« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月の記事

2011年6月29日 (水)

ペットボトル飲料水、ジュースなどの毒性 (*****) 

あなたはペットボトル飲料水、ジュースなどを飲んでいますか  
皆さんはペットボトル入りの飲料水やジュースを飲んでいますか。最近ではペットボトル入りのワインまで売り出されているくらいです。しかし、このペットボトルにはそこに使われているプラスチックの可塑剤として ビスフェノールA(BPA)という化学物質が使われているのですが、この化学物質には長期的、年単位、に使用を続けるといろいろな病気を誘発する可能性があるのです。
最近の実験ではペットボトルの可塑剤として使われているbisphenol Aの毒性として、子どもの時からこのビスフェノールA(BPA)に暴露されていると成人になってから男性の性行動に影響を与える可能性があることが報告されています。つまり、シカネズミ(deer mouse)を使った実験では雄は雄らしさを失い、交尾相手を探すのに必要な空間ナビゲーション能力が劣ることを示していました。
Disruption of adult expression of sexually selected traits by developmental exposure to bisphenol A. PNAS June 27, 2011
 勿論これは動物実験で、はたして人の場合に演繹することが出来るとの判断は早急かも知れませんが、このBPAの毒性は意外と無視されているようです。それはペットボトルの使いやすさにあるからです。なにしろ私たちの日常生活にはこのペットボトルが溢れており、またその逆にペットボトル無しの日常生活は考えられないのです。つまり、あまりにの便利さに注意が向けられ、そのメガ慢性毒性の影響は表面に出てこないのです。ちょうど携帯と脳腫瘍との関連性に相似ているのかもしれません。しかし、上記の動物実験結果を人に当てはめた時、現代の男性の男らしさの消失は案外と説明が可能かも知れません。日本では男性が草食系化しているのも案外このBPAで説明がっ可能かもしれません。
もっとも、似たような研究でもBisphenol A — or BPA —はtestosterone levelsを低下することが知られています。
Environ Sci Technol. 2010 Feb 15;44(4):1458-63. doi: 10.1021/es9028292.
Urinary bisphenol A concentrations in relation to serum thyroid and reproductive hormone levels in men from an infertility clinic.
Meeker JD1, Calafat AM, Hauser R.
いずれにしても、このペットボトルからのBPAの毒性については前から指摘されていたことで別に目新しいことではないのですが、その毒性に関して上記のような補足データが発表されるようになったことは今後いろいろな関連データが発表されるようになるかも知れません。もっとも、このことに関して、アメリカのNIH, National Toxicology Program、(2008 April 27)の報告では、BPAの毒性として胎児、子どもなどに影響を与える可能性、また乳がん、前立腺がん、注意欠陥・多動性障害(Attention-Deficit・Hyperactivity Disorder )、その他の疾患の発生に関与するかも知れないとの見解をしぶしぶながら既に公表していることは意外と知られていないようです。なお、このような懸念はアメリカのFDAもようやく2010年 1月 15日に発表しているのです。
   確かに、普通のペットボトルからのBPAの溶出量は極めてメガ微量であり、「許容量以下のレベル」とされています。しかし、この許容量の概念は絶対的ではなく、あくまでも相対的な数字であることを理解すべきです。しかも、人におけるそのメガ慢性毒性については全くデータがないことが問題なのです。ちょうど、現在の福島原発事故に起因する放射能の許容範囲の設定の変動、そして今後10年後、20年後の影響と極めて似ているのです。つまり、放射能の影響は今後10年、いや 20年後、いゃもっと後になって現在の許容範囲の影響が出ることがまったく不明なのと同じ状態なのです。
つまり、たとえ許容量以下の微量であっても、その使用が年単位、たとえば十年、二十年も毎日ペットボトル水を飲んでいた場合の毒性の蓄積に関するデ-タはないのです。とくに猛暑の中で常にペットボトルを持ち歩いているときにはペットボトルの中の水温が40度近くにまで上昇する可能性があります。そうなると当然いろいろな物質がペットボトルから溶出する可能性が大きくなります。
   いずれにしても、BPAの毒性についてはいろいろと情報が交差していますが、まあ、若い人、とくに子供にはペットボトル入りの飲料水はできるだけ使わないようにすべきなのですが、現実は全くその逆で若い人ほどペットボトル入りの飲料水をがぶ飲みしているのです。現在、このぺっとボトル入りの飲み物に関しては[ペットボトル症候群」という中での糖分の影響が論じられていますが、これはある意味ではペットボトル入り飲料の亜急性毒性に該当するのかも知れません。
ちなみにオーストラリアのある町ではペットボトル入りの飲料水の販売が禁止されていますが、これは環境上の問題からで、BPAの問題には全く触れていないのですが、長期的に見たら毒性問題の先見性があったものと後になって解釈される可能性があるかも知れません。これから夏にかけて炎天下ではペットボトル飲料も温度が上がり、その結果、BPAが溶け出す量は当然増加します。ある研究によりますとペットボトルを熱湯ですすいだ場合、BPAの濃度が55倍になるとのことです。ということはペットボトル入りの温かいお茶などは使わない方が良いかも知れません。とくに日本のように自動販売機がどこにでもあり、しかも常に暖かい飲み物が手に入る国ではBPAがペットボトルに溶け出す量は急激に上昇するので、そのような暖かいペットボトル入りの飲料を頻繁に飲んでいる男性は草食化しやすいのかも知れません。ましてや、ペットボトル入りのワインなどはあまり頂けません。
スーパーなどでペットボトル入りのミネラルウォターを重たそうにして買って帰る人を見ると、私にはああここにも将来のがん患者候補がいるな、とつい考えてしまいます。でも、これは私の考えすぎかもしれませんが・・・。私は飲料水や既成のジュース飲料などは瓶入りのものしか飲みません。
それにしても最近はペットボトル入りのワインが発売されているとか。このようなアルコ-ル飲料にペットボトルを使うのは考えものだと思うのです。アルコ-ルがBPAの溶出にどのような影響があるのかの試験をする必要があるのではないでしょうか。
なお、ペットボトルの再生は最終的には繊維としての役割もあるようで、最近の世界的な綿生産が減少しているためそれを補充するためにペットボトルが高値を呼んで、たとえばスイスから大量のペットボトルが盗まれて中国に輸出されているとのことです。たとえば一トンのペットボトルが五万円で取引されているとのことです。
でもそのような繊維から作られた衣類などの安全性はどうなるのでしょうか。話は少しずれますが、トイレットぺ-パ-はいろいろな紙のリサイクリングで作られているので場合によっては細菌が混入している場合もあるとのことですので、文字通り細菌学的には清潔な紙でない場合もあるようです。ですから、トイレの紙で眼などは拭かないほうがよいのです。
追記 (2012/3/31)
最近アメリカでこのBPAについての使用禁止の提案に対しFDAが現時点ではその使用を禁止するに十分なデ-タがないとの理由から、使用禁止の請願を却下したことが報じられています。しかし、それは現時点でのデ-タ不足というのがおもなる理由なのです。確かに現時点ではそのような理由は見つからないのですが、ことBPAの毒性に関しては超メガ長期毒性のデタが無いだけなのです。
http://click.jwatch.org/cts/click?q=227%3B67660643%3BjOpegVjHIBSODfbfJ%2B1MghyjqLs%2BXqxWYGdnIsqZa9M%3D
このように考えるとやはり幼児や子供にはペットボトル入りの飲み物は与えないほうがよいかもしれませんが・・・・。
追記(2014 Jan)
最近になって以下のような動物実験デタが発表されています。勿論、これは動物実験デタなのでただちに人の場合に演繹することには無理がありますが、ある意味ではかなり示唆に富んだ実験なのです。つまり、簡単に言うとペットボトルの使用が前立腺ガンを引き起こすかもしれないということです。
Prins GS, et al "Bisphenol A promotes human prostate stem-progenitor cell self-renewal and increases in vivo carcinogenesis in human prostate epithelium" Endocrinology 2014; DOI: 10.1210/en.2013-1955.
この論文に対してアメリカのペットボトル製造関係機関のコメントは例のごとく、これは動物実験デタであり、そこに使われているBPAの用量は人の場合の用量とは比較できないほどの多量などとのコメントが付けられていましたが、今までのいろいろな動物実験デタと人への演繹への可能性を考察した時、この実験デタはかなり意義のあるものになるのかもしれません。いずれにしてもこのようなデタに対する反論の一つにそこで使われている用量が取り上げられていますが、しかし、この種の反論で常にな欠けているのはメガ長期使用期間なのです。例えごく微量でも年単位での使用の場合の結果は誰も分からないのです。
追記(2014 Feb)
その後の研究によるとBPAは前立腺がんを引き起こす可能性が有るとのことです。
BPA Increases Risk of Cancer in Human Prostate Tissue
Published: January 7, 2014. By University of Illinois at Chicago
http://www.uic.edu
つまり、BPAに関しては前立腺に対して悪い影響を与えることはほぼ確実であり、問題はそのようなペットボトル入りの飲料を毎日飲んでいることが大きな問題なのです。しかし、現実には今ほどペットボトルがまん延しているような状況下ではその禁止はかなり困難になりますが、問題はそのような意識を各個人が持つことが大切なのです。
そこで考えたのですが、前立腺がんが見つかった六十才以上の男性を対象にして今までにどのくらいの頻度でペットボトル入りの飲料を飲んでいたかの疫学調査をしてみると意外な結果が得られるかもしれません。
追記(2014 March)
最近の報告ではプラスチック容器から溶出する phthalates and Bisphenol A (BPA)の体内濃度の高い男性の場合には妻が妊娠する可能性がかなり低下するとのことです。つまり、いろいろなペットボトル飲料を飲んでいる夫妻の場合には子供がなかなかできにくいということです。いずれにしても悪いことだらけです。したがって、若い男性がもっぱらペットボトル飲料水を毎日飲んでいて、そのご結婚してもなかなか子供ができにくいことです。
Immediate Release: Wednesday, March 5, 2014
High plasticizer levels in males linked to delayed pregnancy for female partners
NIH study
追記(2016 March)
最近、別途ボトルの毒性に関しての解説が載っていました。
http://a.msn.com/01/ja-jp/BBrlFUu?ocid=se
しかし、ここではBisphenol A (BPA)の毒性に触れていませんし、またメガ長期使用時の毒性に関しては「1本(500ml)の飲み物に溶け出しているエチレングリコールの量は、約0.000036gと計算されます。これも、影響がないと考えられる値よりもかなり小さいことになります。以上のことから、飲み物のペットボトルの人体への影響はほとんどないといえるでしょう。」と簡単に考えているのです。
その他にもペットボトルの毒性として、
PETのフィルムについて、95度の熱湯で4時間溶出試験を行ったところ、テレフタル酸が0.014ppm(ppmは100万分の1を表す濃度の単位、1ppm=0.0001%)、エチレングリコールが0.016ppm検出されました。テレフタル酸ジメチルは、ND(検出限界以下)でした。また、ポリエチレンテレフタレートのシートについて、同様の溶出試験を行ったところ、テレフタル酸が0.037ppm、エチレングリコールが0.072ppm検出されました。テレフタル酸ジメチルはNDでした。これらのデータも『食品用プラスチック衛生学』に掲載されています。
 この実験結果をどうとらえればよいのでしょうか。テレフタル酸1%を含むえさをラットに2年間食べさせた実験では、異常は認められていません。同様に2%を含むえさを食べさせた実験ではオスの成長が悪くなり、5%を含むえさではオスとメスの成長が悪くなり、死亡率も高くなりました。しかし、腫瘍形成などの徴候はありませんと報告されています。
ただ、この実験では腫瘍への影響しか見ておらず。またその期間2年間だけでした。そしてBPAの毒性には全く触れていないのです。
追記(March 2018)
最近のアメリカでなされた研究報告(State University of New York)では、プラスチック・ボトルの中に入っている液体の中には0.1 mmのごく微小なプラスチック片が平均では一リットル中に10.4片が存在することが報告されています。これは平均値ですので、この調査結果ではそのようなプラスチック片(polypropylen, nylon, polyethylenterephthalat)が検査対象のプラスチックボトルの中に0 - 10 000片が検出されていたとの報告です。
調査対象としたペットボトルはアメリカの物、他の国からの輸入品など計250本のペットボトルを検査した結果なのです。このようなプラスチック片がどのような健康に影響があるのかは決定的なエビデンスはないのですが、がん発生要因、ADHS (Attention Deficit/Hyperactivity Disorder 注意欠陥・多動性障害 )要因などになっている可能性が高いとのことです。
このようなごく微小のプラスチック片を長年にわたり飲み込んでいるとすると十年後、二十年後の影響はかなりおおきなものになる可能性があるのですが、そのような調査研究は多くの研究者にとってはあまり興味のあるテマにはならないのです。換言すると、従来の毒性学の研究では短期間での容量依存性の毒性結果しか知られておらず、極めて長期間にわたる摂取に関する毒性学的研究は殆ど皆無なのです。
追記(May 2018)
最近の報道によると「ちびだら飲み、コ-ヒ-にに新風」との記事があり、小型のペットボトル入りの飲料水の販売が始まったとのことですが、サントリのデタではここ一年間で三億六千万本売れたとか。このような傾向は今後もますますいろいろな飲み物に発展するのでしょうが、その結果として長期にわたるメガ微量のBPAに体が暴露されることになるのですが、その影響は三十年後、四十年後にならないとわからないのです。、

2011年6月28日 (火)

身分証明書携帯義務なぜ出来ぬ(**) 住所不定って何の意味

身分証明書携帯義務なぜ出来ぬ

 

  東電の作業員被ばく量調査にさいして69人の作業員の身元が不明と報道されています。また、今回の東日本大震災の被災死亡者の身元確認にかなりの時間、労力がかけられてある場合も報道されています。その後の報道では、東電が福島第一原子力発電所の放射線管理区域に入る時に使われる作業員証に顔写真を入れることにしたとのことですが、まさに日本ならわでの能天気な対応を物語っています。

 

このような記事を読むときにいつも思うのは、なぜ日本ではカード型の顔写真付き身分証明書が全員に発行されていないのかということです。現在の日本では国民全員が写真付きの身分証明書を持っていません。本来身分証明書には顔写真があって初めて通用するものなのですが、日本では健康保険証でも身分証明書として通用するというまことに摩訶不思議な法冶国家です。そのような健康保健証は病気の時しか使いませんので、誰もが常時携帯している訳ではありません。若い人でしたら車の免許書はそれに代わるものかも知れませんが、自動車を運転しない人はそのような顔写真付ききの証明書はもっている訳がありません。ある新聞の投書欄に、青年が古い自転車を使っていると時々警官から盗難車と疑われ、そのためかならず健康保険証を携帯し、警官に身分を証明できるから、との説明が載っていました。それで警官がそのような顔写真の無い証明書で納得するから日本はまさに天国です。

 

まあ、ある意味では日本はまさに事故も犯罪もきわめてその発生が少なく、したがって、安全な国であるわけです。

 

  世界先進国の中でそのような身分証明書が発行され、その携帯が義務付けられていないのは日本だけなのです。欧州の一部の国では身分証明書の携帯と同時に一定額の現金を所持しなければならないところもあるくらいです。ともかく、日本では路上で警官の尋問にあっても身分を証明するものがなくとも、口頭で住所を云えばそれで済んでしまいます。

 

まあ、考えてみたら日本ほど身分証明に無関心な国はほかにはありません。なにしろ、銀行の窓口でお金を引き出すときも、一旦、通帳を窓口に出して、しばらく待たされ、そして改めて「鈴木さん・・・」と呼ばれ、「はい・・」と窓口に戻っても身分証明書の提示などは全く不要です。まぁ、あれでよく間違いなく本人にお金が渡されるのかと本当に感心してしまいます。もっとも、このような光景は日常茶判事になっているので誰も不思議には思えないのかも知れません。だって、もし銀行の窓口前に大勢の人が待っていたら、その中には同姓の人がいる可能性は高くなるのです。

 

 

しかし、今回のような事態になったときには身分証明書が携帯されていれば被災死亡者の確認困難とか身元不明の作業員の採用などが起こるわけがないのですが、これも「想定外」に該当するのかもしれません。ともかく、こんな簡単なことがなぜ実行されないのでしょうか。もっとも、島国日本に住んでいる限りにおいてはそのような顔写真付きの身分証明書の携帯義務は必要ないのかも知れません。それにしても、日本に滞在している外国人の場合には身分顔写真付きの証明書の携帯が義務付けられているのは人種(?)差別に近いのですが、当然ながらそれに該当しない日本人は知らぬ顔です。

 

もっとも、最近は入管法が改正され、在日韓国・朝鮮人ら特別永住者証明書の常時携帯義務がはずされているとのことですが、それにしてもある意味ではこれも人種差別待遇になるのではないでしょうか。

 

追記
  ちなみに過去の新聞に載った記事 からの顔写真付き身分証明書常時携帯の必要性

 

   大阪市選管は同市西淀川区内の投票所で、父親(47)と一緒に来ていた女児(11)が、比例選と最高裁裁判官の国民審査の投票を行った、と発表した。担当者が誤って投票用紙を渡したためで、女児は「用紙を渡されたので投票した」と話しているという。結果的には他の投票用紙と区別できず、有効票として扱われている。市選管によると、同日午後2時頃、父親が小選挙区の投票を終え、比例選と国民審査の投票用紙をそれぞれの担当者から受け取る際、いずれの担当者も、後を歩いていた女児にも用紙を渡してしまった。担当者の1人は女児と顔見知りだったが、「大柄だったので有権者だと思った。顔は確認していなかった」と話しているという。(2009年8月30日20時37分 読売新聞)

 

最近の新聞によると、福島原発の放射線管理区域に入るときの作業員証に顔写真を入れることを明らかにしたとのことです。その結果、他人へのなり済まし、本人の被爆線量の管理、不審者の侵入を防ぎテロ対策にもつながると、なっています。(朝日新聞 2011/7/26) それにしても今頃になってそのような顔写真入りの作業員証を発行するとはまさに日本はテロ対策ゼロの能天気な国であるのです。でも、このようなことが記事になることは他の原発地域ではどうなっているのでしょうか。おそらく顔写真のある身分証明書は「想定外」なのかも知れません。

 

追加(2012 Aug)
最近の報道によると高齢者の運転免許返納が急増しており、その背景にはその返納の際に運転経歴証明書が交付されその経歴証明書が、今年4月から生涯使えるようになり、写真付きの公的な身分証明書として使えるためとされている。このことは日本ではいまだに写真付きの公的な身分証明書発行制度がなく、そのの携帯義務もまったくないという先進国としては極端なまでの例外な国であることの裏付けにもなるのです。海外では写真付きの身分証明書の常時携帯は常識なのです。しかるに日本ではいまだそのような制度、発想は全くなく、顔写真付きの身分証明書は全国民には行き渡っていないのです。今回のような報道は如何にそのような証明書の必要性があるかを切実に物語っています。でも、運転免許証のない人はどうしたら良いのでしょうか。行政の一考を望みます。もっとも、逆の見方をすれば、そのような身分証明書の常時携帯の必要性がないことは如何に日本は安全な国であることの証明になるかもしれません。なにしろ場合によっては顔写真のない健康保険証でも身分証明に使える場合もあるからです。

 

追記(2012 Sept)
最近の新聞にニセ医師の話題があり、そのようなニセ医師が現実に通用する原因のひとつに医師資格証明書の不備が挙げられています。つまり、医師免許証とか戸籍抄本などが通常そのような証明書に使われているのですが、いずれも顔写真がないので、悪用してもなかなか見破られにくいとのことです。
まぁ、いつまでたってもこの顔写真つきの身分証明書がまったく存在しない日本はまさに天国です。しかも、島国の日本に生活してる限りにおいてはこのような概念がまったく改められないのも日本は世界一のノウテンキな国だからなのです。

 

追記(2014 May)
新聞に泥棒などの逮捕の記事によく「住所不定」という表現が気軽に使われていますが、だれも不思議には思わないようです。まさか浮浪者ではないのですが、一体どうゆう扱いなのでしょうか。警察がそのような「住所不定」者の同定はどのようにしているのでしょうか。また、そのような「住所不定」者の名前の確認はどのようにしているのでしょうか。それだけ調べるのに警察もかなりの時間を必要とするのですが、何とも思っていないようです。でも良く考えると「住所不明」ではないのです。まさかこんなとこにまで個人情報保護法が活きているのでしょうか。

 

もっとも、新聞記事などに書かれている場合は、「身柄を拘束されて警察で事情聴取を受けながら、本人が住所や職業などを話していても、身元を明らかにするものを所持していなかったり、勤務先に問い合わせても確認が取れない場合に、『住所(居)不定』『自称××』と発表します」(捜査関係者)となって居ます。

 

追記(2016 Feb)
大阪での自動車暴走事故で歩行者のひとりの女性が重体になって居ましたが、この場合も身元の確認を急いでいると報道されていました。このような一刻も早く親族にその事故を知らせるべきなのですが、いかんせん身分証明書なんていうものは誰も持っていないので、すぐに現場で身元確認できないのです。

 

でもこのような記事は毎日のように新聞に報道されていても誰も顔写真付きの身分証明書の常時携帯なんていうことは考えないのが、まさに不思議です。まさに日本人な関する七不思議のひとつなのです。

 

追記 (2018)
最近の新聞報道によると日本に帰化したフィリッピン女性が警官の職務質問に対して、フィリッピン人と答えたため旅券不携帯の疑いで一時的にせよ身柄を拘束され、最終的には持っていた健康保険証や入管への問い合わせで、日本国籍を取得していたことが判明、釈放、謝罪されている。

 

この件で考えなければならないことは、外見が日本人らしくない場合には警官の職務質問を受けやすいことです。ましてや、アフリカの人ならば日本人以上に警官の職務質問を受ける可能性は極めて高いのです。これを一概に人種差別と批判するのは簡単ですが、このような現象は世界共通であり、私も東洋系の顔をしているので、海外ではよく疑惑の目で見られることがあります。これはどこの国でも起こりるうことなので、致し方はないと思います。たとえば、私が住んでいるスイスで、かりにスイスの国籍を取得していたとしてもだれも私をスイス人とは見てくれません。ましてや、かりにスイスの国籍を持っていても私はスイス人ですと心理的には即答できないのです。

 

次の問題はこのような環境下での警官の職務質問は「あなたはどこの国籍を持っていますか」ではなく「あなたは何人、何処の国の人なのですか」となるのです。したがって、そのような質問をこのフィリッピン人女性が受けた時にとっさに日本人ですとはならず、フィリッピン人ですと答えるのが普通なのです。つまり、今回の警官の職務質問にたいする返事が誤ったために身柄拘束になってしまったのです。もっとも、新聞報道では彼女が「フィリッピン国籍です」と答えたと記述されていましたが、警官が普通の職務質問で「あなたはどこの国の国籍を持っていますか」と質問したことは考えにくい。

 

更にこの事件で隠されている大きな問題は、もしこのフィリッピン人が私は日本に帰化しています、と答えた時の警官の対応なのです。そのようなときにはおそらく警官はああそうですか、と聞き流しはしないと思うのです。ましてや、相手がアフリカ人のような場合にはそのようなときの次の質問はなにか身分を証明するものはありますか、となるのです。

 

ここで、問題なのはもし相手が普通の容貌の日本人だったら、仮に身分証明書を持っていなくても口頭で住所、電話番号など聞かれて、それでほとんど問題なく、ましてや身柄の拘束はなされない筈です。それはなぜか。

 

その答えは、日本には個人の身分を証明する身分証明書の存在がないからです。日本は世界の先進国の中で国民全員が写真付きの身分証明書を持っていない唯一の国なのです。

この問題は誰も関心がないのはやはり日本は島国だからかもしれません。ですから、国境という概念が皆無なので、顔写真付きの身分証明書は不要なのかもしれません。

 

追記(2019 Sept)最近の朝日新聞の投書欄に学生さんが来年の東京オリンピックにボランティアで参加するための登録に際し、身分証明書を求められ、顔写真付きの学生証が認められなかったとのことです。つまり、学生証はだめなのです。果たしてどんな基準があるのでしょうかね。

 

 

疫学調査の難しさ、 欧州の大腸菌感染に関連して

疫学調査の難しさ、 欧州の大腸菌感染に関連して

ドイツで流行したO104:H4大腸菌株感染症について感染患者が多発した時にまずその発生原因を調べるために疫学調査がされることになります。その場合まず最初に感染患者の詳細な問診で発生前に何を食べたかとの基礎調査がなされた訳です。この段階で既に食中毒の疑いが強かったからです。その第一段階調査で、発症患者全員が食べたいろいろな要因の中に全患者での共通因子があるかどうかを探し出すのが疫学調査の初歩であり、またもっとも重要な調査になります。その結果、最初に分かったのは全員が発症前に生野菜サラダを食べていたことが判明したのです。ところが、つぎの問題はサラダを食べたといっても発症数日前、あるいは一週間前の記憶は必ずしも定かではなく、ではどのようなサラダだったのかと聞かれても誰も正しく答えを出すのはまず不可能です。サラダと言ってもどのような野菜が使われていたのかを正しく記憶している人は皆無に近いのです。私たちの日常生活で一週間前にあなたは何を食べましたか、と聞かれても正しく答えられる人はまずいないと思います。

御承知のように、ヨーロッパでのレストランのサラダにはキュウリとか白菜とかルコラとかトマトなどいろいろな生野菜が一緒になって出されるのが普通です。ですから一口にサラダと言っても感染者全員がそれぞれのサラダの構成野菜名を間違いなく覚えている人はほとんどいません。しかし、ともかくどうやらサラダが共通因子だということが掴めたのでそこに使われている野菜を調べたところ、たまたまスペイン産のキュウリから大腸菌が検出されたので感染拡大を防ぐためにともかくキュウリから問題の大腸菌が発見されたことが速やかに公表されてしまったわけです。そのためスペイン産のキュウリをはじめすべてのキュウリはその流通がストップ、そして大量破棄となったわけです。その被害は実に膨大な額になりました。

その後、感染患者から検出された大腸菌とキュウリから検出され大腸菌との同定分析をしたところ同じ大腸菌E.coliでも異種の0104型のものであることが分かり、その時点でキュウリの疑惑は白となったのですが、その間、約一週間近く経っていたのでキュウリの生産業者はキュウリが全く売れず、その被害は欧州全体に及びました。ともかくその風評被害は膨大なもので、サラダは一時食卓、レストランいから消失しまったのです。なぜ、キュウリでE.coliが検出されたのかとの詳細は報道されていませんでしたが、恐らく流通経路でたまたまキュウリが汚染されていたのかも知れません。その間にも血性尿毒症症候群(HUS)発症者は627人にも上り、このうち15人が死亡してしまい、HUSを発症しなかった感染者は1605人と推定されることが報道されていました。。

これらの調査と並行して、ではどこのレストランで食事をしたかとの確定を急いだ結果、ようやく北ドイツのあるレストランが浮かび上がり、そこでの立ち入り検査をし、すべての食材の細菌検査をしたところサラダにも使われたモヤシから該当する大腸菌が検出され、その生産業者がモヤシ製造に使っていた大量の水が大腸菌で汚染されていたのが判明し、ようやく事件は終息したわけです。その後の調査ではモヤシの製造に使われていた小川の水はが近所の汚染処理施設からの排水に汚染されていたことが分かりました。まぁ、これで一見落着なのですが、最終的にはやはり大腸菌、つまり人、動物などの排泄物と密接な関係があったわけです。考えてみればこれは当然で、大腸菌は大腸の中に居るもので、植物そのものとは本来関係がないのです。最近のNature誌の記事によるとこの0104:H4型の大腸菌は過去のデータでは動物の体内からは検出されていない型であるとのことです。ということは人間の腸内にあったことになるのかも知れません。或いは、一部の専門家は最近の農家では動物の飼料に抗生物質が乱用されているのでその影響で新種の大腸菌が発生したものと解説しています。

以上が欧州での大腸菌感染騒動についての要約ですが、事後判断・批判(これは誰でもできるものです。私もその一人)をすると最初の調査の段階でなぜ大腸菌感染とキュウリなどの野菜と関連させたのかということです。大腸菌と野菜とは関係がないことは素人でも分かるので、かりに大腸菌が初期の段階で検出されても、常識的には大腸菌感染、つまり汚染物由来のもの、との判断が先行しなかったのでしょうか。ですから、キュウリから大腸菌が発見されたときに、サラダに使われていたキュウリが大腸菌に汚染されていたと発表していたら欧州産のキュウリすべてを破棄しなくとも済んだかも知れません。

いずれにしても、疫学調査では初期の調査出発点が間違うとなかなか速やかには解決できないものです。今回のキュウリ騒動でも、そのキュウリがどこで汚染されていたのかとの調査が進行中であると発表していれば、その風評被害は防げたかも知れません。

薬害の大先輩と言われているスモンの疫学調査でも初期の病状解釈・定義が間違っていたために長い間その原因が掴めなかったわけです。スモンの病像に腹部前駆症状を入れていたためにそこに使われていたキノホルムはスモン発生要因の共通因子としては捉えられていなかったからです。もし、スモンの病像からこの腹部症状を外していたならばキノホルムは発生共通要因として簡単に浮かび上がっていたのです。

2011年6月21日 (火)

Noceboってなんのことか分かりますか (*)

Noceboってなんのことか分かりますか。
これはプラセボという言葉に対比されるかも知れません。

 

ドイツ、ハンブルク大学メディカルセンター神経学のUlrike Bingel博士らによる研究では、薬剤の投与量を変更しなくとも強力なオピオイド系鎮痛薬であるレミフェンタニルの使用状況(有無)を信じることで疼痛レベルが大きく変動することが報告されています。また、実際には該当薬剤の投与を継続しているにも係らず、患者に薬剤投与の中止を告げるとまもなく、疼痛レベルが急上昇することが分かりました。そしてこのような効果を“ノセボ(nocebo)”効果と名付けています。 [2011年2月16日/HealthDayNews]

 

別の報告では「医師は治療に関する患者の教育をうまく行ない、誤った期待や否定的な期待を限定させなければならない。そうすれば、結果がはるかに良くなり、患者が治療により満足すると思われる」となっています。研究結果は、医学誌「Science Translational Medicine(サイエンス・トランスレーショナル医療)」2月16日号(2011)に掲載されています。

 

つまり、従来から知られているPlaceboは「偽薬」と訳されていますが、実際には有効成分無しの錠剤、カプセル投与でも期待してた薬効が見られる場合に対して使われるのですが、Noceboは実際に薬剤を投与しているにも関わらず、この薬剤投与を変更しましたとか、中止しましたかを知らせることによって(実際には中止していない)その薬剤の効果が薄れてしま場合がこれに該当します。日本語に訳すのが難しいのですが、「想像薬」ぐらいではどうでしょうか。「反偽薬」の訳が上記の報告の日本語版の中で付けられてありましたが、分かりにくいと思います。もっとも、プラセボを投与して副作用が現れることもあり、このような場合にはそのプラセボがNoceboになるわけで、必ずしも上記のような医師による誘導的な説明で状況が悪化する場合以外でもNocebo効果があると理解されます。

 

この概念を当てはめることが出来る例として、ある症状にたいしてある薬剤が投与された時、その症状の客観的なデータ(たとえば、検査値)ではその薬剤の効果が認められていないのにも係らす、その薬剤を投与された患者は今までの症状が軽快ないし消失したと感じるような場合もNocebo効果といえるでしょう。

 

なお、プラセボに関してはいろいろな実際例が報告されていますが、ある医師が一人の腰痛患者に意識的にプラセボをNixdrin Forteという名前を付けて投与したところ腰痛が劇的に治ったので、その患者の母親がぜひその薬の正体を知りたいと薬局にいって確かめたところ、最終的にはプラセボであることが判明し、逆に贋薬を投与されたと激怒して新聞に投書したことがありましたが、人によってはプラセボに対する反応が異なることもあり、注意が必要かも知れません。

 

一般的にプラセボの効果があるのは不定愁訴で疾患の原因が複雑でいまだ確定していないような場合に限定されます。ですから、結核のような結核菌による疾患とその原因が明確な場合にはその効果はありません。したがって、逆の見方をすると既存の薬剤が必ずしも100%有効でないような場合にはプラセボの効果が案外期待できるのかもしれません。

 

最近でもこのnoceboに関する論文が発表されています。
対象は健康なボランティア49人。全員に「アトピー性皮膚炎治療に用いられているクリームを試してほしいが、皮膚が痛みに敏感になる副作用がある」と説明した上で、このうち24人には「安価な薬剤」と伝えてオレンジ色の箱に入ったクリームを使用してもらい、残る25人には「高価な薬剤」と伝えて青い箱に入ったクリームを使用してもらった。実際にはいずれのクリームも同一の内容で有効成分は含まれていなかった。
 クリームを塗布した腕に熱による痛みを与えて耐性を調べる検査を実施した結果、「高価な薬剤」と説明を受けてクリームを塗布した人は痛みに敏感になっていることが分かった。この検査では、熱刺激を与えた後、痛みの程度を評価スケール(VAS)で評価してもらったが、高価な薬剤群では平均スコアが15点(軽度の痛み)だったが、安価な薬剤群では平均3点未満で不快感を訴えた者はほとんどいなかったという。

Tinnermann A, et al. Science. 2017 Oct 6;358(6359):105-108.

 

追記 (2022 Jan)

最近のスイスの新聞に、コロナ用の予防接種ワクチンの副作用に関連して、このNocebo効果があることが報じられていました。つまり、ワクチン接種を受けると、何らかのマイナス変化があるものと信じて、それがワクチンの副作用と信じてしまうことがあるとのことです。実際はワクチンそのものの副作用とは全く関係のない自覚症状をワクチンの副作用と信じてしまうことなのです。

この報道ではそのようなNocebo効果は、全体の半数近くの症状に見られるとのことです。 (Basler Zeitung  27/2/2022)

このような心理的な影響はなにもNoceboに限る訳ではなく、そのような心理的な影響はいろいろな所でも観察されることです。例えば、美人に乞食のような衣装をつけて歩いたら、美人そのものよりも乞食のような衣装の影響により、誰も寄り付かなくなるかもしれません。

そのような考察を拡大するともしかしたら「対比心理学」のような考えができるかもしれません。

 

 

2011年6月20日 (月)

薬害審判制度の導入 (*)

  最近の朝日新聞に「司法はいま」の欄があり連載記事になっていますが、その中
で「労働審判」という制度があることが紹介されていました。これは民事裁判に関連
して政府の司法制度改革審議会の提案であらたに「労働審判」制度が導入されている
ことです。通常の民事裁判では時間もかかるわ、お金もかかるわ、と極めて提訴する
立場の人には不利な条件がたくさんありました。この労働審判は2006年4月に導入さ
れたもので、多様なニ-ズに応じて充実迅速かつ実効的な司法救済を得られること、
裁判の結果が確実に執行されることを念頭においています。この制度の特徴は最終判
定が極めて短期間、数か月以内、になされることです。

  この記事から考えたことはこの制度の概念を薬害裁判にも適用出来ないものかと
考えたのです。今までの薬害裁判をみてみますとその解決にまでは極めて長い期間、
年単位、が費やされています。薬害のような場合には患者救済という大義名分がある
のですが、現実にはなかなかすぐには解決策、援助対策などが図られていません。そ
の結果、最終的には和解という解決策が裁判所から提出され、その結果両当事者が手
を打つことになるのが殆どです。したがって、薬害裁判の結果、毎回新しい改革案、
制度、規則のようなものが提案、発足することは極めてまれになってしまっていま
す。 

 私がかなり以前に日本医事新報に「科学裁判所設立の提案」(No.3780/平成8年/10
月/5日)を書いたのもこのような制度を当時に頭に描いていたのです。もっとも、当
時私が描いていた構想は何も薬害に限定されずに、医療過誤、食中毒などかなり広い
範囲の概念でした。

その後になって時代の流れとともに前記の労働審判などを含めていろいろな司法改革が実行さ
れていることを考慮したとき、薬害関連の裁判にもこの労働審判と同じ目的で「薬害
審判」制度を導入することは可能だと思うのです。しかも、このような制度にはある程度の強制力のある提案などを進言することができるようにすることです。従来の裁判での判決にはいろいろと参考になる見解、提案が述べられていますが、それらが実際に実現できるような制度にはほとんどなっていません。たとえば、スモンの大阪地裁での判決文には、製薬企業は他の類似薬剤での問題が生じたときには自ら動物実験、治験等をすべきであると、述べられてあるのですが、現実にはそのような判決文の意図は全く生かされていません。まさに絵に描いた餅に終わっているのです。

追記 (2012/4/17)
最近の朝日新聞の連載「原発とメディア」に「・・判決で高裁は、裁判所が原子炉の設置許可処分での科学的、専門技術的な問題を判断する立場にはなく、通常の行政訴訟と違い、司法審査にはおのずから限界があると明言したのだ。」とありましたが、この考え方は薬害裁判にも当てはまるのかもしれません。つまり、高裁の判決では、裁判所が原子炉の設置許可処分での科学的、専門技術的な問題を判断する立場にはないことを明言しているのです。、

追記(2013 April)
最近の新聞報道によると、診療に関連して起きた予測せぬ死亡事故に関して第三者機関の創設が実現しそうだとありました。しかし、これはあくまでも構想であって、実際にそのような第三者機関が確立されるのはいつのことかは不明です。


2011年6月17日 (金)

伝統食文化への国際化の影 (*)

伝統食文化への国際化の影響

  今日のような国際社会ではいろいろな面でのグロバリゼーション化、国際化が劇的に進行し、たとえば、動物愛護とか人権問題など往時ではとても考えられないような概念が導入されている。場合によってそのような新しい概念の導入を問題なく受け入れることは困難な場合もある。そもそもこの国際化のもたらす問題にはポジティブな面、ネガティブな面の両面があることを認識すべきで、ちょうどコインには両面があるのと同じことである。たとえば、ある国固有の伝統食文化に関しても、この国際化の影響を避けて通ることはできない。

  たとえば、2009年度第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞のイルカ漁の隠し撮りドキュメンタリフィルムがいろいろと問題を提起していた。このイルカ漁についての地元の人たちと海外の人たちとのイルカに対する認識の相違を改めて考えてみた。太市町の人たちは昔からの伝統としてのイルカ漁を正当化しているが、現実にはイルカを日常生活の中で食卓に供されているという事実は多くの日本人は知らないのではなかろうか。筆者もイルカが食用に供するために殺されているとは知らなかった。

それに反し、クジラを食べることは案外多くの日本人は概念的には知っているが実際に食べたことのある人は現在では極めて少ないはずである。確かに地元の人たちには昔から連綿と続いている日本固有の伝統食文化であり、他人に非難される理由はないと考えるのも一理はある。私が学生の頃には東京渋谷に今でも在る「くじら屋」でくじらの刺身を食べたのを良く覚えている。

  しかし、別な角度から理解したとき、このような伝統食文化の世界にも国際化の影響が押し寄せてきていることをも認識すべきではなかろうか。つまり、たんなる動物愛護という概念の台頭以外にも、日本固有の伝統的な食文化にも国際化の影響があることを再認識すべきである。それぞれの国の伝統食文化への国際化が及ぼすポジティブな面の最大、かつ典型的なものとし、日本の寿司の国際化が挙げられる。寿司は基本的には日本古来の伝統食文化であり、海外ではかっては魚を生で食べるすしは野蛮行為とも受け止められていた。しかし、現在では寿司は日本の固有伝統食文化ではなく世界の食文化の一部になっている。

001_640x428

このようなポジティブな日本固有の食文化の国際化の場合には誰もそれは日本固有の食文化だから外国で流行するのはけしからんと怒る人は一人もいないはずである。今日のようなすしの世界的な普及はなにも日本が積極的にその普及の推進活動をした結果ではなく、食文化のグロバリゼーションのポジティブな影響の結果とみるべきである。ともかく寿司の国際化に伴う海外での影響はまったく日本人には考えられない寿司の形態が派生していることです。極端な例としてはベルギ-のチョコレトがかかった寿司なんというのもあるくらいです。このような環境になっているので、日本の「全国すし商生活衛生同業組合連合会」が寿司の国際検定運動を始めましたが、現状はとても手に負えないような状況で、国際的な正しい、といっても日本人感覚での意味、寿司の普及を目的としてますが、とても現状にメスを入れるのは不可能です。そのうちにシャリの上にチ-ズが載った寿司も現れるでしょう。

このような観点にたてば、数年前のイルカ漁の問題も食文化のグロパリゼーションのネガティブな部分がクローズアップされてきたものと捉えることができる。   

  すくなくとも、現在の社会環境、食生活ではイルカ、クジラの肉が日本の家庭の食卓から完全に消えても困ることはないのではなかろうか。したがって、もしイルカ漁や捕鯨が食用の為のみになされているのだとすると、その存在意義を見直す時期に来ているものとの認識も必要ではないだろうか。

このようなグロバリゼーションのネガティブな影響面は中国、韓国などでの犬肉料理にも当てはまる。日本人でもこの犬肉料理に関してはネガティブな印象をもっている筈である。

したがって、自分たちの伝統食文化をかたくなまでに固守しようとしても、国際化の影響は激変しつつあることを認識したとき、この際イルカ食、クジラ食を日本固有の伝統食文化とし続行することの見直しをする時期にきているものと考えられる。最近の報道ではあの中国政府でさえも動物愛護の見地から犬、猫の食用を禁じる法案が検討されているようになっているのもグロバリゼーションのネガティブな面がある国固有の伝統食文化にも強く影響してきていることの典型例かもしれない。ちなみに犬肉を食する習慣もヨーロッパでも二十世紀の初めまでは伝統食文化として存在していたのである。たとえば、スイスの一部の地域では犬肉を食することは現在でも許容されているが、全国的には犬肉の販売はスイスでも法律で禁止されている。

最近の報道によると韓国京幾道城南市にある牡丹市場の牛家畜商人会が計画していた「2011年犬肉祭り」が世論の反対で結局中止となったたことです。同国メディアが6月24日相次いで報道、大手ポータルサイトの人気急上昇ワードの1位に「犬肉の祭り 論争」が登場するなど、話題を呼んだ。

ともかく、最近の食文化の変動は激しく、日本の伝統的な寿司はまでは世界中に広まるいる。ところが、日本では冷凍された寿司というのは考えられないが、欧州のス-パマ-ケットに行くと冷凍された寿司があるくらいで、とても日本では想像もつかないかもしれない。つまり、日本の食文化の代表の一つである寿司は寿司屋で食べるものであり、そこに使われているシャリは生暖かいもので、冷たいものはあり得ない。ところが、欧州ではそのような日本的感覚での寿司屋はあまり多くはないので、作られた寿司パックは冷温保存されているので、欧州の人たちの寿司の概念は冷たいものであるというのが常識なのである。もちろん、日本式の寿司屋もあり、そこでは曲がりなりにも日本での寿司のようなものをたべることはできます。

  一部の過激派がクジラやイルカの問題で過激な反応を示し、良識ある人たちからはテロリスト扱いにされている。イルカの問題で太市に来ていた過激派の女性が死んだイルカに抱き着いて泣いているのを見ましたが、これらの人はあの可愛いウサギが平気で殺されて食肉として売られているのをどう考えるのか、と思ってしまいました。もし、本当にかわいい動物を殺して食用に供することが許せないのだったら、彼らは完全な菜食主義者であるべきなのですが、現実はそうではないようです。このような矛盾点は彼らは問題がないものと考えているのです。最近は私は肉を食べることが少なくなり、蛋白源としては魚か卵しか食べなくなりましたので、肉屋に並んでいる肉の塊を見るたびに可哀相にとさえ思うこともあり、動物殺し、とさえ思うことです。、

つまり、伝統文化としての食形態も時代の流れには逆らえられないのです。ただ、どのような形で国際化に順応させるかは場合によっては問題があります。たとえば、イルカの食用を法律で禁じることには問題があるかも知れません。唯一の可能性は日本のメディアがいるかを食べるのは時代遅れの食文化だとの批判をすればなくなるかもしれませんか、・・・・。

食肉とは関係ないのですが、日本の伝統的な食品である醤油はキッコマンのおかげで現在では世界各国に日本のキッコマン醤油が売られています。しかし、残念ながら味噌の製造会社にはキッコマンのように世界に視野を向けた発想はないようです。味噌そのものを海外に売り込むことは無理と考えているのかも知れません。しかし、味噌ジャムを作ったり、あるていど形を変えれば味噌も国際性があるのですが・・・・。

2011年6月16日 (木)

国歌、国旗を忘れた日本人 (**)

国歌、国旗を忘れた日本人

 

今回の国歌斉唱への公立学校教員規律裁判問題で、国歌斉唱に際しての規律が一応義務付けられ、最高裁の判断は「起立斉唱行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し、職務命令は個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、個人の思想と良心の自由を直ちに制約するものとは認められない」と指摘されています。ただし、国歌国旗に敬意を表明することは応じがたいと考える人にとっては「思想と良心の自由に間接的な制約となる面があることは否定し難い」とされていた。

ひるがえって、この裁判の原告教員らの国歌、国旗に対する「良心の自由」とは何なのだろうか。それをを私なりに要約すると以下の二つになると考えられます。

一つは、過去の大東亜戦争で日本が海外諸国に対して多大な被害を与えたことを踏まえ、その先頭に立った日本の国旗、日ノ丸、とそのための意気昂揚の手段として使われた国歌を歌うことは良心の呵責に耐えないこと、そして二番目はそのような目的に使われた国旗、国歌を尊重することは韓国や中国に対して申し訳ない、という良心なのである。

確かに、ある意味では過去の戦争で隣国に対していろいろな被害を与えたことに対しては十分に考慮し、謝罪しなければならないこともあるかもしれない。ただ、私が不思議に思うのはこの裁判の原告たちは戦後生まれの人ばかりである。例外として戦争末期に生まれた人もいるが、いずれにしても過去の戦争のセの字も経験したことのない世代である。つまり、過去の戦争を自分の肌で全く経験したことのない人間なのである。そのような人たちが過去の戦争のことを良心と関連させ、個人の思想として持ち出して裁判するという心理は自分の経験から生まれた信念ではなく、他人により影響された偏った信念と考えられる。

ここで忘れてはならないのは、もし本当に過去の戦争に直結した国歌、国旗という概念が強いのなら、更にもう一点議論の対象とすべきものがある。それは日本語である。あの忌まわしい戦争の目的に使われたいろいろな指令、命令はすべて日本語で書かれてあるからである。それならば、日本語は国歌、国旗と同様に、いゃそれ以上に取り扱われ、使うべきではないと主張することが出来るが、国歌、国旗に反対する教員は日本語はその対象から外しているのは極めて偏った判断、信念ではなかろうか。

なお、1999年(平成11年)には国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められたのです。
1996年(平成8年)頃から、公立学校の教育現場において、当時の文部省の指導で、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に、君が代の斉唱が事実上、義務づけられるようになった。しかし、反対派は「日本国憲法第19条が定める思想・良心の自由に反する」と主張して、社会問題となったのです。でも、このような社会は背景を考えると国家や国旗を法律で規定すること自体がある意味では奇異に感じるのです。つまり、なぜわざわざ法律で日本の国旗は日の丸であると1999年、つまり戦後からかなり時がたった時点で制定しなければないのかと言うことです。このような考えを演繹すれば、日本の国語は日本語ですとの法律が必要かもしれません。 

さらに、拡大解釈すれば、そのような過去の忌まわしい行為を行った国、日本に居住し、日本人であることは良心の呵責に耐えず、日本国籍を放棄するとはどうしてならないのであろうか。あるいは、日本という国名を変更することを提言してはどうなのだろうか。このような考えをさらに拡大すると、国家、国旗に反感を持つ人たちは当然のことながら自衛隊の存在そのものも過去の忌まわしい戦争のことを思い出させる存在として当然のことながら、自衛隊の撤廃を求めることになるのでしょう。でも、今回のような東日本大震災での自衛隊の活躍にたいしては全く反対していないのも自己主張本位の考えではないでしょうか。都合の悪い時には知らぬ顔をしているわけです。

いずれにしても、総体的にみても日本人は過去の戦争への無意識な反動からかもしれないが、国歌、国旗を殆ど無視ないし忘れてしまっている。しかし、最高裁の判決で指摘されている「起立斉唱行為は慣例上の儀礼的な所作」を原告たちはどう捉えているのだろうか。個人レベルで儀礼的所作があるように国家レベルにも儀礼的な所作があるということである。

現在の日本の日常生活のなかで日本の日ノ丸の旗を見ることは極めて難しい、いゃ、不可能なのです。建物の上に国旗が掲げられてあるところはどこだと思いますか。東京都内でいつも国旗が掲げられてあるところを探してみてください。我々の家庭にはまず国旗は無いはずです。学校でも国旗をいつでも見えるとは限りません。日本人が、国旗をみることが出来るのはテレビで総理大臣が正式に何かを表明するときに演台に立った時の横に国旗が見られるぐらいではないでしょうか。もっともそのしぐさはいささか形式的であり、本当に国旗を敬っての行為とは思えません。ちなみに政府官僚があのような仕草をするのは日本だけで、欧米諸国でのテレビ中継には絶対見られない光景です。

海外でのスポ-ツ大会で日本人選手を応援するときには国旗を振りますが、多くの場合その国旗は小さなものであることが殆どです。このような場合、前記の裁判の原告の人たちは日本の国旗を振るのは良心の呵責に耐えないのかも知れません。つまり、現在の日本人には国旗とか国歌とは極めて例外的な存在となっているのです。

まぁ、島国日本にいる限りは国旗や国歌は不要なのかも知れません。まさに日本人は残念ながら「歌を忘れたカナリヤ」に該当するのです。それにしても、海外でのスポ-ツの国際試合で、試合開始前にそれぞれの国の国歌の斉唱がありますが、日本の選手のほとんどは国歌斉唱に際しては口パクなのは見苦しいものです。

ある新聞の投稿欄に「戦前の国旗国歌で良いのか」の投書でドイツとイタリアの国旗が戦後変えられていたことに触れていましたが、曲解があるようです。ドイツの大戦中のハ-ケンクロイツの旗は本来ドイツのナチス党の党旗であったものをヒットラーがドイツの国旗と勝手に制定したのであって、本来はヴァイマール共和国時代の国旗、つまり現在の三色旗とおなじものが国旗であったのです。

また、イタリアリの国旗も終戦までは現在の三色旗の真ん中にイタリア王室のサヴォイア家の紋章があったのですが、王室の廃止とともに1946年からその紋章がないものに復帰し、その二年後に正式に国旗として制定されているのです。つまり、ドイツやイタリアの国旗は政情の変化により、本来存在していた昔の国旗に戻ったものと考えるのが理論的なのです。一方の日の丸は薩摩藩以来連綿として今日に至るまで継続して日本の国旗として使われているのです。ちなみに、日本の旅券の表には菊のご紋章がありますが、これなどは前記の原告の人たちには耐えがたい侮辱かもしれません。なにしろ、大戦中の日本海軍の艦船の船首にはこの菊のご紋章が厳然と使われていたのです。このことに関して日教組の人たちの意見を聞きたいものです。

なお、最近(July 2010)、フランス政府はフランスの国旗、三色旗、を焼いたり、破ったり、比喩の対象に用いたり、尻拭いしたり、など国旗を「侮辱」した場合には、最高1500ユロの罰金が科せられることになった。このとこはいかに国家と国旗とが密接に結ばれていることを示すものである。もし日本でこのような行為を国旗にたいしてした時にはどのような刑罰が規定されているのだろうか。国旗及び国歌に関する法律にはそのような場合の罰則規定は見られない。

一部の若い人たちには「日の丸」を見る機会は右翼の人たちの街頭演説で見るだけなので、「日の丸」と右翼の連想が強いので、「日の丸」に違和感を感じているとの意見もあります。しかし、このような考えは基本的には「日の丸」そのものを見る機会が全くないことに原因があり、理解することはできます。しかも、そのような考えを持つ若い人の心理は日教組と同じように、右翼が使っているから嫌い、戦争中に使われたから嫌い、と同じ心理なのです。

日教組という組織が日本の学校制度をだめにしたと言われていますが、この「日本教職員組合」という団体、いわゆる日教組を、日本人が設立した団体と考えるのは間違いといわれています。つまり、この団体を設立したのは朝鮮人教師たちであり、運営しているのも朝鮮人教師たちなのです。日教組の歴代委員長が、帰化朝鮮人で占められていると言われるのも、朝鮮人教師が組織の上層部に陣取っているからに他なりません。

しかし、そのような限定的な理解は環境に左右されているものであり、海外でのスポ-ツ大会で日本の選手を応援かるときには「日の丸」をふっても違和感は生じないはずです。まあ、ある意味では島国日本に居住する限り、別に「日の丸」が無くとも全く問題はなく、また違和感も感じないことは事実です。でも、このように考えるとある意味では英会話の学習に相似ているかもしれません。つまり、島国日本に居住している限りは英会話は必要がないのですから。

追記 (2011/6/19)
  今回の裁判に関連して、戒告を受けた元教員の人が投書欄で「脅かしでは起立はできない」と反論していましたが、私がいつも不思議に思うのはなぜそのような状況になってしまったのかという背景、原因を完全に無視していることです。物事には必ず原因と結果があるのですが、結果だけで物事を判断することは大きな間違いにもなるのです。
確かに条例で強制するのは脅かしかも知れません。でも、なぜそのような条例を作らなければならなくなたのかという原因、背景を考えることが大切だと思います。

続追記 (2011/7/8)
   今日の新聞に最高裁の判決で、国歌斉唱時に着席を呼び掛けた教諭への有罪が確定したとの記事がありましたが、この教諭は現在70才、つまりこの人も戦争のセの字も経験していない世代なのです。

追記(2015 April)
  最近の話題に国立大学での卒業式などにおける国旗、国歌に関して賛否両論が報じられているが、中には最近の朝日新聞の投書欄に反対意見として、戦争に駆り出された忌まわしいものなので、廃止しすべきとの意見を書いている人が居ましたが、その人は七十才代のひとで、戦争のセの字も知らない人たちなのです。このような意見に対して簡単に反論できるのは、反日、嫌日の塊で、常に日本の粗捜しをしている韓国や中国はなぜか日本に対して国旗や国歌を変えるべきと主張していないのはなぜなのでしょうか、と問い合わせてみることです。なんとも情けなくなります。

  国旗、国歌に関してはこの際、その使用に関しては自由に判断させてはどうなのでしょうか。いずれにしても世界の国の中で国旗をおろそかにしている国は日本だけなのです。まことに嘆かわしいことです。
  ともかく日本で通常の日に国旗を町の中で見かけることは皆無なのです。もし日本で日の丸の旗を購入しようと思ったらどこに行けば手に入るのでしょうか。

追記(2018 March)
あるサイトに韓国でのオリンピックでの日本人選手について以下のような記述がありました。
「羽生選手は、金メダルを取った試合後のセレモニーで、2位の宇野昌磨選手とともに日の丸を持ってカメラマンの前に移動した。ところが、3位のフェルナンデス選手にスペイン国旗が用意されていないことを知り、一度受け取った国旗を戻して記念撮影に応じ、フェルナンデス選手にスペイン国旗が渡ると、自身も日の丸を広げ、3人全員で国旗を掲げたという。」
このような若い選手でもやはり国際的に舞台では日の丸にたいする姿勢が素晴らしいです。もっとも、このような仕草は必ずしも日の丸を意識したと考えなくとも、日本人がの本来持っている「おもてなし」「他人への思いやり」からなされた行為と解釈するのが自然かもしれません。何しろ、自分たち二人は国旗を持っているのにフェルナンデス選手は持っていないので、彼の気持ちを忖度して、自分たちの国旗を取り下げたと理解するほうが理屈に合ったいるかもしれません。

追記(2018 Oct)
最近の報道で「政府は19日、来春の皇位継承に向けて12日に開かれた「式典委員会」(委員長=安倍晋三首相)の初会合の議事概要を公表した。 初会合では山崎重孝・皇位継承式典事務局長が、来年2月に政府主催で開かれる「天皇陛下在位30年記念式典」の当日、国や地方公共団体の関係機関に加え、学校、会社などで国旗を掲揚することが望まれる」と公示しましたが、現時点では日本のそれぞれの家庭には国旗は存在しないのです。ですから、今後は日の丸を大量生産しなければならないかも。

追記(2022 July)

最近の新聞にインドの首相が日本に来られた時、インドの航空機の操縦席の窓に日の丸とインドの国旗が掲げられてあるのを新聞記者がみて、さっそくその新聞の記事にしていましたが、ある意味ではその新聞記者はこの日の丸の旗を初めて見たので、さっそく記事にしたのかもしれませんね。

追記(2022 July)

安倍首相が殺された事件に世界各国がそれぞれの政府関連施設でそれぞれの国旗を半旗に掲げていましたが、残念ながら国旗を忘れた日本には、普段から国家施設に国旗が掲げられていないので、海外政府が一斉に政府施設に掲げられていた国旗を半旗にしたのですが、肝心の日本にはそのようなことが出来ないのです。なぜなら普段から政府関連施設に日の丸が掲げられていないので、半旗にすることが出来ないからです。ですから、日本では自民党の施設にわざわざ半旗を掲げることぐらいしか出来ないのです。まさに世界にたいして恥じになるのですが、誰もそのようなコメントをしていいのです。

太陽光利用の暖房

もう一つの太陽光利用方法

 

最近の原発事故以来、代替えエネルギー問題が再燃し、そこには必ず太陽光の利用があります。実際に太陽光を利用する方法としては発電パネルが主体で、屋根に置く太陽光利用の温湯補給もありますが、極めてその利用は限定されています。このソーラーパネルによる発電は確かに太陽光の豊富な地域ではかなりの発電力が期待されますが、直接暖房には使えず、一旦電気に変えてからその電力で暖房装置を動かすことになります。

そのほかにも太陽光を暖房に直接利用する方法があります。それはスイスで使われている太陽光利用の暖房設備で、このような設備は意外と日本ではあまり知られていないようです。この方法は建物の南側の壁面全体に太陽エネルギーを貯蔵するシステムです。この装置は外壁と室内壁との間に細いガラス管をまんべんなく並行に詰めた大きな壁に日中の太陽エネルギーが貯蔵され、夕方から夜中にかけてその貯蔵されたエネルギー熱が室内に向かって徐々に放熱され室内の壁が暖かくなり、一日中太陽が照っている場合には冬の寒い時でも室温が20℃近くに夜中まで保たれます。したがって、冬の寒い日にも日中に太陽が出ていれば夜も暖房は要らないのです。もっとも、この場合には建物全体がかなり断熱状態が良好な場合であって、室内の暖気が容易に外に逃げていくような状態ではこの設備の効率は悪くなります。夏にはこの設備の外側にブラインドを下ろして太陽エネルギーを遮断します。
この方法の詳細については建築雑誌「住宅建築」(1998/12:54-57 建築資料研究社)に私が報告してあります。

以下にこの建物の概観の写真をお示しします。この写真の南側にある黒っぽい装置は通例の発電用のソラレパネルなのですが、壁に直接装置され、窓やガラス戸の両脇に見られるやや茶色様壁が太陽熱集積パネルになっています。

800x594

でもこのような簡単な装置が日本で活用されていないことはまことに残念です。

 

 

2011年6月15日 (水)

2011年の漢字、流行語

2011年の漢字、流行語

毎年暮れになるとその年に起こった社会情勢を代表的な漢字で表わすことが慣例行事となっていますが今年2011年の漢字はどのようなものが選ばれるでしょうか。その選択の困難は漢字一字で代表するからです。もしかしたら東日本大震災に関連した「忍」かも知れません。


でも流行語のように数語であると明らかに「想定外」になるのではないでしょうか。福島原発が関与した典型的な表現であり、これほど頻繁にマスメディアに使われた表現は無いのではないでしょうか。

追記 (2011/07/20)
この「想定外」は女子WFootballで優勝した「なでしこジャパン」も該当するのではないでしょうか。これで、「想定外」の明暗の二つの部分が出そろったことになります。

(2011/12/10)
残念ながら、今年の漢字は「絆」に決まりました。もっとも、「想定外」はその候補には入っていました。

2011年6月 8日 (水)

食卓の安全性

食卓の安全性

我々がレストランなどで何気なく食べている肉類、魚介類はまったく安全で、何らの非自然性の成分を含有していないものとの暗黙の了解があると思います。時折、中国での食品汚染の報道も自分たちとは関係ないものと考えてしまいます。欧州でもレストランで食べる肉類とか魚介類は全く問題がないものと誰もが考えます。ところが、最近は欧州でもレストランのメニューに載っている肉類、魚介類についてのその産地国が明記されるようになりつつあります。例えば、この豚肉はスイス国産もの、エビはタイ国産ものなどと記載されています。

ところが最近、スイスの一流ホテルのレストランのメニュ-にこの産地国が明記されてあるメニュ-の下のほうに以下のような記載が載っているのを見つけました。この注意書きは産地国名に星印が付いている肉類、魚介類にたいする説明となっています。たとえば、エビにこの星印がついていれば以下の説明が該当することになります。

Kann mit Hormonen und/oder Antibiotika oder anderen antimikrobiellen Leistungsfoerdergungen erzeugt worden sein.つまり、「ホルモンとか抗生物質、あるいは他の抗微生物薬が生産性を高めるために使われている可能性あり。」と正直に注意書きがあるのです。この注意書きがどのような意味を持っているのかただちに理解は出来ないかも知れませんが、このような文章から推測できることはそのような可能性がゼロではないかもしれませんが、実態は正直言って不明ですよ、とのニューアンスが読み取れるのです。つまり、この文章からただちにこのメニューに載っている肉類とか魚介類がそのような化学物質が生育促進剤として使われ、もしかしたらそのような物質が目の前に出された肉類や魚介類に混在しているかも知れませんよ、との警告文とも理解できるのです。もっとも、衛生当局は仮にそのような物質が検出されてもその量は極めて微量であるので問題はありませんよ、と解釈しているはずです。ちょうど福島原発の放射能漏れの影響についての説明と似たようなものかもしれません。

ただ、問題はそのようなごく微量の物質を長年摂ったらどうなるのかということに関しては誰も分からないものと理解しているのではないでしょうか。それにしてもこのような記載がレストランのメニューに載るようになったことはある意味では正しいのでしょうが、一般消費者としては当惑させられるような記述になります。問題はこのように長年にわたって摂取した結果がどうなるのか、それにはどのくらいの年月が必要になるのかなどはこれからの研究課題になるのでしょう。つまり、今後の食品安全性にかんする毒性研究では従来の概念の慢性毒性ではなくメガ慢性毒性mega-chronic toxicityという新しい範疇が必要になります。ちょうど、最近話題になっている携帯の電磁波と脳腫瘍との関連性とか、ペットボトルの微量の可塑剤の存在とその発がん性の問題にもこのメガ慢性毒性研究が必要になるわけです。もっとも、一部の国では飲料水などにペットボトル使用が既に禁止されていることからペットボトル入りの飲料水は避けたほうがよいかも知れません。

福島原発事故に関連したいろいろな記事に、放射能の影響に関して使われている常套語句に「食べ物からの取り込みは規制値を守っていれば影響はない」があります。これは食品衛生分野でも同じ表現が使われています。しかし、このような表現はもし長期に摂取した場合はどうなのかという答えは無いのです。確かに一年とか二年のような比較的短期間での影響はまず無いでしょう。しかし、これが十年単位になると正直なところその結果は分からないのです。つまり、これは従来の慢性毒性の範疇をはるかに飛び越えた概念になっているものなので、そのようなメガ慢性毒性がどうであるかという答えは無いのです。いずれにしても、安全な規制値というものには絶対性があるわけではなく、その後の研究が進めば変化する可能性があるのです。ですから、すべての領域、分野で安全性の規制値、基準範囲などがあってもそれらはあくまでもその時点での目安に過ぎないのです。


.、

2011年6月 7日 (火)

東日本大震災と事前予測評価・信賞制度の道入

東日本大震災と事前予測評価・信賞制度の道入

  今回の福島原発の事故に関して、この事故原因の予測性が大きな議論の対象になっている。つまり、原発関係者は今回の地震による津波は原発設計時には考えられなかった「想定外」であるとの解釈で押し通そうとしている。一方、津波の研究者によれば今回の津波の規模は決して想定外ではなく、津波の歴史を詳細に調査、検証した結果、想定内であると結論づけている。一般的に、ある事件、災害などが起こった時、それらを未然に防ぐ可能性はあったのか無いのかとの議論が必ず登場する。しかし、そのような予測性の問題を提起する場合に二つの過程がある。一つはそのような事件、災害が発生する以前にそのような可能性を予測している場合(事前予測)と、発生後になってから過去の事例などを取り上げてその予測性は可能だったと議論する場合(事後予測)とがある。ここで大切なのは「事前予測」であり、その予測は極めて重要であり、しかも価値があるが、「事後予測」は極端にいえば誰でもできる性格、内容のものである。今回の東日本大震災の津波の予測に関して、2009年6月に独立行政法人「産業技術総合研究所」の岡村行信活断層・地震研究センター長は経済産業省で開かれた「古い原発の耐震性を検討する専門部会」で平安時代の869年に起きた貞観津波の痕跡を調査、研究した結果を踏まえて、福島原発を大津波が襲う危険性を指摘していたことが報道されている。これはまさに事前予測に該当し、その価値は極めて重大であった。一方、東大のゲラー教授は1896年の明治三陸地震での巨大津波などを例に挙げて今回の津波は予測できたと四月になってから英科学誌ネイチャーに論文投稿していた。これはまさに「事後予測」に該当するもので「事前予測」と比較するとあまり価値がない。しかし、残念ながらマスコミをにぎわせた今回の津波並びに原発事故予測性の議論はその多くが「事後予測」の内容であった。

ここでこの種の評価を点数制にすると
   評価レベル1   事後評価の場合
   評価レベル2   事前評価、ただし何ら積極的なアクションを取らず、発表、公表のみ。
   評価レベル3   事前評価、何らかの積極的な行動が少なくとも一回いなされた。
   評価レベル4   事前評価 何らかの積極的な行動が二回以上。

  問題はこの「事前予測」の意義である。確かに二年前に岡村センター長は重要な指摘をしていたが、それが真剣に前向きに受け入れられず、今後の検討課題としての認識しか関係者にはなく、その後はこの指摘、警告が軽視、無視されていた。(この場合の評価レベルは2) しかし、別な視点に立てば問題はこの事前予測に対する本人の対応、反応にもある。通例の場合、ある重要な指摘、提案をしても、もし受け入れられなければ、残念であるがやむを得ないと引き下がって沈黙するのが一般的な傾向、姿勢である。これはある意味では致しかたの無いことかもしれない。しかし、もしそのような指摘、提案が本当に重要で、もし無視されればきわめてその結果が重大なものになるとの本人自身の確信があるならば、他のいろいろな機会を作ってでもその確信を社会に向けて発信する倫理的、社会的な責務があるのではないだろうか。例えば、そのような確信情報を関係者に書面で配布するとか、雑誌或いは機関紙に載せるとか、又は自分のブログ(公表性あり)に載せるとか、ともかく何らかの形でその確信情報をいろいろな形で、しかも頻繁に推し進め、公表する努力が必要ではなかろうか。

  そこで一つの提案は、このような「事前予測」に関しての「事前予測評価・信賞制度」を導入することである。そこでは、予測の「重要性」と「公表性」の二要因(実際に起こった時点での被害の程度の評価、ならびに予測公開努力度評価)をもとにして、その予測が現実化した時点で、専門家を含めた委員会がその内容を評価し、その評価内容によりいろいろな信賞を交付する制度を作ってはどうだろうか。つまり、その予測性の重要度と、公表の度合い、たとえば何回公表しているかなどに応じてその予測が現実のものになった時点でしかるべき専門家、機関、団体などがその事前予測者に賞を与えることである。このような制度は一見、現実とはそぐわないものと考えられるかも知れないが、かっては不可能と考えられていた公益通報者保護法、通称内部告発制度、のようなものも時代の流れの中で誕生しているので、決して突飛な発想ではない。

  しかも、このような事前予測評価・信賞制度は何も今回の原発・津波災害に限らずいろいろな分野の予測にも当てはめることができる。例えば、薬害に関して社内・社外を問わず研究者がある重大な問題、たとえば致命的な副作用、を問題が重大化する以前に市販直後の段階で予測出来していたときにはやはりこの事前予測評価・信賞制度を適用することも可能である。もちろん、この制度はあくまでも「事前予測」に限定されることは当然である。たとえば、イレッサの裁判で問題視されている間質性肺炎への添付文書への反映度合いについても、イレッサ発売直後に致死結果を伴った間質性肺炎が報告されてきた時点でその重大性を指摘し、問題視し、それ以降の発生の可能性、致死例の予測性を何らかの形で指摘、公表した社内関係者、医療関係者は皆無であった。現在のイレッサ裁判での議論はあくまでも「事後予測」に基ずくものであり、予測という観点からはあまり意義のあるものとは受け止められないが、残念ながら薬害裁判のすべてがこの「事後予測」評価を中心にしてなされている。

(注) 本提案は朝日新聞の「私の視点」欄に投稿したが採用されなかった。


(参考までに雑誌「プレジデント」2011/4.18号からの抜粋記事)

政府や原子力安全・保安院、そして原発事故の直接責任者である東京電力は、「放射能は微量であり、 直ちに生命を脅かすほどのものではない」と説明する。しかし、拡散する放射性物質を浴び続けると、線量・発生源からの距離・浴びた時間次第では微量でも有害だ。
また、地震による「想定外」の津波が事故原因であるかのような物言いがまかり通っているが、これも事実ではない。震災直前の2月28日、東京電力は新潟と福島の三原発17基で計429機器の点検洩れを認めている。想定外どころか、驚くべき規模の管理怠慢である。
問題はさらに根深い。実は5年前の2006年3月1日の衆議院予算委員会分科会で、まさに今回同様の事故への懸念が指摘され、危機を回避するための措置を講じることが「約束」されていたのだ。
質問者は日本共産党の吉井英勝衆院議員、答弁者は二階俊博経産相(当時)と政府参考人の広瀬研吉保安院長(同)。以下はその議事録からの抜粋だ(敬称略)。
吉井「冷却系が喪失するというのが津波による(略)問題」「大規模地震によってバックアップ電源の送電系統が破壊される」「老朽化したものの実証試験を行ったということはどれぐらいありますか」
広瀬「実証試験は行われておりません」
吉井「東電福島第一の(略)6基では、基準水面から4メートル深さまで下がると冷却水を取水することができないという事態が起こりうるのでは?」「……それをどうしていくのか」
二階「今後、経済産業省を挙げて真剣に取り組んでまいりますことを、ここでお約束申し上げておきたいと思います」
必要性を理解して行為を怠れば、それは行政の不作為であり、今回の被災規模を考えればその責任は重大だ。これでは、いま刻々と報じられる説明や発表さえ信じられなくなる。「基本的な事故データが開示されず、状況を把握できない」(吉井議員)ことに誰もが苛立っている。特に3号機は、他の1、2、~6号機と違って猛毒のプルトニウムとウランとの混合燃料が使用されたプルサーマル型。専門家なら10人が10人、最も危険視する原発である。
情報が開示されず“金縛り”に遭ったまま、国民は危機回避の機会を奪われている。

2011年6月 2日 (木)

ドイツ閣僚はベトナム系かベトナム移民かドイツ人か

Rossli


ドイツ閣僚はベトナム系かベトナム移民かドイツ人か

この五月にドイツの閣僚で、自由民主党FDPの党首にフィリップ・レスラーが選ばれたことに関し、朝日新聞は「ベトナム系」、毎日新聞は「ベトナム移民の子」として報道しています。彼はベトナム戦争孤児で、生後九カ月でドイツ人の養子として育てられた人である。したがってベトナム移民の子という表現は明らかに間違いであるし、ある意味では軽視の感が無くもない。しかし、問題は「ベトナム系」という表現である。

彼は現在のメルケ首相の次に位する副首相なのです。

この「系」という表現は現在での状態(つまり、本例の場合にはドイツ人)ではあるが、基本的には本来の状態(ベトナム生まれ)が主体となっているような時に使われている。たとえば、日本人がアメリカに居住してアメリカ国籍を取得した時、その人は日系アメリカ人と呼称されるのが普通である。また、日本人としての両親がアメリカに定住している場合に子どもがアメリカで生まれ、アメリカ国籍を取得した時も、あるいは片親が日本人で、子供がアメリカ国籍のような場合にはいずれも日系アメリカ人と称されることもある。

しかし、生後まもなく養子にされた場合にははたしてこの「系」という表現は妥当だろうか。そもそもこの「系」という表現をわざわざ使う心理には本来由来の国を大きく意識している場合に限られているのが普通である。つまり、わざわざ日系アメリカ人という表現を使う時にはその人は基本的には日本人なのですよとの解釈、理解が無意識に強く働いて、日本人によって使われるのが普通なのです。その逆にアメリカではそのような日系アメリカ人に対してわざわざ「日系」という形容詞は通常では使わないのが一般的である。なぜならばその人は既にアメリカ人になっているのでアメリカ人にしてみればわざわざ「系」という表現は特殊の場合以外には使わないのが普通である。例えば、アメリカに帰化した日本人研究者がノーベル賞を受賞したときには日本のマスコミは彼は日系アメリカ人とはなぜか表記しないのです。或いは簡単に日本人として取り扱うのが一般的であるが、アメリカではアメリカ人として扱うのが普通である。こんなところにも日本の新聞記者の心底には日本人を強調したい心理が働いているのです。

このように考えてみると、今回のフィリップ・レスラー氏の場合には日本のマスコミがわざわざベトナム系との形容詞を付けていることはかれはもともとベトナム人なのですよとの無意識的な認識心理が働いていることである。しかし、生後間もなく養子としてドイツ人の家庭で育った場合にはあえてベトナム系という表現は全く不要であり、ある意味では非国際的感覚の表現かも知れない。日本のような通称単一民族の人間にとってはそのような例外はきわめて珍しいからなのかも知れない。それにしても日本に帰化している中国人の場合、いちいち中国系日本人と表現するだろうか。そんなことをしたら差別として非難されるかもしれない。このように考えると冒頭に帰した日本の新聞の報道はまったく一貫性が無く、相手にたいして失礼な表現を使っていたことになります。

今後、子どもの居ない夫婦が体外受精した卵子を第三者の女性を介して生まれた子どもを自分たちの子として育てる場合、その仮の母体提供者の母親が外国人であったとするとこの「系」という表現を使うのだろうか。そんなことは全く考えられない。

ちなみに、事業仕分け作業で活躍した蓮舫さんは母親が日本人である台湾系日本人であるが、日本のマスコミでは決して台湾系日本人、中国系日本人との表現は使っていない。いゃ、絶対に使ってはならないのかも知れない。なお、本名は村田 蓮舫で夫は村田信之であるが、実際に使われているのは旧名の蓮舫が使われている。

  それにしても、将来このフィリップ・レスラー氏が日本を訪問するようなことがあるときに、日本のマスコミは彼のことをベトナム系ドイツ人と表現するだろうか。

  確かに彼の顔は東洋系であるのはすぐに分かります。彼はいまだ若く、ハンサムであるので。日本に来た時のマスコミの扱いがどうなるのか興味津津です。

追記 (2013 Jan)
最近彼が属するFDPのひとりが「あの東洋系の顔をした・・・・・」と発言して物議を醸しだしましたが、封建的なドイツ人にしてみれば東洋系の顔をした若造が・・・・と心理的に思っているのは分からないような気もしますが、それを口に出してはならないことです。この発言を聞いたとき私は「やっぱり」と思いました。一部のドイツ人には口にこそ出さないけれども心の中ではあの東洋系の若造が、とおもっていることは心理的にも理解されますが、それを言葉に表してはならないことなのです。正直言って、真っ黒な肌を持ったアフリカ人が日本の市会とか国会の議員になった場合を想像してください。

なお、彼は職業的には医師であり、ドイツ人と結婚しているれっきとしたドイツ人なのですが、やはり顔は隠すことはできません。

ちょうど、日本人がスイスに帰化してスイス人になっても顔までは変えられません。ですからいくら国籍がスイスでも周りの人たちからは日本人扱いになってしまいます。

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »