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2011年7月の記事

2011年7月30日 (土)

日本語は難しい(2) 「真摯に」

日本語は難しい(2) 「真摯に」

日本語は時と場合によっては人を馬鹿にしたような表現があります。ことに政治家の発言には私たちが日常では殆ど使わない、いゃ、使えないような表現が最近の新聞には頻発しています。私が学生の頃には全く聞いたことも無いような表現が、最近になって表面に出てきたような印象があります。

「真摯に反省し・・・」
横浜市立大は七月二十九日、学生を土下座させ、頭を足で踏んだなどとして、医学部の男性教授(51)を停職3か月の懲戒処分にした。 発表によると、教授は2月22日、学期末試験開始前の会場で、医学科2年(当時)の男子学生(20)に「ストーカー」「犯罪者」などと暴言を吐いた。身に覚えがなかった学生が理由を聞こうと、試験終了後に教授室を訪れたところ、教授は学生に土下座させ、頭を足で踏み、翌日までに頭髪を刈り、反省文を提出するよう求めたとされる。 教授は市大を通じて、「私の行為は、教育に携わる者が決して行ってはならない許されざるもので、真摯(しんし)に反省し、心よりおわびする」とのコメントを出した。市大人事課は「教授の誤解による行動で、ハラスメントを超えた暴力行為」としている。

 ここで使われている真摯という表現は日常会話には殆ど使いませんし、昔はあまり聞いたことも見たこともなかったと思うのです。これなども重く受け止める、と同じような表現で、「どうも済みませんでした。お父さんの言われる通りで、私が間違っていました。これからはお父さんの忠告を真摯に守ります」などと言ったら大変なことになるとおもうのですが・・・・皆さん、いちどこのような表現を家庭内とか会社内で試みてはどうでしょうか。


そのほかにも似たような表現として「重く受け止めている」があります。
この表現も最近の政治家はよく使います。もしあなたの子どもが悪さをしてお父さんが小言を言ったときにあなたの息子が「お父さんの言っていることを重く受け止めてこれから注意します」なんて返事したらお父さんはもっと逆上するかもしれませんね。

2011年7月27日 (水)

行政が行う通知の周知度の掌握(**)

行政が行う通知の周知度の掌握

  今回の原発事故の影響としての牛肉汚染が問題となっています。報道による ,国は原発事故後の三月十九日に関係都道府県に対して家畜には事故以前の餌を与えるようにとの通知を出していたが、実際には最終段階での各農家にはそのような通知の周知の徹底が満足するような状態ではなかった。通例はこのような通知は農林水産省から県に連絡し、その後は県が関係団体などを介して実際の各農家に通知されることになっているが、現実には各農家にまでそのような通知が届いているかどうかを確認する制度、慣例は存在しない。

これはどのような行政通知でも同じことで、この種の通知にはもしそれに応じないときにも一定の法的効果が発生しないからである。行政当局から出されるものに局長通知、課長通知、事務連絡があるがいずれも行政指導であり、罰則はない。なお、「通知」と似たような「通達」と言うものも存在するが、両者の違いは通達は事務次官以上の官僚からのものであり、「通知」は局長以下の官僚からのものとなっている。「通達」は行政機関が法令の解釈について下級機関に知らせるもので法規性はないが、基本的には行政機関は通達に従って行動することが求められている。

今回の牛肉汚染に関連した家畜への餌についてのの通知の末端での不徹底は別に新しいことではなく、殆どの行政通知に共通しているのである。しかし、通知を出す行政側は通知を出せばすべての責任は各都道府県に移ってしまうので、農林水産省関係者のように「今回のような事態は極めて稀である」との安易なスタンスをとっているのが普通である。それにしても、その影響が日本の牛肉全体にまで影響を及ぼす可能性があるにも係らず、農林水産省当局はあまりたいしたことではありませんよ、と言っているのと同じではないですか。

したがって、この機会に行政通知の周知徹底策、方法を講じなければ、今回の牛肉汚染のことも今後の何らの教訓にもならないのです。なにもこのことは特別目新しいことではなく、厚労省からの通知に関しても似たような通知内容の不徹底はゴマンと知られている。

  なお、これらの通知、通達などが実際に効果をもたらすのは関連の部署に確実に届いた時点でその通知、通達が伝達されたことになり、もし途中で消えてしまえば、それらは無かったものと同じになるのです。たとえば、医薬品の添付文書改定が日薬連から各医療機関に届いた時点で改定の意義が達成するので、もしそれ以前になにか問題が発生してもその改定は効果が無いことになるのです。

一つの解決策として、これら通知、通達の伝達状況をそれぞれの発信団体、受信団体にその記録を残す制度を導入することである。もし、このような記録が残っていていつでも誰もがそれらの情報記録にアクセスすることができるようになっていれば、常にだれかに監視されているストレスも加わってより一層の周知徹底がなされるのではないだろうか。

なお、この内容の記事は朝日新聞の声欄(2011/07/26)に載っている。


追加 (2011/08/06)
  この記事には今回の福島の原発関連の通知を取り上げましたが、現実にはその通知の徹底は不可能だったことを認識すべきかもしれません。つまり、私も現地の事情を全く認識していないため理想的な発想でこのような記事を書きましたが、津波発生後の地方行政、組織の壊滅を勘案したらとてもそのような通知の末端への伝達は不可能であったと認識すべきだったのです。

さらにその後分かったことなのですが、現地の農家の人たちは刈り取った稲わらはそのまま翌年まで田んぼにおいているのが普通で、屋内に貯蔵してはいないとのこと。これではいくら通知を出してもすでに放射能に汚染されていたことになります。このような現状は官庁のお役人には全く分からないのは当然です。

追加 (2012/11/15)
行政からの通知の末端までへの周知はきわめて困難な場合が多いのです。特にその通知の内容によってはまったく無視されてしまうことがあります。つまり、行政からの通知はなんらの罰則もないので、何らかの問題が起きない限り引き出しの中に埋もれてしまう可能性が大なのです。
 このブログに患者からの医薬品副作用の報告についての記事がありますが、行政が出した通知がまったくどこかに消えてしまって誰も知らない極端な例かも知れません。

追加(2014/8/5)
最近のノバルテイス社の副作用報告漏れの事態に対して厚労省は製薬協、など八業界団体に安全管理業務が適切に行われるよう加盟会社に対してへの周知、ならびに都道府県にも「通知」を出したことが報じられていました。これはまさに典型的な行政概念であり、行政にとって見れば「通知」を出せばそれで責任は逃れることが出来、もし将来に似たような不祥事が起こったとしても、そのときには通知を受け取った相手の責任になるわけです。ここでも、通知は出しても行政はそのフォロアップはまったく関心が無く、やる気も無いのです。このようにたんなる通知を出すということがいかに不適切であるかということは誰も認識していないのです。せめて、行政はそれぞれの通知を出したときには、その周知徹底状況、さらにはその成果を報告させる制度を設けるべきなのですが、そんな余計な仕事は官僚の仕事ではないのかもしれません。

追加(2016 Sept)
最近の保育園児の死亡関連記事で、重大事故が保育園で起きた場合には検証を促す報告書を2015年にまとめを、国から自治体に通知したが、このような国の通知には法的拘束力がなく、認可外保育施設には事故の報告義務もないのです。この場合も、国は報告書を書きなさいと言っているが、これは只の通知だけであって実際には無視ないし、軽視されているのです。更に悪いことは保育時の死亡という重大な事故も、その保育園が認可されて以下同課で報告たいしょうにならないというまことに行政的な考えであり、保育園内の死亡そのものは二の次、三の次なのです。


2011年7月24日 (日)

レギュラトリーサイエンスとファ-マコビジランス(*)

レギュラトリーサイエンスとファーマコビジランス

最近、レギュラトリーサイエンスという表現を目にすることが多くなりました。この表現から私は初めはなにか規制当局のための方法論的なものかと思っていたのですが、レギュラトリーサイエンス学会ができたり、かなり急速に浸透しつつあるようです。そこで改めて考察してみると、FDAが定義しているのは
  Regulatory science is the science of developing new tool, standards and approaches to assess the safety, efficacy, quality and performance of all FDA-regulated products.
とあるのです。これはまさに私が提唱しているファルマコビジランスの新しい概念そのものではないですか。つまり、すべての医薬品の有効性、安全性、有用性を総合的に収集し、医療社会に貢献し、最終的には患者個人の医療に貢献出来るものを念頭に置いていると理解できるからです。
  
しかし、現実の姿は、たとえばこの学会の活動内容をみても医薬品許認可行政のためのサイエンスであり、科学的および合理的な医薬品開発のロードマップ、それにともなう諸問題の解決などを目的としていることが判ります。やはり、ここで使われている言葉regulatoryが大きな役割をしていることが判り、ファルマコビジランスが最終的には薬剤医療の最適化、患者指向の情報収集、提供とは根本的に異なっていることがわかります。

しかし、the science of developing new tool, standards and approaches to assess the safety, efficacy, quality and performance of all FDA-regulated productsという表現からはどちらかというとファルマコビジランスの概念にきわめて近いのはなぜなのでしょうか。もっとも、よく考えてみれば最終目的は同じではあるが、レギュラトリサイエンスの立場は医薬品の認可をするという上からの立場であり、その反対にファルマコビジランスは患者を念頭に置いた下からの視点であると考えると、どちらも全く同じ方向に向かっていることになります。

  もっとも、ファルマコビジランスを従来の市販後調査という概念と同じと殆どのひとが理解している限りにおいては上記のような行政当局からの視点にたったサイエンスとは大義名分が大きく異なったものになっているのできわめてこの表現は新鮮に映るのかもしれませんす。いすせれにしても、ファルマコビジランスを「医薬品安全性監視」と訳して理解されている限りこのFDAの概念は新鮮に映るのかもしれません。

なお、私はPharmacovigilanceをファルマコビジランスというカタカナ表記で押し通そうとしていたのですが、残念ながら日本ではファーマコと長音で表記されることが圧倒的であり、単音的にカタカナ表記すると検索に引っかからなくなるので、タイトルには長音表記を使いました。その間の事情は詳しくは拙著を参照してください。(薬事日報社刊「医療の個別化に向けたファルマコビジランスの理論と実際」)

なお、レギュラトリ・サイエンス発展の流れを見ますと以下のようになります。

この概念はアメリカで1985年にInstitute for Regulatory Science(www.nars.org/-)が設立されて以来、注目されるようになり、このようなアメリカの動きに応じるように日本でも1987年に当時の国立衛試の組合支部ニュースにレギュラトリー・サイエンスの概念が紹介されたのが始まりとされている。しかし、この時点では特別に医薬品を念頭に置いたものではなく、一般概念として私たちの身の回りにある物質などを念頭に置いたものであった。ちなみに内山が衛試の組合支部ニュスに書いていた文の中にも特別に医薬品のみを念頭置いていたわけではない。そこには「われわれの身の周りの物質や現象について、その成因や機構、量的と質的な実態、及び有効性や有害性の影響を、より的確に知るための方法を編み出す科学であり、次いでその成果を用いてそれぞれを予測し、行政を通じて国民の健康に資する科学である」と定義しており、医薬品そのものだけを念頭に置いた考えではなく、アメリカのInstitute for Regulatory Scienceの概念と全く同じである。彼はこのニュスの冒頭に「この言葉は聞き慣れない言葉であり、国際的にも認知されているわけでもあるまいという意許がないでもない」と表現している。ここでわざわざ「意許」という造語を使っているのも微妙な心理である。
なお、この表現に関連した論文「レギュラトリ-サイエンス・ウォズ、概念の混乱と科学論者の瞑想」を参考にされるとよりよく理解できます。(臨床評価 38/1/177, 2010)


その後、2010年4月にFDAが中心となって他の政府機関と共同で医薬品を念頭に置いたレギュラトリ・サイエンス・イニシアティブ(www.fda.gov › ... › Advancing Regulatory Science -)が設定されるようになった。その後、このFDAの動きに刺激され、日本でもレギュラトリー・サイエンス学会が2010年8月に設立され、かなり急速にその概念は浸透しつつある。


追記(2011 Sept. 10)
最近開催されたレギュラトリサイエンス学会で厚労省の人が市販後調査にICH/E2Eのリスク・マネジメントプランの導入の必要性を述べていましたが、これはまさに行政の立場からの考えであり、将来は行政が規制して企業がそれに従うという典型的なパタ-ンになります。

2011年7月 7日 (木)

日本語は難しい(1) 「結果として…」

日本語は難しい 「結果として…」

松本復興相が語った「結果として被災者を傷つけたとしたら申し訳ない」という表現はある意味では人をばかにした表現とも受け止められるのです。それは「・・・結果として・・」の語句がこの文章の重要なポイントだからです。もしかするとそのような結果にはならなかった(つまり、傷つけなかった)かもしれず、そのような時には問題がないと考え、当然の表現と考えています、との意味が隠されているのです。したがって、この発言をした人は本来「申し訳ない」とはまったく考えていないのですが、もし第三者が傷つけられたと受け留めたのなら、致しかたがなく訂正し、謝ります、との心理があるのです。つまり、ここで言っている「申し訳ない」表現は自分本意ではなく、他人次第では「申し訳ない」と訂正することは出来るが、基本的にはそのようには考えていませんよ、との心理があるからです。

このような表現をいろいろな場合に用いてみよう。
「結果としてその人を殺したとしたら申し訳ありません」
「結果として君をだましたとしたら申し訳ありません」
「結果としてカンニングをしたとしたら申し訳ありません」
「結果として私が盗んだとしたら申し訳ありません」
  このような表現はいずれも第三者が解釈すればきわめて自己本位の無責任な表現と受け止められても致し方ないでしょう。

読者のみなさんにある人が「あんたは馬鹿だと思うのですが、結果としてあんたの気に障ったのなら申し訳ありません」と言ったらあなたはどのような反応を示しますか。
 
 しかし、最近の政治家の放言には必ずこの「…結果として・・・」が頻繁に使われているのは、まことに嘆かわしいものです。


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