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2013年2月の記事

2013年2月24日 (日)

「日本語の理解、翻訳は難しい」

以下は私が昔書いたものの焼き直しです。(http://world-reader.ne.jp)
「日本語の理解、翻訳は難しい」

最近の若い世代では日本文の理解がそのままでは理解されずとんでもない理解がなされ、
表現通りに理解して、その表現の意味することが全く理解出来なくなりつつあると言われ
ています。従って、上司が腹立ちまぎれに若い部下に「顔を洗って出直してこい」と言っ
ても、その表現の持つ意味を理解せず、言われた部下は文字通りトイレに行って「顔を洗
って来ました」と、また戻って来るような事態が起こりつつあるとか。

 ともかく大袈裟な表現を借りれば、普通の日本語の表現がまったく通じなくなりつつあ
るとも言われています。こうなると新しい世代の言葉を年配者が理解出来ないというよう
な単なる時代のギャップ以前の問題で、日本語が読めても理解出来ない現象が起こりつつ
あることになります。こういうのを新しいタイプの非識字者functional analphabetism
というのだそうです。

 つまり、敢えて日本語に訳すと機能的非識字者とでも言うのでしょうか。もっともこのよ
うな機能的非識字者は今に始まったことではなく、以前から存在していたのですが、近年に
は膨大な文書、規則などが日常生活の中に入り込んできていますので余計そのような非識字
者の存在がクル-ズアップされているのもかしれません。法律の条文などはその典型的なも
ので 日本語としては問題なく読めるのですが、それを正しく理解することは普通の人間にとっては至難の場合があります。

 また、身近なものでは薬の添付文書に書かれてあることを正しく理解するのも意外と難し
いようです。例えば、食間に服用とあるのを、食べている最中にと理解するような場合です。
ですから、この機能的非識字者というのは昔から存在していたことになります。もっとも、
このような機能的非識字者を広義に解釈しますと、日本の政治家の発言は機能的非識字者が
作成した日本語の文章とも読み取れるかもしれません。

 このように日本語そのものの表現の理解に困難を感じ、さらに機能的非識字者の状態にあ
るような人達が英語の翻訳(英語から日本語へ、または日本語から英語に)をしても、まと
もな翻訳が出来なくなるのは当然です。そのような理解力が無い若者が、日本語の英語への
翻訳、或いは英語から日本語への翻訳をするときに出来上がる翻訳文は、一体どんなものに
なるのでしょうか。考えただけでも恐ろしくなります。ともかく、日本語の表現そのものの
意味が正しく判らなければ正しく翻訳することも難しくなります。そのような例のひとつに
「一頭の犬が・・」があります。これがone head of dog と翻訳会社から訳されてきた翻訳
をみたことがありますが、これなどは正しく機能的非識字者の翻訳例になります。

 日本語から英語に翻訳する場合に問題になるのは大きく別けて三つあると思われます。
すなわち、日本語の表現の曖昧さ、日本語独特な表現、単数・複数の不明瞭性があります。
また翻訳対象となる分野によっても翻訳時の問題はそれぞれ異なる筈です。特許文書は、
法律の条文以上に難しいといわれています。

 文学などの翻訳などで一番気になる表現に俗にいうテンテン会話があります。日本語小
説の会話文章にはよく「・・・・・」という「会話文」が使われていますが、このような
テンテン会話文は一体それぞれの翻訳者はどのように訳しているのでしょうか。まさか英語
ても「・・・・・」とそのままにしているとは思えないのですが・・。現在書店に並んで
いる翻訳書(この場合は英語に翻訳された日本文学作品になりますが)にはこのテンテン会話文が訳されているのかを研究したら面白い論文が出来るかもしれません。このテンテン会話は日本語の曖昧さを究極に表現したものではないでしょうか。しかも、このような会話表現は日本人独特の以心伝心の特技を読者にまで共有させているのです。

 また、日本語の表現が曖昧な例は新聞などを読んでいても良く遭遇することがあります。
新聞記事などの場合には、通常サ-ッと斜め読みしてしまいますので、意外と文の曖昧さ
に気がつかないものなのですが、いざ翻訳するとなると、意外に意味不明瞭な表現が多く
使われているのに気がつきます。例えば、「死亡した患者の父親は・・・」などの表現だ
けでは死亡したのは患者なのか、父親なのか極めて不明瞭になります。確かにこのような
場合、新聞記事全体をを良く読めば誰が死亡したのかは読者は簡単に想像、理解出来るの
ですが、字句判断だけでは極めて不明瞭になります。

 似たような不明確、不正確な表現は探せば新聞記事にはいくらでも見つかります。なお、
日本語の曖昧な表現の典型的なものは政治家の発言ではないでしょうか。政治家、官僚に
よく頻繁に使われる表現に「・・・と聞いている。」、「・・と承知している。」などが
ありますが、これらの表現は無責任 、無関心、他人的な表現の曖昧な典型例ではないで
しょうか。

 いっぽう、日本語のこの曖昧さで便利な表現のひとつに「友達」があります。日本語で
は相手が男か女なのかは全く判りません。この点に関しては例外的に英語でも同じような
ことが言えます。しかし、これがドイツ語とかイタリア語になると必ずどちらかがすぐに
分かってしまいますので、ある意味では不便な時もあります。

 日本語独特の表現も例を挙げたらきりがないくらいです。例えば、目という単語が付く
表現で機能的非識字者が翻訳することが困難になる例として次のような表現があります。
「目の毒、目が無い、目に余る、目の色を変える、目に入れても痛くない、目の黒いうち
に、」などなど。これらのそれぞれの持つ意味を理解しないことにはとんでもない翻訳に
なってしまいます。このような表現は機能的非識字者泣かせになるのではないでしょうか。

 似たような問題は医学関係の論文を英語に翻訳する場合にもあります。この分野で特に
問題になるのは単数・複数の区別が実に曖昧なことです。例えば、「肺癌で手術を受けた」
のような場合、対象の肺が片側なのか、両側なのかが不明瞭になっています。ですから、
このような表現を正しく英語に翻訳する為には、全体の文章の内容を十分に理解して補足
的に単数か複数かの判断を翻訳者がしなくてはなりません。

 似たよう問題はそれぞれの臓器、器官が二つあるような肺、眼、耳、腎、乳房、などの
翻訳があります。このような場合には十分注意を払って翻訳しなくてはなりません。同じ
ような問題は英語から日本語に翻訳する場合にもありますが、少なくても英語の場合には
単数か複数かがすぐにわかりますので、両肺とか両眼などと補足するだけで十分に目的を
達することができますので、比較的楽です。

 また、日本語にはあって英語などには全く無い概念の言葉の場合もまた問題になります。
例えば、先輩、後輩という日本的な概念は英語などに無いのでこれらの言葉を外国語に訳
す時は一番困ります。これらの単語は和英辞典を参照しても日本語の先輩、後輩の概念を
伝えることは、至難の技です。また、最近新聞でも報道されています「えひめ丸」事故で
アメリカのメディアには土下座が凄く興味の対象になっているとか。このような表現はそ
のまま文字通りに訳しても全然真意は伝われません。こうなると機能的非識字者は全くの
お手上げになってしまいそうです。

 その逆に英語などに有って日本語には無い概念もあります。例えば、移民と日本語では
簡単に言っていますが、英語などにはimmigrationとemigrationとはっきり明確に区別
しています。このふたつの単語を日本語に訳しますといずれも移民となってしまいます。
そもそも日本語の移民には移住、移民、移転、移籍(転籍)、移動などにもみられるよう
に外部に向かって事が運ばれることを意味し、自分中心に来るような場合には、移転して
来る、移籍して来る(この場合には転籍という中立的な意味のある言葉が例外的に存在)
などのように来るという動詞を敢えて必要とします。英語のイミグレイション
immigration は「外国から移住して来る」の意味で、該当国に入ってくる行為をさして
います。それに反し、エミグレイションemigrationは自国から他国への移住であり、従来の日本語の移民の概念はこのemigrationにしか相当しません。その典型例は南米への移民となります。

 このように考えてみますと日本語の翻訳はやはり難しいと思わざるを得ません。これは
なにも語学力の問題だけではなく、日本語を正しく理解できるかどうかという点にあると
思います。ですから、全然畑違いの分野の文章を英語などに訳すことは極めて危険である
のです。ましてや機能的非識字者は翻訳の業務には適していないことになります。
(2001/3/8 原稿作成)

2013年2月23日 (土)

「いじめ」が国際語にならぬよう祈るばかり

「いじめ」が国際語にならぬよう祈るばかり

最近の柔道選手の体罰とか学校内の体罰とかが社会問題視され、柔道選手への体罰に関しては国際柔道連盟の日本への調査団派遣にまで発展しています。

このような体罰は従来からの日本の習慣として連綿として続いていた陰険ないじめの範疇に入ると思うのです。いじめという観点から改めて身の回りを見渡せば至る所にこのいじめはいまだに存在し、更にそれらのいじめが肯定されている環境が厳存するのです。

その典型例の一つに「追い出し部屋」の存在です。これもいじめの範疇に入るのですが、関係者は社員を退職に追い込むような意図はないと強調しています。これは柔道選手への当初の関係団体の対応と全く同じではないでしょうか。

つまり、「いじめ」はいまだ日本の社会にはいろいろな形で存在するのです。このままでは日本語の「いじめ」が国際語として摂り入れられてしまう可能性が高いのです。「柔道」「すし」「うまみ」など良い意味での日本語が国際語として摂り入れられていますが、「カミカゼ」と同じように「いじめ」が国際語にならないことを祈るばかりです。

最近のベネッセ訴訟で、いわゆる「追い出し部屋」の存在が違法との判決が下されたことが報じられています。これも明らかな極めて陰険な「いじめ」に該当するのですが、そのような概念がいまだに日本の社会の根底には現存するのです。前記の柔道選手の体罰が社会的に大きな反響を呼びましたが、その半面に社会の底辺でいろいろな形でのいじめがあるのは今後もそう簡単には変わらないのではないでしょうか。

2013年2月20日 (水)

薬局淘汰の時代に突入(***)

薬局淘汰の時代に突入

昨今、クスリのインターネット販売が議論され賛否両論がある。でも、なぜクスリをインターネットで購入するのかというメリットを考えてみる必要がある。そのメリットは家に居ながら注文、配達がなされること。場合によっては支払いが即時でないこともある。それと価格が安いかもしれない。もしかしたら、似たようなくすりがたくさんあり、自分でせんたくすることが可能かも知れない。

いっぽう、クスリを街の薬局で手に入れるメリットはすくなくともその品質に保障があり、場合によっては(理論的には)薬剤師のアドバイスを得ることができ、薬剤師によるいろいろなクスリの専門的な選択儀がある。インターネットで購入するクスリには時としてまがいものや品質の悪いものが配達される可能性が高いが、薬局で購入する場合にはそのような可能性はゼロに近い。

しかし、あまり問題視されていなのはクスリをインターネットで購入する背景には普通の町の薬局での品揃えが貧相だからだ。都心、繁華街にある一部の薬局を除いて通常の住宅街にある薬局に行ってもそこに備蓄されてあるクスリの種類はきわめて限定的で、同じ種類のクスリでも多くの場合選択伎がほとんどない。ためしに郊外の街の薬局に行って乳酸菌製剤を求めても、「うちにはビオフェルミンしか置いてありません」のような返事が返ってくることは特別に目新しいことではない。

つまり、そのような地域の薬局が本来の機能を果たしていない。もしこのような状態が今後も続き、インターネットでの購入の可能性が拡大されれれば、郊外、住宅地にある薬局は近い将来いずれ淘汰されて、消滅する可能性が高い。つまり、これからは薬局の淘汰が始まるとの認識が必要である。

ともかく、駅のそばにはドラックストアが厳然と存在し、通常の一般的なクスリはそこで手にすることができ、わざわざ薬局を探し求める必要性が極めて低下している。また、薬局はドラッグストアを意識して顧客のために何か独特な活動をしようなどという活気はまったくない。つまり、街の薬局の薬剤師の多くはまったくやる気がなく、昔のような「くすりやのおじさん」的存在しかないのである。もっと自分の薬局を薬局らしく活性化する方法を考えなくてはならないが、そのような薬剤師きわめて少ない。極論すれば薬局の薬剤師は資格の上に胡座をかいているようなものである。ある雑誌のルポにドラッグストアの薬剤師の対応が書かれていたが、ドラッグストアの薬剤師も似たような状態で、医療関係者との認識はまったくゼロで、薬剤師という資格の上に存在しているだけで、くすり指導はまったくなかったとのことです。でもこれがドラッグストアの薬剤師の実態なのです。

でもなぜこのような体たらくな薬局が多く存在するようになってしまったのだろうか。現在でも薬局開設には一定の基準があり、そこには調剤室の設置が義務付けられているが、いったいこの調剤室を有効に活用している街の薬局はあるのだろうか。周知のように現在では調剤専門の薬局も多く存在し、多くの患者は処方箋を持ってそのような調剤薬局に行き、普通の薬局には行けないのである。でもなぜそのような不都合のある薬局制度を日本の薬剤師会は作ってしまったのだろうか。逆に調剤薬局に普通薬を買い求めにいっても、場所によってはうちには一般薬品は置いていませんという場合もかなり存在する。

ともかく、考えれば考えるほど日本の薬局制度は複雑怪奇なのですが、要は薬局の薬剤師の総入れ替えが必要なのかもしれません。ともかく出来るところから何か新しいことをやってみることです。健康相談会とか血圧測定日とか、ともかくいろいろな知恵を働かせればいろいろと出来ることは沢山あるのです。

まあ、薬局薬剤師へのこのような危機感を持っているのは私だけではなく、以下の本を読んでください。まさに本音のことが書かれてありますが、薬剤師会あたりはどのように考えているのか知りたいものです。
  「残る薬剤師,消える薬剤師」 藤田道男著  財界展望社 

追記(2013/03/18)
最近の新聞報道(2013年3月18日 読売新聞)によると薬局にカフェや健康チェックのコーナーを設ける薬局が増えている。くつろぎの場所とともに、健康に関する情報を提供しているとのことです。たとえば、ハーブティーを提供しながら健康相談にも対応しているとか。ともかく出来るところから前向きの体制をとりいれることが必要でしょう。

そのほかにも、「かぜのお薬 80円」「便秘薬 50円」といった項目もあり、薬剤師による調合が認められている「薬局製剤」で、7種類を1回分か1日分、3日分を選んで買える。病院に行く時間がない人に人気だそうだ。また、一部では血圧や血行の状態、筋肉量などを無料でチェックできる2台の測定器を設置している。プリント代は各100円。「健康管理のヒントが得られる薬局にしたい」との話です。
このような例は特別目新しい発想ではないが、ともかく何かをできるところからやるという前向き姿勢が生き残り薬局への道ではないでしょうか。でもこのようなことが新聞記事になるようではその裏を返せば一般薬局は何も特別な努力をしていないことなのでしょうか。

追記(2016 Aug)
。最近の報道では一部の大学病院が今までの院外処方から院内処方に切り替えるとのことです。考えれば、病院の前にあるだけの調剤薬局の意義が薄れているからです。つまり、「門前の薬局は夜間や休日には店を閉め、日用雑貨などもあまり置いていない。あれだけたくさんある薬局が住民の役に立ってない。何のためにあるのか」と嘆く、と病院長の言です。門前薬局の多くは調剤だけしかしないのでは全く薬局の意義がないのですが、そんなことには薬剤師会は全く無頓着で、院外処方箋数がやれ70%になっとか、全く見当違いの理解なのです。そもそも薬局にすべての医薬品、そして衛生関連の商品などが常にそろっていて、朝から夕方まで、場合によっては夜遅くまで、の営業をしているのが本来の薬局の姿なのですが、そのような薬局はきわめて少数であり、典型的な門前やっ客は全くその逆なのです。

2013年2月19日 (火)

従軍慰安婦問題の論点(***)

慰安婦問題の論点

 

韓国からの慰安婦問題で河野談話が再び問題になっているが、この問題には次の三点を再認識する必要がある。

  1) 慰安婦そのものは存在したのは事実。
  2) 慰安婦が強制された場合もあるかもしれないが、慰安婦募集が当時は公然となされており、仮に強制 があったとしてもその可能性はゼロに近いものと考えることができる。しかも、当時の朝鮮での経済状態を考えれば、かなりの高額が保障された慰安婦に応募する朝鮮人が多かったことは肯ける。
  3) 慰安婦は朝鮮人だけではなく日本人の慰安婦も朝鮮人なみに存在したのも事実。むしろ総数的には日本人慰安婦が多かったとされている。

しかし、韓国が問題視しているのは「強制された慰安婦」であり、日本の政治家は「強制された事実はない」という点を強調しているように思われる。これでは両国の見解はまったく咬み合わない。実際には当時の朝鮮では日本国内と同様に慰安婦が募集されていて、いろいろな所にその募集の宣伝ビラが貼られていた。 当時、朝鮮の新聞にも、大々的に業者による「慰安婦募集」の広告が打たれ、彼女たちは当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となっていった。なかには親に売り飛ばされた女性もいただろう。しかし、このような事実は日本の政治家、識者、学者などすべてが口を閉ざしているのです。

慰安婦そのものの存在は現在の国際的社会・倫理通念から判断すれば人道にたいする犯罪と受け止められても致しかたがないのではないだろうか。当時の公認された従軍慰安婦という概念は日本軍隊独特の存在であり、第二次大戦時にも存在していたことは世界的にも例外であり、また当時の倫理概念としては当たり前であった。もっとも、このような慰安婦という概念は特別に目新しいことではなく、第一次大戦あたりまでは欧州でも存在していた。しかも慰安婦という存在が戦地での原住民に対する強姦などの不規律をかなり予防できたはずである。でも、だからといって橋下さんのように当時は必要だったと公言することは現在の倫理概念からは言ってはならないことなのである。橋下さんは当時の概念を現在にまで演繹しているところが問題であり、時代変化の認識に欠けている。

しかし、現在の国際通念としてはこのような慰安婦の存在は人道的、倫理的に当然許されない事実であるが、日本の識者、政治家は当時の概念、通念を根底に維持しながらこの問題を判断し、無意識的に慰安婦そのものの存在は議論の対象から外していることが両国の見解の相違にもつながり、その結果当然のことながら両国の意見はかみ合わない。時代が変われば物事の価値判断の基準も変わることを日本の政治家は認識すべきである。

つまり、韓国が「強制された」ことのみを念頭に置いているのか、または「慰安婦」そのものをも念頭に置いているのかを明確にする必要がある。慰安婦は当時の日本や朝鮮で公募されていた事実もあり、それに応募した朝鮮人、日本人はどうなのかとの議論はまったく表面化していない。日本の政治家にしてみれば従軍慰安婦には日本人も居たのですとは公然とは云えないのかもしれない。そのようなことを公言すれば自分で自分の顔に泥を塗るようなものだと考えられるからです。

もっとも、戦後生まれの今の政治家にはそんなことはまったく関係がないとも思っているのでしょうか。でも、韓国も韓国で、日本の政治家に向かって「なぜあなた方は日本人慰安婦に対してもなんらの謝罪をもしないのですか」と言わないのだろうか。おそらくそのような反論をするだけの正当性がないのかもしれない。このことを勘ぐれば韓国も日本人慰安婦そのものの存在に触れたくないからである。

でも、ここでこの思考過程を改めて検討すると、もしかしたら韓国の政治家も従軍慰安婦そのものは認容していて、「強制」のみを念頭においているのではないかと考えることもできる。でも、もしそうだとすると韓国や日本の政治家はみな同じ考えで、慰安婦そのものの非人間性には関心がないのかも知れません。日本国内でも一部の女性グルプが韓国慰安婦訴訟問題で日本での援助活動をしていますが、彼女らも日本の慰安婦の存在にはまったく一言も触れていないのが不思議です。いゃ、不思議というよりは意図的な活動と思われます。

もっとも、日本人慰安婦の場合、、今更私は昔慰安婦でしたとは口が裂けてもいえないのですが、羞恥心に欠ける朝鮮人にはそんな昔のことは恥とも考えないのです。ですから、今になって私は昔は慰安婦をしていましたと臆面もなく公言できるのです。もっとも、そのような朝鮮人慰安婦自身が全くの自分の意思で日本政府に訴えているのか、あるいは外部の人間に入知恵されたのかは明らかではないのです。いずれにしても、「「沈黙は、了解。そのとおりだと認めるということなのだ」と捉えるのが世界の常識なのです。

つまり、そのように考えるとこの問題を「日本人や朝鮮人の従軍慰安婦は存在した」、しかし「強制されたかどうか」は検証する必要があるかもしれない」との次元で論ずるべきかもしれない。当時の一部の人たちの貧困生活状態を考えれば生活苦から慰安婦募集の広告を見て不本意的にも慰安婦になった場合は十分考えられ、このような場合は間接的に強制されたと理解することは不可能ではない。ちょうど、沖縄戦での日本人自決が軍命によるものかどうかの議論と相通じるものがあると考えても無理はないのではないだろうか。

つまり、問題とされている朝鮮人慰安婦の場合には自らの意志で応募したのか、強制されたのかとの判断が必要なのだが、この点に対する確答は不可能であるし、また現在の国際通念からはそれに対する確答を求める必要はないものと考えられる。でも、前述のように慰安婦の存在そのものは誰も問題にしないということは大きな倫理問題なのですが・・・・。

もっとも、日本人女性の場合には現在では私は当時は慰安婦でしたとは口が裂けても社会的に公言は出来ないし、またそのような公言を必要ともしていない。まさか元慰安婦の家族が私の母は当時は慰安婦でしたとは言えません。それにしても現在の韓国で私はかっては日本軍で慰安婦として働いていましたと公言すること自体は恥ではないのでしょうか。その点は日本の社会通念と韓国の社会通念は根本的に異なるのでしょうか。日本では私はかって慰安婦でした、と公言できるでしょうか。さらに、現時点ではこのような朝鮮人、日本人の慰安婦の存在並びにその正確な比率はまったく知ることは出来ない。

したがって、この問題の解決は従軍慰安婦そのものの存在に焦点を当て、どのような形で慰安婦になったのかということは重要ではなく、慰安婦そのものに対する人間的、倫理的謝罪を考えてはどうだろうか。つまり、「原因」の究明よりもこの場合には「結果」の評価が重要なのだが、日本の政治家はその点についてはまったく関心がない。

その場合、その対象は当然のことながら朝鮮人だけではなく日本人にも当てはまることを強調すべきである。この問題に関しては国外の人たちや日中戦争の詳細を知らない若い人たちには現在の韓国が問題視している従軍慰安婦は朝鮮人だけとの理解しかないはずである。

さらに忘れてはならないのは、多くの被害者にたいして一時の河野談話で済まされるものではなく、日本人として当時の慰安婦そのものの存在を長い年月をかけて記憶し、つねに反省の心を持つことが必要なのではないだろうか。もしかしたら、日本の政治家の本心には朝鮮蔑視があるのだろうか。あるいは日本人の慰安婦の存在には触れたくないのかもしれない。

このことに関連して過去の汚点を現時点で解釈して典型的に謝罪を継続実行しているのはドイツの過去におけるユダヤ人迫害に対する深い内省の態度である。こればかりはたとえ加害者が誰であろうと過去においてドイツ人がしたことには間違いがないという徹底した反省がある。現在のドイツの識者、政治家があれはナチスがしたことであり、我々とは直接には関係はないと一定の距離を置いて考える様な潜在認識はまったくない。1970年にドイツのBrandt首相がワルシャワのナチ被害者の碑のまえに跪いて痛恨の痛辞を捧げたたような行為は日本の政治家には出来ないのである。今までに日本の政治家が韓国に行って日本統治時代の被害者の碑のようなところで跪いて謝ることはしたこともなく、またとてもそのような行為をすることは考えられないのである。もっとも、日本による朝鮮統治、のプラスの面は膨大なものではあるが、朝鮮人はそのようなことには全く触れたくないのが問題なのです。

もっとも、ナチスのユダヤ人虐殺と従軍慰安婦とではまったく次元が異なり、比較の対象とはならないとの反論はあるかもしれないが、現在の国際世論、倫理概念からすれば日本の従軍慰安婦の存在も非人間的な行為であったと判断されても致し方がないのではなかろうか。

これに比べると日本の政治家は慰安婦問題は過去の出来事としてすべてを無意識的に忘れ去ろうとする傾向が極めて強く、これでは問題の解決にはつながらない。加害者は過去に自分のしたことは容易に忘れてしまうが、被害者は決して受けた傷は忘れない、という一般的基本概念を日本の政治家はこの際再認識してはどうだろうか。このような考えは現在でも通用していることであり、東日本の大震災、原発による被害も政治家、実業家にしてみれば加害者意識はまったくない。

いずれにしても、現在の韓国には反日材料はいくらでもあるのです。慰安婦から徴用工、軍属、警官、兵士などなど、きりがないのです。みんな日本政府により強制的にされたのですと公言できるからです。

なお、日本人慰安婦の実態については戦後まもなく発行されたカストリ雑誌にはしばしば日本人慰安婦が自分の経験を面白おかしく描写、投稿しているのですが、そのようなカストリ雑誌については現在のマスコミの人たちはまったく知られていないのでしょう。

追記 (2013 Feb)
最近の新聞報道によると、安倍首相は8日午前の衆院予算委員会で、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官による「河野談話」について「静かな場で見識を持った歴史家、専門家が議論すべきだ」と述べ、首相として見解を示すべきでないとの認識を改めて示した。 菅官房長官も「この問題を政治問題、外交問題にさせるべきでない。学術的観点からさらなる検討を重ねることが望ましい」と語った。慰安婦問題が学術的検討の対象になるとはこの問題をどんどん過去のかなたに追いやるようなものです。それにしてもこのような詭弁が国際的な見地から判断すると全くの国辱ものです。

でも、このような詭弁を日本の政治家が公言するようでは韓国の慰安婦問題はまったく解決することはありえない。この際、もし本当に韓国や日本の政治家が慰安婦問題を真剣に、人道的に考えるのなら慰安婦問題の論点を「強制」から「人間性」に置き換える必要がある。

 

追記(2013 May)
最近の橋下発言で当時の慰安婦が朝鮮、中国、フィリッピン、その他まで拡大されていましたが、日本の政治家はだれも日本人の慰安婦には一言も触れていません。知っているのか知らないのかは本人に聞いてみる必要がありますが、おそらく日本人の恥として意識的に無視しているのかもしれません。でもそのような隠ぺい概念は逆に日本人の他国蔑視感の宣言にもつながることは誰も気が付かないようです。

 

追記(2013 July)
最近の産経の記事に以下のような記載がありました。

16年前の平成9年にインタビューした直木賞作家で在日韓国人2世でもあった故つかこうへい氏の言葉を思い出す。 当時も慰安婦問題が日韓間で政治問題化していた。そんな中でつか氏は『娘に語る祖国 満州駅伝-従軍慰安婦編』という著書を書くため、元日本軍兵士や慰安所関係者らへの取材を重ねたという。この本によれば、日本人の慰安婦は全体の四割近くであり、朝鮮人はその半分ぐらいだったといわれています。しかも決して無理矢理に慰安婦にされたわけではないのです。

 

いずれにしても戦後生まれの政治家には慰安婦の中に日本人もいたことを無意識的に認めないのでしょう。

 

追記(2013 Oct)
  最近気が付いたのですが、「敗者の贈り物」という本には戦後間もなく日本政府は国体を護持し、民族の純潔を守るための防波堤として占領軍用特殊慰安婦施設協会(RAA)の設置を指示していたそうです。つまり、戦後間もない時期には日本政府による占領軍向けの国営の売春組織があったのです。もしかしたら、このような発想は戦時中の慰安婦問題と同じなのです。まさに秘密の必要悪だったのです。確かに、ベトナム戦争中に韓国人兵士がベトナムでベトナム人女子を暴行、強姦とやり放題により多くの混血児をベトナムに残してきたことは知られざる事実なのですが、韓国政府はこのことに関しては全くの知らぬが仏を決め込んでいます。

 

追記(2014 March)
慰安婦問題と戦時下における性被害実態検証国際会議の開催

現在の韓国に対する慰安婦問題は世界的に拡大する傾向が強く、それに対しての日本政府の対応は極めて消極的であり、例の「河野談話」での対応に始終している状態であり、そこには過去の倫理概念と現在の倫理概念との格差への認識が基本的に欠けている。つまり、日本の政治家は慰安婦問題は太平洋戦争時の問題であり、すでに日韓政府間では解決済みとの認識に基づいているが、この問題が再燃している現在ではそのような過去の倫理観でこの問題を判断するのではなく、たとえそれが過去の問題であっても、現在のようにこの慰安婦問題が再燃してしまった以上、この問題は現在の倫理観で判断されるのが国際常識になっている。

一方、日本政府は2000年10月の国連安保理が「第1325決議」を採択する際に賛成している。この決議は、「紛争下における女性、少女に対する性的暴力犯罪者に対する訴追責任」を明確にすることをうたっている。ここで問題なのはこの決議には過去思考なのか未来思考なのかの時期的要因が明確にされていない。

しかし、現実にはこの慰安婦問題が韓国から提訴されているのが現状であるので、この国連決議に基づいて、日本が前向きに対応し、戦時下における性被害実態検証国際会議の開催を韓国に提案すべきである。ここでは「戦時下」を「紛争下」に置き換えて国際会議を世界規模で開催し、日本の慰安婦問題から始まって、ベトナム戦争時の韓国軍兵士のベトナム人女性に対する性的暴力犯罪などをも取り上げることである。
つまり、現在の慰安婦問題はたんなる過去の遺物であり、国家間ではすでに解決済みであるという消極的な対応ではなく、この際、もっと積極的に世界規模での国際会議を開催し、そこでいろいろな現実を明確にし、その結果の対応を国際的に低減するための会議を積極的に世界に向けて提案することである。

 

追記(2015 June)今月二日の朝日新聞に「慰安婦問題 識者と考える」との記事がありましたが、ここでも日本人慰安婦の存在は全く触れておらず、また、全員が植民地朝鮮との認識なのです。もうこうなるといっそのこと当時の日本は朝鮮、台湾、沖縄などは日本の植民地であったと公言する必要があります。

 

追記(2017 July)
最近の産経新聞にある記事が載っていました。
http://www.sankei.com/world/news/170717/wor1707170001-n1.html

ここに書かれてあるのは常識なのですが、朝鮮の慰安婦問題で一番欠けているのは台湾、朝鮮を含めた当時の日本国内で実際にどのようにして慰安婦が募集されたのかということを日本の政治家は一言も発言、解明しないから、朝鮮の思うようにいくらでも誇大宣伝されてしまうのです。もし、日本でも当時どのようにして日本人を含めた慰安婦が募集されていたかという真実を誰も触れたがらないのが大きな欠陥なのです。現在のような状況下にあっては、何も知らない人は戦時中の慰安婦は韓国人だけだと思っても致し方か無いのです。

 

追記(2018 May)
また、韓国が慰安婦研究所を設置するとか。こと慰安婦問題に関して韓国は、これでもか、これでもか、と日本にたいして敵愾心をむき出しています。今後は大学内に慰安婦講座とか慰安婦専任教授、或いは慰安婦講習会などなどいくらでも材料はあるのです。
戦後まもなく氾濫したカストロ雑誌には当時の日本人慰安婦が実際にどのような対応を兵士たちにしていたのかが面白半分にいろいろと書かれていたのです。そこには日本の兵士が日本人慰安婦にそれぞれ頭を下げてから性行為をさせてもらったとの感覚で行列をしていたとか、また当時はコンドムまで使われていたとか。それに関連して、現在の韓国ではある時期に岡本のコンドムの非買運動があったとか。それは当時の慰安婦に岡本のコンドムが使われていたからとのことでした。

何回も繰り返すように慰安婦問題での日本の弱点は日本の政治家、識者、新聞などが絶対に日本人慰安婦のことを言及しないことなのです。つまり、当時は日本でも慰安婦の募集がなされていて、多くの日本人女性も慰安婦だったのです、と説明し、朝鮮人だけではなかったし、しかも電柱に慰安婦募集のビラさえも貼られていたことを公知すれば、韓国の言い分、つまり強制された慰安婦ということが通らなくなる可能性があるのですが・・・・。とかも、強制されたかどうかの判定は本人の「証言」以外にはないのです。極論すれば私は強制されたのです、と言えば誰もそれを否定できないのです。

 

追記(2018 Aug)
最近の朝日新聞によると台湾の慰安婦に関して、1990年代の調査では当時の生存者は59人で、現在では生存者は二人だけとのことです。

 

追記(2019 Feb)
最近の報道では慰安婦問題が天皇までに及んでいることです。
【ソウル=名村隆寛】韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が米ブルームバーグ通信のインタビューで慰安婦問題に触れ、解決には天皇陛下の謝罪が必要との趣旨の発言をし、韓国メディアが9日、発言内容を一斉に報じた。もっとも、このような暴挙に対して、日本の政治家は「遺憾です」でおわりなのです。これでは韓国がますます付け上がることになるのです。

 

追記(2020 Feb)

最近の産経新聞にアメリカでの慰安婦像の設置が報じられ、その周りに韓国人学生や日本人学生も参加していたとか。

米東部コネティカット州ニューヘブンで1日、旧日本軍の従軍慰安婦問題を象徴する少女像の除幕式が行われた。同州に本拠を置くエール大の学生団体「STAND」と韓国系米国人らでつくる市民団体が設置した。式典には約70人が参加。少女像はソウルの日本大使館前などに置かれたものと同じデザインで、市民団体の施設敷地内に設置された。昨年5月、いったんエール大の敷地内に設置されたが、大学側の指示で撤去されていた。「STAND」は日本や中国の出身者ら多国籍の学生からなる団体で、慰安婦問題への理解を深めるため活動している。式典には同団体所属のエール大3年、西尾慧吾さん(21)=大阪府出身=も参加し「日本は責任を持ってこの問題に取り組むべきだ。日本人学生として関わることで、日本の若い世代にも刺激になればいい」と語った。
  これはまさに、日本の若者は慰安婦問題に関しては韓国報道しか知らないので、慰安婦は非人間的だと簡単に理解してしまうのです。

2013年2月18日 (月)

「{効かなかったら薬代はいりません}の発想


「{効かなかったら薬代はいりません}の発想

もし、あなたが服用している薬が効果が無かったら、その薬代は要りません、と言われたらどう反応しますか。

一般的な基本的概念としては、何かを利用したらその為の代価を払うのが私たち社会の常識です。何か欲しいものがあれば、それを手に入れるには何がしかの代価を払うものと言うのが現代の社会常識です。

所が、この社会常識の正反対の行為が導入されるとどうなるのでしょうか。例えば、レストランで何かを食べて、それがとても不味い場合にはこの社会常識から判断すると、まずいこと自体は個人差があるので、それを以て料金は払いませんよ、とはならないのが普通です。

しかし、場合によってはこの社会常識と全く正反対の概念を導入しても商売が成り立つことがあるのです。

例えば、健康保険があります。国によっては自由加入制度であって自分の収入に応じた健康保険に加入することができます。ところが、人によっては高い保険金を払って保険に折角はいっているのだから使わなくては損とばかり、なんだかんだと理由をつけて医師にかかり、マッサージにまでも使用枠を広げて自分の入っている健康保険を100%以上乱用することは珍しくはありません。そうなると健康保険会社もそのような場合に対して何らかの対策を講じなくてはなりません。その一つの対策に長年にわたり健康保険を利用していない人には年間の掛け金を割り引くことがあります。これなどはまさに健康保険という保障を手に入れていても、もし使わなければその掛け金が安くなりますよ、との発想なのです。でも最近はこのような還元システムは結果的には保険会社にとってはマイナスになるので廃止の傾向にあります。

その他の例としては通行車両制限があります。もっとも、これは何かを直接購入するということには関係がありませんが、間接的に道路を無料で(?)で使っているのですが、場合によっては自分の車の走行距離が少なければ゛少ないほど自動車保険が安くなるようにすることも考えられます。でもこのような発想は誰も考えないようです。

今回の北京の大気汚染はいろいろな問題がありますが、その解決法の一つに通行車両制限が考えられています。しかし、これはいくら行政がそのような車両制限を市民に勧告しても肝心の市民がそれに耳を傾けて実行しなくては意味がありません。一部の都市ではナンバープレトの番号により制限するところもありますが、あまり効果がいようです。

その一つの代案として、車の保険金の額を走行距離によって上げ下げするのです。つまり、毎日車を使っている人と、たまにしか使わない人とでの間に保険料金を上下するのです。理屈からいえば、あまり車を使わなければ保険金が安くなるのです。したがって、通勤とか買い物に普段何気なく車を使っている人でも、車の保険金が安くなれば考えるかも知れません。その逆に毎日車を使っている人には保険金を高くするのです。もっとも、果たしてこのような制度が成功するかどうかはいまだそのような例がないので分かりません。

そのほかにも医療費に関連して高価で特殊な薬剤の場合にはno cure, no payという概念があります。これは現実に二三の製薬企業が一部の国で実施しています。この概念はもしこの薬を使って効果がなかったらその費用を保険会社に払いもどしますよ、という制度なのです。

このように考えると従来の既存概念では考えられないことも場合によっては効果があるものです。みなさんもこのような発想で何か新しい方法を考えてみては如何ですか。今までの常識がいつも正しいとは限らないのです。

2013年2月 8日 (金)

副作用報告への謝礼金は必要悪か

副作用報告への謝礼金は必要悪か

製薬企業が医師にたいして支払う講演料や原稿料などに関して2012年度から「透明性ガイドライン」が施行され、その開示対象の中に「情報提供関連費」があり、そこでの開示対象としては「医療関係者に対する自社医薬品の科学的な情報提供に必要な講演会、説明会などの費用」が掲げられてある。

ここで考えたのは医療関係者が副作用症例を企業に報告すると企業はその謝礼として一症例に対して二万円前後の謝礼金を払っている。

果たしてこの謝礼は上記の「透明性ガイドライン」のなかで謳われている費用に該当するのだろうか。副作用の報告自体は「自発行為」ではあるが、その一方薬事法に規定されてある報告義務でもある。したがって、その行為に対して何がしかの謝礼を払うことはこのガイドラインには違反していないものと考えられるのかもしれない。もっとも、上記の定義「・・・・・科学的な情報提供に必要な講演会、説明会などの費用」の最後の「・・・などの費用」をどのように解釈するかという問題もある。

もっとも、この謝礼金の支払いというものは日本独特のものであり、海外の先進国で医師が企業に副作用を報告しても企業はそれに対して何がしかの謝礼金を支払うようなことはありえない。

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