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2010年2月の記事

2010年2月20日 (土)

ファ-マコビジランスを正しく理解する

   最近になってある中堅製薬企業の信頼性保証本部のなかにある「ファルマコビジランス部門」をもとの概念である医薬安全管理室と市販後調査部に分割している例があるが、このような考えは時代に逆行する発想であり、そもそもファルマコビジランスの意図するものを全く理解していないものと思われる。    ここ十数年の間に、製薬企業を中心とした薬学関係者の間に「ファルマコビジランス」という表現が導入されはじめている。しかし、その日本語訳に「医薬品安全性監視」があてられている場合あるが、これは大きな間違い、誤解である。このファルマコビジランスという表現が過去十数年の間に広く使われるようになっているが、ただ単に従来のDrug Safetyとか市販後調査とか副作用報告制度などを念頭においたものとして解釈され、あたらしい表現に変わっただけと理解され、その結果「医薬品安全性監視」と訳されているのである。もっとも、このような考えは日本だけではなく、海外て゜も同じように理解されているのが大半である。    世界的なグローバルな観点から見たとき、このファルマコビジランスを医薬品の安全性のみを対象にしていると考えるのはファルマコビジランスの片面しか見ていないことを意味している。ファルマコビジランスは市販後に観察される有効性、安全性を含めたあらゆる面を対象にしており、ただ安全性のみを念頭に置いているのではない。残念ながら、企業の多くの人は国が法令や基準をつくりそれらを企業が従うという古典的な考えしかないから医薬品安全監視の訳が出来上がるのである。残念なことである。つまり、企業は対行政の業務のみを念頭に置いていると医薬品安全監視、のような訳になってしまうのである。ファルマコビジランスのもうひとつの面は、企業が独自に、行政から求められていない安全性、有効性に関する調査、研究を推進すべきなのである。    さらに問題なのはそのような新しい理念としてのファルマコビジランスという概念が薬学、製薬企業関係者のみに使われ、医療関係者にはさらになじみのない表現であることである。基本的にはこのファルマコビジランスという概念は医療分野全体のより積極的な介入がないと宝の持ち腐れになってしまう可能性がある。     新型インフルエンザに関連し現在いろいろと問題となっているタミフル、ワクチンの妊婦への投与があるが、理想的にはもし妊婦に投与された時にはそれらすべての妊婦のデータを出産までフォローして今後の参考にすべきなのであるが、現時点ではそのような要求は行政からなされていなので、企業は全く関心をもっていない。本当は、ファルマコビジランスというのは市販後医薬品の安全性、有効性、リスク・ベネフィット比調査など広い範囲を網羅しているのである。そこには企業の倫理として市販後もあらゆる情報、デ-タを収集して医療の現場に還元する必要があるが、現在の企業はそこまでは積極的には行っていない。    世界的な観点からも、このファルマコビジランスの概念は対行政の業務であるとの認識がいまだに存在する。現在の医療情報は統計デ-タに基づいた平均値情報であり、個人に還元できるようなデ-タは存在しない。たとえば、ある副作用がどのような患者の場合に、投与してからどのくらいの日時がたってから発生するものか、もし発生した時にはどのような治療がなされていたのか、そしてその転機は、などなどの情報はほとんどの製薬企業は医療関係者に即座に提供できるような状態にはなっていない。    なお、この表現のカタカナ表記にファルマコを使い、ファ-マコと英語読みにしていないのはもともとの語源がギリシャ語からきているので、私はファルマコと表記しています。ちょうど、日本薬学会の機関誌の名前が「ファルマシア」であり、「ファ-マシア」でないのと同じ考えなのです。 なお、このような観点からの総説を「臨床評価」誌に発表していますので、以下のサイトから全文が読めます。 http://homepage3.nifty.com/cont/39_3/p613-36.pdf 追記(2011/07/23) ある人がこのファルマコビジランスの語源に触れて、フランスで1973年に使われ始めたと書いていましたが、私の本(新しい理念としてのファルマコビジランス概説)では「すでに1973年にはこの用語が使われていた」と書いているのですが、この人はこれを早とちりして1973年から使われていた、と書いているのです。他人の本の引用は正しくしてほしいものです。     いずれにしても、ファルマコビジランスの歴史を知ることにより、基本的にはこの表現はフランス語あることが理解できる。ただ、残念ながらそのような過程を知らずにただ単に安全性関係の新しい表現として捉えられているため医薬品安全性監視のような訳が使われている。これと同じような観点から、従来の「副作用」という表現が製薬企業関係者の間では「有害事象」という表現になんとなく変わっているのに相似ている。医療関係者は副作用かなと思って報告しているのであって、「有害事象」を念頭に置いているのではない。このような誤解が通用しているのが現状である。 ファルマコビジランスという表現はフランスでは一貫して使われており、フランス人は英語表現を極端に嫌うので、アングロサクソンの人たちが、drug safety, drug monitoring, post-marketing surveillance などの表現が歴史的に使われ、変遷しているのに対し、フランスではもともとこのファルマコビジランスという表現しかないのです。    しかし、一部の人はこの表現に使われているpharmacoをpharmacolgyの略だと説明しているが、これは全くの誤解である。

2010年2月16日 (火)

製薬企業の倫理性 (1)

最近の新聞報道によりますと、超高層ビルの耐震基準に関連し、法定の耐震基準よりも厳しい独自の基準作りに乗り出したそうです。確かに、考えてみれば当然のことかもしれません。なぜかと言いますと、いろいろな分野で行政が数多くの基準、規制を設定していますが、それはあくまでも最低のものであり、最高水準のものではないのです。このようなごく当たり前のことでも、いろいろな業界をみていますと、行政が決めたものは最高の基準であり、それらをクリア-していれば良しとする社風が普通のようです。   このことは製薬企業でも同じことで、行政が求めることに対してのみ対応し、求められていないことは積極的にしないのが普通です。製薬企業に関連しては、今でも問題になる可能性のあるのは医薬品による安全性の問題です。この安全性の問題についても行政が決めた以外のことは積極的に、しかも自主的に企業が押し進めることはほとんど見られません。過去において、スイスの某企業が医薬品の安全性に関連して、世界的な規模の自主的な安全防止対策・対応を提唱してその活動(RAD-AR活動 )が世界各国で始まったが、数年後にはその活動はほとんど消滅しているのも、いかに企業倫理に基づく自主活動の維持・推進が困難であるかがわかります。現在ではその名残りが日本にあるが、二代目になってその名前を「医薬品適正使用協議会」と変更し、更に三代目になるとその目的が大きく変動してしまっている。   追加(2011.5.20) そのほかの例としてアメリカの製薬企業J&Jが1982年に主要製品のタイレノ-ル事件で対処した素早い対応はクライシス・マネジメントの典型例としてよく知られており、当時のJ&J社の企業倫理は素晴らしいものであったが、その後になって2009-2010にかけてはJ&J社並びにその子会社の製品に不良品が続出し、FDAから何回も警告を受けているような状態になったことは企業の首脳層がどんどん変わると企業の倫理性も激変することはよく知られていることである。

2010年2月14日 (日)

日本不思議文化(2) 日本人の宗教概念

前回、日本人の宗教に関連して神社仏閣の前でしかお参り、お祈り出来ない不思議に触れましたが、日本人の宗教心に関してはさらにいろいろな不思議があります。たとえば、仏教徒であってもほとんどの人が仏典を読んだことがないことです。キリスト教には聖書か、イスラム教にはコ-ランがあってみなさんが教会でかならずその一部を耳にすることはできます。また多くの家庭には聖書、あるいはコ-ランがあるのです。ところが、日本人は自分の家庭に仏典を置いていることはまず稀です。おそらく国旗の日の丸を持っている家庭がほとんど皆無なのと同じくらいにそのような仏典を持っていません。ましてや、神教ともなるとその存在すらわかりません。なにしろ、神教にはそのような聖書は存在しないからです。 確かに、日本の仏教は歴史的にも大乗仏教であり、庶民の日常生活とはかけ離れてしまっているのもその原因かも知れません。

このように日本人が宗教というものにあまりこだわらないことは、現在の世界をみたとき、宗教が原因でいろいろな紛争が起きている現象は日本人にはほんど理解できないでしょう。海外では宗教が原因で、内乱、戦争が始まることは現在でも起こりえるのです。 それにしても日本人の宗教に関する知識、関心、関与は海外からみると極めて異常です。ともかく何も知らないからです。海外で外国人に仏教や神教に関する宗教議論、討論が行われたらほとんどの日本人はお手上げなのです。

2010年2月13日 (土)

日本の不思議文化(1) お寺、神社ではなぜ外からのみ拝めるのか

どうしてお寺や神社では建物の中に入ってお祈りしないのか。

 

日本人の宗教に対する寛容性は世界でもまれな現象ではないでしょうか。とくにこんにちのようなイスラム教過激派によるいろいろな問題派生から考えたとき、日本では宗教に起因する問題はまず不可能に近いのです。

 

この場合、日本人が宗教に寛容性があるものと解釈するのか、それとも宗教に対する無理解、無関心が根底にあるのはその判断は極めて微妙です。なにしろ、子供のころには神社にお参りするのは七五三に代表されますし、結婚にさいしては教会か神社、そしてお葬式は仏教、ときわめて自由に使い分けていてもなんらの違和感を感じません。

 

ところが、神社仏閣での日常的なお参りでは通常の参拝者は建物の外からお参り、拝むのに対して、キリスト教、イスラム教社会ではかならず建物の中に入ってお祈りします。でも考えてみたらこれほと信者に冷たい扱いをしている宗教は仏教、神教だけなのです。いったいどうしてなのでしょうか。せっかくお参りに来ても、神社、お寺の建物の中に入ってお参り、お祈りすることが特別な出来場合を除いてはできないのです。あるいは日本人の宗教心というものは極めて表面的なものであり、キリスト教のような真剣性がないのかも知れません。つまり、日常行事のひとつとして扱われ、特別に宗教心があるのではないかもしれません。

 

それにしても、日本の仏教はこのような状況に満足しているのでしょうか。

 

 

2010年2月11日 (木)

日本語表現はどんどん変わる

最近の日本語表現には戸惑うことがしばしばです。

 

とくに若い人や、メディアではカタカナ表記がどんどん省略されていくことです。たとえば、「気軽に集まる会」は「キガアツ会」に簡単に省略されてしまうので、保守的な者には極めて違和感を感じます。:
そのほかにも、「ロイヤルティを得られます」が「ロイヤルティを得れます」と「ら抜き」になるとか。このことに関して本多勝一氏の本の中にそのような「ら抜き言葉」に対する見解が記されているそうです。

 

さらに最近では差別用語が問題になっていてその代変え表現が使われるようになりつつあります。例えば以下のような例が挙げられます。

 

自殺       自死
落第       未完成者  未達成者 これは筆者の造語
障害者      障がい者

 

盲人       視覚障害者   視覚異常者  視覚未完成者
子供       子ども

 

このほかにも理論的でない表現も有ります。
宿題       家題
どうして家で勉強するのに宿が使われるのでしょうか。そのように考えるとやはり家題が適当だと思うのです。

 

移民   呼民
移民と言うのは海外に移り住むことであり、海外から日本に来るのは移民ではないので、呼び込むという意味で呼民のほうが適当だとも思うのです。英語では明確に両者を区別しています。

 

 

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