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2011年1月の記事

2011年1月24日 (月)

常識という罠からの解放 (2) うがいとキズの手当て

常識という罠からの解放 (2) うがいとキズの手当て

風邪の季節になるとかならず、うがいをしましょうとのスローガンが流れます。この「うがい」という言葉の起源は「鵜飼い」だそうです。もっとも、これは「うかい」と発音し「うがい」とは濁りません。そう、あの「鵜」を使って魚を捕る特殊な技法のことです。いったん魚を飲み込んで、その後吐き出す様子が似ていることから「うがい」と呼ばれるようになったとのことです。なんだかこじつけ的な説明のようにも思えます。「鵜飼い」の記録は西暦600年の文献にあるそうですが、「うがい」という言葉が出てくるのはずっと後のことで、1444年に作られた国語辞典「下学集」あたりからといわれています。なので「うがい」は、せいぜいここ650年くらいの習慣なのかもしれません。

 昔から「うがいは風邪予防になる」と言われていましたが、実はちゃんと検証されていませんでした。2002年~03年にかけて、京都大学で「本当に<うがいは風邪予防になるのか>」という研究が行われましたが、研究の謳い文句は「世界初のうがいによる風邪予防効果の無作為割付研究」。"世界初"ということに驚いてしまいますが、ちょっと意外な結果が当時、話題になりました。

 この実験、全国からボランティア387名を募り、「何もしない」「水でうがい」「ヨード液でうがい」の3グループにくじ引きで分けて、2カ月間にわたって振り分けられたうがい行為を行なってもらい、その人たちが「風邪をひいたか、ひかないか」を調べるというシンプルなもの。結果は風邪をひいた人の率で発表され、「何もしない人」は100人中26.4人、「水うがい」をしていた人は17人、「ヨード液うがい」していた人は23.6人だったそうです。「何もしない人」と比べて「水うがいをしていた人」の風邪の発症率は4割も減少しました。しかも、ヨード液でうがいをしてもその効果は水の場合とそれほど差がなく、17%対 23.6%であり、あまり意味がないようです。つまり、従来の常識とされていたうがいには殺菌作用のある薬ですることという概念はあまり意味はなく、普通の水で十分だということです。

それ以外にも、一般的な傷の手当でも従来の常識がまちがいであることが報告されています。一般的な常識としては
  傷は消毒しないと化膿する
  傷は乾燥させる、濡らしてはいけない
  かさぶたが出来るのは傷が治りかけている証拠
これら三つの常識はすべて誤りであるということです。キズの閉鎖湿潤療法が正しい処置となっています。つまり、
  傷を水でよくあらう。消毒はしない。
  傷を被うようにすこし大きめのラップをあてて、縁をテプで留める。可能ならどこかに隙間を残しておく。
  翌日から毎日キズを水で洗い、ラップを交換。夏場など発汗の多い季節は1-2度繰り返す。
これで切り傷、擦り傷などのけがは治るのです。
このように今まで常識と思ってしていたことが意外と正しい方法ではないことがあるのです。なお、「キズの湿潤療法」で検索すると詳しい解説が見られます。


2011年1月23日 (日)

私の架空発明 (8) 速度標識の自動読み取り装置 (**)

私の架空発明 (8) 速度標識の自動読み取り装置

自動車社会では道路上での速度はそれぞれの時速制限標識に従って走行するのが原則であり、またマナ-でもあるわけです。ところが、実際の車社会では道路、とくに高速道路での制限速度無視、スピードの出しすぎ、無理な追い越し、などが原因で引き起こされる自動車事故は絶えません。自動車事故による死亡も毎年上昇傾向にあり、年間を通じますと百人単位の人が自動車事故で亡くなっているといわれています。これは日本だけの現象ではなく、世界共通の現象です。その反対に、最近では都心部では時速30km, 20kmのようなこまめな標識も使われるようになっています。そうなると、道路横に設置されている制限速度標識をかなりこまめに注意しながら運転しなければなりません。

これらの走行違反を防ぐ為にところどころにスピード違反測定用のカメラが備え付けられてありますが、その効果は必ずしも満足するものではなく、しかも極めて少数のカメラが設置されているにすぎません。さらに悪いことにはそのような隠しカメラを予め検知する装置が売られたりしていますので、なかなかスピード違反はなくなりません。

いったい道路に設置されている時速制限標識はなんのために設置されているのでしょうか。とくに高速を走っていますととかく制限速度を忘れてしまうことがあります。高速道路であまり混雑していないような状況の時には最高制限時速を軽く超えてしまうことがあります。ところがそのような時に突然目の前に時速制限80kmの標識が現れてもおおくのドライバ-は即座にブレーキをかけて時速を落とすことはあまりしないようです。ともかくいままでの惰性で走りながら段々と速度を落としていくことが多いのです。もっとも、多くの場合はそのような速度制限は無視、あるいは見逃されてしまう場合もあります。しかし、ここでなぜそのような時速制限標識が現れたのかとの理由を考えるひとはまずいないのではないでしょうか。

そのような時速制限標識の変更はそれなりに理由があるのです。たとえばカーブとかトンネルとか工事現場など、この先にあり、したがってスピ-ドの出しすぎはある程度の危険を伴うことが予測されるので速度を落としてくださいとの警告なのです。それぞれの時速制限標識は伊達にあるのではなく、ましてや飾り物でもないのです。でもこのことはそのような時速制限標識無視に起因する事故寸前の状況を経験したことの無い人にはまず理解されないと思います。

しかし、現実にはそのようなところどころに設置されてある時速制限標識、場所によっては頻繁に変わる速度制限標識を無視して自動車事故を起すことがあるわけです。自動車事故の多くはこの制限時速無視にあるようです。これはなにも時速に限らず、場所によっては追い越し禁止の標識も意外と無視され事故を起しています。

そこで考えたのですが、これら時速制限標識を時速と連動させることです。つまり、時速制限標識から一定の電波を発信させ、自動車内にはその電波のセンサーがあり、時速制限標識の指示通りに自動的に速度をおとすような装置を車体に取り付けるのです。そうすれば、時速制限が100kmから80kmに標識が変われば、自動車の速度も自動的に80kmにまで下がるようにするのです。そうすればかなりの事故は防げるはずです。ちょうど日本では時速が一定以上になった場合には警告音が鳴るようになる装置が一時ありましたが(でもこの装置はアイディアは悪くないと思うのですが)、どうしてか最近はあまり使われていないのでしょうか。)、あれと似たような考えで、時速を自動的に、しかも強制的にコントロールする装置を考案することです。或いは電波発信の代わりに自動車自体に自動読み取りカメラを設置する方法もあります。制限速度標識は一定の高さに設置されていますので、読み取りに関してはあまり問題はないように思えます。

   たしか、北欧の一部の都市ではこれとやや似たような発想で、自動車内に取り付けられてある読み取り機がそれぞれの時速制限標識を読み取ってその機器のモニターに制限時速が表示される装置が導入されていることを新聞で読んだことがあります。でも、これではあくまでもドライバーの良心に任せることになり、あまり効果はないのではないでしょうか。それでも、時速違反件数はかなり減ったとか。私の発想はこのような考えをもっと強制的に推し進めて、自動的に速度を落とす装置、つまり時速制限標識から発信、あるいは読みとられたシグナルを受けて、自動車のモ-ターにそのシグナルを連動させ時速を自動的に落とす装置を開発することです。

   もしこのような装置が各自動車内に取り付けられるようになれば交通事故死、すくなくともスピード違反が原因で起こる事故死はかなり防げると思うのです。このよな装置は世界的にもそのまま通用すると思うのです。もっとも、その際にはそれぞれの時速制限標識を国際的に統一する必要があります。

(補足  この考えはWorld Readerという日本のメイルマガジン(2003/3)に発表したものの再掲ですが、このような装置は今でも実現していないようです。なお、このメイルマガジンは現在は廃刊になっていますが、検索すればすべてが見られます。)

追加(2014 Sept)
最近、三菱の新しい小型自動車を購入したところ、この車には自動的に時速制限標識のあるところでその速度を少しでも超えると自動的に「制限速度を超えないでください」との音声が自動的に流れるので、ここに書いた私の提案はすでに現実化されていることになります。でもこれはあくまでも音声警告だけであり、それを無視して走ることはできるのです。(o^-^o)。

追加(2014 Oct)
最近の報道によるとホンダが新しい型のレジェンドに制限時速とか進入禁止などのサインの自動読取装置をつけている、となっていました。まさに私が考えていた方法と近似しているわけです。私の発想が十年後になって実現されたことになります。

2011年1月20日 (木)

私の架空発明(7) スポ-ツジムでの発電

   町のいたるところに見られるスポ-ツジム、老いも若きも一生懸命汗を流しながらいろいろな器具を使っています。自転車漕ぎから始まってランニングマシ-ンなど、わざわざそのようなところに行かなくとも我が家でも町の中でもできそうな運動もかなりあります。しかも、わさわざお金を払ってしているのです。世の中変われば変わるものです。それというのもこのような施設が繁盛しているからです。

 

   しかし、そのような施設の繁盛ぶりを見ていてふと考えるのはあれだけのエネルギ-を発電に使えないかということです。実はこのような発想を2009.01.12の朝日新聞の声欄に「健康器具から発電出来ぬか」として私の投書が載ったのですが、その後もう二年近く経っているのに誰もそのような装置を開発していないようです。もし、そのような装置が開発されれば地球温暖化予防にも貢献するものとも考えられるのですが・・・・・。

 

   ところが、最近になってデンマ-クのコペンハ-ゲンのホテルがこの発想を実現したことが報道されていました。つまり、このホテル内にあるスポ-ツ施設で自転車こぎで発電することができ、宿泊客が10ワット時を発電するごとにホテルが食事券を進呈しているとのことです。

 

   つまり、このような装置を作ること自体はそれほど難しいことではないことです。技術的な問題は発電した電気を蓄える蓄電池の整備かも知れません。もし、世界中のスポ-ツジムがこのような装置を装備したら大変なエネ.ルギ-の節約になります。どこかの会社がそのような設備を開発してほしいものです。

 

   実はこのアイデアをすでにミズノ・スポツ店に提案しましたが、参考にさせていただきますとの返事は来ているのですが…(2008 Jan.11)。

 

でもこんな簡単な装置を誰も考えないのは何故なのでしょうかね。バ

2011年1月18日 (火)

患者からの副作用報告 (2)

 患者からの副作用情報の取り扱いはいろいろな意味で複雑で、困難な場合があります。とくにいろいろなフォロアップが必要になる可能性がきわめて高いのです。しかも、患者各人の医薬品に対する知識も千差万別ですのでいろいろな記入内容のものが来ることです。したがって、いままで日本の行政、企業が積極的に患者からの副作用情報収集に取り組んでこなかった理由はその複雑性、デ-タパリディションの困難さ、などがあるからです。さらに、もし今後患者からの副作用報告がどんどん寄せられてくると仮定したとき、まずそれらを対処する人員が必要になります。企業内でも機構内でももしそのような状態になったらまずお手上げ状態になるからです。
  しかし、時代は変化していますので、やはり患者からの副作用対応は積極的にすべきです。ではどのような対策が今後必要になるのだろうか。

  まず第一に、患者からの副作用報告提出先を一つに決めることです。すなわち、現在の機構あてにすることです。なぜならば副作用報告用紙にその送り先を一つにできるのは機構以外にはないからです。各企業あてにすると患者はその選択に困ってしまうからです。次に前回の(1)にも述べたように正副二通の報告用紙を作り、そこには通し番号を印刷しておくことです。この通し番号制にすることにより、情報処理、照会が容易になります。また、「副」の用紙は患者が手元に置いていますので、将来的な照会にも便利ですし、また万が一の時の報告済みの証拠にもなるからです。

  次に採るべき措置はそのような副作用報告の可能性の広報です。各薬局、ドラックストア、医療機関にその旨を書いたポスタ-を張り出すことです。そして前記のような報告用紙をそれぞれの場所に置いておくことです。つまり、誰でも気楽にその用紙を取って報告することができるようにすることです。できれば無料郵送用の封筒も一緒にしておくことが必要かも知れません。その費用は機構が持つことになるでしょう。

  ただ、このような制度を本格的にした場合、内容的には千差万別の副作用情報が集まりますので、その処理に企業がまず困るかも知れません。しかし、最近では副作用、つまり有害反応症例を集めているのではなく、有害事象を集めていますよと企業は強調していますので、患者情報も文字通り有害事象となりますので、その処理、対応には何らの支障もないはずです。ただ、このような制度にした場合、問題になるのは患者情報と医療関係者からの情報とでの取り扱い基準が異なるといったダブルスタンダドがあることです。つまり、現時点では医療関係者は機構に副作用情報を直接送る場合には「軽微なものは除く」となっているからです。その一方、患者からは軽微な副作用も含めてすべてが報告されてくるからです。

  したがって、このようないろいろな問題を今後どのように処理、対応すべきかが前記の大学研究者たちの検討課題になるのではないでしょうか。報道によればこれら大学研究者たちの厚生科学研究は今後数年継続するようですので、そのような問題にも触れることでしょう。いずれにしても、この患者からの副作用報告は意外といろいろな問題を抱えているので、もし本格的にしかも大々的にじっしするといろいろと難しい問題が派生するのです。したがって、その基本でもある何の目的で患者からの情報を集めるのか、その結果どのように活用できるのかという視点を解決できない限りは極めて難しいのです。現在のような医療関係者からの副作用報告自体が「氷山の一角」であり、またそれぞれの報告の内容の精度が天と地の差があるような状態なのです。したがって、結果的には行政の言葉を借りれば総論賛成、各論反対になりかねないのです。

追記(2011/06/30)
B型肝炎訴訟が決着したことに関しての新聞記事によると、当時の厚生省は注射器の使いまわし使用などに関していろいろな警告、通達などをだしていたが、これらの指導がなぜ徹底されていなかったのかなどの疑問は依然解消されていない、と報道されていました。このことは患者からの副作用報告の可能性を通知しておきながらその後はまったく何もしていないことと同じだと思います。将来、もし患者からの副作用報告の問題でなにか社会的に不具合が生じたときには、この新聞記事の表現がそのままあてはまることになります。

追記その二(2011/07/19)
今回の原発事故の影響としての牛肉汚染が問題となっています。報道によると国は原発事故後の三月十九日に関係都道府県に対して家畜には事故以前の餌を与えるようにとの通知を出していたが、実際には最終段階での各農家にはそのような通知の周知の徹底が満足するような状態ではなかった。通例はこのような通知は農林水産省から県に連絡し、その後は県が関係団体などを介して実際の各農家に通知されることになっているが、現実には各農家にまでそのような通知が届いているかどうかを確認する制度、慣例は存在しない。これはどのような行政通知でも同じことで、この種の通知にはもしそれに応じないときにも一定の法的効果が発生しないからである。今回のこのような通知の末端での不徹底は別に新しいことではなく、殆どの行政通知に共通しているのである。しかし、通知を出す行政側は通知を出せばすべての責任は各都道府県に移ってしまうので、今回のような事態は極めて稀であるとの安易なスタンスをとっているのが普通である。したがって、この機会に行政通知の周知徹底策、方法を講じなければ、今回の牛肉汚染のことも今後の何らの教訓にもならないのである。

  つまり、本稿の中に触れている患者からの副作用に関する通知もまったく同じことで、この通知を受け取った各都道府県はその通知を関係機関に流しただけでおしまいなのです。ですからそのような通知は医療関係者や製薬企業は受け取ってそれでおしまいで、何らの対策も講じていないのです。つまり、このような通知には何らの強制力もないからです。


2011年1月17日 (月)

アメリカは中国の領土である

アメリカは中国の領土である

 

尖閣列島の所有に関して中国は歴史的な情報を持ち出して、明朝の時代までさかのぼっています。それによると明の時代に琉球と呼ばれていた沖縄に派遣した使節の記録などを根拠に尖閣列島は中国が発見し、命名したと明言しています。しかし、このような歴史的事実として意外と知られていないのは明の時代に中国の大艦隊が太平洋を越えてアメリカ大陸をコロンブスより先に発見したことです。当時の明の鄭和がインド洋、アフリカまで遠征し勢力を拡大したということです。

つまり、コロンブスがアメリカ大陸を発見したとされているのは教科書的には1492年となっています。ところが、1421年に既に中国の鄭和(Zheng He)提督がアメリカ大陸に先に到着していたとのことです。この間の歴史的な考察、検証は次の本に詳細に記録されています。この本にはいろいろと具体的な事実を以て解説していますので、極めて説得性が高いと考えられます。この本は読み物としても実にいろいろなことを教えてくれますので、一般的な教養書としてもお勧めです。われわれの知らない事実がいたるところにあります。
「1421 The year China discovered the world」 (Gavin Menzies/2002、邦訳あり。ソニ-マガジンズ)

つまり現在の中国共産党の屁理屈論に従えば、尖閣列島が歴史的記述の推測から中国の領土であると主張するならば、アメリカ大陸に関しては尖閣列島以上の歴史的、科学的根拠があることからコロンブスよりも七十年近く前に中国が発見していることとされているのです。この中国によるアメリカ大陸発見のほうが尖閣列島よりもはるかに歴史的事実、更には科学的事実などいろいろな根拠がこの本には記載されています。それにも係らず、中国共産党はアメリカ大陸に関しては中国の領土とは一言も言及していないのはなぜなのでしょうか。それはアメリカには太刀打ちできないからです。

ある人が現在の中国人政治家の詭弁、悪弁、珍弁などに関し面白いたとえを表現しています。それは中国人は町で美人をみつけるとすぐにあれは俺の女房だといって連れていってしまうとのことです。つまり、相手次第ではどのような詭弁を使って行動しても当たり前で、平気なのです。

そのほかにも、最近では南シナ海のスカボロー礁への領有権を中国が主張していますが、その根拠は中国外交部によると、モンゴルの支配下にあった13世紀に中国船がスカボロー礁を訪れたことを領有権の根拠としているが、この理屈から言えばやはり北アメリカは中国の領土になるのは明白である。

それにしても、日本政府はなぜわさわさ尖閣諸島を国有化することを大々的に公言する必要があるのでしょうか。石原知事も同じことで、尖閣諸島が日本固有の領土であるならば、なにもあのように大げさすぎる新聞広告などを出さなくとも、黙って実行すれば済むはずなのです。あのように大々的に公言することにより、中国を刺激し、外交問題にも発展してしまう可能性が高いのです。なぜ粛々と東京都が購入しなかったのか。もしかしたら石原さんもパフォマンスを意識してあのような行為に出たのかもしれません。、

 

このように考えると対外政策に関しては日本よりも中国のほうが一枚上です。

追記(2021 Oct)

最近のスイスの新聞にアメリカ大陸でヴァイキングの痕跡が発見されたとのことです。その場所は現在のカナダのL'Anse aux Meadowsという場所で、その痕跡から1021年とされています。

2011年1月14日 (金)

神社仏閣はもっと開放的に

神社仏閣はもっと開放的に

   年末年始には宗教的な催しが最高潮に達する時期とも考えられます。まず、クリスマスから始まり、大晦日の神社詣で、そして元旦三が日の間の神社、お寺への初詣など、どこに行っても参拝者で満ち溢れています。日本を知らないひとが初めて日本のクリスマス光景を見ればなんと日本には多くのキリスト教徒が居ることか、そして大晦日、元旦の神社、お寺に行けばこれまたものすごい人出で驚くばかりです。したがって、なんと日本人は信心深いのかとさらに驚嘆するかも知れません。

   なにしろ、欧州の国、たとえばドイツとかスイスなどでのキリスト教徒は名目上どんどん減っているからです。その理由のひとつはこれらの国でのキリスト教徒は教会税を毎年支払わなければならず、この教会税が家計に余計な負担をかけるため教会から脱退しその結果信者の数も自然減につながってしまうのです。このような観点から見れば日本には宗教税がないのはこれまた驚きかも知れません。
   
   その半面、日本では神道の神社、仏教の仏閣には自分が属している宗教とは全く関係なくお参りに行くことが社会通念として当然のことと受け止められ、日常茶飯事のごとく行われています。その典型的な例として日本人の結婚式が挙げられます。つまり結婚式にはキリスト教、神道、仏教、どれでも選べますし、誰も問題化しません。海外ではそうはいかず、同じキリスト教徒でも、カトリックの信者がプロテスタントの教会で結婚式を挙げるなどは想像もできず、まったく不可能なのです。したがって、日本人が結婚式にさいしどの宗教を選ぶかという自由さへの理解は外国人に全く不可解というほかありません。

   ある意味では日本人ほど宗教に寛容な民族は存在しないかもしれません。いっぽう、その裏返しの面では、日本人ほど宗教のことについて無知な民族も居ないといっても過言ではありません。なぜなら、仮に神道を信奉する家族でも、実際に神道に関連した教典を読んだこともなく、また仮に仏教徒と言っても仏典を読んだことのない人がほとんどだからです。したがって多くの日本人は海外で地元の人に仏教とか神教の内容について質問されても全く答えられないのです。その根底には学校教育の中に宗教がないことにも起因しています。それにも係らず、観光で地方に行ってお寺やお宮があれば無意識にごく自然にそれらの神社仏閣の前で手を合わせ拝むことには何らの抵抗感もないのです。日本人の古来からの社会習慣と言ってしまえばそれまでですが、外国人にしてみればそのような日本人の宗教に関連した行動、習慣と宗教的な知識の欠如、無関心を知ったらとても理解は出来ないはずです。

   なにしろ、日本から一端外に目を向ければ、今日この頃では宗教が原因での争いが世界中で頻発しているからです。日本人にとってみれば宗教が原因で争いが起こり、暴動、戦争にまで発展するという現象はまったく理解できないはずです。いずれにしても、そのような宗教に極めて寛大と受け止められる日本人はお寺や神社の前で手を合わせてお参りすることには何らの違和感を感じないはずです。
  
  したがって、そのような環境下の日本では、改めて神社、お寺のような建物はなんのためにあるのかと考える機会は意外と少ないのです。そのような視点から改めて考えてみると、キリスト教とかイスラム教などではお祈りは必ずそれぞれの教会の中に入ってするのが当たり前ですが、日本では誰も神社やお寺の前、つまり神社仏閣の建物のそとで拝むことに何らの抵抗も感じないはずです。それらの建物に入ることも例外を除いては入ることは出来ない場合がほとんどです。ましてや、それらの建物の中に入って拝んだり、講話を聴く可能性はほとんどありません。

   また、お坊さんや神主さんも定期的にそれらの建物の中で開放的に講話を実践し、信徒と一緒に礼拝するような発想、習慣は殆どゼロに近いのです。考えてみればこれほどおかしな現象はないのですが、日本国内に居住し、先祖代々長年にわたって受け継がれた習慣にたいしては誰も奇とは感じないのです。さらに矛盾とも思われる習慣は日本の家庭には仏教徒であれば仏壇があり、神教徒であれば神棚があります。場合によってはひとつの屋根の下に仏壇と神棚が共存する場合も珍しくはないのです。考えてみれば、このような現象は神社仏閣が閉鎖的であるため家庭内にその支所を作っているものと屁理屈的にも考えられますが、日本人はそのような視点からは家庭内の仏壇、神棚を解釈する人は誰もおりません。つまり、穿った解釈をすれば、神社、仏閣が閉鎖的であるため祖先の霊を家庭内に取り入れているものとも解釈できます。

   このように考えてみると神社、お寺をもっと身近な存在にし、キリスト教徒が定期的に教会にお参りに行くように、神社、お寺側がもっと積極的に信者との接触を日常的にする考えを持ってほしいものです。宗教心がどの程度あるかないかでは日常生活におけるいろいろな出来事にも深く関与してくるはずなのです。よくいわれている「苦しい時の神頼み」がありますが、この表現自体が現在の社会では死語に近いのではないでしょうか。現在のような社会の不況、孤独死の続発、家庭内問題の頻発、自殺者の増加など、本当に心から助けを求めている大勢のひとたちが居るにも係らず、そのような人たちは最後の段階になっても決して宗教に救いを求めるような行動を起こしません。そこには宗教の影響が全く反映されていないからです。日本では宗教と冠婚葬祭という表現は私たちの日常生活に密接な関係にありますが、貧困救済という概念は宗教界には皆無のような気がします。

  体制的には日本の宗教家は冠婚葬祭だけで満足しているのでしょうか。そのような意味でも、神主、僧侶の一般人に対する日常的接触をもっと深める機会を作ってはどうだろうか。その一つの方法として、神社仏閣を開放し、建物内での講話を継続的なものにする運動を始めては如何なものだろうか。宗教をより深く知り、宗教との係りを持つことは間接的に人間的な生き方を改めて知るよい機会でもあり、今日のような人間関係が荒れている社会では宗教心を持つことにより、多少なりとも社会に貢献できる心構えが深まるものではなかろうか。つまり、宗教は相手が来るのを待つといった受け身の姿勢ではなく、相手の心の中に飛び込んでいくといった積極的な発想への転換が必要と考えられる。
 
  現在の日本での宗教法人は非課税の対象になっています。ある新聞でこの問題に関し、「宗教側の人が、宗教活動が非課税なのは不特定多数の利益になる公益性が認められている」と述べられていました、本当にそうなのでしょうか。そもそも宗教活動の目的は誰のためにあるのでしょうか。それは宗教側にあるのではなく、信者のためにあるはずです。

  日本のように仏教、神教が国民の間では共存し、誰も自由にお寺参り、神社参拝が出来るような国ではたしかに不特定多数の利益になるのかもしれません。しかし、実際に信者がそのような公益性の高いという言われる神社仏閣にお参りしてもその中に入ってお祈りすることは通常の場合には不可能なのです。特別な目的で、特別にお布施のような形で金銭を納入して初めてその中に入れるわけで、それ以外の場合には建物の外からしか参拝できないのはある意味では不特定多数の人の利益を念頭に置いていると考えることは可能だと思います。

  しかし、例えば、キリスト教では信者でなくとも誰でも教会の中に入って宗教的な環境に浸ることが出来るのです。これこそ不特定多数の利益に供しているとは考えられないのでしょうか。つまり、要点は日本の宗教側は宗教活動が神社仏閣の外で信者が勝手に拝むことを不特定多数の利益につながっているという独善的な考えがあるとしか思えないのです。

  なお、このような問題に関連して、宗教法人の非課税があります。

追加(2016 Sept)
最近の報道によりますと、高さ五メトルの「平安の秘仏」が東京にて公開されるとのことです。滋賀県甲賀市に所在する天台宗の古刹、櫟野寺(らくやじ)には重要文化財に指定される平安時代の仏像が20体も伝わります。
その数は、優れた仏像が数多く残る滋賀県でも特筆されます。本展は、20体すべてを寺外、東京の国立博物館、で展示されるのは初めての機会です。、

このことを別な観点から考えてみました。
つまり、そのような仏像を寺内から取り出して遠く離れた東京の人たちにもその仏像を鑑賞、拝んでほしいという狙いがあるからなのです。
このことはある意味では前代未聞の出来事ではないでしょうか。なぜかと言いますと、そのような秘仏が収まっている寺院に信者や信仰心のある人たちが参拝するというのが従来の感覚なのです。ところが今回の試みは仏様が向こうからやってきたと捉えることが出来るからです。このような試みは単なる美術品の部外展示という従来の概念とは異なるのです。従来の概念では寺院仏閣は相手、つまり信者が来るのを待っているという、待ちの姿勢だったのです。

このことに関連して数年前にスイスで行われたベルディのオペラ「トラビヤ-タ」がチュウリッヒの駅構内で無料で演出されたことです。この時の観衆の一人が「オペラはいつも劇場に行ってお金を払って鑑賞するだけだったが、
今回はオペラが向こうからやってきた」とのコメントをしていることでした。まさに、このコメントのように今回の仏像の手東京展示は仏様が向こうからやってきたとも考えられるのです。

中国は日本を攻撃してどこが悪い (*)

  最近の報道によると中国が空母を持つことに対してのアメリカなどの外国の懸念に対し、中国共産党は日本だって戦争中に空母を何隻も持っていたではないか、と反論していることです。確かにこの反論は一見説得性があるようにも受け止められますが、当時の日本と現在の中国の立場とでは全く様子が異なりますので、このような理屈はあまり通用しないのではないでしょうか。

もっとも、歴史的には中国に兵を進めたのはいつも日本からだけであって、唯一の例外は蒙古の九州侵攻ぐらいで、日本が占領されたことは皆無なことを考えると現在の中国共産党の論理にたいして反論することは難しいかも知れません。

ともかく中国は歴史的な被害意識が極めて強く、識者によると中国はアヘン戦争以来の被害者意識が連綿と続いているとのことです。確かに、被害者としての中国の認識は第三者的に立てば理解することはできます。それと対照的なのは中国に対する加害者である日本はもうとっくの昔に中国に対してしてきたことを忘れているのです。したがって、日清戦争のことなどは今の日本の若い人には全く関係のないことなのです。

ともかく日本のテレビには過去の戦争のことは全く放映されないのです。これがドイツのテレビになるといまだにナチ時代の戦争実録が放映されるのです。日本のテレビにかっての中日戦争の画面がでることはほとんど無いので今の若い世代の人たちには日本が中国大陸に兵を進めたことなどは知らないし、また関心もまったく無いのです。

  問題はこのような理屈が中国共産党の常套手段であることの意味を考えたとき、その次に来るのは、近い将来、中国が日本を攻撃、侵略し、日本の一部に軍を進めるような事態が起きても、日本は大戦中に中国に軍を進めてきたではないか、だからわれわれ中国が日本に攻め入って何が悪いのか、となることです。
これが、現在の中国共産党の外交論理構成なのです。

  相手の無知な発言にたいしては完全に無視することが一番よいのですが、しかし、考えてみれば末恐ろしい気がします。すくなくとも中国が共産党独裁政権下である限りこの危険性はゼロにはなりません。

2011年1月13日 (木)

学校における薬害教育

学校における薬害教育に思うこと

  最近、中学生などを対象にした薬害教育導入のための「薬害を学び再発を防止するための教育に関する検討会」の会議が発足し、厚生労働省が一昨年の2009年10月、中学生などを対象にした薬害教育用教材を作成するための検討会を設置して検討がなされています。その目的は、中学生が薬害事件を通じて医薬品の理解を深めて、健康被害の防止に役立つように、中学校教科書の内容について検討することとなっています。確かに日本は過去にいろいろな薬害が発生し、その被害者の数も世界に例をみないほどの薬害天国になっているのも事実です。しかし、薬害教育の目的は過去の薬害がなぜ防げなかったという視点での討議、研究、広報がなされるべきなのですが、このような観点への配慮がこの検討会ではあまりされていないのが気になります。薬害は結果であり、その発生に至る過程においていろいろな問題が介在していたわけで、薬害と言う結果の事実だけを強調的に教えてもあまり意味はないかもしれません。ましてや、相手が中学生で薬に対する理解が不十分な環境で薬害が強調されて教育されればその反動として薬は怖いものであるという概念が植え付けられ、医薬品治療に対する拒絶感が生まれないとも限りません。つまり、薬害教育の対象を中学生にするのではなく、やはり大学生レベルにするべきかもしれません。しかも医学部とか薬学部に限定するのではなくすべての大学の中に薬害講座を設定し、さらにときとして該当薬害患者自身による出張講義も含めることです。

  薬害の場合もそうですが、何か重大なことが起こった時の対応のひとつは、その原因を速やかに究明することです。つまり、どうしてそのようなことが起こったのかとの解明がなされなければ、当然の結果としてその予防策を講じることはできないはずなのです。さらに、ただ解明するのではなく、そのような解明の結果が分かれば、ではそれを防ぐにはどのような対策が講じられるべきかまで進展しなければなりません。しかし、今までのいろいろな事故関連の対策としては薬害の場合にはこのような観点があまり強調されていないのです。今までの日本での薬害の大半は原因究明よりも患者救済に重点が置かれ、裁判にまで持ち込まれても和解で終わっているのがほとんどです。その結果、薬害予防対策にはあまり貢献していないのです。そのため、似たような薬害がその後も発生するのです。確かに、患者の救済という観点からは長期にわたる裁判の結果を待つのではなく、素早い対応が緊急の課題になります。
  
  このような状況から抜け出す一つの考え方とし、薬害の裁判は従来の裁判所機能に任せるのではなく、薬害をも含めた医療事故全体、あるいはさらにその枠を広げて大気汚染とか、さらには今後起こりえるかも知れない電磁波被害者を対象にした科学裁判所、あるいは医療裁判所のような特別な組織を作り、そこでは原因究明、対策などを専門的に判断することです。しかも、そのような裁判所の機能には迅速性を持たせることです。(「科学裁判所設立の提案」日本医事新報No.3780, p.76, 1996 ) しかも、この裁判所は企業などの責任を問うのではなく、関係企業がその原因究明を行いその対策を公示すること、そして必要とあれば患者救済対策を講じることにあります。例えば薬害年金のような制度を各社が設立するのも一つの方法かも知れません。現在の機構の中にある副作用共済基金は企業からの拠出金によってなりたっている現状を踏まえると、この年金制度への切り替えのほうがより自由度が高くなり、また企業内のの薬害に対する認識もたかまるのではなかろうかか。つまり、現在の薬害被害者救済対策を官製から民製に切り替えるのです。薬害被害者救済という概念を行政の枠組みの中で考えるのではなく、民事関連としてそれぞれの関係企業に負担させてはどうなのでしょうか。現在のような薬害対策を行政に任せっぱなしの姿勢では企業内の薬害に対する認識がややもすると薄れてしまうからです。

  さらに、重大なことは薬害の被害の実態をもっと多くの人に知ってもらう努力をすべきなのです。戦争被害同様に薬害被害も時が経つに従って忘却の彼方に追いやらてしまう可能性が極めて高いのです。例えば、薬害被害者の声をもっと大々的に広報すべきかもしれません。そのような試みのひとつとして被害者の会の人たちを中心にした会合を自分たちだけに向けるのではなく、学生をも含めた若い人たちに被害の実態をもっと知ってもらうという対外的、しかも積極的な運動も一つの方法と考えられるのではないでしょうか。例えば、薬害とはすこし次元が異なるが「水俣病」に関して原田正純氏が熊本学園大学で「水俣学」という講義に患者も講師として参加していることは薬害教育にも参考になるのではなかろうか。ただ、このような運動はしばしば一時的な動きでとどまってしまう可能性が高いのです。いわゆるキャンペーンではなくもっと継続的な動きにすることが大切です。たとえば以前に日本薬剤師会が中心となって「ゲット・ジ・アンサー」という患者向けの広報活動がありましたが、いつの間にか消え去ってしまいました。このキャンペーンは、日本薬剤師会が1996年8月より行っていた全国キャンペーンのタイトルで、「くすりの事をもっとよく知ろう」と言う副題が付いていました。また似たような最近の例としては副作用被害者救済制度の広報キャンペーンがありましたが、これも一時的なもので最近ではそのようなスローガンはどこにも見られなくってしまいました。

2011年1月12日 (水)

患者からの副作用報告 (1)

 現在の薬事法では医療関係者からの副作用報告は行政当局に直接報告することが義務化(理論的には)されているのは周知のことですが、患者が企業に副作用を報告しようと思って電話しても、医療機関に報告してくださいと間接的に、やんわりとその受付を回避していたのです。

  ところが患者が副作用を報告することができることは既に平成17年三月の「薬食安発0328007号」で患者からの副作用報告は従来の医療関係者からの報告と同様に取り扱うように通達が出ているのです。ただ、この通知は課長通知であって、局長通知ではないこと、しかもそのあて先が都道府県衛生主管部長あてになっていることです。

この通知によれば患者は副作用を医療関係者並みに「報告できる」、となっています。しかし、この通知には一般患者はどこに報告出来るのかを明記してはいませんが、この通知の内容からは該当企業とか医療関係者宛と理解することが出来ます。もちろん、医療機関にも当然この通知は行くべきものなのです。つまり、都道府県あてに通知が出され、理論的にはそれぞれの衛生主管部長が管内の製薬企業、病院などに通知することになっているからです。したがって、この通知が出た年の四月から正式に「一般患者も医療関係者扱い」になり、副作用を企業にも報告することが「できる」と説明されているのです。

したがって、それ以降は各企業或いは製薬協が本来ならばその広報に努力すべきなのですが、どの企業もそのような努力はしていません。さらに問題ないのは患者が副作用を報告しようとしても、どこに報告すればよいかが不明になっていることです。とくに医療用の医薬品の場合には製品名は分かってもその製品の製薬企業の住所などはなにも分からないのです。したがって、患者は副作用を報告できますよ、といっても現実にはほとんど不可能な状態なのです。もし報告したいと思ったら、担当医師に報告するしかないのです。

 ちなみに、薬害肝炎事件を受けて厚生労働省に設置された「薬害肝炎事件の検証及び再発防止のための医薬品行政のあり方検討委員会」の最終提言(平成22年4月28日)においても,「「患者からの副作用報告制度」(患者からの副作用に関する情報を活かせる仕組み)を創設すべきである。」と提言されています。しかし、ここでも前記の薬食安発0328007号の通知は全く無視されています。しかも、この通知はこの委員会の提言よりも五年も前に出されているのです。驚くことにこの通知は大学研究者、病院関係者、製薬関係者などのほとんどのひとがその存在を知らないことなのです。

 ある意味では行政がそのような通知を出しておきながらそのあとのフォローアップは全然していないことにもなります。いずれにしても、理論的には患者からの副作用制度、正確には副作用報告の可能性、は既に発足しているのです。

  ところが、平成21年度に医薬品・医療機器等レギュラトリーサイエンス総合研究事業のひとつとして(慶應義塾大学 主任研究者望月真弓)「患者から副作用情報を受ける方策に関する調査研究」が厚生科学研究費でなされ、その一環としてこの研究グループが今年から「患者からの副作用報告」受付が始まりましたと広報されていることです。http://www.info.pmda.go.jp/index.html  一般常識からは厚生科学研究費は誰でも申請することができるのですが、その研究成果がPMDAのホムペイジに毎回載ることはありません。

  したがって、今回この研究班のことがPMDAのホムペイジ([医薬品・医療機器等安全性情報 No.276)に載ったことはこの研究班とPMDAとは直接に関係があることになります。あるいはPMDAがこの研究事業をあたかもPMDAの業務として利用しているのかもしれません。

   慶応の先生たちの研究はある意味では大学研究者個人の自発的活動であり、行政にそった活動ではないようなのですが、その真意は不明です。そこにはこの通知のことは一切触れていないからです。確かにこの研究成果を踏まえて将来的には機構が制度的に検討することが報告書のなかに謳われていますが、これほど矛盾した考えはないと思います。

  つまり行政自体が前述のような通知を出しておきながら、患者からの副作用報告制度を将来構想に据え置いているともとれる発表をしているからです。いずれにしても、この先生方の活動をもって「患者からの副作用報告が日本でもようやくスタートした」と理解するのは誤解になります。しかし、現実には医療関係者のほぼ全員がこれで患者からの副作用報告制度がスタ-トしたと大拍手をしていることです。この先生方の取り組みは試験的に一定の期間のみウエブ上からの副作用報告を可能にしているのにすぎないのです。その成果を踏まえと今後どのようにするのかが検討されるものと考えられます。

   しかし、もしそうなると現在の副作用自発報告制度がますます混乱し、誰が副作用を報告するかによって、副作用の報告提出先が、現時点では機構、企業、そして前記大学と複雑になってしまいます。やはり行政が通知をだしている以上、すくなくとも行政が積極的に企業、あるいは医療機関を指導し患者への啓蒙を推進すべきではないでしょうか。

   いずれにしても、理想的には患者からの副作用報告は直接機構あてに一本化し、さらに行政なり、製薬協なり、他の団体なりが共通の副作用報告用紙を作成して全国の薬局、病院などに配布することをしてはどうでしょうか。前記の研究グル-プが試験的に副作用をウエブサイドから報告するようにしていますが、すべての患者がそのような方法を使えるとは限らないので、やはり紙での報告が求められます。なお、この報告要旨は正副二枚の用紙とし、副の用紙は患者が保存できるようにし、報告宛先は機構の住所を印刷しておくことです。

なお、現在の機構のホムペイジには上記の研究班による患者からの副作用報告が紹介されていて報告用紙をダ-ウンロ-ドすることができるようになっています。

追加 (2015 April)
最近の薬事法改正に伴って、その開設のいったんとして従来からの患者からの副作用報告が、制度的にPMDAにより新しく試行導入されている患者副作用報告制度が行政から紹介され、そこには副作用の発見・報告に、患者さんも参加可能になりつつある、との説明なのです。このことは行政が平成22年4月28日に提言し、患者自身からの副作用報告の可能性を通達していることは全く無視、或いは忘れられていることはいったいどうなっているのでしょうか。つまり、平成17年三月の「薬食安発0328007号」は全く存在していないことを行政自らが公認しているようなものなのです。

2011年1月 9日 (日)

私の架空発明 (6) はげ頭に再び毛を (*)

  多くの男性は年をとると毛が薄くなり、とくに頭頂部からはげになります。ところが不思議にそのような人でも頭周部にはふさふさした毛が見られます。これは不思議とは思いませんか。世の中にはいろいろな毛はえ薬が氾濫していますが、いまだ革新的な毛はえ薬はないようです。確かに、ミノキシジルを主成分にした毛はえ薬はある程度の効果があるようですが、時として副作用があります。

  そこでふと考えたのですが、どうして頭周部には毛がふさふさしているのに頭頂部にはないのかといことです。このような場合にはホルモンの影響とは考えにくいのです。つまり、頭周部には頭頂部にくらべてホルモンの分泌が異なるとは考えられません。このような現象を日常生活の中から可能性のある因子として寝るときのことを思いついたのです。つまり夜寝るときには当然のことながら枕に当たる部分が頭周部になります。すなわち、夜寝ているときにはこの頭周部が絶えず軽くマッサ-ジされていることになります。しこも適当な湿度が比較的まんべんなく保たれているものと考えられます。つまり、適度の刺激と湿気が保たれていれば頭髪は再生してくるのではないかと考えたのです。

したがって、夜寝るときには普通の枕ではなく、L字型の枕を使い、しかも布製のキャップをかぶって寝ればもしかしたら毛が再び生えてくるかも知れません。ただし、頭頂部にも枕が当たるようにするのです。

   実は、長年の円形脱毛症でまったく頭部全体に毛がまったくない中年女性が最適のカツラを手に入れることができ、それを着用してから二年目あたりに再び毛が生え始めたとの新聞記事が目に留まったのです。つまり、この場合にも日中はカツラをかぶることにより、適度の湿気が保たれ、また適度の刺激が頭皮にあったものと考えれば、当然のこともしれないと思ったのです。

   もし、この簡単な方法が実証されれば簡単なはげ頭退治法になるかもしれません。どなたか試みてはいかが。ただしある程度の辛抱が必要です。

このことに関して、不思議に思うのは頭頂部が禿の人でも鼻毛は伸びるのです。中高年の男性でよく鼻毛が伸びている人を見かけますが、どうして鼻毛はそのような人でも伸びるのでしょうか。花の穴の中は湿気が常に一定に保たれ、外気と常に触れており、いろいろな雑物が入り込んだりし、その結果鼻をかむことになります。したがって、鼻孔はある意味では絶えず刺激されているのかもしれません。そのような環境にあるため、鼻毛は伸びるのかもしれません。もっとも、女性の場合には鼻毛が伸びることはあまり聞いたことがありませんので、ホルモンが関与しているのかもしれませんが、よくわかりません。

いずれにしても、頭部をいつも湿潤状態に保っていることも重要なようです。市販の毛はえ薬にもアロエは頭部をつねに湿った状態に保つので、効果があるとされています。したがって、頭部をいつも湿った状態にしておくのは意味がありそうです。

2011年1月 7日 (金)

ガラバゴス化された日本の薬局機能

 ガラバゴス化された日本の薬局機能

   欧州では医療用、大衆薬などすべての医薬品は薬局で購入するのが常識であり、例外はありません。ともかく、薬局のマークは殆どの国で共通で、赤十字ならぬ緑十字のネオンが薬局の建物にあります。ですから、欧州ではどこの国に行っても薬局を見逃すことはありません。そしてすべての医薬品を薬局以外で購入するという概念は存在しません。そのような習慣になれた人が日本に行って薬を購入しようとしたときに、繁華街では薬局の存在は影が薄く、その代わりにいわゆるドラッグストアが至る所にあります。都心の繁華街では薬局を見つけるよりドラッグストアのほうが先に目に入ります。一般的な大衆薬はしたがって、薬局でなくドラッグストアで購入するのが手っ取り早いのです。確かにドラッグストアではたいていの大衆薬は手に入ります。もちろん薬局に行けばときとしてドラッグストア以上の数の大衆薬が置かれてある場合もあります。しかし、繁華街から離れた小さな町、郊外の商店街通りにある薬局での品ぞろえは多くの場合極めて貧相です。したがって、そのような薬局には誰も行かずにドラックストアに足が向きます。まず、大衆薬に関しては小さな薬局はドラッグストア以下の品揃えの場合もあるくらいです。その逆にかなりの品揃えのある薬局でも外観からは薬局なのかドラックストアなのか明瞭でない場合がしばしば見られます。そこには薬局という誇りが全く見られません。

   一方、病院で医師から処方箋をもらうと近くの調剤専門の薬局にいって医療用医薬品を手にすることになります。この調剤薬局と言うのが曲者で、場合によってはその薬局では一般の大衆薬は置いていないこともあります。つまり、調剤専門薬局の存在です。繁華街にある薬局では付加価値的に調剤をするところもありますが、調剤を全く受け付けない薬局もかなり存在するのです。私はこれを「無印薬局」と名づけています。それにしても、この調剤という表現は往時の概念であり、現在では錠剤のばら売り作業と言っても過言ではありません。

   このように、日本の薬局と欧州の薬局とを比較すると日本の薬局は日本独特の医療用医薬品包装形態、薬局機能の細分化、更にはドラッグストアの存在など、まったく不便な組織になっています。ある意味では日本の医薬品販売体系はガラパゴス化されているものとも考えられます。

   ともかく欧州の薬局は薬局だけであり、その機能はカウンタ-の後ろにずらっと並んでいる引き出しから手作業で該当医薬品を取り出す場合がいまだに大半ですが、最新式の設備の薬局では、処方薬であれ大衆薬であれ、カウンタ-の上に置かれているコンピュタ-に該当医薬品名をポンと入力すると一瞬にしてその後ろにある小さな小窓から医薬品がポンと出てくるのです。その間、わずか二分くらいです。このような芸当が出来るのは欧州では処方薬を含めすべての医薬品は箱入り包装であり、したがってその箱の中には患者用の添付文書が入っているからです。これほど簡単で機能的な薬局形態は現在の日本の医薬品流通システムではまず絶対に真似はできないのです。

   そのほかにも薬局本来の姿である医薬分業もいまだ50%前後で停滞しているようである。これも日本独特の現象である。それにしても、医薬分業が叫ばれてからかなり年月がたっているのにも係らずいまだにこのような状態であるのは薬局の怠慢かもしれません。戦後に医薬分業が正式に導入されて以来、ある時期の日本薬剤師会長(石館守三)が全薬局が医薬分業に即時対応し、対応できない薬局は廃止もやむを得ないとのカウントダウン方針を提示したが、多くの反対にあいこの提案は受け入れられなかった。つまり、現実的任意分業に負けてしまったのです。これは典型的な日本の「・・・でもね」社会の特徴でもあったわけです。
 
  また、そのほかにも薬種商という業種もあり、実際にそのようなくすりやさんも薬を販売している。もっとも、現在の薬事法では店舗販売業という名称になっており、薬種商の名前は存在しくなっている。つまり、この店舗販売業とドラッグストアの大きな違いは後者が多くの場合セルフサービスであるに過ぎない。
 
  このように日本の薬局形体は本来あるべき姿からその時々の必要性に応じて、薬種商、ドラックストアー、一般薬局、調剤薬局、調剤専門薬局、等に分化しているのです。しかし、消費者側にたってみればこれほど不便な制度はないのです。欧州のように一つの薬局ですべてが解決するような制度は単純、明快ですが、日本の場合にはあまりにもこま切れ化されているのです。このような環境は今後も恐らく変わらないでしょう。なにしろ、日本ではまったく斬新な制度を導入しようとすると必ず「・・・でもね、それは無理ですよ」となるからです。

追記(2011/06/25)
最近のデ-タでは全国分業率が65%をはじめて突破したことが報道されていました。もっとも県別にみると福井県ではいまだに40%以下とのことでした。なんとも悲しい分業形態です。

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