« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月の記事

2013年1月30日 (水)

トルコのテレビの親日感

どのテレビでも朝の番組には必ずといってよいくらい新聞の朝刊記事紹介があるのは世界各国共通です。日本でも民間放送はかならず毎朝いろいろな新聞記事の切り抜き解説をしています。

私が住んでいるスイスでは各国のテレビが見られ、このことはどこの国のテレビでも同じですが、日本とすこし違うことの一つは自分の国以外の他国の新聞記事をも紹介、論評している場合がありますが、極めて例外で、日本と同様にほとんどの国は自国の新聞のみに限定しているのが普通です。

スイスではテレビ番組は多くの地域で有線放送網が普及していますので世界各国の番組が見られます。たとえばトルコとかギリシャのテレビも見られます。もっとも、中国の国際番組CCTVは見られますが、日本のテレビは駄目です。やはり日本は過去の存在なのかも知れません。欧州の主要ホテルには必ずテレビ番組に中国のテレビが見られますが、日本のNHKは見られません。十年以上前にはNHKの番組が見られたのですが、今では日本は捨てられて中国の番組に置き換えられているのです。

ところが、トルコの放送局TRTの朝の番組には他の欧州の番組とは異なってかならず日本の新聞記事も毎朝取り上げられるのです。ともかく、欧州のテレビ局の朝の番組のその日の新聞朝刊の記事紹介に日本の新聞が取り上げられているのはトルコだけなのです。その理由は分かりませんが、通説となっている親日国トルコだからなのかも知れません。

現在のように欧州のマスコミには日本はもう過去の国になっていて、まず取り上げられることは皆無に近いのです。日本ではとてもこのような状況を把握することは不可能ですが、それにしてもトルコは例外なのです。もしかしたら、その根底には親日国の流れがいまだ続いているのかも知れません。日本の人にはぜひ知ってほしいものです。

2013年1月29日 (火)

裁判と和解

裁判と和解

  いろいろな民事裁判ではしばしば最終判決前に和解で手を打つことが多いと思います。しかし、和解では問題とされている事件の原因解明、今後の対策などがおろそかになってしまうという欠点があります。従来の薬害裁判でもほとんどが和解で終わっています。本来、裁判を起こす場合には最初から和解を念頭においているとはとても考えられないのですが、結果的には多くの民事裁判では和解が大半です。
  
  ところが最近の東京地裁での「パロマ工業製湯沸かし器事故」にたいする判決で死亡した大学生に賠償命令が下され、その判決に対し家族は「地裁からたびたび和解を勧められたが責任をあいまいにしたくない」と判決にこだわったことが報じられていました。これを読んで、このご家族は本当に偉いと思いました。

2013年1月19日 (土)

TBSみのもんたの朝ズバの女性群

TBSみのもんたの朝ズバの女性群

朝のTBSテレビ番組の「みのもんた朝ズバ」は手軽にその日の情報を解説付きで知ることが出来るのでよく見ているのですが、あの画面を見ていていつも気になるのは数人の解説・評論家(?)の後ろにいつも数人の女性が立ちっぱなしでいることです。彼女らは何らの発言もなく、時折うなずくだけなのです。でもなぜ彼女たちは毎朝あのように後ろに立ちんぼしているのか不思議でなりません。いったいなんの目的があるのでしょうか。ただうなずくだけでまったくの飾り物。女性軽視では ???とさえ思えるのです。もっとも、彼女らにしてみればテレビに映るだけで満足しているのかも知れません。せめて彼女らにもときどき意見を聴いてみてはどうでしょうか。

つまり、彼女らには何らの発言権もなくただ立ちんぼしているだけだとすると不適切に女性を利用していることにはならないのでしょうか。果たして彼女らの存在が不適切かどうかは立場が異なると違うのかも知れません。でも、私に言わせれば女性蔑視になるのではないでしょうか。

もし飾りものならば着物でも着てもらい毎日着物を変えてもらえば番組を見ている男性にとっては目の保養になるのですが・・・・。(*^-^)

このことについてTBSに問い合わせたのですが、何らの返事も来ませんでした。

追記 (2013 Feb)
たまたま今日になってこの番組をみたら例の女性群の姿が消えていました。おそらく私の問い合わせに反応したのもしれません。でもいざこれらの女性群がいなくなるとなんかもの寂しくも感じ、また彼女らに悪いことでもしたような気持にもなりました。つまり、彼女たちは職を失ったからです。せめて、彼女らにも椅子に座ってもらっていて時折彼女らの意見も聞ける環境でもつくってあげていればよかったのではないかとも考えましだが・・・・。

2013年1月18日 (金)

昨年2012年のキーワードは「医療の個別化」

昨年2012年のキーワードは「医療の個別化」

     最近は医療の個別化(Personalized medicine)の概念が取り入れられつつある。その背景には安全性と有効性の個別化という概念が介在する。このことは医薬品の本質と大いに関係があり、医薬品には必ず副作用が多かれ少なかれ発生することである。逆に言えば副作用の全くない医薬品は存在しないとの概念は医療関係者や患者も全員が同じような感覚で共有されている。しかし、不思議なことに有効性に関してはこのようなネガティブな要因はほとんど話題にならない。このネガティブな要因というのは市販後の医薬品の該当適応症への有効性は常に100%ではないにも関わらず、誰もなぜ効かない場合もあるのかということにはほとんど関心がない。そこには、市販後の医薬品は100%有効であるとの暗黙の理解、期待があり、もし効かない場合にはある意味では広義の副作用、つまり医薬品のネガティブな一面であるとは誰も考えないのはなぜなのか。従来の有効性、副作用もいずれも医薬品を投与した結果を観察し、有効かどうかを臨床的に、場合によっては臨床検査値から判断し、同時に副作用が発生するかどうかを観察するというスタンスである。そこにはなぜ、一部の患者の場合には有効でない場合があるのか、なぜ副作用は一部の患者に発生するのかといった個別的な要因解明は従来はほとんど無視ないし軽視されていた。確かに、治験の場合では統計手法でプラセボと比較して有効率が何パーセントと判断され、科学的な判断がなされていると理解されている。しかし、治験の場合でも個人個人の無効例はその原因究明の調査研究の対象にはなっていない。

  いっぽう、今後の医療は疾患、症状の対症療法ではなく、患者を中心とした医療が求められるべきであり、またそのような傾向になりつつある。これは医療の基本であるにも関わらず、従来の医薬品中心の医療社会ではどうしてもそのターゲットとして疾患が最優先されてしまう。血圧の高い人のために抗高血圧薬が開発され、高血圧の患者に投与して、血圧そのものが正常値に戻ればそれで治療効果は100点満点になる。そこにはなぜこの患者に高血圧が生じたのかとの原因究明は不要なのである。もし、この原因究明が日常的に個人レベルで詳細に検討、究明されれば、場合によっては抗高血圧剤投与が不要になるかもしれない。しかし、現実にはそのような医療は多くの場合軽視されている。そこには患者一人一人の特異性というものが完全に無視ないし軽視されているからである。

   しかし、最近ではこのような「現象論的・統計的判断」でなされた医薬品情報ではなく、患者個人個人を念頭に置いて、どのような患者の場合には有効ではないのか(あるいは有効なのか、あるいはなぜ副作用が発生するのか、といった研究がなされ、実際に適用され始めている。これが医療の個別化といわれている。つまり、医療の本来の目的を考慮すれば医療の個別化が本来あるべき姿であると認識されつつ売る。もっとも、では実際にどのような医薬品情報、患者情報が存在するのかというと残念ながらほとんど皆無に近く、今後の課題になっている。

   つまり、一人一人の患者にたいして有効性が完全に保証され、しかも副作用が起こらないような医薬品の使用方法が判明すれば、まったく理想的な医薬品の投与方法になる。もっとも、逆の立場から判断すれば、一人の患者に対してどの医薬品をどのように投与すれば有効性、安全性ともにほぼ完全な結果を期待できるのかという患者中心の考え方になる。このような考え方が医療の個別化、あるいは個別化された医療(personalized medicine)という新しい考えである。なお、日本語ではオーダーメイド医療のような和製英語表現も使われているが正しい英語表現ではない。つまり、最近は医薬品中心の治療から患者中心の医薬品投与に移行しつつあるものと理解すべきである。

いずれにしても昨年2012年は「個別化医療」のラッシュの感があった。ともかく、なんと英国大使館で「個別化医療のセミナー」が開催されたりしていますし、また日本の学界としては例外的にに「国際」を冠にした国際個別化医療学会International Society of Personalized Medicineが2011年の末に改組・発足したことです。そしてその傾向が最高潮になったのは11月に開催された第33回日本臨床薬理学会総会ではないでしょうか。ともかく「医療の個別化」にかんする演題が目白押しだったのです。つまり、患者を念頭に置いた医療、表現を代えれば疾患を治療するのではなく、患者を治療する、そのためには患者個人個人の特性をどのように認識し、それに最適な治療を施すという観点が重視されてることです。でも考えてみれば、この「医療の個別化」という概念そのものは別に新しいことではなく、東洋医学では患者それぞれの実態に合わせた治療が行われ、同じ疾患、主訴でも投与薬剤、治療方法は患者によりことなることは常識であるからです。ただ、近年の西洋医学では化学薬品が医薬品として開発され、薬剤投与が中心となり、患者それぞれの個人的背景、生活習慣、患者特性などは軽視ないし無視された医療が圧倒的ななったことです。

  もっとも、この医療の個別化に関してでは具体的にどのような情報、データを収集、作成するのかは今後の大きな課題になっています。

2013年1月13日 (日)

歴史認識の意義(1) 英国料理

歴史認識の意義(1) 英国料理

  物事の判断に際し、重要な役割をするもののひとつに歴史の理解があります。すべての出来事、現象などにも必ず歴史があるのですが、往々にしてそれらの歴史を忘れたり、あるいはまったく知らなかったりして、現時点での現象、制度、概念などを判断してしまいます。その結果、大きな誤りをすることにもなります。
 
 例えば、よく言われている英国の料理は不味い、ということです。確かにある意味では英国の料理は美味しくなく、簡素なので、現在のようにグルメになれた人にはそのような概念が浸透していると思います。たしかに、世界広しといえども「英国レストラン」と看板を掲げているレストランは世界には殆どないはずです。
  
でも歴史を知ればそれは当然なのです。実は、たまたま朝日新聞の記事「英国メシ、美味革命」(2013/1/11)を読んで、なぜ英国料理が不味いのか、あるいは不味かったのかが分かりました。その記事によると、
 
 1066年  フランス・ノルマンディー公が英国を占領、その結果英国の上流階級にフランス料理が浸透
  1649年  クロムウエルの清教徒革命で贅沢が禁止され、食生活にも影響
  18世紀  産業革命で農村から都会に人間が移動、農村社会が衰退
  19世紀  全寮性学校の導入により社会的訓練として粗食の美化
  1940-50代 食料の配給制で質より量の食生活 
  第二次大戦後 欧州からの移民で食文化が多様化


このような歴史的な要因により英国料理が発展を遂げなかった理由が分かります。
それに比べると日本料理は最高だと思います。このような歴史と食文化の関連を考えるとき、レストランに国の名前の冠が無い国の食文化は無い、つまりそのような国の典型的な料理がないものと考えられますが、もしかしたらそれぞれの国の歴史が関与しているのかも知れません。たとえば、オーストリア・レストランなどはあまり聞いたことがありませんが、やはり歴史が関与しているのでしょうか。
   
追記(2013 July)
英国レストランが世界に無いことに関して、よく考えてみれば、オストリアのような歴史のある国でも、海外にオストリア・レストランなるものは存在しません。なぜなのでしょうか。

2013年1月11日 (金)

政治家の立場になっての発言 (1)

政治家の立場になっての発言 (1)

安倍首相は11日午前の記者会見で、沖縄の尖閣諸島を巡る中国側の対応について、「政治的目的を達成するために、日系企業に被害を与えたり、個人に危害を与えることは、国際社会で責任ある国家としては間違っているとはっきり申し上げたい」と述べ、批判した。

これを私流に改定すると、「政治的目的を達成するために、日系企業に被害を与えたり、個人に危害を与えることは、国際社会で責任ある国家としては間違っている。中国の首相を日本の横浜や神戸の中華街にぜひ招待したい。」となる。

2013年1月 5日 (土)

添付文書記載の注意事項、警告事項の自動警告ソフト

添付文書記載の注意事項、警告事項の自動警告ソフト

現在の添付文書にある安全性情報の中で意外と無視ないし軽視されているものとして相互作用、臨床検査実施が挙げられる。現実には添付文書に明確にそれらの注意事項、警告が記載されてあるにもかかわらず、それらの警告が無視され、結果的には死亡ないし現疾患の重篤化がおこることが報告されている。最悪なのは、警告欄に特別に注意事項として定期的な機能検査が明記されているにもかかわらず、その検査がなされておらず、最終的には患者が死亡するといった例も報告されている。

このようにいくら添付文書に記載しようが、実際の医療の現場ではそれらが守られていないことは意外と多いが、これも「氷山の一角」現象でなかなか表面沙汰になることはない。そこで、これらの被害を未然に防ぐためのソフトの開発が必要になる。しかし、企業はそのような予防策を念頭に置いたソフト対策はなかなか自発的には考慮しない。つまり、企業の立場から言えば、ちゃんと添付文書に記載してあり、それをり守らないのは企業の責任ではなく、医師の責任であるとの認識が極めて強いし、また、さらなる対策を講じることは行政から求められていないと考えている。

ではどのようなソフトが必要になるのか。それはきわめて簡単で、医師がある医薬品を患者に処方し、コンピュターに入力すると、自動的に処方日入力と同時に必要な機能検査項目、あるいは相互作用情報とがリンクされ、一定期間内にそれらが実施あるいは注意されていなければPC画面に赤ランプが点灯するだけなのです。

たとえば、B型肝炎ウイルスキャリアの患者で抗がん剤、リツキシマブが投与されるとその副作用でB型肝炎が悪化する可能性があるので、定期的にウイルス検査をすることが求められているので、この抗がん剤投与後、たとえば二週間ごとにウイルス検査がなされているかいないいかが自動的に計算され、もしその間にぜんぜんウイルス検査項目にチェックがなされていなければ赤ランプの警告が、PC画面に自動的に現れるようにする。

また、相互作用の可能性があるような場合にはその医薬品名が入力された段階で相互作用の可能性のある医薬品名にリンクされ、その後その患者に該当医薬品名が追加入力されると自動的に相互作用の可能性を示す項目が赤ランプ付で画面に現れるようにすることです。

とくに定期的に血液検査、肝機能検査、腎機能検査などが、たとえば投与期間中には二週間に一回以上、実施されなければならないようなときにはこのようなソフトの開発で未然に副作用を防ぐことができることになる。

しかし、そのようなソフトの開発を積極的に、しかも自発的に開発するのは誰かという問題があのですが、そのひとつの可能性としては関連学会が自発的にイニシヤティブをとるか、あるいは民間のソフト会社が開発するかのふたつしか可能性はありません。もっとも、民間のソフト会社がそのようなソフトを開発しても医療機関がそのソフトを購入しなければならず、あまりこうかは期待できないかも知れない。そうなるとやはり関連学会が開発し、行政にその普及を依頼する方法が妥当ではなかろうか。そのように考えるとレギユラトリサイエンスの範疇に入ることになる。

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »