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2010年4月の記事

2010年4月 2日 (金)

副作用自発報告制度の崩壊(3)

どのようなシステム、制度でも実際の使用者が不便とか、めんどくさい、と感じるような場合にはその完全なる運営は困難になる。とくに、この自発報告制度の場合は文字通り自発であり、医療関係者の善意に100%依存しているような場合にはなおさらである。理論的には薬事法で医療関係者からの副作用報告は義務制にはなっているものの(平成14年)、その認識度はかなり低く、また罰則も無い。もっとも、この薬事法の条文解釈にも問題がある。該当薬事法第77 条の4の 2第 2項「薬局開設者、病院、診療所若しくは飼育動物診療施設の開設者又は医師、歯科医師、薬剤師、獣医師その他の医療関係者は、医薬品又は医療機器について、当該品目の副作用その他の事由によるものと疑われる疾病、障害若しくは死亡の発生又は当該品目の使用によるものと疑われる感染症の発生に関する事項を知った場合において、保健衛生上の危害の発生又は拡大を防止するため必要があると認めたときは、その旨を厚生労働大臣に報告しなければならない。」とあるが、この条文をどのような解釈するかが一つの問題である。この条文により「副作用報告は義務化されている」と一般的には理解されている。 しかし、最後の「・・・・報告しなければならない」を以て義務化されていると解釈しても、その前の文章「・・・・保健衛生上の危害の発生又は拡大を防止するため必要があると認めたときは」により、該当副作用を報告するかしないかは医療関係者の判断に任されている。つまり、軽微な副作用の場合にはとてもこの項目は適用できないので、報告しなくともよいことになる。事実、安全対策課に報告する場合には軽微で既知な副作用は報告しなくともよいことが明記されている。(「医薬品・医療機器等安全性情報報告制度」実施要領 )   ところが、同じ条文の別項には関連企業の副作用報告義務の条文があり、その中にはなぜか「・・・・保健衛生上の危害の発生又は拡大を防止するため必要があると認めたときは」の項目が無い。つまり、企業は軽微なものをも含めてすべての副作用を行政に報告する義務がある。しかし、これほど矛盾した規定が意外と問題視されていないのは何故なのだろうか。このような条文を真面目に捉えれば、医療関係者からは軽微で既知な副作用は少なくとも直接行政には報告されてはこないが、医療関係者が企業に報告する場合にも、もしこの条文を文字どおりに解釈すれば医療関係者は軽微で既知な副作用は企業に報告する必要はないのである。したがって、企業から行政への副作用報告には軽微で既知な症例は含まれないという矛盾があっても不思議ではない。   こうなると、副作用自発報告制度の基本はすべての副作用を報告するものとの根拠が崩れていることになる。(もっとも、よく調べるとどこにもそのような記述はない。) しかし、意外とこのような矛盾は誰も指摘しない。つまり、医療関係者に対しては軽微でなく、未知の副作用、ことに重大な副作用、を行政に直接報告することを求め、もし企業に医療関係者が副作用を報告する場合には軽微で既知の副作用も報告することはできることになっている。このように同じ副作用報告と言っても医療関係者が行政に直接報告する場合と、企業に直接報告する場合とではその報告対象の選定基準が曖昧、あるいは二重基準になっている。   ここで明らかなように日本での副作用報告経路は二つあって、医療関係者が直接に行政に報告するか、あるいは該当企業に報告するかは医療関係者の判断に任されている。もっとも、前記のような二重基準を比喩的に解釈すると、重篤未知又は非軽微未知の副作用は行政に、それ以外のものは企業に報告するものとも解釈することは可能である。   さらに問題を複雑にしているのはその報告用紙である。行政に報告する場合にはその報告用紙は薬務課のホームページからダーウンロードできるが、企業に報告する場合にはそれぞれの企業の報告用紙を使うことが一般的である。筆者が往時に企業が協議して統一的な副作用報告用紙を作成することを製薬協に提案してもいまだその実現には至っていない。さらに問題なのは医療関係者が企業に副作用を報告すると企業から一症例あたり一万円以上の謝礼が払われるのも日本独特な慣習である。この慣習は80年代に某外資系企業が導入して以来現在ではすべての企業がこの慣習を踏襲している。一方、行政に報告しても行政は金銭的な謝礼はしない。   このほかにも医療機関内部での副作用処理の問題もときとして問題になることもある。病院によってはすべての副作用を病院長に報告することが求められたり、薬剤部にて一括取り扱い、薬剤部が該当副作用を対外的に報告するかどうかを判断している場合もある。つまり、医療関係者個人が自発的に直接行政あるいは企業に直接報告することができないような環境に置かれている場合もある。   このように現在の副作用自発報告制度の実態を知れば知るほどその制度が理想的に運営されていることが無いことに気が付く。ある意味ではもともと中途半端な制度として発足しているので、この制度が崩壊していると理解すること自体が無意味なのかも知れない。 (鈴木伸二)

副作用自発報告制度の崩壊(2)

副作用自発報告制度の崩壊(2)

   ここでなぜ崩壊しつつあるということを強調した理由・原因は、この制度本来の目的はただ単に副作用を収集し、評価し、行政に報告するという面だけではなく、それらのデータを解析して、よりきめ細かい安全性情報を自主的かつ積極的に医療機関に還元するという作業を企業が怠ってきているからである。つまり、現在の企業の姿勢は安全性情報を行政に報告し、それらの情報を添付文書に反映させればそれで十分という考えが根底にあるからである。端的な例として、ある医薬品の副作用に「うつ状態」とあっても、それが服薬開始後のどの時点に集中するのか、あるいはそのような集中現象もなく、服薬初期から後期にいたる長いいかなる期間にも発生するのか、などのきめの細かい情報提供をしてこなかったからである。もっとも、その逆に医療関係者がそれらの付加情報の提供を積極的に企業に要求してこないのも間接的な原因かも知れない。つまり、現在の安全性情報は点情報であり、線情報ではない。

  これらの付加価値情報の提供という企業本来の姿も前述したように膨大な量の情報処理に忙殺されているのが原因でもある。

 [崩壊にともなう後遺症]

  前述したように副作用自発報告制度の中での基本はimputologyにあるが、膨大な症例処置の環境下ではその基本は軽視されるようになっている。ただ、従来のように各症例の因果関係を検討し、その関係評価を表現する方法の見直しがいままで全くなされてきていないのもimputologyが軽視されるようになっているひとつの原因でもある。周知のように、従来の因果関係評価では典型的な六段階評価が挙げられる。すなわち、確実(certain)、可能性大(probable)、可能性あり(possible)、可能性ないらしい(unlikely)、可能性なし(unrelated)、判定困難(insufficient data to assess)となっているが、その判断基準には主観、経験、知識なども関与し、さらに万人共通の一定の明確な基準が有るわけではない。その結果、一つの症例にたいして複数の人が因果関係判断をすれば、一段階の違いが生じるのは当然である。また、このimputologyが導入された当時には、例数も少ないこともあって、一端、判定された因果関係評価は永久にそのままデータベースに残ってしまい、定期的にそれぞれの評価を見直すということはしていなかった。もっとも、現在の状況を考えれば、そのような個別症例の因果関係評価を定期的に見直すということは物理的にも不可能なので、自然にその判定評価作業の意義が薄れ、最近では関連性あり、因果関係ないらしい、関連性なし、の三段階に要約されている。しかし、この三段階法でも将来に定期的な評価の見直しがされるわけではない。

   このような時代の変化、そして従来の因果関係評価の非客観性から従来の因果関係評価作業が軽視されつつあるのが現状である。

 [今後の因果関係評価のあるべき姿]

   このような背景を理解したとき、やはりimputologyにも最近の傾向であるエビデンスに基づく因果関係評価の導入が必要になってくる。例えば、従来の因果関係評価表示を次のように改定することが必要となる。例えば、

   Level 1 of evidence,     Level 2 of evidence,   Level 3 of evidence

のような三段階がその評価表示になる。ではここで示されるエビデンスにはどのようなデータが必要になるのか。考えられるのは以下の要因が挙げられる。

   リチャレンジ、デチャレンジ、薬剤投与時間・投与日・中止日、副作用発現日・時刻、副作用消失日、併用薬情報(投与時期、投与量)、症状/症候の判断基準、臨床検査値の完備度、既往歴の完備、関連情報の有無・信頼度、関連既存情報のエビデンス、データのverification/validationなど

   ここでいうエビデンスとは基本的には時間の経過に伴って変化するものであってはならない。例えば、判定時点での疫学関連データは絶対的なものではなく、時間の経過にともなう新たな関連情報・データによりその結果・結論が影響される可能性のあるものは除外される。つまり、ここで取り上げられるべきエビデンスとは時間的経過によって変化してしまう可能性のあるものはその対象にはできないことである。このような概念から今後は新しいimputologyの定義を更新する必要がある。

副作用自発報告制度の崩壊(1)

副作用自発報告制度の崩壊(1)

  医薬品に関しての市販後の一番重要な問題の一つは安全性、つまり副作用に有る。市販後の段階になると治験の段階では予想もされていなかったいろいろな環境下で医薬品が患者に投与されるからである。そのため、副作用自発報告制度が導入されるようになったのは周知の通りである。

  この副作用自発報告制度の基本は、医療関係者全員が、医薬品が投与された患者の状態を完全に把握して、副作用かもしれないと思われる「事例」が発生した場合には、詳細な情報、データと一緒にそれらの「事例」すべてを該当企業ないし行政に報告することになっている。しかし、このような基本はあくまでも原則であり、また医療関係者の善意に依頼した暗黙の了解事項になっている。しかし、これらの一連の行為は現実には完全に順守されているわけではなく、実際は医療の現場では軽視、無視されている場合がかなりある。このような状況は薬事法改正によりその報告が義務になってもそれほど大きな影響はみられていない。

  この制度で次に大切なのは、報告されてきた症例について、それぞれの医薬品との因果関係を個別評価することで、副作用因果関係評価学imputologyという概念が導入されている。つまり、市販後の副作用を完全に全部収集し、それらの因果関係を詳細に評価することにより、その結果を医療社会に還元することが可能となり、この副作用自発報告制度が完璧な制度として成り立っていることになる。

  しかしながらこんにちのようなグロバリゼーション社会ではこの制度はほとんど崩壊してしまっていると認識すべきである。しかしながら、殆どの識者、行政はこの制度が既に崩壊していることを認識していない。最近のように新薬がいろいろと登場し、古い医薬品がどんどん新しい医薬品に置き換えられているような状態では、健康保険制度の影響もあって、医薬品使用量は毎年かなりの上昇度が見られるが、一方の自発報告制度から上がってくる副作用症例数はここ数年横ばいの傾向がある。両者の相関関係を正確に把握するのは難しく、とくにひとりの患者が新たに医薬品の投与を受ける割合を正確に調べるのは困難である。たとえば、処方箋枚数をその指標にしても、一人の患者が一つの疾患に対して数枚の処方箋をある期間に受け取る可能性もあり、その場合にはその枚数に応じて副作用発生の頻度が上昇するとは言えない。いずれにしても副作用の「氷山の一角」現象を数的に正確に把握するのは困難である。ではどうして、この自発報告制度が既に崩壊しているのかを別な角度から考えてみた。

   その崩壊の大きな原因として以下のような要因が挙げられる。

主要崩壊原因

  a)医薬品流通の国際化

  b)製薬企業の国際化、巨大化

    これら二つの要因はお互いに共通性、関連性があり、従来は、一つの医薬品が主として一つの国内で使われていたのが、近年では世界規模で共通に使われ、その結果当然のことながら副作用数も世界規模に発展し、膨大な例数が年間に報告されるようになってきている。また、最近のように企業が合併、合併を繰り返し、マンモス化し、その結果一社が取り扱う副作用数も劇的に増加している。今日のような巨大製薬企業内では年間副作用自発報告症例数が数万台から二桁台の万単位になっているのもまれではない。しかもそのような規模も例の「氷山の一角」である可能性がきわめて高い。

    c)医療関係者の関心度の停滞

    一方、医療保険の導入に伴い医療制度が往時とは根本的に異なり、だれもが気軽に医療を受けることができ、最近ではちょっとした症状でも医療機関を訪問し、その結果医薬品の使用量も往時と比べたらとても考えられない量が使われている。したがって、忙しい日常診療の場では問診から副作用を拾い出す作業は最低に保たれ、また軽微、既知な副作用は全く日の目を見なくなりつつある。

  d)企業内での環境の変化

    企業の国際化、マンモス化に伴う劇的な副作用症例数の増加は社内的にも業務の見直しが迫られることになる。企業内のファルマコビジランス関連部門は企業の中でも全く日が当たらない部門であり、営業部門のように目に見える企業への経済的貢献することがみられない部門であるので、必要とする人員を常に確保することはきわめて難しくなりつつある。したがって、企業のMRが軽微、既知の副作用を含めたすべての症例を収集する努力、熱意は次第に失われ、また収集されてきた症例を一例一例詳細にその因果関係を評価し、必要とあれば不足データを再請求するといった評価関連業務が軽視される傾向が強くなっている。その結果、副作用症例の詳細な検討という業務が軽視され、医学的、薬学的な専門的、総合的な知識、経験の集積が企業内に見られなくなりつつある。

    このような環境下で、それぞれの副作用症例の個別評価を完璧なまでに行うという基本概念は軽視、無視され、さらに絶対症例数の欠如もあって、新しい副作用症例の評価を従来の個別評価から集団の中での評価で代替えする安易な考えが台頭するようになりつつある。その典型例としては最近の新型インフルエンザとタミフル投与による副作用の関連性評価である。つまり、タミフルによる異常行動という副作用の評価が個別の詳細なデータに基づく従来の概念での個別因果関係評価が軽視、無視され、疫学的手法でその因果関係評価、正確には関連性評価、を論じる方法がとられたことである。とくにタミフルの副作用のような場合には基礎疾患でも起こりえる可能性があり、したがってそのような副作用の可能性。関連性を疫学的に判断することは、その結論はあまり信用出来ないにも関わらず、識者、行政の議論ではあたかも疫学手法でタミフルの副作用の個別因果関係が評価できるものと判断していることである。仮に、疫学手法で完全にその関連性評価ができたとしても、それですべての個別症例の因果関係も証明されたことにはならない。

    e)対行政業務の増加

     さらに、行政が関与しているいろいろな規則、法律も複雑になり、過去十数年間に企業内の日常業務が著しく増加している。例えば、PSUR, DSUP、再審査、再評価、などの業務が加わっているし、報告形式、報告期限、国際的情報・収集・交換などが挙げられる。

  

  以上のような環境の変化に伴い、現在の副作用自発報告制度が従来以上に遵守されているとはとても判断できなくなっている。はたしてこのような時代の変化に伴う制度の変遷が実際にどのように受け止められているのか、もしかしたら現実はそのような劇的な変化に気が付いていないのかも知れない。或いは時代の流れには逆らえないとのて諦めが有るのかもしれない。

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