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2010年10月の記事

2010年10月20日 (水)

英語公用語化の盲点

  最近になって、しばしば英語の社内公用語化が叫ばれています。また歴史的にも日本語を廃止し、英語の公用語化すべきとの議論もありました。このように、しばしば日本の英語教育の問題点が指摘され、小学生からの英語教育導入など、日本人の英語能力に関しての嘆きとともに英語教育強化が叫ばれています。確かに日本人の英語能力、正確には英会話能力、は少なくとも外国人から見た場合極めて低いものとみられるのが常識です。しかし、このような議論をする人のほとんどが教授とかコンサルタント社長など日本語での発言能力が人並みに優れた人たちであり、自分自身の経験を無意識に土台にしているのです。例えば、外国人との会議でのリーダシップが取れない言語能力こそが問題なのだ、とも断定していますが、これはまさに正論なのですが、日本語の会議でリーダシップが取れない人が英語を勉強すればそのような人も会議などでリーダシップが取れるとでも考えているのでしょうか。つまり。このような人たちは自分の経験が万人にも通用するものとの考えから出発しているのです。もうそうなるとちまたに溢れている「・・・・をすれば・・・が治る」式の宣伝と全く同じなのです。

 

   このような現在の日本の英語教育論の根底にあるのは日本人も小さいときから英語を効率よく勉強すれば社会に出てから英語で外国人と対等に仕事が自然にできるということを大前提にしています。しかし、この大前提で大きく欠けていることは日本人の対外発言能力のことがぽっかり抜けているのです。現在の英語論にみられる基本は日本人が英語を効率的に勉強すればだれでも英語を使って対外的な仕事がスムースに進展するという神話があることです。

 

   なぜ、日本人は韓国人、中国人に比べて英語力、ここでは英語会話能力、が低いのかということです。そもそも英語の教育には他の外国語教育と同様に、読解力、表現力、会話力が完全になってはじめて英語力が本物になるのですが、現在の日本での英語教育推進者は会話力のみを重視している傾向が強いのです。国際会議などで日本人参加者からの発言が無く、外国人は日本人は英語が解らないと思っていたが、個人的に接触してみると会議に参加した日本人の英語解読力が意外に高いので、外国人がよく驚くことがあるのはあまりにも周知のことなのです。

 

   しかし、この問題での大きな落とし穴は日本語での発言力、会話力の極めて弱い人間が、いくら英語を勉強しても、英語使っての会話力だけが急に向上することは絶対にあり得ないとの理解、認識が全くないことなのです。普段、会社などの会議などで日本語にもかかわらず、自分から意見を堂々と、しかも積極的に発言して会議を盛り上げることができない人間が、いくら小学生から英語を勉強しても社会人になってから、日本語では発言できないのに英語になったらぺらぺらと発言できるとでも考えているのでしょうか。まったくナンセンスな論理であるにもかかわらず、現在の英語推進論者はこのことには全く注意を払っていません。

 

   人間の本性として、よく話す人はたとえ外国語でも黙ってはおられず、何とか外国語でも話そうとする意欲が極めて強いのです。そのほかにも、男性と女性とを比較したら、女性のほうがはるかに会話能力は高いのです。これは世界共通の現象であり、女性同士の会話力は凄まじいものがあります。日本語にも、女が三人寄りあえば、「姦しい」となり、また「井戸端会議」などの表現もあります。その反対に「むっつり屋」、「むっつり宇門」のような表現は日本人男性にのみ使われているのです。同時通訳者のほとんどが女性であるのもこのような女性の会話能力が高いからなのです。日本人と比べると中国人、韓国人男性は日常会話でも声高によく喋るのです。海外で日本人男性団体観光客と韓国又は中国の男性団体観光客とを比較すればその差は一目瞭然なのです。このような国民性を全く無視して、日本人も彼らなみにもっと勉強すれば英語での発言能力が向上し、彼らと対等に会話を出来るとの妄想があるのです。

 

    国際会議などで参加者からの発言は日本人の場合には殆どゼロに近いのです。これは何も英語が使われる国際会議だからではなく、日本の学会でも同じで、まず参加者からの発言はゼロに近く、したがって、司会者が間を持たせるために意図的な発言をしているのが現状なのです。日本での国内会議の特徴は講演のあとのディスカッションの場がありますが、そのほとんどは演者と司会者とのやり取りで終わっているのです。語学は必要があってはじめてその学習力が発揮されるものなのです。私の知っている例でも、ある企業の部長は会議などでも日本語で普通の男性に比較するとよく喋るタイプの人でしたが、あるとき上司に英国人が来てどうしても英語で話す必要性が高まったときに、自らその時点で初めて英会話を勉強し、短時間に何とか英語でも意思を表示することができるようになりました。まさに窮すれば通ずるの諺の通りなのでした。つまり、絶対的な必要性に迫られればどの時点でも何とか英語でも話せるようになるのです。ただし、この場合も日本語でも十分に発現能力があり、黙っていられないタイプの男性であることが大前提になるのです。p>

 

   日本人家庭内での男性の日常会話が「メシ」「新聞」「風呂」で代表されるような会話状態の家庭で育った子どもが、成人し、社会人になった段階で、平均的な女性の会話能力並みになることはまず絶望的でしょう。このような家庭環境、そして根回し社会での会議の進行が尊重される限り、日本人はいくら英語を勉強しても韓国人、中国人並みにはならないでしょう。したがって、このような環境を改めるという意味で、まず日本語による発現能力、意欲の向上を目指した教育カリキュラム、セミナーが絶対に必要になります。このような国民性、社会環境を無視して、ヨーロッパのビジネスでは英語が公用語化されているとの発言がありますが、全くの的外れなのです。なにしろ、ヨーロッパでは何も発言しない人は無視されるか無能扱いにされかねないのです。

 

この英語社内公用語化に関して2011年の文芸春秋の新年号に 「英語より論語を」/藤原正彦×宮城谷昌光の対談が載っていますので、読まれると参考になります。

 

追加(2012 Sept)
   ともかく日本は英会話教室、英会話の単行本がたくさんあり、いずれも商売になるのです。これほど異常なまでに英会話が取り上げられる国はほかには類がありません。ともかく、日本語でまともな会話ができない人がいくら英会話を勉強しても話せるわけがないという根本的なことが誰もわかっていないのです。このような宣伝広告で気が着くべきことはいろいろな人がいろいろな方法での英語勉強法を広告、宣伝していると言うことは度の方法もあまり効果がないからなのです。

 

追加(2015 April)
 最近出版された本「日本語の科学が世界を変える」が有りますが、この本は別な視点から英語が出来なくとも立派な研究が出来ますよ、との良い解説本になっています。

2010年10月16日 (土)

中日韓共同体は可能か

中日韓共同体は可能か   現在の民主党の動きをみていると全くの中国寄りで、国内では日本は中国の属国になってしまうのかとの危惧が囁かれている。確かに、現在の中国の極端なまでの反日感情、軍事力拡大、日本軽視、無視の政策、日本自身の惨憺たる政治体系を考慮すればそのような危惧は当然かも知れない。   しかし、理論的には欧州共同体のような形での東アジア共同体として中国、日本、韓国を中心にしてその将来性の可能性を考えるべきと考える人が居ても不思議ではないかも知れない。でもこれはあくまでも理想的、なおかつ理論的な考えであり、現在の状況ではまず不可能である。その理由は、現在の中国には大国たる品性、資格がないからである。ここで言う「大国」の定義は経済、政治、軍事、文化の四要因がバランスよく整っている状態を指す。現在のEUはこれらのすべての要因を曲がりなりにも満たしているからこそ成立しているのである。現在のアメリカは文化が極めて弱く、また国際政治的にも独断性があるのが欠点で、いまだ大国たる資格に欠けている。日本は政治の面で三流国並みであり、大国とはなりえない。   翻って、現在の中国はどうか。現在の中国に関して、多くの識者は中国の経済面だけでしか判断していない。したがって、今後は中国の時代になるとか騒がれることになる。しかし、本当にそうなるのだろうか。現在の中国の国内政治をみれば、共産党のみの一党独裁であり、旧国民党との闘争の結末はいまだついておらず、台湾問題も完全に解決しているわけではない。つまり、国内政治的にはいまだ未解決の問題となっている。そのほかにも国内的にもいろいろな民族の共和、共存問題が潜在している。さらに悪いことは中国古来の文化が完全に消し去られていることである。現在の共産党国家には世界に誇れる文化がぽっかり欠けているのである。中国はいま盛んに軍事力を強めているが、経済と軍事だけでは大国として君臨することは長期的に見れば不可能であることは世界の歴史を客観的に観れば明確である。    このような視点にたって冷静に現在の中国を観察すれば、とても中国・日本・韓国の共同体発足のような発想は不可能である。世界史の中で、上記の四要因が備わって世界の大国となりえた典型例は古代ローマ帝国である。一方、近代では英国がそれに相当するかも知れないが、現在の英国には経済力、軍事力がかなり衰退し、また文化面でもきわだったものがなく、大国たる将来性はすでに失われている。日本も一時は経済力だけの判断からジャパン・アズ・ナンバーワンと持て囃されたが、国内政治面で凋落し、また当然ながら軍事力も未完成で、現在では世界の大国にはなりえない。       いっぽう、現在のEUを見習って日本も中国、韓国と一緒に、との発想が一部の人の間にあるかも知れないが、それは夢物語に過ぎない。たとえば、欧州の歴史を観れば、欧州全体での文化の共通性が極めて強いことを認識すべきである。そのような文化の強力な共通性は現在の中国、日本、韓国には全く無いのが大きな欠点である。例えば、日本の皆さんはアンドレ・リュウ楽団の存在を知っているだろうか。この楽団は欧州各国で頻繁に演奏会を開いているが、その演奏ではオストリアの音楽、ドイツの音楽、フランスの音楽等がごく当たり前に演奏され、誰もが聴いて楽しんでいる状態を実感すると欧州全体の人たちが如何に楽しんでいることが肌で感じられる。つまり、欧州各国の音楽をごく普通に受け入れ、心から楽しんでいる。    しかし、残念ながらこのような感覚を現在の東アジアで経験することは不可能である。そのほかにもEUには歴史の共有性という大きな強みがある。このような文化面、歴史面での共通性が東アジアでは欠けているのである。とくに現在の共産党独裁の中国にはそのような過去の歴史が醸し出す文化が残念ながら完全に消滅させられているからである。    さらに無視してはならないのは東アジアの地勢が欧州のそれとは根本的に異なっていることである。欧州各国は英国を除いて地続きの大陸であり、歴史的にもいろいろな接点が連綿と続いている。しかるに、日本は島国であり、韓国は中国と日本の中間に存在し、地続きなのは中国だけである。このように地政学的に比較しても欧州と東アジアとでは根本的に異なることは大きな意味を有している。    日本が島国であることは現在のEUのなかで英国が特殊な位置に属するのとやや似ている。    このように考察してみると中・日・韓共同体のような発想は夢物語であると言わざるを得ない。ことに中国は大陸性文化、日本は島国文化、このような地政学的な違いを生めるのは不可能なのです。そ点が欧州大陸とは根本的に異なることを認識すべきである。    なお、ここで中・日・韓と書きましたが歴史的には「中・韓・日」かも知れません。歴史的に見て、朝鮮半島は儒教意識が強く、伝統的に、中国を長兄、朝鮮を次兄、日本を末弟とみなしていた。その結果、兄が弟に侵略されるということはあってはならないことで、ましてやその末弟に統合されるようなことは朝鮮民族の自尊心を深く傷つけたことは容易に理解できるからです。いずれもこれら三国は歴史的にも儒教の影響をもっとも大きく受けている国だからです。この順番が良いいか悪いかはそこには主観が大きく影響しますが、大乗的に「中・韓・日」を受け入れることは無理でしょうか。確かに、日本側から見れば「日・中・韓」となるかも知れません。たとえば、「日・中・韓」の作家の集まりがあったとの新聞記事には最初に日本が来ているのは日本の新聞だからなのかも知れません。それにしても、どうして朝鮮、韓国は日本をとことんまで憎むのでしょうか。過去のことをもうそろそろ棚上げにしてほしいものです。確かに、被害者は決して自分が受けた被害は忘れられないかもしれません。でも、そこは儒教の精神で過去は過去、重要なのは未来に向けた心構えではないでしょうか。

日本人外交官はもっとユーモアを、 中国共産党の論理構造

日本人、とくに外交官はもっとユーモアを取り入れるべきである。

 

朝日新聞の報道によると、中国内での海賊版の氾濫に対して日本の外交官が「知的所有権を定めた条約違反」と指摘し抗議したときに、中国外交官が真顔で「中国が考案した漢字を日本は無料で使い続けている」と反論したとか。まさに開いた口がふさがらない反論であり、そのような中国外交官の知的レベルは最低である。

 

しかし、ここで、開いた口をそのままにして引き下がってはそのまま中国人の言い分を間接的に認めたことにもなりかねない。そのような場合には、ただそのまま引き下がるのではなく、「そうですね、我々も英国に対して英語を無料で長年使っているので、中国人が率先して英国にその使用料を払ったらどうでしょうか。そうしたら我々もそれに見習いますから」とか「我々もインドに断りなしに仏教を取り入れているので、中国がインドに対してその使用にたいして率先して補償するくらいの対策を講じてほしいものですね」のようなユーモアをもってやんわり反論することができるようになれば最高ですが、果たして中国人にはそのようなユーモアは通用しないかもしれません。

 

そのほかにも今問題となっている尖閣諸島問題についても、いままで中国はその所有についてなんらの表明を長年していなかったが、その周辺での地下資源が有望視されることがわかってからは急にあれはわれわれの領土であると言い出したことはまさに火事場泥棒的な発想であるが、このような場合にあてはまる諺に「隣の庭はより綺麗に見える」があります。たとえば、両家の境にあった柿の木がいまだ若いうちはそれを手入れしていた隣の家に対してはなんらの対応をしておらず、その柿の木が隣の家に属しているものと暗黙の了解で長年過ごしてきたものを、いざ柿がたわわに実りだしたと単にこの柿の木は我が家のものだと突然言い出したのに相似ていることです。

 

追記 (2012/5/21)
ところが、日本にもこのような対応を中国人と正々堂々とやってのけた政治家がいるのです。それは田中角栄さんなのです。朝日新聞の「国策とともに」(3)に小長敬一さんの証言として田中さんと周恩来との国交正常化交渉のときのやり取りなのです。
田中・周会談で田中さんが「中国国民に多大のご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と過去の戦争について発言したことに対し中国側は「ご迷惑とは、スカトに水をかけた時のことに対して謝る程度のことだ」とものすごい怒りようだったとのことです。ところが田中さんは、「垣根争いをしている両家のむすめ、息子が好きになって結婚しようとしているのに、いつまでも過去のしがらみにこだわっているのはおかしい」といったところ、さらに中国側は「日中間の戦争を垣根争いと思っているのか」とさらに火に油を注いだような状態になってしまった。しかし、田中さんはへこまずに「隣同士の寸土の争いは国家間では国境の問題。現にあなた方はソ連と七千キロの国境問題であらそっているではありませんか。私も戦争中は満州で従軍していましたが、私の鉄砲は北のソ連を向いていたんですよ」とお得意のアブどりで応酬したとか。このあたりで周さんもほぐれた、とのことです。このくらいの度胸のあるやり取りができる政治家は最近では全くゼロなのは残念なことです。

たしかに、最近の日本の政治家は遺憾外交専門で、対外的に相手に対して意見、反論を言える政治家は殆ど皆無なのが残念です。

 

2010年10月15日 (金)

副作用自発報告制度の崩壊 (5) (**) 行政の一方的判断

   現在の副作用報告制度の大きな難点の一つは実際に副作用を発見ないし聞き出すことのできる医療関係者の認識度が極めて低いことです。たとえば、副作用用語集には「無効例」というのがないので、ある薬剤を投与しても効果がない場合には誰もそのような症例を企業か行政に報告しようと考える人は一人もいません。もっとも、現在では専門用語集MedDRA/Jが使われており、この用語集には「無効」も存在する。    しかし、、既存の医薬品がほとんど有効性がない時には最終的には市場から撤退させることが必要になることもあるからです。最近のBMJに報告されている論文では既存の抗うつ薬Reboxetineのすべての論文を検討したところその四分の三が未発表の論文で、それらをすべて改めて検討したところ全く有効性が認められなかったとのことです。

Eyding D, et al.  Reboxetine for acute treatment of major depression:systematic review and meta-analysis of published and unpublished placebo and selective serotonin reuptake inhibitor controlled trials.

BMJ 2010; 341:c4737.

この様な例は稀かも知れませんが、大きな問題だと考えられます。ファルマコビジランスの真髄はたんなる副作用以外にも有効性に関する問題も関与しているのです。 追記 (2012.05.07)    いままでに述べてきました内容を系統的にまとめて最近になって雑誌「臨床評価」に公表していますので、以下のサイトから私の論説をクリックされますと読むことができます。表題は「医薬品安全性情報における個別化情報の重要性、 薬剤疫学評価からファルマコビジランス評価への回帰」となっています。 http://homepage3.nifty.com/cont/39_3/p613-36.pdf 追記(2014 May) 最近のノバルティス社と大学医療関係者との間での臨床研究問題で、企業が副作用報告を行政にしなかったということで薬事法違反の疑いがかけられ調査中とのことですが、基本的にはこれは大きな間違いなのです。そもそも臨床研究はたとえ企業の依頼であっても実際に患者を診て副作用を最初に発見できるのは企業ではなく、医療関係者なのです。日本の薬事法では医療関係者は副作用を見つけた時には行政に速やかに報告することが決められているのですが、なぜか誰もこの点に関しては言及しないのです。日本はまことに不思議な行政国家なのです。つまり、薬務局は医師に対しては全く無力なのです。 この際、薬事法を改正して、医薬品の副作用はすべて医師が直接行政に報告するように改正すべきなのです。今回のノ社の場合にはしきりに企業がいろいろなデタの改悪をする可能性が論じられています。この「可能性」を重要視するなら、企業が副作用を医師から入手して行政に報告することはもってのほかなのですが、この点に関しては厚労省はなにも言及していません。まさに企業は悪だとの先入観があるからです。

2010年10月 5日 (火)

日本語を壊しましょう (2) リケジョ、ダンカジ

「リケジョ」ってなんのことか分かりますか。もうこうなるとなんでも省略語になってしまうようです。これは理科系の学部で学ぶ女子学生のことなのです。つまり、理系女がカタカナ表記になっているとのことです。朝日新聞の10月 4日の記事になっていました。もうこうなると正論を述べても意味はなく、むしろ略語化運動を推進する必要があるかもしれません。イャ、それ以上に略語化コンテストを開催する必要があるかも知れません。

 

 運転免許証は「ウンメンショウ」  身分証明書は「ミショウショ」などなど・・・・・・・

 
追記
  最近の新聞に「ダンカジ」という表現がありました。これは「男性の家事」のことだそうです。これは東レ経営研究所研究部長の肩書のひとが使っていました。こうなるとこの人の肩書も「トウケイケン」の「ケンブ」になるのでしょうか。そうするとパスワ-ドは「パワ」に、銀行口座は「ギンコウ」に、郵便貯金は[ユウチョ」に大学教授は[ダイキョウ」に、・・・・・・・・・・・・なります。もうこうなると省略語万々歳で、朝日新聞は「アサシン」。読売新聞は「ヨミシン」、そして私の名前、鈴木伸二、は「スズシン」にしましょう。

 

昔、ス-パ-マ-ケットが日本に導入された当時、その存在価値に疑義をはさんで、それは「ス-と入って、パ-と消える」の略だと冷やかされたとか。なかなかおつな解説だと思います。

追記

このような超簡略語はいくらでもあるのです。

テイタイ = 定年退職

アサシャヤン =  朝シャワ―

タンフ = 単身赴任

キュ―カツ = 救助活動

コクカツ =  国会活動

エンカツ =  援助活動

ケンポ  = 健康保険

 

  

 

 

副作用自発報告制度の崩壊(4)

副作用自発報告制度の崩壊(4)

この自発報告制度がうまく運用されていない大きな原因は医療の現場での複雑性が挙げられる。たとえば、病院内での副作用処理事務、上司との兼ね合い、該当薬剤を処方した前任医との人間関係、訴訟への可能性への危惧、日常診療業務の多忙、等などいろいろな問題がある。私のような企業関係者は医療の現場でのこのようないろいろな問題は断片的にしか耳に入ってこないので、なかなか実態を100%知ることができないが、このようないろいろな問題が、間接的にすべての副作用を念頭に置いた自発報告がその出発点で阻害されてしまう可能性が高い。しかも、医療の現場でのこのような複雑性に対して副作用を収集するということに専念している企業関係部門、更には担当行政部門PMDAは全く関心がないことである。

さらに副作用自発報告の大きな問題点は副作用を実際に経験する医療関係者と、副作用を紙の上でのみしか取り扱っていない行政担当部門、企業担当部門との間に安全性問題に対する認識、理解に関する大きな乖離が有ることである。私を含めて紙の上でのみ副作用問題を考えている人たちは医療の現場の実情を殆ど知らない。

  基本的には副作用自発報告のすべての情報、データの質、量は医療関係者如何に左右されるといっても過言ではない。つまり、実際の医療の現場では、端的に云えば軽微な副作用などをいちいち報告する時間的、心理的余裕が無い、と殆どの医療関係者が考えている。そのような医療の現場での実態を詳細に把握して、その対策、対応を全体的に整備し、医療界全体でのコンセンサスが出来上がって初めてすべての副作用情報、データが企業、行政に報告されてきて、副作用自発報告制度が完全なものになる。ところが、そのような動きは医学界、行政ともに全く存在しない。

  さらに問題なのは、医療関係者が例えば軽微な副作用などを何のために報告するのかという理解がないと当然ながら時間の無駄だと考えて報告はしないことになる。この「何のために」という明確な目的が不明確なためにいまだに副作用報告は氷山の一角現象の典型例にもなっていることになる。

   では何のためにすべての副作用報告が望ましいのかという問いに対する答えを本来ならばそれらの情報、データを収集することが求められている企業が明確にすべきである。ところが、そのような大義名分を企業は医療関係者に対して十分に説明、そしてその結果を還元していない。いや、還元できないのである。企業が実際にしていることは、いろいろと報告されてきた情報、データをもとに行政に受け身的に報告し、必要とあれば添付文書に反映させるだけで事成れりとしている。現在の添付文書に記載されている副作用情報はいわゆる「点情報」なのである。極端に云えば、副作用症状の羅列に過ぎないといっても過言ではない。確かに、体裁上は頻度らしきデータが記載されているが、形だけの情報にすぎない。

したがって、薬害関係者があのような添付文書情報は安全性情報ではなく危険情報であると極言するのも理解できる。さらに一般患者ではそのような理解が強く、添付文書を初めて見たとき、そこに記載されてある副作用項目の多様性に驚き、こんな怖い薬は飲めないと反応するのも当たり前である。

私の解釈では情報には「点情報」、「線情報」、「面情報」と三つがあり、点情報はただ存在するだけを伝え、線情報はその情報に関連した付加価値情報を意味し、最後の面情報は付加価値情報に加えて背景情報、総合情報を意味している。つまり、安全性情報とは薬を安全に使うための情報であるべきなのです。

   ファルマコビジランス分野で一番大切な安全性情報が危険情報と捉えられないためには最低、線情報が必要なのであり、最終的には面情報が必要なのである。つまり、一つの副作用に関連して、どのような時期に発生しやすく、どのような状態で進展し、どのくらいの期間にわたって継続し、そして転帰はどのようになるのか、またどのような処置が施されるべきか、などの実際的な情報を意味している。これらの総合的な情報が面情報となる。

たとえば、最終的にはコンピュータ-に薬剤名と副作用名を入力すると、ただちにこれらの面情報が現れるのが望ましいのです。そのためにはたとえ軽微でもすべての副作用がすべてのデータとともに報告されてくれば、それらを解析して、それぞれの面情報を医療関係者に自動的に提供できるのです。このような面情報を提供できるためにはそれぞれの副作用症例が数百例以上にならないと統計的な処置もできず、未完成に終わってしまう。その結果、医療関係者も何のためにすべての副作用を詳細なデータとともにいろいろなデータを報告することの意義が理解できると思うのです。まぁ、これは理想像ですが、現実にはそのような理想像を持っているひとは皆無に近いと思うのです。

   さらに別な視点、つまり世界的な視野からみたときファルマコビジランス分野が薬剤疫学分野に比較して極めて低調なのは先進国対開発途上国の構図に対比できるのです。アメリカを中心に大きく発展している薬剤疫学は過去の副作用自発報告制度が点情報でしか提供できなかった結果、線情報のひとつとして薬剤疫学に進展しているのです。ところが、ファルマコビジランス分野ではここ数年にやっと国際ファルマコビジランス学会が誕生し、WHOが中心となって主として途上開発国を念頭に置いた活動が始まったばかりなのです。しかし、このまま薬剤の安全性が点情報のみに焦点が置かれてしまうと、いずれ近い将来にはファルマコビジランスの軽視が、途上開発国でも現在の先進国のような状況になるかもしれません。そのためにも今後はせめても面情報育成に力を注ぐべきなのです。

   ただ、副作用情報に関して新しい問題が派生しつつあることです。それは患者からの副作用報告です。周知のようにアメリカなどでは患者が副作用を直接に行政にも報告できるので、質的に問題のある、まさに点情報の典型例が多数報告されていることです。そのことはPDRをみれば良く分かります。日本では従来は患者は副作用を行政にも企業にも報告できなかったのです。時折、企業に患者が副作用を報告しても、企業は患者に対して担当医に報告してくださいと間接的にやんわりと断っていたのです。ところが、ICHの合意事項として三極でも患者からの副作用を正式に受け入れることになり、日本では平成17年の安全対策課から各都道府県衛生主管部あてに通知(薬食安発 0328007)が出され、患者も企業に副作用を報告することができ、その場合には患者からの報告も企業は医療関係者からの副作用報告並みに取り扱うことになっているのです。ただし、不思議なことに患者は行政には直接報告できるとはなっていません。これは通知の形で各都道府県にたいして出されているのが味噌で、殆どのひとはこの通知の存在を知りません。ですからいまだに、患者から直接の副作用報告の必要性があるとの論文を書いたり、中には、そのための署名活動まであるくらいです。もちろん、企業もそのような通知の存在を広報していません。なにせ、もし患者からの副作用報告が企業に寄せられると企業はそれに関連したデータを企業は積極的に集めなくてはならなくなるからです。それでなくとも現在業務で手一杯なのに、それに追い打ちをかけるような患者からの報告がどんどん来てはまったくお手上げになるからです。

  このように知れば知るほど現在の副作用自発報告制度はいろいろな問題を抱えているのです。といってこのまま手をこまねいては全く進歩が見られません。でも、残念ながらこのような問題に首を突っ込む人は殆どいないのも事実です。このような問題に関与することは格好がよくないからです。

  このような現在の副作用自発報告制度は、たとえば、水道管が二本(二本立ての副作用自発報告制度)それぞれの家庭(医療関係者)に配置されていて理論的には蛇口をひねれば水が活きよいよく出るはずであるが、肝心の水源地、貯水池の整備(医療機関の問題)が整わず、したがって、総合的な副作用情報としての水は蛇口からはたらたらとしか出てこないのである。

    (鈴木伸二  2010/Sept)

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