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2011年2月の記事

2011年2月17日 (木)

対中・露抗議のあり方

対中・露抗議のあり方

  尖閣諸島問題、ロシア大統領の北方領土訪問にたいして、国内でも散発的に抗議集会などが開かれていましたが中国、ロシアにとっては犬の遠吠にしか感じられず、対外的には何らの効果も無いはずです。ましてや、街頭での右翼の抗議集会も殆どの通行人は通り過ぎるばかりで、真剣に立ち止まって聞いている人はごくわずかです。このような抗議集会、行進は結果的にはある意味では自己満足に終わってしまう可能性が高いのです。確かに、何もしないよりはそのような行動を起こすことは大事ですが、その結果を考えた場合、別な方法で間接的に抗議することを考えてはどうでしょうか。つまり、尖閣諸島、北方領土のいずれも日本の領土であるので、ロシア大統領に対しては日本訪問を歓迎しますとのキャンペーンを国内、国外でおこない、、また尖閣諸島への中国漁船に対しては日本訪問を歓迎するがビザがないので旅券法違反で退去命令を出すことです。いつもおなじパターンで抗議をするよりもある意味では新鮮な抗議方法であり、世界の注目を引くかもしれません。

 それにしても、今回のロシアの北方領土の軍事化、開発計画などは日本に対してあからさまな挑発的行為にも感じられます。しかし、このようなロシアの対応に対して日本政府の対応はいつも同じパターンで、これらの領土は日本固有の領土であるとの声明に始終しています。でも、なぜ日ソ共同宣言を全面的にその主張の中に織り込まないのだろうか。まことに不思議でならない。

2011年2月13日 (日)

ショッピングモール化したデパート/デパ-トが無くなるか ??

   ショッピングモール化したデパート

 

   現在のデパートは往時に比べ集客力が弱まり、その結果、地方によっては閉鎖されてしまうような状況で、まさにデパートの受難時代に突入しているのかも知れません。つまり、デパートの売り上げは下がり、店舗数が激減するなどまさに冬の時代に入りつつあるようです。そのためか地方のデパートを整理し、今後は都心部での集客を期待する動きがあるようです。でもなぜデパートが客離れをもたらしているのでしょうか。でもどうしてそのようなことになってしまったのだろうか。ある識者はデパ-トでの文化的な催し物が減った結果それを観に来る人が減り、その影響で売り上げも下がったとか。つまり、従来のデパートには単なるものを売る以上に文化的な催しによる集客力が低下し、その結果潜在的な購買客を失ったとか。でも本当にそうなのだろうか。この集客力について別の視点から考えてみた。

 

   たとえば、現在のデパートの店内の商品配置に関しては大きな問題があるように思える。つまり、専門店の増加と言うことです。極端に言うと、都心のデパートのすべてが専門店化されているといっても過言ではないのです。とくにその傾向が強いのは服装品関係の売り場です。男性用、女性用ともにすべてが専門店に場所を提供しているパターンです。昔のように製品単位での陳列、販売方式は完全に姿を消しています。たとえば、男性が上着を買うためにデパートの紳士服売り場に行った場合、それぞれの専門店に立ち寄り、個々の専門店を順番に巡ることになりますが、これほど非現実的、非効率的な購入方法はないと思います。いざ実際に買い物をするときに不便を感じるのは、たとえば男性が洋服などを購入するようなとき、現在の紳士服売り場はそれぞれのメーカーの売り場が小さなブース内にずらっと並んでいます。つまり、専門店を一か所に集めた方式が取られています。これは女性用服装売り場も同じことです。しかし、この方式ですと、たとえば男性が上着を購入しようとしてもそれぞれの専門店全部を回ってみないと自分の好みに叶ったものを見つけるのは結構難しいのです。なにしろ、それぞれの専門店に自分たちの銘柄だけの上着が陳列されているからです。ところが広い売り場にある個々の専門店を順番に見て廻ってそれらのなかから自分の好みあったものを選ぶことは意外と時間、努力、忍耐が必要になります。なにしろ、専門店の数が多すぎるからです。さらにそれらの専門店には店員が一人か二人の場合が大半で、時としてはこれらの店員が客に対応しているときには辛抱強く待つか、あるいは諦めて他の専門店に行くかの方法しかありません。つまり、そこには従来のデパト店員だけの場合には即座に他の店員が応援に駆けつけたものが、現在の専門店制度では他の専門店の店員の応援を期待できないからです。一般的には男性は女性に比べて銘柄で品定めをする人は極めて少ないと思います。男性消費者のほとんどは自分の好みに合った衣装を選ぶのであって、メーカーを念頭に置いて購入する人は皆無に近いと思います。

 

   つまり、現在のデパートの専門店化は郊外にあるショッピングモール、ショッピングセンターと全く同じことになり、デパートの特色は完全に消え去ってしまっていることです。このようにデパートとショッピングセンターとの区別が無くなりつつあることを消費者は無意識的に感じているのではないでしょうか。そのような認識で改めて男性用衣服売り場を眺めてみるいつも閑散としている気がします。確かに、女性の場合には銘柄に固執する人は多いかも知れません。ちょうど化粧品売り場のようにそれぞれのメーカー商品を目当てにデパート行くのかもしれません。しかし、男性はそのような傾向はまず皆無に近いのです。ですから、女性と男性の場合とでは消費者の好みが異なることを前提にし店内商品配置を考慮しては如何でしょうか。つまり、すべて均一的な発想にしないことです。ですから、場合によっては昔のような商品配置にし、専門店別の配置をやめることです。つまり、ワイシャツ売り場のように上着だったらすべての銘柄のものを一か所に陳列すればその選択も簡単ですし、購入時間もそれほどかかりません。ワイシャツとか靴のようなものはその売り場に行けばいろいろなメーカーのものが一か所に揃っているのと同じことをするのです。

デパトと言うのは基本的にはそこに行っていろいろなものを観ることによりほしいものを見つけて購入するのが本来の姿なのです。勿論、最初から目的のものを買うためにデパトに行くこともありますが、デパト本来の目的はいろいろなものをみて購入欲を湧き起こすという場所でもあるのです。

   いずれにしても、現在のデパートの店舗内配置では男性が上着を買うのとワイシャツを買うのとでは一つのものの買い物をするにも係らずその選択様式が極端に異なるのです。本来、消費者が買いやすい商品展示がデパートの特徴であるべきですが、現在の展示方式ではデパート自身が販売・売り上げ努力を放棄し、いろいろな専門店任せにし、その場所代の上に胡坐をかいての殿様商売とも考えられます。やはり消費者の意向、心理を詳細に調査、研究し、それぞれの要望の高い店内配置を検討すべきではないでしょうか。さもないとデパートの特徴がどんどん消えてゆき、本来あるべきデパートの特徴がなくなり、近い将来には郊外のショッピングセンターと同じことになってしまいます。

 

   似たような考え方はデパートの食堂にも当てはまります。現在ではデパートのレストラン街にはいろいろな専門店が入っていますので、一見論理的にも考えられますが、そのような専門店方式ですと、家族で食事するような場合、それぞれが好みのものを食べたいときにはやはり昔式のデパート直営の食堂、レストランが必要だと思います。そこには曲がりなりにも中華あり、お寿司あり、スパゲッティありで、家族全員がいろいろな食事を一緒に楽しめることが可能になるからです。ですから、もしそのようなレストランが無くなれば家族連れのお客さんはデパートでの食事を敬遠するようになる可能性も高いのです。それにしても、最近のデパート直営のレストランにはあまり活気がなく、仕方がなく営業している感じもします。中には昔式のデパ-ト直営のレストランが撤廃されたり、規模が縮小されている場合もあるくらいです。ですから、最近のデパ-トの食堂街には家族連れがほとんど見られません。むかしのようなお子様ランチなどはもう過去の産物なのかも知れません。

 

   デパートの活性化はやはり昔のコンセプトを参考にした店内配置を臨機応変的に独自に設定し、顧客指向を改めて研究すべきかも知れません。日本のデパートはいまだ世界に誇れるものが沢山あります。店員のサービスから始まって、礼儀正しさ、包装の技、親切心など外国のデパートとは雲泥の差がいまだに存在するのです。それらの特徴,英知を商品配置にも反映出来ないものでしょうか。海外では一般的にはデパ-トは安物を売っているところという概念すらあるのです。とくにこのような傾向は欧州大陸では顕著です。

 

最近の報道ではデパ-トの近郊支店が軒並みに撤退を始めているとのことですが、これなどもおそらく上記のようないろいろな要因がその原因かも知れません。
さらに、ある週刊誌には「デパトが無くなる日」のような記事がありましたが、確かに将来的にはデパ-トは無くなるかもしれません。ここで言及しましたような衣装売り場の問題もありますが、顧客のことを考えて店内の配置換えをする必要があるかもしれません。
確かに、デパトに行けばなんでも揃っているので便利かもしれませんが、電気製品などはそれ専門のデパト並みの店が都心にあるので、デパトではそのような電気製品を置いていなくなりました。
つまり、デパトは高級品とか女性専用品とか、顧客の層を明細化して店内改造をすべきかもしれません。例えば、書籍売り場などは今後はどんどん縮小、ないし廃止に向うのではないでしょうか。

 

追記(2019 Nov)

最近の新聞の記事にあるデパトが食料品売り場を拡大して売り上げが更新しているとか。

その原因は「平日の昼時、同店と近隣商店を歩いた。地下の食料品エリアはまずまずのにぎわいだったが、同駅近くのビル1階にあるスーパーにはかなわない。また、衣料品エリアは、隣り合う「ユニクロ」との勢いの差が明らかだった」との観察からだったとのことでした。

これは当然でス-パ-に行けば一か所で似たような商品がいろいろと選べるからです。これと同じ理屈で、ユニクロに行けば、たとえばズボン売り場に行けばすべてのズボンを一か所で選べるからです。

 

 

 

 

2011年2月10日 (木)

イレッサ裁判と医薬品情報

イレッサ裁判と医薬品情報

今回のイレッサ裁判に関していろいろと報道されていますが、この問題を私なりに解釈すると次の三点が大事だと思います。

(1)添付文書のの記載、理解について
   一頁に記載があろうが二頁に記載があろうがその順番は必ずしも情報の軽重に従っているとは限らないことです。さらに副作用としての間質性肺炎について二頁に記載されていたからその重要性が弱いというのであれば、すべての副作用の記載を一頁に持ってこなくてはなりません。問題はどの頁にそのような重篤な副作用が記載されてあるのかということではなく、実地の医療関係者が添付文書を読んで、完全にその内容を消化しているかどうかが問題なのです。数年前に某大学の医学部教授がある新聞の論壇欄に「添付文書と言うのは保険契約書の裏面に細かい字で書かれある契約内容文書、定款と同じで、誰も読みませんよ」と豪語していたことがありました。でも、現実にはこれはある意味では正しいのかも知れません。したがって、原告が主張している副作用としての間質性肺炎の可能性について当初の添文の二頁に記載されていたのは安全性軽視という論調には説得性がないでしょう。したがって、医療の現場で添付文書が確実に読まれ、理解され、消化されるようにするためにはどのような対策が必要かを議論、設定することです。

追記(2011/06/30)
もし上記の原告のような論理が成立するのならば、間質性肺炎に関してはすべて添付文書の一頁の警告欄に記載されてなければならないことになります。たとえば、2010年の添付文書改定で、シンバスチンなどの高脂血症剤に新たi間質性肺炎が重大な副作用として記載されるようになりましたが、これは普通の「使用上の注意」欄に記載されています。薬剤起因の間質性肺炎は重症の副作用に該当し、医師は当然それなりの対処が迫られるもので、マイルドな間質性肺炎という概念は通用しないはずなのです。

(2)副作用患者の救済について
   この裁判で間接に取り上げられたのは機構の副作用救済事業に「抗腫瘍剤による副作用」ならびに「生物由来製品」の感染被害はその救済の対象とはならないとの例外事項があることです。私はこの例外事項のことは知りませんでした。これは恐らくがん治療に際しては当然副作用が多くの患者で起こり、場合によっては死亡することもあるが、その場合の薬剤と死亡との因果関係評価は極めて困難なので、例外と言うことにしたのではないでしょうか。しかし、考えてみれば救済基金の成り立ちから言えば、この例外事項の存在はおかしいと考えます。なぜなら、副作用救済基金は各企業の売上高に基づいて毎年の拠出金が計算され、機構に支払いされているのです。しかもそのうえそれぞれ個々の該当症例に支払われた費用に関しては該当企業にそのつど機構から救済該当金額がのちほど請求される仕組みになっているのです。ですから、機構はたとえ結果が死亡に繋がるような副作用症例に対してもいくら救済基金を支払っても機構の財政がマイナスになることはない仕組みになっているのです。もし、このような解釈拡大で企業が副作用対策費の増大が問題になるようなときにはそれぞれの個別症例の再検討を社内的あるいは社外的に依頼して、その因果関係の検討をすることにより、副作用でない場合の対策をカバ-出来るようにすればよいのです。
   
   したがって、他の薬剤による副作用同様にがん治療の副作用、死亡についても救済対象にすべきなのですが、因果関係の判断、判定に困難性が伴うので例外事項にしたのとも推測されます。恐らく、死が不可避的ながん疾患に対する薬剤については、通常の薬剤以上の副作用があっても受忍すべきではないか、という考え方も根底にあったのかもしれません。したがって、原告側がこの点に言及しているのは正しいと思います。もっとも、今回の裁判に関連して「生物由来製品」の感染被害救済制度創設で薬害HIVや薬害ヤコブが救済されることになった(2006年)ことから、イレッサ弁護団は、「抗がん剤副作用死被害救済制度」のあらたな創設を検討しているとのことですが、問題を複雑にするばかりで、基本的にはこの機会に「生物由来製品」の感染被害も「抗腫瘍剤による副作用」被害も一様に現在の機構の副作用救済基金制度にて解決すべきかも知れません。

(3)企業、学会などの対応について
   今回の地裁の和解勧告に対して、国並びに企業はイレッサの安全性に関しては添付文書にそのつど反映してあり、薬務行政上何らの欠陥もないとのことです。ここで問題と考えられるのは規則上はたしかに何らの欠陥もないという発想のことです。しかし、企業もそれなりに死亡例をそのつど行政に報告しており、また行政の指示で添文の一頁の警告欄に記載すればすべての対応がなされていると考えることの良し悪しなのです。確かに、企業も行政も薬事法に則って対応しているので問題はないかも知れません。しかし、行政も企業もそれ以外にも対応する部分(倫理対応)はあったはずなのですが、残念ながらなにもアクションはとられていなかったようでした。この倫理的部分は任意行為の範疇になり、その先は企業、行政の両者の善意如何に左右されているのです。では、どのような対応をすべきだったか。それは死亡例が続発し始めた時点で、イレッサで治療を受けていたて肺がん患者の追跡調査をすべきだったのです。(注 市販直後調査の設定は平成17年以降) そのためには薬剤疫学的調査も一つの方法だったかもしれませんが、これは別に実行しなくとも法違反とはならず、結果的には死亡例の行政報告だけで済んでいたようです。また、学会や医学団体もこのような動きは全く示していませんでした。日本の薬剤疫学研究が理論ばかりで進展しないのはこの倫理性の部分への配慮・認識が不足しているのです。したがって、何らかの形で今後の行政が企業に対して薬剤疫学研究の導入を義務付けない限り日本の薬剤疫学研究は卓上の空論に終わり、なかなか進歩が見られないと思います。そのような意味で、最近はレギュラトリサイエンス学会が導入されていますが、この学会はそのような点に関してはあまり関心がないようです。

「医薬品情報のあり方」
   一般的に言えることは、いくら正しい情報を的確に流してもその情報が完全に消化されていなければ、今後も似たような問題起こる可能性は高いと思います。ここで、私が考えている情報への対処には提供、理解、消化の三段階があるのです。つまり、医薬品情報は適材適所的に常に情報が関係者の手元にあること(提供)、ついでその情報を読んで十分に理解、把握していこと(理解)、そしてもし問題が起こったときにはどのような対処方法があるのかをあらかじめ知っておくこと(消化)、だと考えられます。でもこれら三つの要因はいずれも医療の現場にあるからです。医療現場では添付文書を見ようと思えば、薬剤部に連絡するとか、インターネットで検索するとか、少なくともアクセスに関しては問題はないのですが、その詳細を知ろうと思って添付文書を参照するかしないかが問題なのです。さらに、問題なのは仮に添付文書を参照してもそこには重篤な副作用としての間質性肺炎が起こりえるとしか記載されていないのです。肺がんのどの時点での病期に間質性肺炎が起こりやすいのか、また仮に間質性肺炎が発生したときにどのような治療を行ったときに死亡に至らなかったのかなどの詳細なデータが全くないのです。これは企業に問い合わせてもそのような詳細な症例数は殆どゼロに近いのです。つまり、現在の医薬品情報源としての添付文書は極端に言えば副作用項目の羅列にすぎないのです。したがって、このような医薬品情報はあまり実際には訳に立たず、したがって前記の医学部教授のような発言にもつながるのです。

   イレッサの発売から間もなく多くの死亡例が報告されてきた段階で、その対処、治療が正しく行われていたのか、その実際はどのようなものであったのか、あるいはどのように対応、処置が行われていたかの実態調査がおこなわれていたらその結果は何らかの有益な情報が得られていたかもしれません。しかし、そのような調査は「医療の聖域」という壁にぶつかって不可能だったと思います。つまり、現場の医師にしてみれば間質性肺炎を併発して死亡した患者の治療記録を企業に寄せることはまず考えられないからです。しかし、もしこのような調査が十分になされ、しかも関連情報が十分に企業に寄せられていれば、もしかしたらイレッサでの治療を受けていたがん患者で間質性肺炎が発生した段階での対処方法、結果を医療現場全体で共有することにより死亡への転記がすこしは減っていたかも知れません。

 結論としては、イレッサのような場合で裁判所が明確にすべきことは副作用被害患者の救済を機構の副作用救済事業の対象にすること、行政は必要に応じて薬剤疫学研究の実施を企業に義務付ける細則を決めること、さらに死亡を含めた重篤な副作用が発生した場合には速やかに関連対処情報を医療の現場から吸い上げて該当医療機関に直ちにフィードバックする体制を企業に整えさせることでである。しかし、このような判決を現在の裁判所に期待するのはかなりの無理があるかもしれません。したがって、医療裁判所のような存在が必要かもしれません。

追記(2011/05/26)
このイレッサ裁判でいろいろな専門家が意見を述べていますが、裁判になってからほとんどの専門家は発売間もなくに発生した間質性肺炎の重要性について言及し、その時点で当然イレッサの使用制限とか警告欄記載などの添付文書改定をすみやかにすべきだったと批判していることです。でも、このような批判、コメントは現時点になって言えることであっていわゆる事後予測、事後判断であるわけです。一般的に、すべての事件、被害、薬害など実際に問題が大きくなって社会問題、たとえば裁判、になった後でいろいろな専門家が過去の事例、事実に基づいて見解を述べているのですが、このような事後見解、事後批判は別に専門家でなくとも誰でも出来ることなのです。問題はそのような事件、被害、薬害が発生する以前にある事実を以て将来予測する事前予測を誰がすべきかということが大切であり、また意義があるのです。イレッサの場合も発売間もなく数例の間質性肺炎による死亡例が公になった時点では医療関係者は誰も将来予測はしてなかったし、またコメントを公にはしていなかったのです。いゃ、まったく関心が無かったと言ったほうが正しいのかも知れません。裁判になって初めていろいろと昔にさかのぼってコメント、批判をしているわけです。ちょうど、今回の東日本大震災で津波の予想が「想定外」であったという原発関係者の見解にたいして専門家が過去の津波の事例を取り上げてけっして想定外ではなかったと事後予測していますが、このようなコメントは専門家でなくとも少し調べれば誰でも判断、コメントできたことです。このことに関して二年前にある専門家が過去の津波を調査、研究してその結果現在の福島の津波対策では不十分だと警告を発していたことが報道されていましたが、これはまさに事前予測であり、きわめて意義のある予測でしたが、残念ながら誰もその予測、警告には耳を貸さなかったわけです。
 それからもうひとつ疑問に思うのは、今回の裁判で、問題になっているのは医療用添付文書に警告欄記載が不十分だったのようなことが取り上げられていますが、これは患者の問題ではなくそのような医療用添付文書を実際に使う医療関係者の問題であるにもかかわらず患者側が取り上げていることの不自然性です。これは本来医療関係者の問題でそのような添付文書を実際に手にすることができない患者が問題視するのはきわめて異常ではないでしょうか。もっとも、薬害裁判では医療関係者は絶対に裁判の対象にはならないという不文律がありますが、これも日本の薬害裁判の特徴かもしれません。

追記 (2012/7/.6)
このような観点からみれば、2012.5の大阪高裁の判決で原告逆転敗訴になったのもあるいみでは正しい判断だと思います。この判決文の中に「多忙を理由に添付文書を読まないといったことが医療の実態であるとは認められない」として原告の主張を退けたとありましたが、これは一理あるものの現実をはんえいしていないと考えられます。つまり、医療の現場では多くの医師は添付文書をあまり読まないので、したがって、判決文にはもう一歩踏み込んで「そのような医療の現場を改善することが医療関係者にもとめられる」のような文章が欲しかったのです。

2011年2月 8日 (火)

歩道での歩行者と自転車乗りとの共存共栄を (**)

歩道での歩行者と自転車乗りとの共存共栄を

   朝日新聞の「異議あり」欄で吉村作治さんが怒りを込めて自転車の歩道走行の危険性を強調され、免許制にせよと叫ばれていました。確かに、日本の歩道での自転車通行は時として凶器が走っているような錯覚すら与えています。日本の都会での歩道では自転車が我が物顔で走り去り、危険そのものです。まったくヨーロッパではとても考えられないことです。なにしろ、時として警官までが自転車に乗って平気で歩道を走っていることすらあるのです。理屈では道路交通法により自転車が歩道を走ることは禁止されているのですが、日本の車道が狭く、したがって自転車乗りが車道を走るのは命がけになります。確かに、自転車乗りの人にとっては自分の命のほうが大事ですから、歩道を走りたくなるのは理解できます。しかし、だからと言って歩道に乗り上げて勝手にスピードを出して走り去るのは許せませんし、また極めて危険でもあるのです。つまり、自転車乗りの人は自分の命が危ないからといって歩道を走ることが、今度は他人に危険を加える可能性が高いことをすっかり忘れていることが大いに問題なのです。

   ちなみに、道路交通法によると自転車は軽車両と位置づけられて、歩道と車道の区別のあるところは車道通行が原則であり、しかも罰則としては3ヵ月以下の懲役又は5万円以下の罰金となっています。しかし、ここでは原則としてとなっています。このことに関して問題なのは自転車は1978年の道路交通法改正で、「暫定的に歩道通行可」となり、この暫定措置が今日まで放置されてきているとのことです。なお、一部の歩道には「自転車の通行可歩道」があり、自転車走行の優先歩道が設定されている場合もあります。しかし、その逆の歩行者優先歩道と言うのは存在しません。

もっとも、厳密な法解釈では自転車が歩道を走れるのは、歩道の中央から車道よりの部分を通行すること、歩道を通行する場合すぐ停止できるような速度で徐行すること、歩行者の通行を妨げることとなるときは一時停止しなければならないこと、自転車通行指定部分がある時は指定部分を通行しなければならないこと、自転車通行指定部分(自転車優先歩道)については指定部分を通行し、又は通行しようとする歩行者がないときは歩道の状況に応じた安全な速度と方法で進行すること、となっているのですが、殆どの人はそのような細則のことは知らされていませんし、また知ろうともしません。更に、これらの細則違反の場合には道路交通法第63条の4第2項罰則により、2万円以下の罰金又は科料となっていますがこれも当然のことながら全く効果はありません。しかも、法律では歩道を自転車で通行できるのは、自転車歩道通行可の標識等がある場合、自転車を運転している人が13歳未満の子ども、あるいは70歳以上の高齢者、身体の不自由な人の場合、道路工事をしているとき、駐車車両や交通量が多いなど車道を安全に通行することができない場合となっていますが、このような条文も有名無実になっています。
   
   このように歩道を走る自転車による被害を防ぐ方法は免許性にしてもあまり意味がないと思われます。その理由は自転車のスピード違反を摘発することが非常に困難だからです。歩道にまで監視カメラ、スピード測定カメラを設置することはあまりにも非現実的だからです。その代わりの方法としては如何に車道での自転車のスピードを落とさせるかの対策しかないのです。

その方法のひとつとして並行・位置違い型の二本の鉄柵を歩道の入り口と出口の両端に設置することです。あるいは花壇のようなものを置くことも考えられます。これらを並行・位置違い型にすることにより歩行者の流れを少しはよくすることができます。このような二重柵あるいは花壇を設置することにより自転車が歩道を出る時とか、歩道を出てふたたび前の歩道に入る時にはどうしても一端自転車から下りなくては再び歩道に乗り入れることができないようにするのです。もし、歩道の端から端までの距離が長い場合には歩道の中央とか、あるいは随所にこの二重柵を一定距離ごとに設定することです。この費用は行政体が負担することになります。もっとも、このような「異物」を歩道の出入り口に設置することは問題があるかも知れません。これに関してどのような法律があるのかはわかりませんが、歩道交通法のようなものはないようです。もし何らかの理由で歩道にそのような障害物を置いてはならないとの異論、反対があったときには道路交通法の基本に戻って自転車の歩道使用禁止を真っ先に厳重にすることが本筋であるべきでしょうとの反論ができるはずです。

さらにもう一点大切なことは、実際に歩道を走る自転車によって被害を受けたときには警察に被害届けを出すキャンペーンを行うことです。現在では歩道を走る自転車による歩行者へのけがなどの被害がどのくらいあるのかとの実態はあまり正確には掴めていません。このキャンペーンを継続的に行うことにより、自転車による被害の実態がより正確に浮かび上がることです。今まではほとんどのひとが歩道を走る自転車によりけがなどを受けてもみんな泣き寝入りです。なにしろ加害者はいち早く立ち去ってしまうからです。この自転車による被害は年々増加の傾向にあるとか報道されていますが、やはり被害者の声をもっと行政に届けさせる努力も必要なのです。
   
   したがって、現時点では自転車で歩道を走っても前述の道路交通法の細則に従っていれば法律違反にはならないし、場合によっては自転車優先の区分のある歩道すら存在するのです。このような本末転倒的な妥協は、広義の意味では日本の道路事情がその根底にあるので致しかたがないのです。つまりこの問題はあまりにも根が深く、簡単には解決できないのです。ですから、現状を加味すれば、では歩行者はどのようにしたら歩道を走る自転車による被害を防ぐことができるかとの方法しかないと思うのです。それには歩道での自転車のスピードを如何に落とさせるかということがキーポイントになります。
(この提案は朝日新聞の「私の視点」欄に投稿しましたが、不採用になりました。)

なお、一部の場所では歩道での自転車走行を一方通行制にする試みがなされていますが、これはかえつて危険だと思います。つまり、従来はひとつの歩道に両方向から自転車が来るので、自転車乗りもそれなりに速度を場合によっては落とさないと前からくる自転車に衝突する可能性かあり、したがって、そのたびに速度を落としたり、相手の自転車をよけたりします。しかし、もし一方通行制にするとそのような心配がなく、しかも歩道での走行自転車の数も減り、さらに走りやすくなり、その結果、より速度をだして走りやすくなるからです。肝心なのは歩道を走る自転車の速度を如何に落とさせるかということを考えるべきです。

追記(2011/06/06)
財団法人・日本自転車普及協会が最近発表したデータによると、歩行中に自転車との事故を経験した約2000人のうち78・5%は「相手の自転車に逃げられた」と回答。警察に届け出た人は5・8%にとどまるとのことです。多くは軽傷だが、被害者はとっさに対応できず、謝罪も賠償もないまま泣き寝入りするケースも少なくない。ある意味では歩道上を自転車で走る人たちのモラルは極めて低いことになります。


追記(2011/12/15)
その後もいろいろな機会に自転車の歩道通行に対する意見が出ていますが、いずれも現実を無視したものばかりです。歩道の拡大とか、車道の拡大、車道の駐車禁止などなど。また、このような議論のときには必ず外国との比較がされますが、これは全くのナンセンスなのです。日本の車道と欧州の車道の違いを無視して、外国では良く整備されていて自転車専用のレ-ンが車道に設定されていることが取り上げられているのです。日本のような狭い車道のことは棚に上げて言葉だけの理論にすぎないと思うのです。現実を注視すれば、そのような議論が無理なことは自明のことなのです。したがって、やはり現状を維持しながら歩行者の安全を講じるのが鉄則なのです。


追記(2012/12/12)
最近になって自転車専用道路整備のガイドラインが示されていますが、これはあくまでも道路が広い場合にのみ可能なのです。東京都内の住宅街のような狭い道路ではとてもそのような自転車専用道路を設けることは不可能なのです。ですから、やはり、歩道に花壇のような障害物をところどころにおいて自転車の歩道上での速度を落とす方法を考えるしかないのです。

追記(2013/04/10)
きょうの新聞によると、10日午前0時10分頃、大阪市北区天神橋の天神橋筋商店街で、自転車で走行中の男性が、対向してきた自転車と正面衝突した。 男性は、同市生野区の会社員(50)とみられ、頭を打って意識不明の重体。このような商店街での自転車通行はいたるところにあるので、この際そのようなところでの自転車走行は禁止すべきなのですが、どうしてそのような簡単な措置がとれないのでしょうか。

追記(2014/Nov 30)
最近の雑誌に以下のような記事がありました。
自転車活用は、ロンドンと尼崎に学べ
江村 英哲

このような簡単な紹介記事がまともの雑誌に載ること自体が非現実的なのです。例えば、東京の住宅街ではとてもそのような自転車専用レインの設定は不可能なのです。実際に自転車が庶民に足になっているのは銀座のような幅の広い道路のある地区ではないのです。たんなる外国視察でその背景を考慮しないとたんなる希望的観測記事に終わってしまうのです。でもこんなことが記事になるということはなかなか日本ではこの問題は解決されないでしょう。

2011年2月 7日 (月)

私の架空発明 (10) テレビ画面に電話メッセージ

私の架空発明 (10) テレビ画面に電話メッセージ

高齢社会においては一人暮らしのお年寄りの存在が大きな社会問題となっています。ことに今日のような孤独死が増加している現状では第三者の直接、間接の介入が必要になります。一人暮らしの高齢者は一日中家に居て、しかもテレビの前に座っている人も多いと思います。しかも場合によっては耳が遠く、また行動も遅いので電話がかかってきても気がつかなかったり、受話器を取りに行くのにもかなりの時間がかかることもあります。
そこで考えたのですが、電話の会話ををテレビの画面に文字で流すことができるような装置は出来ないものでしょうか。或いは、電話が鳴っている時には同時にテレビの画面に「電話がかかっていますよ」とのメッセージか現れるようにすることです。もしこのような装置ができれば一人暮らしの高齢者との交流が間接的によくなるかも知れません。もちろん、最終的にはテレビに向かって電話相手との会話もできるようになれば最高かも知れません。現存のSkypeシステムを極めて使いやすいようにすることもひとつの方法かもしれません。極めて簡単で使いやすいように高齢者向けの携帯が売られているような感覚で、Skypeを改良するのも一つのほうほかもしれません。

2011年2月 1日 (火)

私の架空発明 (9) 自動車の排気ガス利用

私の架空発明 (9) 車の排気ガス利用

自動車の排気ガスは最高900℃以上にもなるので、そのまま20℃前後の大気中に放出すると急激に膨張 して、これまた大きな音を出すとのこです。そこで、マフラーで膨張させたり、長いエキゾーストシステムを流すことに よってだんだんと温度を下げ、大気との温度差を小さくするようになっています。

ここで私が考えたのはエンジンから排出直後の高温ガスを道路上の雪とか氷溶解に転用できないかということです。つまり、エンジンから直接細いパイプを四車輪の前に誘導し、そこから高温の排気ガスを噴き出させれば雪や氷は瞬時に溶解するはずです。もちろん、そのような状態の道路では早くは走れません。つまり、のろのろ運転のような状態では排気ガスをマフラーで防音効果を期待しないでもあまり問題はないと思います。もっとも、そのままの高温の排気ガスを直接使うとタイヤや車道に影響しますが、実験を重なれば必ずしも900℃の排気ガスでなく、もう少し低温にさせた排気ガスでも目的には叶うかも知れません。素人的にはこのような装置は簡単だと思うのですが、どこかの自動車メーカーがこのような装置を作ってくれないものでしょうか。

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