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2012年5月の記事

2012年5月15日 (火)

日本語は難しい (3) 「検討いたします」

行政当局から何か指摘され、改善策などを求められたときに、該当企業などが、「検討します」とのコメントをしていますが、この「検討します」は極端にいえば、「そのような改善をするかどうかはこれから検討し、もしかしたらなにもしないかもしれませんよ」とのニュウアンスが含まれています。つまり、どうするかは分かりません、改善しないかもしれません、等の意味を言外に含めているのです。

最近の関越道でのバス事故に際して国土交通省がバス会社に対して夜間長距離バスには運転手を必ず二人を乗務させるように要請した時に、業界団体側は「検討します」と応じたとのことでした。

たしかに、このような場合、行政は「要請」しているのであて「指示」しているのではないので、それに対する返答は「検討」でいいのかもしれません。でも、このような表現の取り交わしは全く規制力が無く、まったく無責任な発言なのです。

まぁ、考えても見てください、家庭で父親が息子に「駅前で新聞を買ってきて」と頼んだ時(つまり、要請)、その息子が「検討してみます」と返事したらどのようになるのでしょうか。

このように政治的、行政的に使われる表現はまさしく日常生活とは全くかけ離れた独特なものであり、またその解釈もこれまた独特なのです。このように考えると日本語は極めて奥が深く、また極めて複雑怪奇そのものなのです。ある意味では、このような表現の違いをはっきりと使い分けることができなければ政治家にはなれないのかもしれません。


2012年5月 5日 (土)

数年たってから読む記事、本 (***) 無責任な予測記事

数年たってから読む記事、本

昔は新聞記事などを切り抜いてスクラップブックに張り付けて保存し、将来のための参考資料として利用したものです。しかし、今日のようなIT社会では旧態依然としたそのようなスクラップブックをいまだに利用している人はほとんどいないのではないでしょうか。従って、現座ではそのようなスクラップブックを購入することは不可能になっているのではないでしょうか。

ところが、このような昔の記事を数年たってから改めて読むと意外な発見があるのです。

昨年の東日本大震災に関する記事の中で多かったのは「私はすでにそのような災害を予測していました」「そのような危険性はすでに何回となく提言していたのです」などなど過去にさかのぼっての予測性についての記事が氾濫していました。

この予測性というのはそれが現実のものとなって初めて意義のある発言にとらえられ、もしなにも起こらなければ全く価値のないものとして無視されるのが普通です。つまり、将来での予測とか新しいことについての提言などはその時点では極めて新鮮で、意義のあるものに映ることがあるのですが、その結果は誰もフォローアップすることはなく、あまり日の目を見なくなるのが普通です。したがって、場合によっては数年後に担当者などが代われば、また似たような発言を繰り返されることもあるのです。

このような観点から、前述のスクラップブックを改めて読み直すといろいろなことに気が付きます。特に、行政とか研究者がいろいろな提言とか方針などを発表されていますが、中には数年たっても全く何らの変化もないこともしばしばみられます。まぁ、政党の選挙前の公約と思えば、なにも特別新しい傾向ではないのかもしれません。もし、皆さんの中でこのスクラップブックを昔使っていた方はその古いファイルを引っ張り出して読んでみてください。いろいろな発見があります。

いっぽう、毎日のように新聞に載っている新刊書広告をこのような観点から眺めてみるといろいろなことが浮かび上がってきます。例えば数年前に出版された「中国、地球人類の難題」という本では「内外で圧制を続けている中国が北京オリンピックを成功させれば、1936年にナチスドイツ下で行われたベルリン五輪の二の舞となる」と予言されていましたが、果たして北京オリンピックが終わった現在の中国はそのようになっているのでしょうか。

これよりももっと現実味を匂わせる本に「2013年、中国、北朝鮮、ロシアが攻めてくる」というショッキングな本は来年の2013年のクリスマスあたりに読むべきものかもしれません。もしかしたら、そのころには日本はこの本のような状態になっており、大混乱となりそんな余裕がなくなっているかもしれません。

 さらに、最も身近に感じる本に「2012年、日本経済は大崩壊する」という本は今年のクリスマスあたりに購入してみたい本です。そのほかにも、ある雑誌に「2020年 近未来シミュレーション 中国は民主化する」という表題が著名な国際エコノミストにより発表されていました。この論文などはまさに八年後になってから読む価値のあるものだと思います。それに反して、最近の週刊文春の五月三十一日号には「邱永漢の遺書、中国バブルは来年崩壊する」とありました。来年とは2013年ですので、来年が来るのが楽しみです。

   ⇒  今年2014年になってもこれらの予測はみんな嘘だったのですが、全くいい加減な予測が真面目に記事になるのはどういうことなのでしょうか ????? もっとも、嘘と断定するのは不公平かもしれませんね。予測というのは当たっても当たらなくともそれをまともに受け入れる人に責任があるのです。ですからも、あなたも似たような予測記事はいくらでも書けるのです。

このように将来に向けたいろいろな予測、予言のような内容の記事、本が毎年数多く発表されていますが、数年たって、それらの予言、予想に対して改めてそれぞれの執筆者にその時点の感想、見解などを聞くことができるシステムのようなものができると面白いと思います。
とくにこの手の記事で多いのは中国に関する予測記事です。特にその道の専門家と自称する人たちの予測はことごとく外れているのも面白い現象です。

みなさんもこのような観点からの記事、本を集めてみてはいかがですか。もし、積極的にこのような収集をしてると数年後には「予測で人を騙す方法」のような本が書けるかも知れませんよ。

追記 (2012/07/04)
最近の週刊現代(2012/07/14)に「検証・三年以内に富士山大噴火」という記事がありました。これなどは三年後、つまり2015年の秋頃にもう一度読み返すと面白いかもしれません。もっとも、これがもし本当だとすると笑って入られませんが。 (⇒ これも当たりませんでした。)

追記(2013/01/25)
最近の新聞広告に「ひとたまりもない日本」藤巻健史著があります。この本には「アベノミクスでこの国は年内にも破綻する」とあります。今年の年末にこの本を購入してみます。 ⇒  これも当たりませんでした。 (2015 Feb)

そのほかにも、熊谷亮丸・大和総研チーフエコノミストは2015年にも中国のバブルが崩壊すると予想していますし、彼の著書『パッシング・チャイナ』も2015年になってから読み返す意義があるかもしれません。2015年がくるのが待ち遠しいです。  ⇒ これも当たりませんでした。

追記 (2013/12/10)
雑誌「SAPIO」一月号には「2014年、中国は血と水に斃る」との記事がりますが、これも来年末には読みたいものです。    ⇒  これも当たりませんでした。(2015 Feb)

追記(2014 March)
最近の「女性セブン」誌に「次は南海トラフ地震が三カ月以内に」との東大教授の予測があります。これも七月ごろにもう一度読み直す価値があるかもしれません。  ⇒  これも当たりませんでした。 (2015 Feb)

追記(2015 Feb)
「週刊現代」(2015 Feb 28日号)には「まもなく不動産大暴落」との記事がありました。ここでは「まもなく」とありますので、今年の夏ごろには日本での不動産の大暴落が起こっているはずです。
      ⇒ これも当たりませんでした。(2017 Feb)

追記(2017 Feb)
最近出版された本に「トランプ新大統領誕生で世界はこうなる」(長谷川慶太郎・田原総一郎 )には
 日本の産業と安全保障の行方
 軍縮路線へと向かうアメリカ
 大激震を迎えるアジア
 トランプ勝利で崩壊するユ-ロ
 避けられない世界的デフレの波
とありますが、この場合には2020年くらいにはその真偽が分かることでしょう。このようなトランプにまつわる予言はゴマンとあるのです。

追記(2018 Jan)
予言とか予測についていろいろな人たちが書いていますが、そのほとんどは五年後、十年後のことなどであり、それが書かれた時点ではその信憑性は確認できません。したがって、そのような将来性にかんする予言をした人たちについての実際の価値判断は誰も出来ないのが普通なのです。ですから、そのような予言をこまめにメモしていてそこに記載されている年になって初めてその真偽が分かるのです。
例えば、以下のような例があります。
予言研究者のアレサンドロ・ブルーノ氏は「2018年は第三次世界大戦のスタート、自然災害、資本主義経済の崩壊など、世界史における最悪の1年となりそうです」と指摘する。これなどは今年の暮れになればその真偽が判明するのですが、仮に何もそのようなことが起こらなければ、今年の暮れ、来年の初めには誰も彼の予言のことなどは忘れてしまうのです。
従って、現時点で、今までのいろいろな予言がどうなっていたのかを知るには過去のデタを調べる必要があります。

2012年5月 3日 (木)

私の架空発明 その(15) 電気自動車の自給蓄電装置

電気自動車の自給蓄電装置

最近は電気自動車が実用化され、プラグをコンセントに差し込むだけで充電することが出来、その充電されたバッテリーで走ることが出来るわけです。しかし、現在のシステムではある距離を走ると再び充電しなくてはなりません。したがって、充電設備のないところでは現在の電気自動車は使い物にならなくなります。

そこで考えたのですが、自動車には一般的には四輪があり、その四輪は走っているときには常に回転しています。その回転エネルギーを電気発電に使うのです。もしそのような装置が出来れば、電気自動車は走れば走るほど充電されることになり、一石二鳥どころか一石三鳥にもなるのです。

四輪の回転エネルギーを利用するので、その装置次第では四輪に余計な負荷がかかるかもしれませんが、仮にそのためにスピードがすこし落ちても通常の自動車利用にはあまり影響はないと考えられます。
このような装置は簡単にできると思うのですが、少なくとも新聞などでの記事の範囲内で私の知っている限りではいまだその開発に着手していないように思えるのです。どこかの自動車メーカーが開発してくれませんでしょうか。

このような提案はもう日本の自動車メ-カ-にはしないことにしています。そのような提案をしても剣もほろほろに断られるからです。

追記 (2012/07/03)
この日付の朝日新聞の記事に「JR東日本が車輪の回転利用し蓄電」がありましたが、私が自動車で考えているのと全く同じ原理なのです。

2012年5月 2日 (水)

入れ墨とサングラス (*) 日本は入れ墨低開発国

   日本では入れ墨、刺青、をすることは特別な人を除いては誰も入れ墨をしようとは考えません。むしろ、日本では一般的な考えとしては入れ墨はヤクザがするもの、その逆にヤクザは入れ墨をしている人が多いとの通念があります。

もっとも、日本でも昔は入れ墨をすることはあったのです。日本での入れ墨の歴史はかなり長いが、一般的には江戸時代には一部の市民が入れ墨をしていたが、その意味合いは豊かな承認を誇示する目的とか、勇敢な人物と関連していたとが考えられていた。その典型例は江戸時代の火消しは入れ墨をしていたことがある。真偽のほどは確かでないようですが、テレビに出てくる遠山の金さんは桜吹雪の刺青が有名ですが、これはもしかすると当時は悪者を裁くという「勇敢な」人を象徴していたのかもしれません。でも、あのような入れ墨をテレビで見ているとなんらの違和感も感じないのはなぜなのでしょうか。

   したがって、日本ではとてもそのような入れ墨をすることが若い人に流行するなどとは全く考えられません。ですから、温泉などで入れ墨をした人を見る機会はほとんどないはずです。場合によっては、そのような施設に「入れ墨をした人はお断り」の張札があって、入れないような場合もあります。それだけ、入れ墨は日本では社会的には許容されていないと言っても過言ではありません。もっとも、最近の日本でも、いわゆるファッションの一部として若い人たちにも取り入れられていると言われていますが、現実にはかなりの拒否感があるのではないでしょうか。でもどうして入れ墨をすることそのものが嫌われるのでしょうか。それは日本では歴史的に、入れ墨と刑罰との関係があり、入れ墨は悪のシンボルとして取り扱われていた時があるからなのです。

   ところが、欧州では入れ墨をしている若い人たちを見ることは稀ではなく、最近では若い女性も入れ墨をしている場合もあります。果たして何割くらいの女性が入れ墨をしているかは分かりませんが、かなりの数になると思います。例えば、ピアスをしている人は入り墨も当たり前なのです。私の推測では若い人の30%くらいではないでしょうか。往時の欧州では刺青は「魔よけの習慣」「愛の誓い」などと受け止められていて、かっての欧州王族の間ではブ-ムにさえなっていたのです。

つまり、彼らにとっては入れ墨をすることが恰好が良く、ファッションの一部にすらなっているのです。とても日本では考えられません。場合によっては、入れ墨を模倣して皮膚にそのまま貼れるステッカーのようなものも売っています。もっとも、この場合には皮膚に張り付けるので、一週間ぐらいしか持たないとされています。

いずれにしても、欧州では入れ墨の愛好者は政治家や国王までにも広がっているくらいです。例えば、デンマク国王フレデリック9世とか英国のチャ-チルも入れ墨をしていたとのことです。とても日本では考えられないことです。また、米国でも警官や軍人でも入れ墨をしている人は珍しくはないのです。


   あるとき、私が公衆プールで水の中から上がってきたとき目の前に若い男性が「武士」という大きな漢字の入れ墨を胸に入れている人にばったり出会いましたが、その瞬間、一瞬、ギョッ、としたくらいです。それも綺麗な漢字で書かれていたからなのです。このように最近の入れ墨には花模様のような古典的なものではなく、欧州では漢字がしばしば使われているのも特徴です。彼らにとっては漢字はひとつのファッションであり、場合によっては自動車の車体の横に大きな漢字が書かれていたりします。

   郊外のプ-ルでは若い女性がいろいろな模様の入れ墨をしていて、特別に奇異には感じないくらいです。とても日本的な感覚からは理解できません。例えば、スイスの温泉プ-ルでの経験では男女を問わず、若者の四割くらいはどこかに刺青が見られます。

   入れ墨はもともと古代の時代にはかなり広く使われていたようですが、現在ではその社会での寛容性については国によって大きな違いがあるようです。でも、そのような入れ墨をした若い人が欧州から日本に来たときには果たして温泉などに問題なく入れるのでしょうか。今後、外国人旅行者がますます増えればそのような刺青をした外国人も当然増えますので、日本政府もそのような刺青客の温泉への入湯拒絶を廃止させる必要があります。、

   似たような感覚にピアスがあり、このビアスは入れ墨よりも若い人たちにもっと拡がっています。中には唇にピアスをしたりしている若い女性も珍しくはありません。とても日本では考えられない現象なのです。でもいずれはこのようなファッションは日本にも取り入れられるでしょう。

   いくら若い人たちのファッションとはいえ、年配の人たちとか地方の人たちにとってはやはり日本ではそのような入れ墨をした人に対して極めて違和感をもたらせることは必然でしよう。

   それと似たような現象に、サングラスがあります。欧州では大人も子供も、そして老若男女を問わず、よい天気の時にはサングラスをかけている人は極めて多いのです。とても日本人には考えられない感覚です。場合によってはレストランでの食事をするときにもサングラスをかけたままで食べている人も居るくらいです。一般的には彼らは黒目でないので、太陽光線に敏感なので、サングラスをかけているのだと理解されていますが、必ずしもそうとは言えないのです。なぜならばイタリア人は黒目の人が多いのですが、それでも彼らはサングラスをやはり汎用しています。いくらイタリアが太陽の国と言っても、日本だって九州に行けばイタリア以上の太陽光が降り注ぎます。

となると、サングラスもやはりある意味ではファッションになっているものと理解できます。もし、日本で色の強いサングラスをかけているとヤクザの仲間かとさえおもわれます。つまり、ある意味ではサングラスもファッションの一部なのかもしれません。あのオノ・ヨ-コさんがサングラスの独特な掛けかたしていますが、あの場合はまさにファッション感覚なのであり、ひときわ他人よりも目立たせる感覚なのです。

   このサングラスに関して私の経験なのですが、私はこのサングラスを全く別な意図から使ったことがあります。それは、私が大昔(?)にイタリアに初めて来た当時は日本人はもの珍しく、したがって町の中でもじろじろと見つめられたことがありました。それが嫌で、試みにサングラスをかけるとそのようなことがなくなったのです。つまり、イタリア人も日本人も髪の毛は真っ黒で、南のイタリア人はわりに小柄なので細目の日本人がサングラスをかけて目の部分を覆うとイタリア人との区別がつきにくくなるのです。ところが、このようなカモフラジュは太陽が出ている間には効果を発揮しますが、夜になるとだめなのです。まさか夜にもサングラスをかけて歩くことはおかしくなりますし、視野が暗くなってサングラスをかけていること自体が苦痛になるからです。あるとき、夜になってもサングラスを掛けていたら「スズキ、もう太陽は出ていないよ」と笑われたものです。

   いずれにしても、日本では入れ墨といい、サングラスといい、両者がネガティブな感覚で捉えられており、いまだに社会にすんなりと受け入れられていないのではないでしょうか。たとえば、最近になって大阪市長が市の職員の中に入れ墨をしていることに関し、そのような職員はやめてほしいとの声明を出していますが、ただそれだけでそのようなことを公言でき、また社会が暗黙の了解を与えていることは人権問題にならないのでしょうか。

、刺青は意外と歴史的な重みがあり、そのような歴史を知らない現代の日本人には刺青、即悪、という短絡指向で判断してしまうようです。その典型例として橋本大阪市長が「いれずみ職員は公務員の資格が無い」となり、配置転換を示唆していました。明治初期に日本はこの刺青を野蛮な習俗として禁止しましたが、当時の欧州の貴族はその反対に刺青は憧れだったのです。

欧州では刺青は深く社会に浸透しています。歴史的にも、デンマク国王のフレデリック九世は上半身に刺青をしており、、その写真が1951年の雑誌「ライフ」に紹介されたことがあります。

確かに、人前でそのような入れ墨が見えるような人に対しては日本では誰もが嫌悪感を持つかもしれません。でも私に言わせるとあれは少しやりすぎです。橋下さんの考えを延長すれば、デブの人間は辞めてほしい、髪の毛を染めている人間は職員を辞めてほしい、などなど、そして最後には部落出身者は職員には採用しない、などなどになりかねないのです。それにしても橋下さんがとんでもない発言を続行するのはどのような心理なのでしょうか。もしかしたら、それらは彼にとっては刺青と同様にファッション感覚での発言なのかもしれません。

もっとも、最近の欧州でのアンケ-ト調査によると若いときにはファッションのつもりで刺青をしても、ある年齢層に達すると刺青をしたことを後悔している人の%は60%位だとのことです。

いずれにしても、欧州では若い人たちの間には刺青をすることがファッション化されており、とても日本では想像できないくらい普及しています。時として若い女性までが刺青をしているのです。今後20年の五輪に向けて欧州からもいれずもをした若い人たちが今以上に多く訪日すると思うのですが、夏場などではそのような入れ墨が否応なしに目に入ります。今から、そのような光景に対して心の準備をしておく必要があるかもしれません。(o^-^o)

追加(2014 Sept)
私の知人の娘さんが友達と一緒に日本に観光旅行したのですが、彼女は腕に刺青をしていたのですが、もう一人の女友達は刺青をしていませんでした。成田空港について税関検査で係官が彼女の刺青を見て、持ち物全部が調べられたとのことです。ところが女友達は刺青をしていなかったので(?)、なにも検査されずにOKでした。これなどは明らかに刺青、イコル悪者、との実感が現実のものになっていることです。これなどはまさに笑えぬ喜劇かもしれません。もし、夏の時期に刺青をしてサングラスをかけた青年が税関に現れたら税関吏はどのような反応を示すのでしょうか。まさに笑えぬ悲劇になりそうです。

追加(2014 Nov)

東京のヒルトンホテルのエグゼキュテブラウンジの利用案内書にこのラウンジを使用する場合、刺青のある人はその部分を隠した状態でお願いしますとの注意書きがあるのです。これなども典型的な日本人の刺青に対する理解を表面化しているものです。こんなことを海外からの若い客にお願いしたら大きな社会問題になりかねません。ともかく海外の若い人の30%くらいがどこかに刺青をしているのです。

追加(2015 Feb)
最近読んだのですが、日本では入れ墨をする行為は「医療行為」に該当するとのことでそのような資格のない人が摘発されたとのことです。そうなると入れ墨をしたい人は皮膚科に行くのでしょうか。まさに驚きです。ではいったいどの医者が刺青をしてくれるのでしょうか。このことは間接的に日本では刺青することは不可能なのかもしれません。
最近の報道によると刺青の彫り師が医師法違反で略式起訴され、それに反論する目的で正式裁判を申し立てたとのことですが、刺青行為が医業であるとは全くの驚きです。では一体どの医師が刺青をしてくれるのでしょうか。そのような医師は日本中に一人もいない筈です。もしこの起訴が認められれば、日本では刺青行為が禁止されることになることを間接に裏付けることになるのです。つまり医師以外の人は刺青行為をできなくなるからです。しかしここで不思議なのはなぜかこの件に関して日本医師会が何らの声明を出していないことなのです。もし、医師会が刺青行為は医療行為には該当しないと公式に言明すればこの問題は解決するのです。やはり刺青は日本ではタブ-なのでしょうか。海外では刺青はファッション感覚で気楽になされているのです。来たるべき東京オリンピックには刺青をした若者が大挙して来日したらどのような反応を空港の税関吏はするのでしょうか。

追加 (2015 Feb)
大阪市による入れ墨の有無などを尋ねた調査に回答を拒否し、戒告の懲戒処分とされた元職員が処分取り消しなどを求めた訴訟の判決が16日、大阪地裁であり、 中垣内健治裁判長は「差別につながる情報の収集を禁じた市個人情報保護条例に反して違法」と述べ、処分を取り消した、と報道されていました。でも、刺青が有るかないかの情報が個人情報保護条例に反して違法とはこれまた驚きです。刺青の有無が個人情報保護法の対象になるとは。そうなると黒子があるかないかとか、手術の痕があるかないかなども個人情報の範囲内になるようです。いずれにしても日本ではこの個人情報保護法の解釈が極端に拡大、誤解、曲解されているのです。

追加(2015 April)
最近の新聞にはこの刺青に使われるいろいろな色素の製造元があやふやで毒性のある色素も使われているようです。

追加(20015 July)
最近の報道によると一部の温泉施設では入れ墨のある人は入れ墨の部分をシ-ルを貼って隠して利用してくださいとか。しかし、背中に大きな入れ墨がある場合にはどうするのでしょうか。まさに笑い話的な措置なのですが、もしこのようなことが海外に報道されたらそれこそ笑いものになり、ジョクに取り上げられることになるかも。そうなると、もし黒人が温泉施設に入ろうとしたら、よく身体を洗って黒い汚れを取ってからお入りください、とでもなるのでしょうか。もうここまで推測すると日本は未だに江戸時代の状況にあるのかもしれません。当時はオランダ人に連れられてきた黒人をはじめて見た江戸の市民が黒人の肌をこすって本当に汚れで黒いのかどうかを確かめたとか。

追加(2016 Aug)
最近に起こった障碍者施設(「相模原障碍者施設」津久井やまゆり園)での殺人事件での報道に、この加害者の過去の経過があり、最初に上げられていたのが、この加害者が刺青をしたことに対して、この施設から警察に相談があったとのこと。つまり、刺青をしたことに対する危機感のようなものがあったのです。つまり、普通の人間が刺青をすることが悪い世界に入ったのではないかとの心理が働いていたのです。

追加(2016 Aug)
もっとも最近の新聞の投書に「中学生アスリ-トが入れ墨とは」との投書があり、その中に「混雑した海水浴場で、入れ墨を入れた人の周りだけ人口密度が低いのを目にする」との記載がありましたが、本当なのでしょうか。それこそ入れ墨、即ヤクザとの端的な理解があるのでしょうか。、

追加(2016 Nov)
大阪府が行った入れ墨の有無を確認する調査を拒否し、懲戒処分を受けた職員2人が処分の取り消しを求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(小貫芳信裁判長)は9日付の決定で職員側の上告を退けた。取り消しを認めない二審判決が確定した。
 大阪市は2012年、市職員の入れ墨が社会問題化しているとして、全職員を対象に調査を実施。拒否した2人は職務命令違反で戒告とされ、「プライバシーの侵害で憲法に違反する」として提訴した。

 この裁判では「プライバシーの侵害」であり、入れ墨そのものへの判決ではないが、そのような背景があり、裁判にまで持ち込むこと自体が時代遅れ。
本当に来るべき東京オリンピックでは一体どのように海外の刺青をした若者を対処するのだろうか。まさか入国拒否をするのではないだろうか。

追記(2018 Oct)

医師免許がないのに客にタトゥー(入れ墨)を入れたとして医師法違反罪に問われた彫師、増田太輝(たいき)被告(30)の控訴審判決公判が14日、大阪高裁で開かれた。西田真基(まさき)裁判長は「入れ墨を施す行為は医療行為に当たらず、医師法で禁じることは適当ではない」と判断。同法違反罪の成立を認めて罰金15万円とした1審大阪地裁判決を破棄し、無罪を言い渡した。

 西田裁判長は判決理由で、入れ墨は「皮膚に色素を注入するもので、さまざまな皮膚障害を引き起こす危険性がある」としながらも、「医師でなくてもある程度の安全性の確保は可能だ」と述べた。


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