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2012年12月の記事

2012年12月18日 (火)

私がバーゼルで生活し始めたころ

「私がバーゼルで生活し始めたころ」
                      
   私がローマからバーゼルに移って来た1967年には当然日本人会もなく会報もありませんでした。私がバーゼルに初めて住んだ場所は、ローゼンタルのメッセの大きな時計台のある建物に向かって右横、つまり、現在スイスで一番高いビルが建っているところにローゼンタルアパートメントがありまして、そこの一部屋を会社(当時のガイギー社)が予め見つけてくれました。一部屋といっても小さなキッチンと風呂場が付いていまして快適でした。

 

   このアパートメンは私が住んでから数年後にはアドミラル・ホテルに改造され、その結果このアパートメントの役割りは自然解消となり、新しく部屋をどこかに見つけなければなりませんでした。その後、このホテルは現在のスイス一高いビルが建築されるまで営業していました。

 

当時、このアパートメントには日本人の人たちが入れ替わり出入りしていました。と言いますのは当時の日本チバ社の社員が短期研修で頻繁にバーゼルに出張で来られていまして、それらの人たちは数ヶ月間そこに滞在し、また日本に戻っていきました。そんなわけでこのアパートメントはある意味では日本人の溜まり場でもあったのです。日本チバ社の人たちの殆どは染料、農薬、プラスチック関連部門の人たちで、医薬関係の人たちはいませんでした。なぜかと言いますと、当時のチバ社の医薬品は武田薬品が代理店としてチバ社の医薬品を日本で販売していたからです。いずれにしても、当時はまったく私の勤務先の会社(ガイギー社)とは関係の無い他社の人たちでしたが、三年後の1970年によもやガイギーとチバが合併して、チバガイギー社(現在のノバルテイス社の前身)になるとは夢にも考えていなかったことです。

 

   当時は当然のことながら日本食に関しては全くスイスには存在するものはなにひとつありませんでした。したがって、ご飯を炊くにはイタリア米を使えばなんとかご飯らしいものが炊けましたが、味噌とか醤油はありませんでした。そこで私はせめて醤油が何とか手に入らないものかとキッコマン醤油を製造していた銚子にあった当時の野田醤油に手紙を書いて問い合わせたところ、なんとルガノに代理店があるからそこに問い合わせるようにとの返事が来たのです。そこで、早速ルガノの代理店に電話して注文しました。(今でもルガノにはその食料品店があります) その頃は一リットル入りの缶入り醤油しかありませんでした。まあ、ご飯と醤油があれば曲がりなりにも日本食らしきものを口にすることが出来たわけです。もっとも、日本食といっても肝心のおかずは日本的なものはなにもありませんでした。一番簡単なのは卵ご飯ですが、それ以外では簡単に手に入るハム、ソーセジなどで済ませていました。ともかく当時のバーゼルには現在手に入るような野菜とか果物、魚などは考えられないくらい皆無でした。ともかく昼食は会社の食堂、いまでもドイツ駅の前に建っているローゼンタルのビル内の大きな立派な社内食堂、で済ませることができたので、自炊は夜と週末だけになります。(なお、その後数年経ってからバーゼル郊外のEffingenにあるレストランの主人の奥さんが日本人であったので、そこでレストランの一部に日本料理の席が設けられて日本食を味わうことができたことがありました。)

 

   いっぽう、当時は外国人といえばイタリアからの出稼ぎ季節労働者がたくさん居ましたが、そのほかの外国人は極めて稀でした。そんな関係もあってかは知りませんでしたが、私がバーゼルに居住届けを出してからまもなく市当局からなんと歓迎の手紙と一緒に十二枚セットの記念品クーポンが届きました。このクーポン記載の市内の商店で何かを買うとワッペン付きの小さなコッブ、つまりシュナップコップ、がお祝い記念品としてプレゼントされたのです。とても今では想像も出来ないことでした。まあ、ある意味では歓迎された外国人であった訳です。もっとも、出稼ぎイタリア人をも含めたすべての外国人に同じようなプレゼントが配布されたかどうかは不明です。

 

   また、当時のガイギー社では一人の外国人新入社員にはかならずひとりのスイス人社員がある一定期間特別に世話係りとして任命され、折に触れて新入社員の面倒をみてくれることになっていました。したがって、まったくドイツ語が分からなくても会社内ではそれほど不自由することはありませんでした。なにしろ、当時のガイギー社にはすでに多くの外国人が社員として働いていましたので、外国人そのものの存在はまったく珍しいことではなかったのです。当時の私の仕事は医薬本部医学部での副作用文献の抄録作成で、世界中の文献が相手でした。時折、ロシア語の文献が来ると私はロシア語が全く分からないので、人事部に電話してロシア語の判る社員を探してもらってその社員のところにロシア語の文献を持っていて必要な情報・データを読み取ってもらうといったことが簡単に出来たわけです。また、会社内での仕事部屋は一人部屋で全く快適な雰囲気でした。現在の会社内の状況から判断するととても想像もできないくらい快適な環境でした。

 

   たとえば税金の申請用紙が来たときにはその書類がドイツ語で書かれてあるので、私の上司が全部記入してくれました。また当時の社内には海外担当部門があり、そこに日本語の達者な部長(シュトロイリーさん)が居て何かと個人的に面倒を見てくれました。このスイス人の奥さんは日本人で、当時日本からバーゼルに来た日本人の殆どの人たちが何らかの形でお世話になっていたはずです。当時は日本からバーゼルに洋菓子の研修とかホテル研修などに時折来たりしていましたが、その人たちも必ずシュトロイリーさん夫妻のお世話になったはずです。ともかく当時は日本人の存在は珍しく、日本人がなにか困ったようなときには市の警察がすぐにシュトロイリーさんのところに連絡があり、いろいろと面倒を見ていたのです。シュトロイリーさんが1988年9月にお亡くなりになる数年前まで、この役割はすくなくとも市の警察からは認識されていたのです。まさに日本の名誉領事役を兼ねていたことになります。なお、お亡くなりになる前に大使館から、彼をに日本の叙勲候補者にしたいとの話がありましたが、その翌年にお亡くなりになってしまい、叙勲のことは忘れられてしまいました。

 

   そのようなわけで初めてのバーゼル生活はまったく問題なく楽しい生活を過ごすことが出来ました。なにしろ、当時のガイギー社は極めて家族的な会社で社員の待遇、面倒見が良かったのです。たとえば社員が病気で入院すれば病院に花束が届けられました。私が入社してまもなく(多分日本への郷愁の念があったのでしょう)日本に一度行きたいなと考えて、たまたま東京で学会があるのを見つけて、それに参加させてもらえないかと打診したら、すぐにOKがでたので、早速出張の手続きをしたのですが、数日後に航空券発券担当者から電話があり、どうしてファーストクラスで行かないのか、日本はとても遠いのでファーストクラスで行きなさいとのことでした。ともかく日本にファーストクラスで飛行機旅行ができたのはこれが最初で最後でした。

 

   いっぽう、週末の町での生活はやや単調でしたが、エンジョイすることができました。
ガイギー社に入ってからまもなくオストリアのザルツブルクに夏季ドイツ語学習コースに二ヶ月間通ったりしまして、結構楽しい時代でした。もっとも、当時の町の歩道のいたるところに犬の糞がありましたので、歩道を歩くのは極めて特別な技術が必要でした。そのほか、ライン川には人糞が流れていたり、製薬企業から産業排水がそのまま流出したりしていました。しかし、ご承知のようにバーゼル近郊でのライン川の流れは速いので、そのような汚物はたちまちにして視界から消えていきました。今から考えるととても想像がつかないのではないでしょうか。

 

  当時の日本人の中でその後ノーベル賞受賞で有名になった利根川進博士は1972年にバーゼルに在る免疫学研究所に研究員として勤務するようになり、約十年近くの研究生活からその後アメリカのMITに教授として転任しています。当時、利根川さんは研究所内でも異端の研究生活の持ち主として研究所内では有名でした。と言いますのは研究所に出かけるのが午後の三時以降で、それからは研究に没頭して夜中の三時か四時頃に帰宅するという生活でしたので、当然朝の出勤は遅くなる筈です。このような研究所生活をするスイス人は一人もいませんので、それだけ研究所内では目立ったわけです。しかも、彼には土曜、日曜も無いので、当時のバーゼルの日本人は彼に会うことは極めて稀でした。ですから時々日本の新聞などを回覧のため利根川さん宅に伺ってももっぱら奥さんとのコンタクトばかりでした。利根川さんはクラインバーゼルのクララ広場の郵便局の後ろ斜め横にある当時としてはバーゼルで一番高いマンションに住んでいました。したがって、利根川さんがアメリカでノベル賞を受賞したニュスがこの免疫研究所に元らされた時はこの研究所の職員全員が大喜びをしてお祝いをしたとのことでした。それは当然で、彼がノベル賞を受賞した研究のほとんどはこのバゼㇽにある免疫学研究所でなされたからです。

 

   また、当時のバーゼル大学に日本から東京医科歯科大学の佐久間昭さんが留学されて来ておられ、彼が二年後に日本に帰るときに当時としては最新式の炊飯器を私に残してくれました。たしか1969年頃だったと記憶しています。なにしろ、当時としては炊飯器はまったくの最新のハイテク製品であり、まさに貴重品そのもので、この炊飯器は数年以上も続けて使っていました。

 

なお、当時はバぜル、いゃ、スイス全体に住んでいる日本人は極めて少なかったので、私がバぜルに来た当時、日本からのハガキのあて先が、Suzuki, Basel, Switzerland で問題なく私のアパアパトに着いていました。

 

 

   以上の記述はたまたま古い資料からの抜粋です。まぁ、昔を思い出すと確かに私たちの時代は天国だったのかも知れません。

 

2012年12月13日 (木)

添付文書の警告が無視されている現実

やはり添付文書は無視されてしまうのか

最近の医薬品副作用被害救済制度の不支給決定によるとやはり添文に赤枠で警告があるにもかかわらずそれが無視されている現実が浮かび上がっています。医療の現場では添付文書があまり注意深く読まれていないことが分かります。これは副作用報告と同じように、恐らく「氷山の一角」現象だと考えられます。(11月27日「医薬品・医療機器等安全性情報」No.296)

例えば、チアマゾールを服用して無顆粒球症を発症したケースでは、投与開始以降、無顆粒球症が認められるまでの約7週間、血液検査が実施されていなかったために適正使用と認められなかった。また、ベンズブロマロンを服用して薬物性肝障害を発症したケースでは、投与開始以降、肝障害が認められるまで約10カ月間、肝機能検査が実施されていなかったため、適正な使用と認められなかったという。この場合は、添付文書に赤枠で警告されているにもかかわらず、血液検査がなされていなかったのです。

つまり、定期的な血液検査とか腎、肝機能検査が必要とされているような医薬品の場合には意外と添付文書の中の記述が無視されていることが分かります。

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