語を習得するメリットを経験する機会がこれまた極めて低いのです。

でも、なぜ英語が世界的に使用され、実務的には英語が世界公用語の役割をしているのでしょうか。それは英国の歴史を眺めれはすぐに理解できます。すなわち、英国が当時としては最大の植民地を世界中に持っていたこと、そして英国の産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間にわたり世界的な影響をもたらし、その結果、当然の流れとして英語が汎用され、今日に至っているのです。そのため、英国人は特別に外国語を習得しなくても全く問題がないのです。つまり、英国人は英国の過去の歴史の上に胡坐をかいて外国語しゅうとくなんて必要がないと考えているのです。

では日本はどうなのでしょうか。戦後から立ち上がって日本の工業、産業が全盛を極めた1970,1980年代に日本は日本語の普及ということに関しては残念ながら殆ど関心がなかったのです。その結果、日本の製品が世界中に氾濫していた時も日本語は海外で細々と普及していたにすぎないのです。国際交流基金が世界18カ国 19カ所に海外事務所を設置しているがそのなかで日本文化会館として曲がりなりにも公の機関としての日本語教育をしているところはローマ、ケルン、パリにしかない。(2006年) つまり、当時の日本が「Japan as Number 1」(1979)という本のように世界中から持てはやされていた時でも自国語の世界普及という概念は全くゼロだってのです。かりにそのような概念があったとしても英国の長年にわたる産業革命の影響のように、世界的に自国語の影響をもたらす期間が日本の場合には極めて短かったこともひとつの原因かもしれません。

この自国語の海外普及に関しては現在の中国の孔子学院の普及をみると目を見張るくらいの範囲に広まっているのです。孔子学院は2004年に設立され、同年11月ソウルに初めての海外学院が設置されました。その運営方式は中国と海外の教育機関の提携により設置されているとのことで、孔子学院は学位授与を目的とする一般大学と異なり、各界人士に対し中国語教育を行い中華文化の宣伝を行うことが目的とされている。そのため各国ごとに教育の特徴があり、現地の需要により教育活動を展開している。2010年10月までに96の国と地域に332校が設置されると同時に分校に相当する孔子課室が369校設置されている。最近では筆者が住むスイスのバーゼル大学にこの孔子学院が設置されることになっている。

このことから伺えることは当時から現在にいたる日本語の世界普及はとても中国の中国語の世界普及にはその足元にも及ばないのである。それは中国は大陸国家であり、島国ではないからです。もちろん、現在の中国の経済的な影響力を無視するわけにはいきませんが、狭義的には中国語の普及そのものは経済発展とは直接には関係がないのです。海外の人たちが自国語にたいする関心があっても、もしその国が積極的に自国語の世界普及という視点に立った政策がなければだめなのです。

大陸国家と言えば、フランスもその一つですが、フランスの自国語の世界普及という概念は涙が出るくらいたくましいのですが、残念ながらその国力は徐々に低下する一方なので、フランス語はかっての外交用語からほとんど姿を消しつつあります。それでもフランスの自国語の世界普及という熱意は素晴らしいもので毎年世界でフランス語圏大会を開いています。もっとも、フランスの場合には英国と同様にかっての植民地の存在がフランス語の普及に大きく貢献しています。また、ドイツでも国内をはじめ海外にもたくさんのゲ-テ・インステチュウトがあります。それに比べて日本国内で公的な日本語教育施設はほとんどなく、あるのは大学内の日本語教室、そのほかは民間の日本語クラスだけなのです。

つまり、島国国家の日本は自国語の世界普及という発想が極めて低く、むしろその逆に外国語の習得に専念しているにすぎないのです。ここで島国日本と英国を同列に並べましたが、英国はたまたま時期的、歴史的に自然に英語が世界的に普及したのであって、本来、英語という自国語の世界普及といいう概念は日本と同様に全くなかったのである。

このように考察すると島国国家という宿命は意外と思わぬところに根深い足跡を残すものがあります。


2013年5月19日 (日)

政治家珍答発言集(1)

政治家珍答発言集(1)

某予算委員会での説明会

A議員の説明に対し

B議員「あなたは馬鹿だ」
A議員「馬鹿とはなんですか、そんな失礼な発言は許せません。あやまりなさい。」
B議員「「いゃ、もしお気に触ったのなら、私の真意が正しく伝わらなくて申し訳ありません。私が馬鹿といったのはあなたの意見があまり明確でなかったので馬と鹿との区別がうす暗いところでは見分けがつかなかったという意味で馬鹿と言ってしまったのです。」
A議員「・・・・・・・」
B議員「でも、一言付け加えさせてもらえれれば、馬鹿には国際的な定義が無いんですよ。」、

 どうでしょう、なかなかの珍答でしょう。

2013年5月17日 (金)

阿部首相の「侵略」に対する概念の理解

阿部首相の「侵略」に対する概念の理解

阿部首相は過去の第二次大戦について侵略の定義は国際的にも決まっていないと公言し、物議を醸しだしました。確かに、第二次大戦として包括されている「太平洋戦争」(大東亜戦争)は歴史家に言わせると(あるいは日本人の解釈では)、日本の拡大主義に危機を感じた欧米の日本包囲作戦に対抗するために致し方がなく真珠湾開戦に踏み切ったとも解釈され、侵略戦争ではないと間接的に表明しているのです。これはある意味では正しいのですが、問題は阿部首相と過去の歴代首相との「侵略」発言との間には根本的な違いがあるのですが、多くの人は一括解釈し、混同しています。

つまり、阿部首相が言及している「侵略」と歴代の首相が言及している「侵略」との間には大きな違いがあるのです。歴代の首相、細川、村山、小泉は「植民地支配と侵略」という表現を使いその対象は中国を念頭において解釈して、謝罪しているのに対し、第二次内閣の阿部首相は「第二次大戦」(厳密には太平洋戦争、大東亜戦争)についての侵略を議論しているのです。確かに、当時の日本はすでに中国には侵攻し、侵略していたのは間違いないのですが、太平洋戦争の相手は中国ではなかったのです。つまり、中国にはすでに侵略戦争をしていたので、十二月八日の宣戦布告の対象国にはなっていないのです。

さすがに彼は誰に対しての侵略かを明言していませんが、彼の意図するところは太平洋戦争での宣戦布告国を念頭に、あれが果たして日本による「侵略戦争」であったのかと問いただしているのです。つまり、彼が言及している「侵略」の対象、すなわち12月 8日に宣戦布告の対象となったのはアメリカ、英国、オランダなのです。前述のように中国に対してはすでに侵略はしているので改めて宣戦布告する必要がないのです。

いずれもインド、東南アジアに植民地を持っていた国なのです。そこには中国は入っていないのです。なぜなら中国はそれ以前にすでに日本軍によって侵攻を受け、戦争状態になっていたからです。ですから、中国に対して侵略していたが、大東亜戦争では中国には侵略の概念が当てはまらないのです。ちなみに、昭和26(1951)年5月、アメリカ上院の 軍事外交合同委員会で、ダグラス・マッ カーサーは以下の2つの重大な発言を行 なったといわれています。
1. 日本の戦争は自衛戦争であった
2. アメリカが過去100年に太平洋で犯した 最大の政治的過ちは、共産主義者が支那 において勢力を増大して行くのを黙過し てしまったことである

つまり、12月 8日に始まった太平洋戦争が果たして「侵略」かどうかを阿部首相は念頭に置いているのですが、現在の世界情勢、また日本が置かれている国際環境からはアメリカ、英国、オランダに対しての戦争に言及しているとは口が裂けても明言できない筈です。つまり、橋下さんとは異なり、建前と本音とを明確に使い分け、言ってはいけないことを認識しているのです。考えてみれば宣戦布告国、つまりアメリカ、イギリス、オランダの三カ国にはまったく侵攻していないので、とても侵略の概念は当てはまらないのです。当時の日本が侵攻したのはこれらの国の植民地なのです。まぁ、間接的にはこれら三国の主権に侵攻したとも理解されますが、いずれにしても「侵略」の概念は当てはまらないのです。結果的には、これら三国の植民地であったインド、フィリッピン、マレシア、などの東南アジアの独立に間接的に大きな影響を与えたのです。

このような根本的な違いを多くの人は理解せず、第二次大戦という大きな概念の中で、侵略という言葉を理解していますが、理論的にはアメリカ、英国、オランダには「侵略」していないことを理解すべきなのです。

つまり、過去の歴代の首相がいとも簡単に過去の「植民地支配」というありえない表現を意図的に使って、中国や朝鮮に対して自慰的になるのも現在の世界情勢からは致し方がないのです。阿部首相もアジアの人々に多大なの損害と苦痛を与えたという認識においては過去の首相と同じ認識を持っている、と明言しているのです。今回の安部首相の「侵略」に関する発言に関連して、「・・・韓国、中国の方々をはじめ、侵略された、あるいは植民地支配に遭った・・・」と第一次内閣のときには発言していたのですが、今回の5月 8日の衆院予算委員会では「我が国がかって多くの国々、とりわけアジアの人々に多大の損害と苦痛を与えたという認識おいては過去の内閣と同じ認識を持っている」と発言し、間接的に韓国、中国の表現を無意識的に避け、アメリカ、英国、オランダのち植民地を念頭に置いての発言と理解すべきなのです。しかもそこには「植民地」の表現が消えていて、間接的に中国を念頭に置いていないことと理解すべきなのです。

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